36.楠見の有意義な忠告は、だが彼にとって挨拶でしかない
ノックもなしにドアノブの回る音がして、楠見は読みかけの書類から目を上げて無意識に壁の時計を見ていた。
高校の授業が終わった頃だ。やけに早いな……と思ううち、勢いよくドアを開けて入ってきた無作法者は肩から提げたカバンを下ろしもせずにソファにどっかりと座り込んだ。
「キョウ。部屋に入る時はノックをしろと、お前は何度言ったら分かるんだ」
「ん」
首を巡らせて楠見と視線を合わせ、キョウは少しばかり困ったように眉根を寄せる。
「けどさ、楠見」
「なんだ」
このごく常識的な小言に関して、何か異議申し立てでもあると言うのか。
「俺が仮にノックして入ってきたとしたらさ、お前、『ノックしろ』って言わねえだろ?」
なんだ? こいつはどういう自前の哲学を展開しようとしている?
戸惑いつつ、楠見もわずかに眉を顰めて、
「ああ、まあ、言わないな」
「んーそれだとさ」
やはり困り顔。
「『いらっしゃいませ』って言わないファミレスに入ったみたいじゃねえ?」
思わずぽかんとなった楠見に、キョウは深刻そうに顔を伏せた。
「それ、なんか物足りないと思うんだよな」
「おっ、お前……」一瞬開いたままふさがらなくなった口から、ようやく楠見は言葉を取り出す。「俺の有意義な忠告を、ファミレスの『いらっしゃいませ』程度に認識していたのかっ?」
どうりでスルー率が高いわけだ。楠見の「ノックをしろ」にキョウが答える可能性は、レストランの店員に「いらっしゃいませ」を言われた時に調子のいい客が「いらっしゃいました」と答えるほどの確率ということか。
呆気に取られた楠見だが、キョウを相手にムキになったところで時間と労力の無駄なので、ひとつ咳払いをして体勢を立てなおす。
「お前の考えはよく分かった。今後お前がノックをして入ってきても、ちゃんと『ノックをしろ』って言ってやる。だから部屋に入る時はノックするように」
「んー、なんかそれは理不尽だろ」
「理不尽なのはお前だ!」
うっかり声を荒げたところで、執務机の上の電話機が鳴りだした。正門の守衛室から、来客を知らせる用件。
(タイミングが悪いな――)
舌打ちする気持ちで、ちらりとソファの上の少年に目をやりつつ、
「こちらもちょっと取り込み中なので、ゆっくり来てもらうよう伝えてください」
誰が来たんだ、という目をしているキョウには答えずに受話器を置くと、楠見は「来客を迎えるためにやりかけの書類仕事の仕上げにかかる」というような
そうして書類を両手に持って目を落としながら、できるだけ何気ない口調で。
「それで、どうした? ハルとここで待ち合わせでもしたか?」
試験が済むまで、高校生たちには楠見の部屋に溜まらずに真っ直ぐ家に帰れと言ってあった。だから、「来客」があったとしてもちょうどいいと思っていたのだ。だが。キョウがここにいるとなると、少々具合が悪い。
「んー。ちょっとな」
キョウはなぜだかそこで、少し言いにくそうに口ごもる。
楠見は書類から目だけ上げて、
「ハルは遅くなるのか?」
「ん。弓道場が空いてるから、練習してから帰んだって」
「……ハルは典型的な、試験前になると勉強以外のことがしたくなるタイプだな」
まあ、いい。ハルのことだ、そのあたり抜かりはないだろう。問題はキョウだ。
「待ってるわけじゃないなら、早く帰って勉強しろ」
「ん。楠見は今日は、どっこも行かないのか?」
「ああ。これから来客があって、その後は夜までここで書類仕事をするよ」
だから忙しいから帰れ、という含みを持たせたつもりだったが、通じた様子はない。
「ふうん。じゃ俺、待ってる」
「何?」
「早く終われ」
楠見は思わず書類を机に置いていた。
「何か話でもあるのか?」
「別に」
「……じゃあ、なんだ。焼き肉だったら試験の後だぞ」
するとキョウは、抗議するような視線を楠見に向けてきた。
「また昨日みたいなヤツが来たら、困るだろ!」
楠見は目を見張る。
だから、護衛でもしてくれようって言うのか?
「……もう来ないよ」
「なんで分かるんだよ」
「用事は済んだんだ。何度も来やしないだろ」
「なんでそう言い切れんだよっ」
ソファの上でこちらに体を向けて、怒ったような口調で訊くキョウ。
「だってそうだろう。質問をされて、俺は知らないと答えた。話はおしまいだ」
再び書類を手に取りそこに目を落とした楠見に、キョウは立ち上がって執務机までやってくると板面に両手をついて身を乗り出した。
「楠見、護衛つけろ」
「ん?」
「なんかいるだろ、そいうヤツ」
「ボディガードでも雇えってのか?」
「そうだ」
「ちょっと不審な人間に話しかけられたぐらいで大袈裟な。もうそれはいいから、早く帰れ」
軽く言って椅子を回し、横を向いて書類に目を落とし続ける。
キョウはすると、怒ったようにさらに机に圧しかかった。
「拳銃持ったヤツに狙われて、大袈裟ってことあるか!」
「ちょっと脅しを掛けただけだろう?」
「お前のこと連れてこうとしたじゃん」
「そうだったかな」
「お前が知らなくても、連れてったらどうにかなるって思ってるかもしれねえじゃん」
「失敗したんだ。諦めただろう」
「また狙ってくるかもしんねえじゃんー」
「その時はその時だ。どうにかするさ」
楠見は書類の文字を目で追いながら、机のペン立てからマーカーを取り出して書類にチェックを入れ始めた。
「なあぁー! どうにかって、どうすんだよぉ!」
「どうにかは、どうにかだ」
「また昨日みたいんなったら、お前一人で切り抜けられんのかよ!」
「痛いところを突くな。正直自信はないが――」
「じゃんか!」
「でも昨日だって、どうにかなった」
「俺やあの入江ってヤツがいたからだろ!」
「ああ、助かったよ。また変な状況に出くわしたら頼むな」
「って! 俺いつも一緒じゃねえし。あの入江ってヤツだって、あん時たまたま来ただけなんだろ?」
「そのようだったな」
「くーすーみー!」
書類に目を向けたまま空返事を続ける楠見に、キョウは焦れ切ったように声を荒げた。地団太でも踏みだしそうな勢いだ。
仕方なく、楠見はマーカーと書類を机に置いて、また椅子を回しキョウと向かい合った。
「あのな。分かったよ。心配してくれるのは嬉しいが、俺は一介の学園理事だぞ? おかしいだろ、いかつい用心棒なんか
「サイの仕事してるじゃんか」
「それは組織とも関係なく個人的にできる範囲でやってるだけだ。いつもいつも身に危険があるわけでもなし」
小さく息をついて、楠見は立ち上がる。
「さあ、俺の心配はいいから、帰って試験勉強しろよ」
言いながら壁際の書棚まで歩いていき、キョウに背を向けて棚に手を伸ばす。二、三冊の本とファイルを取り出し、それから――。とそこで、背後でキョウが沈黙しているのに気づき振り返ると、少年は眉間にシワを寄せてムスッとした表情でまだ机の前に立っている。
本を抱えたまま楠見は少々腰を屈めて、わずかに伏せ気味のその顔を覗き込んだ。
「泣いてんのか?」
「泣いてるわけねえだろ!」
「そうか」
棚に向きなおってさらに二冊ほど本を手に取った楠見の背中に、キョウは不貞腐れたような声で、
「あの、入江ってヤツにでも頼めばいいじゃん。目立たねえようにこっそりやってくれんだろ」
「あの人は無理だ。『本店』の最重要人物の一人だし、そこのボスのお気に入りの側近だからな。放してくれやしないよ」
書棚を眺めながら答えると、キョウは、声のボリュームを上げた。
「だったら俺がガードする」
「お前は学校があるだろうが。学生の本分は勉強だ」
「なら俺、学校やめる」
拗ねたような低い声で、けれどきっぱりと言うキョウ。楠見は思わず振り返り、目を見張った。
「お前……本気で言ってんのか?」
「……そりゃ」
「やめたいのか? 学校を?」
「……やめたいわけじゃ、ねえけど」
目を逸らすのと同時に、口調も弱くなった。
その反応に楠見はホッとして、
「そうか。それなら良かった」
笑いかけると、キョウはバツが悪そうに口を曲げた。
「そうだ、お前、学校を卒業したら俺の秘書兼ボディガードになれよ」
書棚の前にあるソファの背に、楠見は腕に数冊の本を抱えたまま寄りかかった。
「無試験で採用してやるよ。良かったな。進路は安泰だ」
「はあ? なに勝手に決めてんだよ」
「嫌か?」
「嫌じゃねえけど」
「だったら決まりだ」
「秘書なら影山さんがいるじゃん」
「別に秘書は一人って決まってるわけじゃないし。影山さんは学校のほうの仕事で忙しいからな。お前が卒業する頃には俺も今よりもっと忙しくなってるかもしれないし。サイの仕事を任せられる秘書がいたほうがいいだろ?」
「秘書とかそんな仕事、知らねえし」
「普通の高校生は、自分が将来就く仕事の内容を詳細まで知っちゃいないさ。お前は仕事始めた時のことなんか覚えてないかもしれないがな、たいていは就職してから教わるもんなんだぞ。それよりお前、今の仕事を続けるならな、表の仕事はあったほうが何かと都合がいいんだぞ? 『本店』のサイも、たいがい何かしら世間に公表して差し支えのない表向きの仕事を持っているんだよ」
まだ文句がありそうに口を尖らせてはいるものの、キョウが黙って考えているらしいのをいいことに、楠見は笑って頷いた。
「よし。そうと決まったら、お前はちゃんと大学まで行ってちゃんと卒業しろよ。採用条件は大卒だ」
「……んな先の約束、できっかよ」
「ほかにやりたいことができたなら、別に変えたっていいさ」
「そういうことじゃなくてっ」
不機嫌そうなキョウに苦笑しつつ、ソファに持たせていた身を起こす。机に戻ってくる楠見をキョウは上目遣いに追いながら、
「楠見は、昨日のヤツのこと分かってるのか?」
さすがにその真剣な面持ちに、適当にあしらうこともできないと察して楠見も小さく息を吐く。そうして両手に抱えていた本を机に置き、キョウに向き合った。
「知り合いかどうかというなら、本当に知らないよ。入江さんが言うんだから、少なくとも『本店』に所属していたことには間違いないだろうけどな。前から言ってるが、俺が神戸にいて直接『本店』の人間に会う機会があったのは、子供の頃までだからな。それから十何年って間に、組織員の入れ替わりもかなりあっただろう」
ようやく真面目な顔で話しだした楠見を、キョウはまだ訝しむような目で見ている。
「なんで知らないヤツがお前に会いに来んだ」
「どうやら組織のトップに用事があるらしいな。俺が居場所を知っていると思ったらしいが、とんだ買い被りだ。組織の最重要人物の現在地を逐一報告されるような身分じゃない」
「その場所知って、どうすんだよ」
「さあ。奴らの目的は俺には分からないよ。いま昨日の入江さんや組織の幹部が調べてるところだろう。分かっても『本店』の内情に触れることを俺が教えてもらえるかどうかは微妙だが、多少は質問に答えてくれることを期待して任せるさ」
疑わしげな瞳を向けてくる少年に、楠見も困った顔を作る。
「まあ、そこらへんは俺たちには関係のないことだ。お前も気にするな」
こんな言葉で、この少年が、誤魔化されるはずはないのだ。そう思いつつも、「な?」と楠見は慰めるような小さな笑顔を見せる。
キョウには分かっている。
先日の相原哲也の事件。伊織を追い、哲也を抹殺しようとしていた組織。能力開発用のDVDを作り、配った者。そして先ごろから学校の周辺をうろつき、真野美咲たちに接触している怪しい人物。それらは一本の線に繋がっている。そしてその線と目的を同じくする者が、楠見の前に現れて拳銃を突きつけてきたのだ。
思えば伊織や哲也の問題は、楠見たちの外側で起こっている事件に楠見たちが積極的に介入しただけだった。
それ以外には、これまで視界の端をちょろちょろとうろついていただけの連中。
それが、ついに向こうから楠見の前に姿を現したのである。それも、害意をむき出しにした形で。
気にしないなどできるわけがない。
だが――。
「『本店』でなんかあったのか? それで、お前が危険に巻き込まれんじゃねえのか?」
楠見は内心でため息をついた。
その想像が正しければ、なおさら彼をこの問題に立ち入らせることはできない。
「俺に危険があれば、知らせるよ」
楠見は不満でいっぱいのキョウの瞳をしっかりと見つめ返して、言った。
「それに伊織くんや哲也くんや、真野さんたち。その問題の解決のために必要なことが分かれば、ちゃんとお前に言う」
だから、「本店」の問題には触れるなと。言外に滲ませて言い聞かせる。
キョウはますます不満そうな顔で楠見を見つめていたが、やがて小さく息をついて目を逸らした。
「けど……やっぱ一人で出歩くのは……」
「……ちゃんと気をつけるよ。何かあればすぐ連絡する」
「本当だぞ? 絶対だぞ!」
また戻ってきた視線の真剣さに、楠見は思わず笑いをこぼしていた。
(そんなに心配かな)
可愛いじゃないか。
無意識に、慣れた動きでキョウの頭に手を載せて撫でている。
「分かった分かった」
ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜる楠見の手の下で、キョウの瞳が見る見る怒りの色を帯びていくのに気づいてハッと手を止めた。
「……キョウ?」
恐る恐る聞いた楠見の手を払いのけて、楠見を睨みあげるキョウ。
「馬鹿楠見! 子供扱いすんな!」
「あ、す、すまん……そんなつもりじゃ……」
「お前なんかいっぺん殺されろ!」
力いっぱい不穏当な叫びを上げると、キョウはさっと身を翻してどしどしと出入り口のドアのほうへと歩いていく。そうして思い切り乱暴にドアを開けたところで、けれど何かにぶつかったように一歩後ずさった。
「……キョウ?」
不審に思ってそちらに向かいかけた楠見も、ドアの外に立っている人間に気づく。
黒ずくめのスーツに身を包んだ男。
「ああ――入江さん……」
「若。昨日はご無礼をつかまつりました」
入江はドアの外で足を揃えて立ち、慇懃に頭を下げた。
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