#4 八本腕の男

 ×  ×  ×


 シエルと次に会う約束を交わした俺は、彼女と別れ、貧民街へと向かった。行先は当然、男爵バロンだ。プリステスに会って確かめたいことがあった。それに、一言文句を言わなければ気か済まない。


 店の外は風が強く、11月の冷気が容赦なく襲ってくる。分厚いコートを着てはいるが、その程度では外気を防ぎきることはできない。襟の間や、裾の隙間から風が入り込み、一瞬で体を冷やしていく。

 それに、朝から降り続いている雨もじわじわと体温を奪っていく。傘をさすほどではない、というのが厄介だ。

 この街では、晩秋から冬の初めにかけては、いつもこんな天気が続く。朝から細かな雨が降り、それが夜遅くまで止まない。雨の街、と呼ぶ人もいるくらいだ。そして、冬になればこれが雪に変わる。晴天はしばらくお預けだ。


 腕時計を見ると、既に8時を回っていた。夜道の両脇に並んだガス燈が、柔らかな光を街路に落としている。数台の車がその下を走り抜け、暗がりの中に消えていった。馬車に代わって、最近よく見るようになったが、俺はあの音が苦手だ。一度乗ったこともあるが、匂いも耐えられる代物じゃなかった。嘔吐する人がいるというのも頷ける。

 

「こんな遅くにどちらまで」

 傍らから男の声が聞こえた。いやに明るい声だ。馬鹿にしているような響きさえある。こんな声を出す奴は、一人しか知らない。

蜘蛛アレニェか」

 俺は正面を向いたまま、彼の名前を呼んだ。いつの間に現れたのか、全く気配を感じなかった。


「その呼び方は、今はふさわしくありませんよ」

 ほら、と言いながら、アレニェが俺の正面に出てきた。そして、踊るようにくるり、と体を一回りさせた。能面のような顔をした男がそうする様は、一段と不気味だ。黒い短髪の下に、細長い黒い瞳、今はそれをさらに細めている。

 少し口が大きいが、それ以外には特徴と言えるようなものが何もない顔だ。今はその口角をわずかに持ち上げて笑っている。


「今は、普通の体ですから」

 そう言いながら、濃紺のコートの内側から腕を出す。袖を通さずに、肩から掛けているだけのようだ。そして、彼は出した腕の袖をまくり上げた。赤銅色の金属質の光沢が、そこから顔を出した。

 人間の皮膚とは到底思えない色をしているが、それに対する驚きはない。それが義肢であることは明らかだからだ。いくつもの細かな合わせ目と、手首や指の関節に当たる位置には、球状のパーツも見える。

 

「それのどこが普通の体だ」

 俺が言うと、アレニェは自分の手のひらをまじまじと見つめた。俺の言っていることの意味がわからない、とでも言うように。

 機巧義肢マキナ

 欠損した人体の代わりに作られた、意思通りに動かすことができる金属製の代替機械の掌を、弄ぶように握りしめたり開いたりしている。


「えー、普通の腕じゃないですか、いつものに比べれば」

 とアレニェは不満げに言う。

 俺は軽く頭を振ってそれを否定する。

「いつもの、と比べたら、なんだって普通になるさ」


 蜘蛛アレニェと、彼が呼ばれているのには理由がある。

 今日はこうして、両肩から2腕を生やしていないが、時々この男はその4倍の数の腕を、両肩にぶら下げてやってくるからだ。その光景は異様で、異形だ。

 膨らんだ肩は、遠目から見ても圧迫感がありる。街の裏側こちらで生きている人間でも、これほどの外見をしたものはなかなかいない。もちろん、外見だけでは、その人間の狂い具合を判断することなどできないが。


 しかし、そういう意味においても、彼は特殊だった。彼は、その腕を全て自在に動かすことができるからだ。普通ならあり得ないことだ。機巧義肢マキナは人の体の代替品でしかない。だから、人間に無い部位を操ることは原理的に不可能なのだ。

 故に、アレニェ。北方の言語で「蜘蛛」を表すその単語で、彼は呼ばれていた。


「何の用だ」

「とぼけないでくださいよ。分かっていますよね。私があなたに会いに来る理由なんて一つしかないじゃないか」

「デートの誘いだったら、悪いが俺の腕は2本しかないんでな。お前の腕を全部握ってやることはできない」

「それは残念ですね。結構いい心地らしいんですけどね」

「冗談だろ? 」

 と俺が言うと、アレニェは笑いながら、

「いいえ? 本当ですよ。まぁ大抵の場合、気持ちいいとかいう前に、死んじゃうんですけどねぇ」

 などと物騒なことを口にする。


 だが、この男がそうやって対象を殺害するのだ、という噂は聞いたことがあった。抱きしめるのかどうかは分からないが、その義腕で対象の背骨を折るのだという。

 まぁ、話半分と言ったところだろう。


「さてと、それじゃぁ本題に入ってもいいですか。私はどうやら、プリステスに嫌われているみたいなので。貧民街には近づきたくないんですよ」

「よく笑っていられるな。自分が何をしたのか分かってないのか? 生きているだけでも不思議なくらいだよ、俺からしてみれば」

「そうですかねぇ? 私は自分の役目に忠実に従っただけで、誰からも責められる覚えはないんですが」

 アレニェはにやにやと馬鹿にしたような笑顔を口元に張り付けている。もちろん、分かっているのだ。自分が彼女を裏切ったことを。


 数年前、この街に初めてやってきた彼には、ある目的があった。北方から亡命してきた男を拉致するか、殺害する、という任務を課せられていたのだ。

 アレニェは男の仲間を装って情報を集めることにした。そして、貧民街の男爵バロンで情報屋の元締めをしているプリステスがその男の情報を持っていると聞きつけた。

 プリステスは相手がどんな人間だったとしても、差別なく取引には応じる。たとえそれが新参者だったとしても、適切な金額を払えば、どんな情報も売ってくれるし、逆もまた然りだ。


 だが、そんなことをしていては、海千山千の魍魎蠢く世界では生きていくことなどできない。さっさと取って喰われてしまうのがいいところだ。

 

 だから、プリステスは取引相手に一つのルールを課している。たとえどれだけ些細なことだったとしても、絶対に嘘を交えてはならない、というルールだ。


 アレニェは、プリステスから情報を買い目的を達成した。だが、その結果、彼が北方の諜報員エージェントであることが明らかになった。消された男が、プリステスに「俺が殺されたとしたら、犯人は北方の人間以外ありえない」と、何度も口にしていたからだ。

 

 噂によれば、消された男はプリステスの旧い知り合いだったそうだ。だが、彼女は何の気兼ねをすることもなく、その男の居場所をアレニェに売った。彼女はこの世界に似つかわしくないほど、ルールに厳しい女だ。


 金を払う人間を、彼女は区別しない。

 そして、嘘をついた人間を絶対に許さない。

 この二つのルールを、彼女は自分にも、そして相手にも徹底している。


 もちろん、プリステスは最初からアレニェが嘘をついているのだと分かっていたはずだ。彼女が見抜けないはずがない。だが、それでも彼に情報を売ったのは、その時点ではまだ、彼が金を払う客だったからだ。


 しかし、取引が終わった瞬間から、アレニェはプリステスの敵になった。まだ彼が死んでいないのは、北方の諜報組織と事を構えるのは得策ではない、と彼女が考えているからだろう。だが、それがいつまで続くのかは、誰にもわからない。例外は許されるべきではないからだ。それがどんなことだったとしても、たった一つの例外が、それまでの信頼の全てを壊すことだってある。


「どうしたんですか、黙り込んで」

 黙り込んだ俺の顔を、アレニェが覗き込んでいた。

「……俺はお前を信じていいのか」

 口をついて出たのは、意外なほどに弱気な言葉だった。

「やだなぁ、何ですか、急に。らしくないですよ」

 

「ああ、悪い。ちょっとどうかしていた。聞き流して――」

「信じなくても構いませんよ」

 アレニェが俺の言葉を遮って、そして言葉を重ねる。


「信じる、信じない、なんていうのは問題じゃありません」

 いつも煙に巻くような言い方しかしない彼には珍しく、はっきりとそう言い切る。

「そうだろうか」

 信頼を糧にしてきた俺の信念に、それは反する考えだ。だが、俺の反論など気にも留めずに、アレニェは断言する。

「そうですよ。信じても、裏切っても、何をしたって構わない。生き残るためには、なんだってするべきです」

 それは俺が初めて聞いた、彼の言葉だった。蜘蛛アレニェという通り名の下に隠れている、両腕をどこかで失った男の過去から零れ落ちた一滴の真実。


 思い出されるのは、シエルの顔だった。灰色の透き通った瞳の中にあった空虚さが、俺の胸をなぜか意味もなくざわつかせた。過去のない彼女には、信頼も裏切りも、今はまだ遠くにあるものなのだ。





 

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