#7 男爵《バロン》

「何が聞きたいのか、だって? 」

 俺は思わず聞き返していた。性質の悪い冗談だ。俺が聞きたいことなど、一つしかない。それはこのクソアマも分かっているはずだ。

 ソバージュのかかった、血のように赤いプリステスの髪を、俺は鷲掴みして無茶苦茶に振り回してやりたい衝動に駆られる。


「用が無けりゃ、あんたはここに来ないだろう」

 だが、彼女は眉一つ動かさず、つまらなさそうに俺を見つめるばかりである。半月バンイェの考えが分かるくらいだ。俺の考えが分からないはずがない。それでも全く動じないのは、自分がこの場の支配者であることを理解しているからだ。

 いや、この場どころではない。貧民この街の支配者の一人と言ってもいい。女教皇プリステスという名は伊達ではないのだ。


 俺はその顔を睨みつけながら、机の上のマティーニを一息に飲み干した。降伏のサインだ。

「良い飲みっぷりさね」

 プリステスが、満足したように頷く。


「……今日、女が来た」

「あら、あんたもようやく次に行こうって気になったのかい? 」

 茶化す言葉を無視して、俺は話し続ける。

「灰色の髪と、灰色の目をした、10代のガキだ」

「いいじゃないかい。若いに越したことはない」

「……悪いが、笑って話せる気分じゃないんだ」

「そうかい? 私は面白いんだがね」

 彼女は確かに、心底楽しんでいるようだった。表情からそれが分かる。プリステスにしては珍しい、作り物ではない本当の笑顔だ。


 だが、それに付き合うつもりも、そうするだけの余裕も俺には無い。

「プリステス。俺はあんたのことを信頼しているし、これまでにも、何度も取引をしてきた。金払いの良い客だし、嘘をついたことだって一度もない。取引相手としては及第点のはずだ」


 続けて、と目だけで彼女は俺を促した。

「教えてくれ。あのガキは一体何なんだ? それに、何故あんたは俺を紹介した? 」

 俺は問う。

「いくら払う? 」

 その答えは簡潔な一言のみ。だが、それは予想していた返答だった。彼女はルールを徹底する。そこに例外は無い。だったら俺も、そのルールにのっとればいいだけだ。俺は彼女の目の前に指を数本立て、金額を口にした。裏社会で追われている人間でもなく、金持ちの娘でもないただの少女の情報の対価としては、破格の金額だ。


 しかし、プリステスは首を振る。

「安いね」

「安い? 桁を勘違いしていないか? 」

「いいや、それよりも桁一つ多くたって、足りやしない」

 どういうことだ? 俺は耳を疑った。これよりも一つ多い金額の情報など、これまでで一度しか聞いたことがない。しかも、それでもまだ足りない、と彼女は言っている。


「金を払えないなら、情報は渡せない」

「なら、何故俺を紹介したんだ」

 俺の声には、抑えきれないに苛立ちが、微かに滲み始めていた。

「聞こえなかったかい? 金を払えないなら、情報は」

 プリステスがつまらなさそうに繰り返す。

 それを、俺は思わず声を荒げて遮った。


「おかしいだろう! それだけの金が絡んでいるんだ、あのガキはただのガキじゃねぇってことだ。厄介なことに関わるってのは別にいい。俺だって裏側こっちの人間だ。だがな、これは俺が首を突っ込んだんじゃねぇ。お前が俺を巻き込んだんだ。なのに情報を寄こせねぇってのは、筋が通らねぇ」

 俺の剣幕を前にして、プリステスは煩わしそうに、はぁ、とため息をついた。


「言いたいことは言ったかい? 」

「ああ」

 今度はプリステスがまくし立て始めた。


「例えば、だ。あんたがある殺しの依頼を受けたとする。だが間抜けなあんたはその対象に逃げられてしまい、仕方なく私のところに来て、そいつの情報を買うことにした。もちろん、あんたは相応の対価を支払い、私はそいつの居場所なりなんなりの情報をお前に教える。取引成立というわけだ。で、その日の晩に、お前はそいつのねぐらに忍び込む。首を掻っ捌いて、依頼を達成するために。だが、ねぐらに這入ったにも関わらず、そいつがいない。何故だ? 」


 プリステスは、いったん言葉を区切り、そう尋ねた。だが、俺の答えを待つつもりなど端から無いのは明らかだった。彼女の目が、もう俺を見ていなかったからだ。


「あんたが狙っている、と、私がそいつに教えたからさ。私が情報を売ったせいで、あんたの追手がやって来るだろう、厄介なことに巻き込んで悪かった、とね。……理屈に合わないのがどっちかなんて、言うまでもない。そうだろう? 」


 彼女が尋ねた。しかし、俺が口を開くのも待たず、また再び話し始める。


「だから、そういうことにならないために、金があるんだよ。金だけが平等だ。金だけが信じられる。私はそう考えて生きてきたし、それはこれからだって変わらない」

「そうかもしれない」

 俺がそれ以上何も言えないのを見て、プリステスはカウンターの下から灰皿を取り出し、煙草に火をつけた。紫煙が上がる。彼女が丸々一本を吸いきるまで、沈黙は続いた。


 そして彼女が二本目を指に挟み、再び口を開く。


「でもね、さすがに私も悪いことをした、という気はしているんだ。なんせ、私は知っているんだから、あんたの事情ってやつを。そこで、私は考えた」

 プリステスが、魔女のように微笑んだ。いや、魔女のように、ではない。それは魔女そのものの微笑みだった。


「あんたに選択肢をやる。もちろん、乗らなくたって構わない。聞くのはタダだ」

 タダより高いものは無い、と言う。だが、既に乗りかかった船でもある。旅券がタダなら、乗るだけ乗ってみるのもありだろう。


「教えてくれ」

 魔女の微笑みが、悪魔の微笑みに変わった。

「私はあんたに結構な額の借りがある。私があんたに、まだ支払っていない金の事さね」

「ああ」


 プリステスが何を言おうとしているのか、俺にはすぐに分かった。俺は彼女からいくつか依頼を受け、それをこなしてきた。だが、その金をまだ受け取っていない。それには、ある理由があった。

「あんたが一番欲しい情報、それを買うにはまだ全然足りていない」


 そう、俺は、プリステスが握っているある情報を買うために、彼女に積み立てる形で金を受け取らずにいた。そうするのには当然理由がある。即金で渡さない代わりに、一割増しで預かる、という話になっているのだ。

 あくまでも仮定の話だが、俺の最も欲しい情報が、100の対価を求めるとする。もちろん俺が自分で100を用意してもいい。だが、プリステスとの契約では、金を受け取らずに仕事をこなせば、10の報酬が11としてカウントされる。当然、そちらの方が早く目標金額に到達できる。


 実際には、もっと果てしない金額で、俺がさっきガキの情報料の交渉をした時に思い出した、一度しか聞いたことのない金額、とはこのことなのだが、それはいい。


「足りていない、が」

 プリステスはやけに思わせぶりに口にした。

「ガキの情報の、ほんの一部なら、それで手を」

「ふざけるな」


 プリステスが言い終えるより前に、俺はその選択肢を否定した。

「悪い話じゃないはずだ。最近は、あまり男爵ココにも顔を見せていなかったじゃないか。もう、私から情報を買うのは諦めたのかと思っていたくらいだ」


 昨日までの俺は、それを否定できなかっただろう。今日、シエルに会うまで、俺は正直に言ってかつての衝動を忘れ去ってしまっていた。

 だが、今は違う。あの灰色の髪と目を見て、俺は思い出した。何故俺が野良犬ストレイ・ドッグになったのか、というその理由を。


「もう一つはなんだ」

 プリステスは選択肢、と言った。ならばそれを聞いてから判断してもいいはずだ。だが、それが彼女の作戦なのだと、その時の俺は気が付かなかった。無理な条件を提示し、その次に本当の自分の要求を伝える。交渉の基本である。

 俺は、自分が情熱を取り戻しつつある、という考えに浸るあまり、それを見逃してしまっていた。


「もう一つ。それは、私が提示する、ある仕事を引き受ける、ということさね」

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