35.「あの人」は何から身を隠しているというのか?

「用件だけ聞こうか」


 ため息混じりに言ったのは、この局面を打開する方法を思いつくまでの時間稼ぎのため。そしてその間に、相手の正体の手掛かりを掴もうとしてのこと。だが、男もそれを察したようで、質問を許されたことに安堵した気配はない。

 互いを探り合うようなわずかな沈黙が数秒続いた後に、男はまたふっと唇の端を上げた。


「『会長』の、現在のご居所を」


 また少しの間睨みあって、楠見は重い口を開く。


「知るか。俺が知りたい」

「あなた様はご存知であるかと」

「長いこと会話もしていない。神戸の本家にいないなら、俺は知らないよ」

「ですが先日、お会いになりに行かれた」


 三度目の、長いため息を楠見はこれ見よがしに落とす。


関東こっちに滞在しているなら久しぶりに挨拶でもしに行こうかと思ったんだが、途中、誰かに尾行されてね。おかげで警戒されて、門前払いだ。今も同じ場所にいるとは思えないな」


「でしたら少しの間、ご同行願いたい」

「なんだと……?」

「『会長』をお捜しするのを、お手伝いいただきたいのです」


 表情も変えずに言う広崎と名乗る男を、楠見は慎重に見やって目を細める。


「……俺を、人質にでもするつもりか?」

「畏れ多いことです。ただ、お手伝いいただきたいと――」


 広崎は背広の襟に左手を掛けたまま。右手は一見、何気ない様子で垂れ下がっている。だがその実、ぷらりと遊ばせた風の指先にまで緊張が巡らされていることは、わずかに浮いた人差し指を見れば分かる。楠見が少しでもこの男の意にたがう動きを見せれば、いつでも懐の物を抜く気であろう。


(いよいよ物騒だな……)

 楠見は心中で首を捻る。

(『本店』で、何が起こっている?)


 そして「あの人」は、何から身を隠しているというのか?

 追っ手のついていた楠見を言葉も交わさずに追い返したのも、いやもしかしたら、そもそも関東に滞在していたことも。どうやら単に、他人に行方を知られてバカンスを邪魔されたくない、などという呑気な理由ではなさそうだ。

 この男に同行すれば、何かしらの企みを持った連中の黒幕に会うことができるのだろうか。この男の、いや、先ごろから学校の周りをうろついたり、楠見を尾行したりしていた連中の――ひいては先日の相原哲也の一件を引き起こした、菅原や安斉といった人間たちの背後にいる人物が?


 だが――今、誰とも知れない相手の手の内に一人で飛びこむのは、リスクが大きすぎる。

 思いつきを否定するように楠見はゆっくりと首を横に振って、


「俺に、手伝えることがあるとは思えないな」


 相手の男の目を見つめながら告げる。広崎は身じろぎもせずに、


「我らと共においでいただければ、それで」

「俺を『会長』と会う取り引き材料にしたいわけだろう。だったら無理だ。『会長』はそんなことではあなた方の前には出てこないよ。たとえ俺が人質として役に立たずに殺されたとしてもな。ただしその後は、そちらも無事では済まないぞ」


 大した脅しになるとも思えなかったが、相手の様子を見るためそう口にしてみる。果たして広崎は、やはり顔色も変えずにフッと笑うような息を漏らす。


「我々のことでしたら、お気遣いいただく必要はございません」


(やっぱり、食えない奴だ――)


 やはり相手の言いなりになることはできない。そもそも身柄を人質に取られ、「会長」や組織の幹部たちとの交渉材料に使われるなど、そんな無様な事態は死んでもご免だ。


 この場は切り抜けるしかない。

 さっと踵を引いたのを契機に、場の緊張状態が解け空気が動く。男の右手がピクリと反応し、その手が懐に向かおうとした瞬間だった。


 男の頭上に躍り上がった黒い影に、楠見の視線が動く。

 影は中空でサッと鞘から刀を抜き放つような動きを見せ、手に細身の刀を出現させた。刀身は宙に舞い、周囲の電灯の心もとない灯りをはね返して一閃し――


「――キョウ、待て!」


 悪い予感に思わず叫んだ楠見の視線を追って、そちらに顔を向けかけた男。その側頭部を、飛びかかりざまキョウは順手に持った刀の柄頭でしたたかに殴りつける。男は勢いよく打ち倒されるようにして地面に手をついたが、その右手は同時に左胸の内ポケットへと動いた。


 地に降り立ったキョウは、そのまま倒れた男から数メートルの距離を取って対真刀たいまとうを中段に構え、指示を待つように視線だけ楠見に向けた。


 キョウがいきなり男へと斬りかかったりしなかったことに一瞬安堵した楠見だったが、楠見に向けかすかに首を横に振ったキョウに、すぐに別の不味い状況を認識する。相手はサイではないと言うのだろう。ならば対真刀は通用しない。


 男はよろめきながらもすぐに起き上がり、片膝立ちになってキョウへと向かい合う。


「キョウ、退け」

 静かに言って、楠見はキョウと男の間に割り込むように身を入れた。


「はあ? だって――」

 キョウはほんの少しだけ刀の切っ先を下げて、不満げに眉根を寄せる。


「さがれ。奴は拳銃を持っている」


 言った瞬間、内ポケットに差し入れられていた男の右手が現れる。その手には、しっかりと拳銃が握られていた。


神月こうづきの、神剣の使い手」

 広崎はゆっくりと立ち上がりながら、わずかに頬を歪めた。

「あなた様にまでお目にかかれるとは、望外の光栄です。だが――」


 銃口がこちらに向かう。


「ここはどうか、退いていただきたい」


 背後の少年が身に緊張を走らせたのを察し、楠見は片手を上げて止める。


(撃ちはしないだろう――)

 期待を込めて、楠見はそう思った。


 ここで楠見に危害を加えれば、この男も、この男の言う「さる方」も無事では済まない。曲がりなりにも組織に名を連ねる身ならば、そのくらいの分別のないはずはない。

 だが――。ためらいもなく銃口を向ける男に、少々自信が揺らぐ。なんらかの大きな目的の前に己が身の犠牲など意に介さない輩なら、そんな分別など簡単に振り捨ててしまえるだろう。あるいは殺しはしないまでも、抵抗するようなら傷つけ自由を奪えと――邪魔をする人間は排除しろと――そのぐらいの指示は、「さる方」とやらから受けているのかもしれない。


 タイミングを狙い、隙をついて拳銃を奪わなくては――。


 そう思考する楠見の耳に、カチリという不吉な音が届く。男が拳銃の安全装置を外したのだ。

 だが。


 次の瞬間。

 ぴたりとこちらを向いていた銃口が、わずかに持ち上がった。

 見るうちに、銃を構える男の腕の角度がじわじわと上がり、銃口は楠見たちから離れてゆく。


 おそらく自分で意図した行動ではないのだ。身を操られるなど――思いもかけなかったであろう事態に、驚愕の色を浮かべる男。


 ひやりと背筋を撫でられるような感覚があった。前にこれと同じ現象を見たことがある。あれは――。


「やめろ!」

 思わずそう叫ぶのと同時に、やはり驚きに目を見開いている隣の少年を引き寄せ、その目と耳を塞ぐように無理やり胸に抱え込んだ。


「わっ、くす――なっ」


 腕の中でキョウがもがくのを、必死に押さえこむ。


 男の腕は地面と垂直になるまで持ち上がり、銃口が完全に中空へと向いた時、その指が引き金を引いた。

 鋭い銃声が耳に届いた刹那、ふっと銃を持つ広崎の脇に、別の人物が姿を現す。まだ上空から見えない糸にでも吊り上げられるかのように、腕を宙に上げている広崎。彼がその新たな人物の登場を気取けどる間もなく、その人物は広崎の頭を後ろから思い切り殴りつけると、倒れかかったそのみぞおちのあたりを蹴り上げた。銃を中空に向けたまま広崎は後ろに吹っ飛んで、背中から地に落ちる。


 一瞬で、勝負はついた。現れた人物は、広崎の傍らに膝をつくとその胸倉を引き上げ、相手が完全に意識を失っていることを確認してすぐに放す。


 恐れていた事態にならなかったことにホッと息をつきながら、楠見は腕に抱え込んでいたキョウを解放した。一瞬抗議の視線で楠見を見たキョウだが、それよりもいったい何が起きたのかという困惑の面持ちですぐに広崎と新たな人物に向きなおる。


 楠見は小さく息をついた。


「……入江いりえさん。やっぱりあなたでしたか」


 立ちあがり振り返ったのは、広崎と似たような、黒いスーツに身を包んだ男。

 彼は一歩だけこちらに足を踏み出すと、その場に片膝をつき慇懃に頭を下げた。


「ご無沙汰しております。若。――それに、対真刀の使い手。ご健勝そうで何よりです」


 殊勝な口調で言う男。キョウは警戒と戸惑いを同時に滲ませた顔で、説明を求めるように楠見に視線を向けた。右手には、タイマの柄を握りしめたまま。けれど再び刀を構えることはせず。

 相手が強力なサイであることは、キョウなら一目で分かるだろう。だが害意を見せるでもない男に、どう行動していいのか迷っているようだ。


 楠見はキョウの緊張を解きほぐすようにその肩に手を置き、

「心配要らない。彼は敵じゃない」

 それだけ説明して男に声を向けた。


「お久しぶりです、入江さん。助かりました。ありがとうございます」


 入江は楠見に正面を向け、再び軽く頭を下げた。


「いえ。神剣の使い手を前に、かような手出しは甚だ僭越かとは存じましたが、お手を煩わせるまでもないと判断してのこと。どうかお許しを。それと若、わたくしに敬語は不要にございます。どうぞ、お呼び捨てください」


「本当に……あなたは、相変わらずだ……」


 苦笑気味に頬を歪めた楠見に、入江はその鋭い視線を向ける。


「『会長』の名代を承り、お伝えしたい儀があってまいりました。ですが――」

 言葉を切って、入江は地に倒れている男を視線で示し、

「妙なタイミングでしたな。『荷物』ができてしまいましたゆえ、大変ご無礼ながら日を改めさせていただければ幸甚」


「ああ――そうしてもらったほうが良さそうだ……」

「遠からず」


 言って、入江は傍らに転がっている男の肩口を、革靴の底で軽く蹴ってわずかに体を持ち上げると、右手にまだ握りしめていた拳銃を奪い取った。

 見知らぬ男の手に拳銃が渡ったことにか、またはその他人に対する粗暴な扱いに腹を立てたのか、キョウが不快げに眉を寄せる。

 すぐに入江はその反応に気づき、軽く唇の端を上げた。


「お目汚し、大変ご無礼をいたしました。この者は、組織に所属していた身でありながら、若に銃を向けるなどという愚行を犯しました。すぐにしかるべき役割の者に引き渡し、制裁と再教育を施す必要がありますので、持ち帰らせていただきます」


 それはわけが分からず困惑の面持ちで立ち尽くしているキョウに対するフォローなのかもしれないが、なにぶん内容が物騒にすぎる。

 斬りかかるつもりはないだろうが、キョウがタイマを握る手に力を込めたのが分かった。

 と、入江はほんの少しばかり困ったように、また苦笑いするように片頬を吊り上げる。


「若――対真の使い手を、どうかお宥めください。彼ほどの能力者にそのように睨まれては、恐ろしくてまともに口もきけませぬゆえ」


 恐ろしいなどとは微塵も思っていないであろうその表情に、キョウが今度は抗議するような視線を楠見へと向ける。

 楠見はキョウへと顔を寄せて、

「ジョークなんだ。笑わなくていい」

 囁くと、肩に載せていた手でポンと一度キョウの肩を叩いた。


「あー、入江さん、だ」

 もう片方の手で指し示す。


「古くからの組織の最高幹部でな。以前は俺の身を護っていてくれた人なんだ。お前も一度、会ったことあるよ」


 知らない、というようにますます眉を寄せるキョウ。

 会った、どころか助けてもらったと言ってもいいのだが、その時のキョウは、身の周りにどんな人物がいるかなど気にしている状況ではなかっただろう。覚えているはずもない。察したように入江は頭を下げた。


「以後、お見知りおきを」


 すぐに顔を上げると、入江は地に片膝をつき、倒れている男の肩を掴む。


「若。それでは我らは、これで一旦引き取らせていただきます。追ってまた」

「ああ。よろしく」


 頷いて、楠見はキョウの肩を押す。

「行こう」


 キョウはまだ物問いたげな目で、けれどその手からタイマを消すと、押されるまま素直に足を進めだした。




 入江たちが見えなくなったあたりで、キョウは一度背後を振り返った。


「楠見、さっきのヤツなんだ」

「ん? どっちだ?」

「両方だ」


「入江さんは説明した通り、『本店』の最高幹部――トップの人間の側近なんだ。俺たちには危険な人じゃないよ。広崎って奴のことは、知らない。『本店』の組織の人間みたいなことを言っていたが、入江さんは『組織に所属していた』って過去形で言ってたな」


「けど、サイじゃなかった」


「『本店』は大きな組織だからな。サイじゃない人間も多い。潜在的な能力者のうちにスカウトされたのが、能力を発現しなかったとか、家族にサイがいて理解のある人間だとか。一番多いのは、元々サイだったのが成長して能力を失ったパターンだな」


「なんでお前のこと連れていこうとしてた」


 ちらりと楠見はキョウと視線を合わせる。キョウはむくれたようにすぐに目を逸らした。

 どこからあの場所にいたか知らないが、キョウはしばらくの間、出ていくタイミングを窺って話を聞いていただろう。広崎という男の目的も、事情を完全には把握できないままに、察しているに違いない。


「人を捜していると言っていたな。その人の居場所を訊きにきた」

「お前が館山まで会いに行ったヤツか?」

「そのようだな。だが俺は、本当に知らない。聞かれても答えようがないからな。向こうも大して期待しちゃいないだろうが、手詰まりで一か八かやってきたんじゃないかな」


 できるだけ軽い調子で言って、肩を竦めた。

 キョウは楠見へと視線を戻し、少しの間その真意を量るかのように見つめていたが、すぐに不機嫌そうにそっぽを向いた。


「なんだ? 何を拗ねてるんだ」

「別に。拗ねてねえよ」

「そうか……? それよりお前、どうして――」


 言いながら、思い出した。


「あ! あの電話のことで、文句を言いにきたのか?」


 少々慌てて問うと、キョウはますます機嫌悪そうに顔を向こうへやってしまう。


「悪かったよ。だけどおかげで会合を抜け出せた。時間を無駄にせずに済んだ。助かった。お前を焼き肉に連れて行く時間ができたんだ、喜べ」

「焼き肉」


 キョウは思わずと言った調子で小さくつぶやいたが、すぐにまた顔を背けた。


「けど、文句を言いに来てくれたおかげでまた助かったな。危うくあの電話が最期の言葉になるところだった」


 精いっぱい朗らかな笑顔を拵えた楠見だったが、少年の顔がさらに険悪に――むしろ泣き出しでもしそうな具合に曇るのを見て失言に気づく。


「あ、す、すまん」

「そういう冗談はやめろ」

「悪かった。そうだ、焼き肉――いや、試験前だもんな。軽くラーメンでも食って帰ろうか」


 にこやかに言って、視線を逸らしたままのキョウに並んでぐしゃぐしゃと頭を撫でた。


「焼き肉は、試験が終わってからハルや伊織くんも誘っていこう。早く帰って勉強しないとな」

「……試験なんか。一週間も先じゃんか」


 不貞腐れたようにキョウが低い声で言う。


「一週間しかないんだぞ。お前、勉強ちゃんとしてるのか?」

「んなもん、前の日にやりゃいいだろ」

「……お前っ、俺の前で堂々と一夜漬け宣言をするのはやめてくれ」


 口を曲げ、楠見は宙を仰いだ。


「まあともかく、今日はラーメンだ」

「楠見は腹が減ってるのか」

「ああ」

「酒飲んできたんじゃないのか」

「ん?」


 まだ少々不機嫌そうに、上目遣いで訊いたキョウへと目を向ける。


「酒臭いか?」

「ちょっとな」


 お上品な猪口にほんの二、三杯飲んだ程度なのに、鋭い奴め。


「会合で少しな。料理は老人食みたいなささやかな会席料理でな。しかもほとんど食べてる余裕はなかった。お歴々の前でがっつくわけにも行かないし、それよりさっさと抜け出したい一心だったからな」

「会席料理」

「ああ。旬の野菜だとか、気の利いた調理で。きれいな盛り付けで。美味いことは美味いけど、腹に溜まらないんだよなあ」

「けどそれも俺、食ってみたい」

「ん?」


 ぽそりと言うキョウの顔を覗き込む。機嫌を直しただろうか。


「ああ、今度それじゃ連れてってやるよ」

「ん」


 それきり目を逸らしたままの少年が今なにを考えているのかは分からなかったが、楠見は正門の外の商店街にあるラーメン屋を思い浮かべ、手を置いていたキョウの頭を押すようにして足を進めた。

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