#9 ボディ・ガード

 貧民街の夜は、静寂とは無縁だ。

 女の叫び声、男どもの怒号、野犬の遠吠え、それから銃声。いくら貧民街の裏手にいるとは言っても、その音が聞こえなくなることは無い。

 壁一枚隣でシエルが寝ているその横で、俺は眠れない夜を過ごしていた。


 俺は、ぼんやりとした頭で今日一日の出来事を振り返る。

 昼前から旧貴族街の店で、目の前にある邸宅を監視していた。そこにシエルがやってきて、俺は彼女と契約を取り交わした。


 その後、俺は貧民街へと向かい、その途上で蜘蛛アレニェと出会った。何故俺があの家を監視しているのか、その理由を問い質したが、結局納得できる答えは得られなかった


 そして、貧民街の男爵バロンでプリステスから、シエルの情報と引き換えに、ある依頼を受けた。


×  ×  ×


「私があんたにして欲しい仕事、それは、シエルのボディガードさ」

 俺が「引き受ける」と口にすると、彼女はすぐに仕事の内容を明かした。


「ボディガード? 」

「そうさね。そして、この依頼こそ、私がその対価としてあんたに与える情報さね」

「どういうことだ? よくわからない」

「馬鹿な男だね。少しは考えてみな」


 プリステスは、俺のグラスを持ち上げ、また透明な液体を注いだ。そして、自分のグラスには、琥珀色のウィスキーを入れる。

「一杯いただくよ」

 と言って、俺のグラスの淵に、自分のグラスを軽く当てて、それを一口ばかり飲んだ。


 俺は、彼女の言葉の意味を考えていた。

 俺が引き受けたボディガードと言う仕事、それ自体がシエルの情報、ということだろうか。

 だとすれば、そこから導き出されることは、一つ。

「シエルは、追われているのか? 」


 確かにそれなら、彼女の情報に掛けられた法外な情報料にも納得がいく。

「それだけじゃ足りないね、そのもう一つ先まで、あんたなら考えつくはずだ」

「シエルは追われているだけ……じゃないと? 」

「もちろん、追われているのは間違いない。でもね、それだけだったら、私はもっと別の人間にこの仕事を依頼しただろうね。あんたより腕の立つ人間なんざァいくらだっているんだから」


 確かに、その通りだ。

「あんたは野良犬だ」

「そうだ。俺は野良犬だ。プライドを持たない、街を這いずり回る薄汚れた男だ」

 アレニェも、俺のことをそう言っていた。プライドのない男だ、と。


「でもね、あんたはもう、そうじゃない」

 プリステスは、今度は見たことのない黒い酒を自分のグラスに注いだ。そして、それを俺にも、飲むか? と見せる。俺は軽く首を振ってその誘いを断った。何が入っているのかわからないし、それに、俺のグラスにはまだマティーニが残っている。


「分からない。プリステス。あんたが何を言っているのか」

「そうかね。なら、自分で考えな。分かるまで……といつもなら言うんだがね、今日は特別に教えてやろう。私も少しずるいやり方で、あんたにこの仕事を引き受けさせたしね」

「そうしてくれ」


「あんたは野良犬だ。だが、20年前、あんたが初めてこの店に来た時は、そうじゃなかった。あんたは、ただのだった」

「昔の話さ」

「ああ。だがあんたにとっては昔でも、私からすれば昨日の事みたいなもんさ。まぁ今はそんなことはどうだっていいんだがね」


 確かに、彼女にとってみればそうなのかもしれない。彼女の見た目は、20年前から何一つ変わっていないからだ。まるでそこにだけ時を止める魔法が掛かったみたいに、彼女はずっと、美しい妙齢の女性のままだ。

「確かにあんたは変わらない」

 俺がそう言うと、ふん、と彼女は鼻息を漏らした。少し喜んでいるように見えなくもない。


「話を戻すよ。あんたが初めてこの店に来た時、自分が何を言ったか覚えているかい? 」


「俺の妻を殺したやつを教えてくれ。俺はそう言った。」

 言うと、プリステスは満足したように頷く。


「この街じゃ、自分が何を求めているのかを忘れる奴ばかりだからね」

「そいつらのことを、俺は笑えない」

 そう、昨日までの俺なら、きっと答えることができなかった。


「シエルを見て、思い出したんだろう」

 プリステスの、年齢不詳の目がすっと細められる。薄暗い赤いランプの下で、細い影が瞼の下に浮かぶ。


「灰色の髪、そして灰色の瞳。あんたはそう言った。それが妻殺しの犯人の特徴だ、と。そして、私にその女を見つけてくれ、と依頼した」

「その対価として、あんたは莫大な金額を俺に要求したってのも忘れるなよ。もちろんそんな金額、俺はすぐには払えない。だからあんたからの仕事を受けるようになった」


 そう。それこそが、俺がプリステスに金を積み立てている理由だった。

「そして、俺は見事に身を持ち崩した、と言うわけだ。男は、ただの野良犬に成り果てた」

「哀しい話さね」

 プリステスの二本目の煙草が、灰皿の中で熱を失っていく。だが、彼女の口調は、言葉とは裏腹に楽しげである。


「でも、これでもう、分かっただろう」

 俺は頷いた。


「私があんたをシエルに引き合わせたのは、あの子があんたの妻殺しに関係があるからだ。他人の空似、というわけじゃない。それは私が太鼓判を押す。でも、残念なことも一つ言わなきゃならない。私がたどり着けたのはそこまでだった。四方八方に手を尽くしてはみたんだが、あんたの妻殺しに関する情報は、ほとんど手に入らなかった。あんたが私に積み立てていた金は返すよ」


「いや、十分だプリステス。あんたは金に見合ったことをしてくれた。金は返さなくていい」

「そうかい。なら、その言葉には甘えさせてもらおうかね」


 俺は、ようやく二杯目のマティーニに口をつけた。

 甘いのか、辛いのか、よくわからない味だ。だが一つ言えることがある。これを旨い、と表現する人間は決して信用してはいけない。


×  ×  ×


 気が付けば、俺の瞳はもう天井を映してはいなかった。一日を思い返している間に、半ば眠りにおちようとしていたらしい。もしも、壁越しに物音が聞こえなければ、俺が次に目を覚ますのは朝だっただろう。


 そう、シエルの部屋から音が聞こえた。


 争うような音でもない。何かが壊れる音もしない。微かな衣擦れのような音。着替えているのだろう。

 そして、しばらくして扉が開く音が聞こえた。雨の音が入ってくる。


 外に出ていくようだ。


 俺の頭は既に覚醒していた。

 何が、「私があなたを起こすことなんて、きっと無い」だ。早速俺は起こされているじゃないか。


 俺はコートを羽織り、部屋を出た。いつもなら家を出る時には必ず暖炉の火を消すが、今はそんなことをしている暇など無かった。それに、このアパートは俺の所有物じゃない。燃えるなら燃えてしまえばいい。


 戸口に向かい、外に出る。

 外は濃霧になっていた。視界は5mあるかどうか、と言ったぐらいだ。

「クソッ」

 これでは、どこにシエルが行ったのか分からない。


 だが、俺は仕事を引き受けた。彼女を守る、という仕事を。そして、それは俺の妻を殺した人間に近づくということでもある。罪を憎んで人を憎まず、などと奇麗ごとを言うつもりはない。妻殺しの犯人を見つければ、俺はそいつを殺す。それで何も変わらないとしても、確実に殺す。

 たとえそれが、シエルだとしても。あの顔は、確かに20年前のあの夜に、俺が見た顔そのものだ。

 

 しかし、今は確かめようがない。彼女の記憶は失われている。殺すとすれば、過去の記憶を取り戻してからだ。今更人を殺すことに躊躇はないが、今回は特別なのだから。

 

 俺はその時を夢想する。妻殺しの犯人をどうやって殺害するのか、を。


 まず、指を一本一本折り、腕の骨も全て砕く。それを終えてから、腕をもぎ、今度は脛とあばらをへし折る。それが終わったら全身の皮を剥ぎ、眼球を焼く。口の中でガラスを砕き、それを飲み干させてやる。どれだけ許しを乞うても、俺の手は止まらないだろう。


 かつての俺ならこんなことを思いつきもしなかった。だが、20年街の裏こちら側で生きてきた俺には、もう倫理観と呼べるようなものなど無かった。どこまでが正常な殺し方で、どこからが異常な殺し方なのか分からなくなっていた。その境界線が踏みにじられていくのを、何度となく目にしてきたからだ。


 俺は霧の路上に出た。目の前には一本道が続いている。


 さらわれたという可能性は薄い。争うような物音はしなかった。だとすれば、自分の意志で出ていったと考えるべきだろう。

 ならば、この目の前の道を歩いて行ったと考えるのが自然だ。他に道は無い。


 それはまるで、今の俺が置かれた状況のようだ。何も見えない、何もわからない。ただ、それでもようやく、一つの手がかりを見つけたのだ。

 シエル。灰色の少女。


 彼女を追いかけて、俺は霧の中へと足を踏み入れた。

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