#2 E・J・M

 少女が机の上に差し出した封筒には、少し皺がついていた。それに黄ばんでもいる。だが、それ以外にこれといった特徴は何もなかった。


 読めということなのだろう。俺はそれを手に取り、封を開ける。糊付けはされていない。既に開かれた後のようだった。中には3つ折りの便箋が入っている。逆さまにしてその便箋を取り出すと、一緒に金属片のようなものが机の上に落ちた。


 封筒を裏返すと、アルファベットが三つ書かれていた。几帳面な文字だ。それに、筆跡は固い。断定はできないが万年筆で書かれたようだ。

「E・J・M」

 封筒裏面の、左下。普通、差出人名が記される場所である。口に出してみるが、背後からは何の反応もない。これが彼女の名前のイニシャルという可能性もあるが、今のところ、その可能性は低そうだ。


 『■■■・■■■へ』

 便箋を開き、一番最初に目に入るのは、元々あった文字を黒く塗りつぶしたような跡だった。『~へ』ということは、ここには宛先が書かれていたのだろう。だが、裏返してみても、そこに何が書いてあったのかは分からなかった。


「これはお前がやったのか」

 俺が尋ねると、

「違うわ」

 少女が簡潔に答えた。

「この下に書いてあった名前は? 」

「知らない」

 少女は同じように一言で答えた。

 なるほど。つまり、この手紙は彼女が書いたものではないらしい。


「読み終わったら質問して。答えられることは少ないと思うけれど」

 彼女の言葉に従い、俺は便箋を読み終えるまでは口を開かないことにして、視線を文字列へと落とした。


『■■■・■■■へ


 最初に言っておく。この手紙を君が読んでいる頃。僕はもう君のそばにはいない。そして、君もきっと僕のことを覚えていない。だから、この手紙を捨ててくれても構わない。

 君は今、不安な気持ちを抱えていると思う。僕には君がどんな表情をしているかまでは分からないけれども、君の気持ちくらいは分かる。「自分は誰」、と君はそう考えているだろう。僕はその質問に答えることができる。けれど、ここでそれを教えるつもりはないし、僕が誰か、ということも教えない。本当に、申し訳ないと思う。

 じゃぁ何故、こんな手紙を君のポケットに入れたのか。

 それは、たった一つのことを、君に知っていて欲しかったからだ。

 君は美しい。君は素晴らしい。君以上のものなどこの世界には存在しない。そして、僕がその世界のどこかで、共に生きていけることを嬉しく思う。


 君の全てを知るものより』


 文章は短く、すぐに読み終えた。しかし、内容を理解するのは難しい。 

文章の意味は通っているが、あまりにも内容が不可解なのだ。最後の文章を読む限りでは恋文とも取れるのだが、そうだと断じてしまうと、今度は前半部分の意味が分からなくなる。


 それに、俺の知ってる恋文は、もっとじっとりとしている。湿っているとも言っていい。大抵の場合、恋文は、愛する相手と恋仲になるために書かれるものだ。だから、もっとどろっとした感情が、文章からにおい立つ。だが、この文章からはそうした匂いがしない。相手に自分を愛してほしい、という意思が感じられないのだ。

 本文中にもあるように、この手紙の差出人は、受取人のことを愛している、という事実を伝えたいだけで、それ以外の欲望を持っていないのかもしれない。そんなことなどあるのだろうか。


 一体、俺の後ろに立っている少女は、何故こんなものを見せたのだろう。まさか、俺に返信を書かせるつもりで、わざわざ俺に見せているのだろうか。だとしたら、相手を間違っている。そんなのは、そこらにいる三文小説家にでも書かせればいい。俺なんかよりもよっぽどうまく書けるだろう。

 それに、わざわざプリステスと危険な取引をする必要もない。


「読み終えたかしら」

 俺の沈黙を、少女の声が遮った。俺はゆっくりと頷く。読み終えたか、と聞かれれば答えはイエスだ。読むという言葉の意味を、文章を追う、ということだけに限定すれば、だけれども。

「一体、この手紙はなんだ」

「最初に言ったでしょう。答えられることは少ない、って」

「じゃぁ、お前もこの手紙が何だか分かっていないということか。なんだそれは。だったら何故これを俺に見せた」


 少女はそれには答えず、しばらく沈黙してから口を開いた。 

「この手紙を手に入れたのは、今から少し前。ポケットに入っていた」

「ポケットに」

「ええ、そう。手紙に書いてある通り」

「てことは、」

「ここに書いてある通り、ということよ。私がこの手紙を手に入れた時、つまり、私が目覚めた時。私は確かに思ったわ『私は誰』ってね」

「つまり、お前には記憶がない。しかし、どうやらこの手紙はお前に向けられて書かれていた、と」


 彼女は再び沈黙した。その沈黙は先ほどのものとは少し違うようだった。それもそうだろう。記憶が無い、ということは恐怖であるにちがいない。手紙には軽く書いてあるが、自分が誰か分からない、なんてことになれば、その時に感じるのは不安、なんていう安い感情じゃないだろう。それはまぎれもない恐怖であるはずだ。

 俺は彼女が再び話し始めるのを待った。幸い俺の席は窓際だ。夕刻から夜にうつろう街並みが目に入る。あいにく今日は雨で、それほど楽しめる景色でもなかったが。


「私には記憶がない。私は、自分が誰か分からない」

 再びの背中越しの声は、落ち着き払っていた。情動はあまり見せない性格らしい。

 人の性格と言うものは、経験によって形作られるものだ。記憶が失われても、それは無くなったりしないのだろうか、と俺はぼんやりと考え、その思考をすぐに追い払う。

 今はそんな抽象的な疑問などどうだっていい。


「だから、あなたに頼みたいことは、たった一つ。あなたに教えてほしいの」

「悪いが、俺は先生じゃない。教えることなんて何もない」

「揚げ足をとらないで。私が言っているのは、そういうことじゃない」

 彼女の緊張が、微動だにしないナイフの切っ先から伝わってくる。それは不思議な感触だった。まるで、彼女の心の動きが直接俺の中に入ってくるようだ。


「”私”を探して。記憶と、過去と、それからこの手紙を私に書いてくれた人を、見つけ出して……ほしいの」


 彼女の声は、少し震えていた。彼女の言葉が偽りでないということは明らかだった。

「即金で前払い。成功報酬はいらないが、失敗しても返金は無しだ」

「払うわ、いくらでも」

 彼女は即答した。そして、

「交渉成立ね」

 と、安堵のにじむ声で言った。しかし、それは早とちりと言うものだ。


「いや、まだだ」

「金は払うと言ったでしょう。それとも信用できないって言うの? 証拠でも見せろっていうわけじゃ……」


「俺は顔の見える取引しかしない」

 街の裏側で生きる奴には二種類いる。信頼を糧にするものと、信頼を餌にするものだ。糧も餌も、どちらも食べ物という意味だが、この場合は少し違う。信頼を糧にするというのは、信頼されることで顔を広げ、安全で確実な仕事だけをこなしていく、ということだ。


 一方で、信頼を餌にする、というのはそれとは全然違う。相手をだまして自分を信頼させ、金だけ巻き上げてさっさと逃げる、という意味だ。短期間で稼げるが、もちろんリスクは大きい。新参者は、大体このやり口を選び、そして、大抵失敗する。結果はもちろんお決まりのコース。拷問からの処刑である。まぁ、それで済めばまだいい方で、どこかの鉱山で一生奴隷労働させられる、とかいう話も聞く。


 もちろん俺は、信頼こそが最も大切なものだと知っている。

 だからこその、顔の見える取引だ。俺はお前をだまさない。だから、お前も俺をだましてくれるなよ、ということだ。

 

「いいわ」

 少女が言った。

 首筋のナイフが離れるのが分かった。少女の気配が移動する。背後から、窓とは反対側の、俺の左側に彼女は現れた。


 精巧に作られた人形のようだ、というのが最初の印象だった。灰色の長い髪と、それと同色の瞳。肌の色は透き通るほど白く、血液が通っていないんじゃないか、と疑いたくなってしまうほどだ。目は少し吊り上がっているが、キツイ、という印象を与えるほどではない。どちらかといえば、見た者に気まぐれな印象を与える、そんな目だ。


「何か言ったらどうなの」

「あ……」

 

 俺は軽く口ごもった。だが、それを彼女は好意的に受け取ったようだ。

「そんなにじろじろと見ないでくれるかしら」

「あ」

 違う、そうじゃない。俺が彼女を見て何も言えなかった理由は、彼女の美しさに見とれたからではなかった。

「それで、どうなの。引き受けてくれるのよね」

 彼女が腰を落とし、俺の目を見つめた。灰色の瞳の中には、くたびれた俺の顔が映り込んでいる。俺は思わず視線をそらしてしまった。そんなことをしたのは、裏側で生きてきたこの20 年間で初めてのことだった。はったりと、誤魔化しだけでできたこの世界では、相手に気圧されるのは致命的といえるからだ。

 しかし、そんなことは今の俺の頭には無かった。


「顔は見せたでしょう」

 彼女の顔が至近距離まで近づく。

 だが、俺は言うことができなかった。


 ――俺はお前を知っている、などとは。

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