40.理事長室を震撼させるきわめて不穏な問題について

 執務机の上にノートパソコンを開き、周りに本や資料を並べ書類作成作業をしていた楠見は、ドアをノックする音に目を上げた。


「どうぞ」

 キーボードを叩きながら声を掛けると、すぐにドアが開いて――。

 無言で入ってきた人物が、肩から提げていた通学カバンをソファの上にぽいっと投げ捨ててその横にすとんと腰を下ろしたのを目で追いながら、文章を打ち込んでいた手を止める。


(……?)


 楠見は立ちあがり、出入り口まで歩いていくとドアを開けて外へと身を乗り出した。

 誰もいない。

 背後を振り返る。ソファの上でカバンの中身をあさっている少年が一人。


「キョウ」

「ん?」


 声を掛けると、彼はカバンを開いたまま視線だけ楠見に向けた。


「今ここに、ほかに誰かいなかったか?」

「は? いねえけど?」


 答えてキョウは、カバンに目を戻す。

 楠見は少し考えた。

 空耳だろうか。いや、はっきり聞こえた気がする。風の音でもあるまいし。

 ……もしかすると。いや、まさかな。そんな馬鹿な。だが――。


 逡巡の末。


「……キョウ。今ノックをしたのは、お前か?」

「は? そうだけど?」


 カバンから本を数冊取り出しながら、さらりと答えたキョウ。

 楠見は愕然と、目を見開いていた。


「キョウ……お前……」

「ん?」

「どうした?」

「何が」

「どこか具合でも悪いか?」


 楠見は室内に戻り、キョウのカバンを押しのけて隣に腰掛ける。

「夜はちゃんと寝たか? 朝ごはんは? 昼ごはんは?」


 キョウは作業を中断させられて少々ムッとした表情で、

「寝たし、食ったけど?」


「そうか」

 また少し考えて、

「何か悩みでもあるのか? ん? 困ってることがあるなら言ってみろ」


「はあ? なんなんだよ、別になんもねえよ」

 不機嫌な顔で言って、キョウは楠見に押しのけられたカバンを取り戻してまた広げる。ペンケースを取り出して目の前のローテーブルにぽいっと放ると、自分はソファの足元の床に座り込んだ。


 その作業をぼんやりと目で追いつつ、楠見はキョウを観察する。

 特段、具合の悪そうなところはない。昨日までと大きく違った様子もない。腹が減っているようでも眠そうでもないし――。


「んだよ、何見てんだよ」

 ソファの上からじっと見つめている楠見を振り返って、キョウが抗議の声を上げた。


「あ、いや、なんでもない……なんでもないが……」

 楠見はソファから立ち上がると、

「ちょっと待ってろ」

 言い置いて、執務机の上の、電話の受話器を取り上げると内線ボタンを押した。


「ああ、マキか。聞いてくれ」

 すぐに電話に出た相手に、口元を手で覆って小声で話しかける。


「キョウが、部屋のドアをノックしたようなんだ。どう思う? うん――うん――いや、見た感じ具合の悪そうなところはない――うん――えっ? ああ、そうかな――うん――ん? 赤飯?」


「なにコソコソ話してんだよ! 聞こえてんだよ!」

 ローテーブルの前で、キョウが不機嫌な声を上げる。


 そのキョウがテーブルの上に広げている物を、楠見は二度見した。


「マ、マキ!」

 そちらに目を奪われながら思わず大声を上げてしまった。

「新たな事態が発生した。ちょっと一旦切るぞ。また電話する」


 そう言って受話器を置くと、さっと立ちあがり大股でローテーブルに寄る。

 間違いない。テーブルの上にキョウが広げているのは、数学のノートと教科書だった。

 しばし絶句した後に、楠見はようやく言葉を取り戻す。


「キョウ……お前、何をしているんだ?」

「は? 勉強だけど?」


 皆まで聞かず、楠見は素早く執務机に戻ると机上のカレンダーを取り上げる。自分の学校スケジュールなんか把握していないキョウのために、緑楠高校の試験開始日に赤い丸印を付けたカレンダー。それを手に取って確認し、それからパソコンと携帯電話と時計と机の端に置かれた新聞を順に見て本日の日付を確認し――。


 間違ってはいない。まだ試験まで四日もある。


 ソファに戻って腰を下ろすと、楠見は床に直座りしているキョウの額に手を当てた。熱はなさそうだった。

 キョウは鬱陶しそうに首を振って楠見の手を振り払い、シャープペンを取って教科書に向かう。

 わけが分からない。


(いったい何があったんだ……?)


 深刻に、楠見は心配になってきた。

 おかしい。キョウが試験の四日も前に勉強を始めるなんて。

 昨日までは、そんな素振りはまったくなかったはずだ。どうしたというのだろう。悪い物でも食べたのではないだろうか。それとも何者かに体か思考を操られているということは考えられるだろうか? サイの中にはそういう能力を持った者もいる。いや、しかしキョウに限って――万にひとつ不意を突かれるようなことなどあろうと、そう易々とどこぞのサイの術にはまるなど有り得るはずがない、いるとしたらそれは相当の能力者か、それとも――そこで、ハッとなる。まさか――。


「……お前、本当にキョウだろうな?」


 恐る恐る訊くと、キョウは拳を握ってローテーブルをドンとひとつ叩いた。


「なんなんだよ楠見! 勉強の邪魔すんな!」


(勉強の、邪魔……だと?)

 キョウの口から出てきたものとは思えない言葉に、意味を理解するのにしばし時を要し、困惑する気持ちを落ち着かせて楠見は立ちあがった。


「す、すまん……いや、続けろ」

 言いながら執務机まで歩き、再び電話機を取り上げた。

 キョウに背を向けて、通話口を庇うようにしながら小さな声で、


「マキか? 落ち着いて聞いてくれ。キョウが――勉強をしているようなんだ。ああ、間違いない。数学だ。――いや、熱はなかった。どうする? 一応そっちに連れていったほうがいいだろうか。――うん――うん――え? 鯛の尾頭付き?」


 聞き返したところで通話がブチっと途切れる。

 慌てて振り返ると、キョウが険悪な顔で楠見を睨みながら執務机の向こうから拳の底でフックを叩き切っていた。


「なんなんだよ、さっきから!」

「えっ?」

「俺が勉強してちゃ、おかしいのかよ!」

「い、いや……それは」


 おかしい。という言葉を楠見は呑み込んだ。


「俺が勉強してたら病気かよ!」

「す、すまん……あまり見慣れない光景だったから、動揺した……」

「高校生だし試験前なんだから、当たり前だろ!」

「そ、そうだ、その通りだ」

「あと、なんだよ赤飯とか鯛の尾頭付きとか」

「あ、それはだな、その……マキと、試験明けのご馳走の相談をだな――」

「ご馳走」


 わずかに目を見開くキョウ。


(本物のキョウだ)

 楠見は少々安心する。と同時に、胸に込み上げてくるものがあった。


「お前……ついにやる気になったのか?」


 訊くと、キョウは「フン」とそっぽを向いてテーブルへと戻っていく。

 その後ろ姿を見つめ、感動のあまり楠見は涙ぐんでいた。


(キョウに『勉強しろ』と言い続けて早五年。ついにやる気を出したか……)


「楠見、俺に勉強教えるか?」

「ああ、いいぞ。なんでも聞け」


 大きく頷きながらソファに行って腰掛けると、足元でキョウはカバンをあさって新たな教科書を取りだした。


「物理なんだけどな」

「物理、か」


 楠見は遠い目をする。


「なあ、キョウ。俺が物理を学んだのは、今からかれこれ十年以上も前だ。しかるに科学は日々進歩する。俺の情報はいまやすでに古い時代の物となっている。お前たち未来を担う青少年は、常に新しい学問を追い求めるべきだと俺は思うぞ」

「分かんねえなら分かんねえって素直に言えよ」

「いや! 決して苦手だったわけじゃないぞ! ただ説明する自信がないだけだ、お前を余計に混乱させては不味いと思ってだな」

「もういいよ。じゃあ古文は?」


 不満そうに言ってキョウは別の教科書を取りだした。


「平家物語なんだけどさ」パラパラとページをめくって、目的のページを開くと楠見の目の前に差し出す。「ここんとこ」


「なあ、キョウ。俺は『テイル・オブ・ザ・ヘイケ』は英語で読んだ」

「はあ?」

「ストーリーなら説明できるぞ。源頼朝、平清盛だろ?」


 キョウは眉間にシワを寄せる。

「係り結びの法則とか、ラ行変格活用とか、もしかして知らねえの?」


 楠見を見つめるキョウの瞳が軽蔑の色合いを帯びてきて、楠見はひとつ咳払いをして威厳を保った。

「そういった物が存在するということは知っている」


 訝しげに眉を寄せながら、キョウは、

「しょうがねえな。じゃあ英語ならいいか」


「おお! 任せろ、得意だ」

「ん。ここ」

 キョウが、テーブルの上に紙を広げてバシッと手で叩く。英文法の練習問題のプリントらしい。


「なに? 括弧に入る言葉を選べ? これはこの、『was spoken to』だ」

「答えは分かってんだよ。なんで『was spoken』じゃなくて『was spoken to』なんだ」


 バンバンと紙面を叩くキョウ。楠見は腕を組み、わずかに眉を寄せた。


「なんでと言われても。ほかの選択肢は考えにくい」

「だからそれはなんでだ」

「うん? だって、どう見てもこれが自然だ」

「自然とかじゃなくて」

「そう言われても……」


 ますます眉を寄せる楠見を、キョウは床の上から睨み上げる。


「受動態の文章の作り方はbe動詞+過去分って先生が言った」

「む、じゅ、受動態? 過去分詞……?」

「楠見、知らねえのか?」

「えっ、いや、知ってるぞ。受動態は、……『なになにされる』ってやつだろ? 過去分詞? 過去分詞ってのは、つまり――」


 じりじりと睨んでくるキョウの視線に、楠見は負けた。

「すまん……俺は、日本の学校の英語教育をほとんど受けていないんだ……」


 がっくりと肩を落とした楠見に、キョウは大きなため息をついた。


「ったくー、楠見は役に立たねえなあ」

「すまん……」


 と、そこへ。それは、理事長室の決して薄くはない立派な木の扉を通しても聞こえてくる、軽快な足音だった。廊下の角を曲がってドアに近付いてきたかと思うと、唐突に勢いよくドアが開く。

 姿を現したのは、一階の診療所に勤務する牧田医師だった。


「マキー、部屋に入る時ちゃんとノックしろよな」

 眉を顰めて言ったキョウだが、「いやあごめんごめん」と笑いながら室内に入ってきた牧田が右手に持っている物に目を留める。


「……マキ、何持ってきてんの?」

「あ、これ? キョウが勉強してる姿を記念に写真に撮っとこうと思ってさ」

「……」


 白衣の男は右手のコンパクトデジタルカメラを軽く持ち上げて、爽やかに笑った。

 キョウの険悪な抗議の視線が、なぜか楠見に向く。


「えっ、いや……マキ。写真だなんて大袈裟だぞ。たかだか勉強しているぐらいで。いくらこの五年で初めてのことだからって。キョウがついにやる気になった決定的瞬間だからって。そうは言ってもこの機を逃したらもう二度と見られないかもしれない光景だからって。さすがに写真は……」


「楠見っ、なんでそんな珍しそうに言うんだよっ」

「ええ? いいじゃないかー。南極旅行に行ったら誰だって写真ぐらい撮るだろ?」

「俺の勉強してんのは南極旅行レベルかよっ」

「マキ。南極はいくらなんでも。せいぜいヨーロッパ旅行ぐらいだろう」

「えー? 控え目に言って南極だろう、宇宙旅行じゃさすがに言いすぎだけど」

「おまえらー! なんだよー!」

「いいからほら、早く勉強しなよ。はい、ペン持って。ノートに向かって」

「ぜってーやらねえっ!」


 カメラを構えるマキ。キョウはシャープペンを投げ捨てた。

 その時、またぞろノックの音がして、ドアが開く。


「副理事長。理事会の会議録をお持ちいたしました」

 女性にしてはハスキーな声。落ち着いた口調で言って、影山は部屋に足を踏み入れると無表情に室内の面々を見渡した。

「なにやら大きな声が聞こえましたが、お揃いでいかがなさいました?」


「ああっ、影山さん、見てくださいよ。キョウが勉強してるんですよ、ほらほらこれえ!」

 カメラ片手にキョウをずいずいと指さすマキ。


 影山はキョウと、彼がテーブルに広げている教科書やノートやプリントを一瞥したが、すぐになんの反応も見せずにそのままつかつかと執務机に歩み寄った。


「副理事長、議事録はこちらに」

「あ、ありがとうございます……」

「ええー? 無反応? 珍しい光景なのになあー」

「高校生なのですから、勉強をするのは当然のことでしょう? 牧田先生、何を大騒ぎされているのです?」


 その言葉に、キョウがパッと顔を上げた。


「だよな! 当然だよな!」

 言って、てきぱきとテーブルの上を片付け始めるキョウ。


「お、おい、キョウ、どうした? もうやめるのか?」

「えー? 記念撮影は?」

「俺、影山さんの部屋で勉強する。そっちのほうが静かそうだし」


 すると、影山は引き返ししなドアの前で一度キョウを振り返った。


「影山さん、俺そっち行っていい?」

「ええ。いいわよ。いらっしゃい」

「ん。影山さん、俺に勉強教えるか?」

「ええ、でも――」


 影山は頷くと、髪をまとめていたバレッタに手を掛けそれを外し、気だるげに首をめぐらせ長く艶やかな髪を一振るいしながら大きな黒縁メガネを取って、


「それよりも、もっと良いことを教えてア・ゲ・ル」

「良いことって?」


「うわあぁ、待てキョウ行くな!」

 慌ててキョウの腕を掴んで楠見は止めた。


「んだよ楠見、放せよっ」

「副理事長。成宮くんの『勉強』は、わたくしが責任を持って面倒を見ます」

「はっはっはっ、いいねえ! キョウ、頑張ってこいよ!」

「マキまで! だ、駄目だ、キョウにはまだ早い!」

「はあ? 早いって何が」

「成宮くん、オトナになりたいでしょう?」

「大人? ん」

「やめてくださいー!」


 大人三人と高校生の喧騒は、弓道場帰りのハルが理事長室の外から声を聞きつけて、不穏な笑顔で「何やってるの?」と入ってくるまで続けられた。

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