#3 空、あるいは殻
「どういうつもりだ!? 」
俺は思わず大声を上げていた。頭に血が上っているのが分かる。こんなに激しい怒りの感情を覚えたのは、後にも先にもない。
「何よ」
少女が怯えたような眼で俺を見つめた。
だが、表情は動かないままだ。声だけが如実に感情を表している。
「人違いか、いや、そんなわけがない」
そう、俺の勘違いでなければ、俺はこの少女を知っている。いや、それどころじゃない。俺はこの女を長い間探してきた。20年だ。人生のほとんど半分を、俺はこの女を探すのに捧げてきた。
「ちょっと、え? 」
店内がざわついていた。俺の怒鳴り声が響き渡ったのだ。俺はなんとか自分を落ち着かせようと、深く息をつく。
「まぁいい。そこに座れ」
叫んだせいで、数人の客が、俺たちの方をちらちらと横目で見ていた。どうせなら、俺がナイフを突きつけられている時に気が付いて欲しかったが、今更そんなことを言っても仕方がない。
少女は無言で俺の前に腰かけた。これで、周りの注目も少しは薄れるだろう。
いくつもの可能性が頭をよぎった。最初に浮かんだのは、俺を始末しにきたのではないか、と言う可能性だ。だがそれはすぐに否定される。だったら何故さっき俺を殺さなかった。首に突き付けていたナイフを少し動かせばいいだけだ。
俺を生かす理由も思い浮かばない。
「名前は」
「何? 」
「だから、名前はなんて言うんだ。俺はお前をなんて呼べばいい」
俺はその灰色の瞳から目を逸らし、何事もなかったように振る舞った。心臓はまだ大きく脈打っている。だが、そんなことはおくびにも出さない。20年間この世界で生きてきて、俺が身に着けた技術の一つだ。
「シエルよ。私は空っぽ。中身のない殻。だから、自分でそう名付けた」
俺は彼女を見ないままに、頷いた。目にすれば、またさっきと同じような感情が襲ってくることは火を見るより明らかだったからだ。だが、それにも慣れなければならない。さっきのようにまた怯えさせてしまって、逃げられるなんてことになれば、俺は後悔してもしきれないだろう。
それほどに長い間、俺はこの少女を探してきたのだ。
――少女。
今、俺は目の前にいるこの女を、少女だと思ったか?
ありえない、そんなはずがない。
「お前、今いくつだ」
「分からないわ。だって記憶がないんだもの。何歳に見える? 」
「……十代」
「それは10数年生きている、と言う意味ね」
「ああ」
その時の俺の感情を、どうやって言葉にすればいいだろう。最初は安堵が心を支配した。激情は遠くなり、怒りはもう地平線の向こうに消えてしまった。だがそれも長くは続かなかった。その裏側から、猛烈な失望がこみあげてきたからだ。
そう、20年だ。
あの後姿を見てからそれだけの時間が経過している。あの時俺が目にしたのは、まだ大人になり切れていない、しかし子供とも言えないくらいの、少女だった。だとすれば、この少女がいくら似ていたとしても、それは別人であるはずだ。
そうでなくてはおかしい。
時間は誰にでも平等に流れる。俺がもう30歳の男でないように、あの少女も年を取っていなければおかしい。
計算が合わない。
「シエル」
俺はようやく、彼女の顔を真正面から見つめることができた。やはり、どこからどう見ても、彼女は10代の少女である。だが、やはりその顔は、記憶の奥底に眠る、あの女の顔と同じだ。
もう薄れかけていた、俺の目的を思い出す。埃まみれになったそれを、両の手で掘り起こす。もう一度それを持ち上げて、再び心の中心に持ってくることは、案外嫌なものではなかった。むしろ、何故それを放り出したままだったのかが分からなくなるほどに、それはしっくりと収まった。
「悪いが、さっきの交渉は無しにさせてもらう」
「なんで? あなたならやってくれるって聞いたからここまで来たのよ」
「……」
「お金なら幾らだって払うわ。すぐには難しいかもしれないけど。何年かけてでも払う。約束する。それでだめなら、私を売ったっていい。人買いにでもなんにでも。そんなこと、今の状況に比べればなんてことはない。自分が誰かも分からない、こんな状況に比べれば」
灰色の少女、シエルは女にしては異常なほどに強い力で俺の肩をつかんでいた。そして、取りすがるような眼で俺を見ていた。吸い込まれそうな程にきれいな瞳をしている。確かに、然るべきところに売れば、いい金になるだろう。
だが、そんな考えは俺には毛頭ない。もっと大切なことがある。
「落ち着け。俺はそんなことは言っていない。ただ、条件を変えさせて欲しいだけだ」
「条件……? 」
「ああ。金は要らない。代わりに、俺にも教えてくれ」
「教えるって? 私には記憶が無いの。教えることなんて何もないわ」
「分かっている。だから、後払いで良い」
少女が黙った。俺の言っていることが不可解に聞こえているのだろう。言っている俺も自分が口にしている言葉が、自分のものでないように思えていた。
後払いなど、普段なら絶対に口にしない。
「シエル。お前が手に入れる過去を、俺も知りたい」
彼女からしてみれば、意味の分からない取引のはずだ。自分の過去を、何故他人である俺が知りたがる必要がある。
だが、少しでも頭の回る人間なら、その理由にすぐさま気が付くはずだ。
「あなたは、私を知っているの?」
シエルの口調には、疑いの色が滲んでいた。彼女も気が付いたのだ。
だが、俺はそれを否定する。
「知らない」
「嘘ね」
「嘘じゃない」
「だったら、何故私の過去を知りたいの? 」
ここが正念場だ。
俺はもう、嘘をついた。ならば、突き通すしかない。もっともらしい言葉を並べ、理屈の通らないことを、無理やりにでも押し通す。それしかない。
「お前が俺のことをどう聞いたのかは知らないが、俺もプリステスと同じように、情報を飯の種にしている。金ってのは、その価値が最初から決まっているが、情報ってのは、相手と時期を選べば、幾らでも化ける。だから、金じゃなく情報を手に入れたいんだ」
「信じられない」
シエルはすぐさま、俺の言葉を切り捨てた。
「じゃぁどうする。また別の相手を探すか? 自分と取引してくれるやつを」
「……」
シエルが黙った。
俺は賭けに勝利したことを確信する。
シエルはもうそれほど金を持っていない。俺の情報をプリステスから買う時に払ったのか、それともそもそも最初から多くの金額を持っていないのかは分からないが、言えることはたった一つ。
俺との交渉に失敗すれば、次は無い、ということだ。
「それに、俺はもう十分稼いでいる。正直、金はありすぎると厄介な代物だ。金を持っている奴の情報が売り買いされているのを、俺は何度も目にしたことがある。俺はそのリストには載りたくない」
俺はだめ押しの文句を畳みかけた。
「載ったら最後だ。金のためなら何だってするようなやつらはごまんといる。俺なんかは格好の標的になる。真っ当に稼いだ金じゃないからな。盗まれても文句は言えない」
シエルの瞳が揺れた。これ以上は不要だ。言葉は多くても少なくても、望んだ結果をもたらしてはくれない。
「わかった」
シエルが頷いた。
俺は手を差し出す。
彼女はきょとんとした目をしていたが、俺が机の上に置かれた彼女の手を持ち上げると、俺の意図が分かったようだった。
握手を交わす。
それは、不思議なくらいに冷たい手だった。
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