第6話 衣川あおいを悩ませる、何かと腹立たしい問題について

28.苛立ちは事故のモト

 慣れた通学路を、学校に向かって歩きつつ。あおいは少しばかり腹を立てていた。

 小早川志穂と、深町孝之の件である。深町が昨日あの後、他クラスの女子という子を追って部活を飛び出していってしまったから、志穂は傷心のまま帰宅することになった。

 心ここにあらずという雰囲気の志穂が心配で、駅まで送りながら、いろいろと話を聞いた。


 家が近所で、小学校に上がる前から家族ぐるみの付き合いだったこと。中学校に上がるときも、緑楠を目指して一緒に頑張ったこと。学校に来るのも帰るのも一緒。学校のない夏休みだってお正月だって、いつでも会える。親よりも兄弟よりも近しい存在。

 ――だった、はずなのに。


(あんな態度。失礼しちゃうわ)


 そうして深町が追いかけて行った女子生徒を思い浮かべ。

 ずっと一緒に育った幼馴染よりも、新しく出会った女の子がいいものかしら?

 腹立ちの理由の一端は、そこにあるような気がする。


(薄情だわっ)


 志穂と別れて家に帰った後もずっとそんなことを考え続けていたからかもしれない。久々に、昔の夢を見た。

 少し寝覚めが悪くて、なかなかベッドを出られなかった。それで――朝寝坊をちょっと後悔している。


 もう少し早く起きて、ハルとキョウの家に朝食を呼ばれにいけばよかったと思う。トースターでこんがり焼いた厚切りのトーストは好きだけれど、ハルの豪華な朝食を思い出したら少々物足りなく感じてしまった。

 それに、二人の顔を見れば、朝方のあの夢の後の苦い気持ちもどこかに押し流されたかもしれないのに。おしゃべりするとか、八つ当たりするとかして。


 緩やかなカーブを曲がるとハルとキョウの家からの通学路と合流する。ここから学校までの道のりで、二人に会うことも多い。

 だから。一応ちょっとだけあたりを見回してみるのが習慣になっていて、やはり今日も無意識に顔を上げてみて――。


「――っ! ちょっと……何やってんの!」


 目に飛び込んできたのは思いもかけない光景で、あおいは考える前に叫び、走り出していた。


 広めに取られた片側一車線の道。歩道に寄せて止まった黒い大きな車の脇で、スーツ姿の男が女子高校生の腕を引っ張っている。腕を取られた女子生徒は男に抵抗し懸命に身を引こうとしているが、力で敵わずドアを開け放った車の後部座席に引き込まれそうになって、必死に足を突っ張る。

 その少女の制服が、あおいと同じ緑楠高校のものなのだ。

 近寄ってみると、少女が「嫌です、放して……」と弱々しい抗議の声を上げているのが聞こえてきて、あおいは足を速めた。


 ほとんど無意識に、あおいは二人の間に割り込んで、

「放しなさい!」

 怒鳴りつけながら少女の腕を掴み、男から引き剥がしていた。


 男から腕を解放され、たたらを踏んで後ずさる少女。その顔が一瞬目に入って、「あら?」と思う。


(この子って――)


 だが、


「何をする!」

 男の苛立った声に、少女の顔をじっくりと見る暇もなく呼び戻される。


「何をするって、こっちの台詞だわ! あなたたち何? 誘拐だったら警察を呼ぶわよっ」

「そうじゃない。余計な手出しをするな」


 男は苛立ったように言って、あおいの背後に庇われる格好になっている少女に再び手を伸ばそうとする。

 あおいは伸びてきた腕を掴むと体をずらし、その腕を拘束する。咄嗟に男が自由なほうの手に拳を握ったのを攻撃の意思ありと見るや、先手を取って即座に肘を男のみぞおちのあたりに叩き込んだ。


 男は「くっ」と軽い声を上げ一歩後ずさり、紙一重であおいの手を振りほどき肘をかわすと、踏みとどまってすぐに体勢を持ちなおす。今度は正面から向かい合った。

 そのまま両腕をわずかに広げ低く構え、静かに威嚇の体勢を取る男。背後の少女が息を呑む気配がした。


(ふうん、格闘には慣れてるってわけね?)


 まんざらの素人ではないらしい。

 けれど女子高校生相手に格闘勝負しようなんて、ろくな人間じゃないことは確かだわ、と思う。


(ちょうどいいわ。むしゃくしゃしてたの)


 ニッと笑って、今度は拳を突きだす。

 これも男は小さな動きでかわすが、背後の車に当たってわずかに体勢を崩したのをあおいは見逃さない。右の拳を男の腹に叩き込んで、間髪入れずに蹴りを入れた。

 今度は決まったが、男が倒れこんだのと同時に運転席のドアが開き別の男が降りてきたのを視界の端で察し、地面に手をついた男の後頭部をもう一度思い切り蹴とばすとカクリとその首が垂れたのを見てすぐに新たな男と対峙する。


「……威勢のいいお嬢さんだ」

 地に伏している男と同じような黒いスーツ姿の男。フッと苦笑含みに口にした言葉は仲間内から呼ばれるあだ名と似ていて、見た目からしてもシチュエーションからしてもいかにも悪役という風体の男からそんな呼び方をされたことに、あおいはムッとする。


 敵意のこもった視線を投げかけるあおいに、男は取りなすように両手を胸の高さまで上げ手の平を見せた。


「何か誤解があるようだがね」

 言いながら歩道に上がり、こちらへと歩み寄ってくる。あおいは背後の少女を庇う位置に足をずらし、攻撃の順序を頭の中で組み立てつつ油断のない視線を男へと送る。


「我々は誘拐犯などではないよ」男の言葉は柔らかいが、その口調には抑揚がなく感情が読めない。「そちらの彼女とも顔見知りだし、少し用事があるだけだ」


 あおいは眉を寄せ、男を睨んだ。

 そうして小さく背後を振り返り、脅えきったような顔で口もとに両手を当てている少女をちらりと見る。


(やっぱり、昨日のあの子ね)


 体育館で見かけた。深町に会いにきた様子の――そして深町が部活も小早川志穂のこともそっちのけで追いかけていった、あの少女だ。志穂が二月ごろに、深町と一緒にいるところを見たという。


「話が済めばすぐに学校に向かわせるから、きみは先に行っていてくれないかな」


 言われてあおいは少々迷う。誘拐などという物騒なものではないのだろうか?

 それに――またちらりと少女へ目をやって――昨日の一件と志穂に聞いた話から判断するに、彼女は志穂のライバルなのである。にっくき恋敵、なのである。

 けれど。


「ち、ちがいます」


 それは、静かな場所で神経を集中させていなければ聞き逃してしまうであろうほどの、小さな声だった。


「ちがい、ます。わたし……いやです」


 かすかに震えているような小さな声。あおいは顔を男のほうへと向けたまま、視線だけ少女へと動かして。

「何が、いやなの?」


「えっ、その……その人たちと、行きたくありません」


 内心で、あおいはげんなりと大きなため息をつく。


(ライバルだからって言ったって……)

 少々構えを低くし、右手に拳を握って男を剣呑な眼差しで睨みつけ。

(怪しい男に連れ去られそうになってるってのに、見過ごしてもおけないじゃない!)


 不快感を振り払うように、あおいは思いっきり地面を蹴って男に飛び掛かった。拳を突き出すが、男は最小限の動きで身をかわし、自分に向かって突き出された腕を掴みにかかる。

 すれすれで一歩退き、次の攻撃か、あるいは男の攻撃からの防御に備えまた構える。

 相手の能力が読みきれない。いまだ地に手をついてゆるゆると頭を振っている男よりは、おそらく数段上。

 あおいは構えを取り続けるが、隙が見つからない。

 向かい合って数秒。チャンスを窺い飛び掛かろうとわずかに足をずらしたその時。


「あのっ……後ろっ!」


 またかすかな、しかし幾分緊迫した声に振り返ると、先ほど蹴り倒した男がいつの間にか起き上がってこちらに向かい静かに歩を進めようとしているのが目に入った。その右手に、小型のナイフ。

 目が合った瞬間、男が大きく一歩踏み出す。ナイフが身に迫るのを予感した刹那――。


 目の前に黒い影が降ってきて、あおいとナイフ男との間に割り込んだかと思うと。鈍い音がして、立ち上がったばかりのナイフ男は再びまた地に伏していた。男を殴り倒した黒い影は、あおいを振り返り、


「よお。おはよ」


 詰襟の制服姿で通学カバンを肩から下げたキョウが、まだ少し眠そうな顔で無感情に言う。

 その緊張感のない声に、あおいは思わず深く息をついていた。

 その間に運転席から降りてきたもう一人の男は、ほんの一瞬キョウと視線を対峙させ、そうしてすぐに動く。倒れているほうの男の腕を掴んで引き立て車に押し込み、運転席に戻るが早いか車のエンジンを掛けて。


「あ! ちょっと待ちなさいよ――!」


 足を踏み出しかけたあおいを、キョウが止めた。


「追わなくていい」

「だって……!」


 言いながら車とキョウへと交互に目をやる間に、車は急発進をして住宅街の広めの道をハイスピードで走り去っていった。


「いいの? 捕まえて話を聞いて、警察に突き出さなくて」

「ん」


 キョウも車の去っていったほうへと視線をやりながら頷く。

「とりあえず車も男たちも写真撮っといたし。学校行かねえと楠見に説教されっし」


 戻ってきた視線を受け止めて、あおいは思わずあんぐりと口を開け広げていた。


「……って……見てたのっ?」

「ん」

「だったらさっさと助けなさいよ!」

「え……」


 キョウは少々困った顔で、あおいと車の走り去って行ったほうを軽く見比べるようにしながら、

「どっちを?」


 本当に判断が付かないといった表情のキョウを、あおいは睨みつけた。が、


「んなことより、おい、大丈夫か?」

 キョウの視線を追って、少女の存在を思い出す。


 彼女はまだ呆然とした様子で立ち尽くし、困惑と恐怖に包まれた顔であおいとキョウを見ていたが、キョウに問いかけられてハッとしたような顔でぎくしゃくと頷いた。


「あの……はい」

「さっきのヤツら、知り合いだろ?」

「え……えっと……」


 聞き取れるか取れないかのか細い声で言って、彼女は顔を伏せてしまった。

 次の言葉を待って、あおいは少女をじっと見つめる。きょときょととよく動く、丸い瞳。控えめにまとまった小ぶりの鼻と口。大人しそうで、気が弱そうで、どことなく庇護欲をそそる。

 小早川志穂とは正反対のタイプだ。深町は本当に、この少女のことが好きなのだろうか。


(男って、こういう女の子が好きなのかしら)


 そう思ったのと、続く答えが出てこない曖昧な態度に、朝からの苛立ちがまた頭をもたげだす。なによ。はっきりしなさいよ。思わず一歩踏み出して、質問を重ねようとした気配を察したらしい。キョウが、あおいの腕を軽く掴んで止めた。


「……なによ」

「まあいいや。怪我とかはねえな?」

「えっと……はい」


 それだけで済ますつもり? あおいはキョウを睨みつける。見ていたのなら、この少女が知らない男たちに一方的に拉致されそうになったわけではなく、何か繋がりがあるらしいということも分かっただろう。その件についての説明も聞かないというのか。

 不満いっぱいのあおいに、けれど不満の対象である少女は気付かぬように、


「あ、あの」弱々しい声で言って、それから唐突にぴょこっと頭を下げた。「助けてもらって、ありがとうございました。えっと、それじゃ――」


 それだけ言って、二人の脇をすり抜けるようにして駆け足で学校のほうへと向かう少女。止める間もなくあっという間に角を曲がって、その後姿は見えなくなる。

 仕方なくキョウと並んで学校への道を歩きだしながら、憤然と大きなため息を落としていた。


「ちょっと……なんなの、あの子」

「あれ? 真野美咲」

「……え?」

「同じクラスの女子」


 あおいは初めて彼女の名前を聞いた。しかも、同級生の名前なんかろくに覚えていないキョウからその名が出てきたことに、少なからず驚きと――そしてもやもやとしたものが、胸の中に渦巻きはじめる。


「……め、珍しいのね。あんたがクラスメイトのこと知ってるって」

「ん? あー、ちょっとな」


(ちょっと……?)


 もやもやが、さらに黒々としたものになる。

 説明を続けるかに見えたキョウを、慌てて遮って、


「へ、へえ」内心穏やかでないのを悟られないように、あおいは精いっぱい平常の声色を作った。「あの子のことが、気になるわけ?」


 少し引きつってしまったかもしれない。


「ん? そりゃ、まあ」


 やっぱり、男ってみんなああいう女の子が好きなの?


「ふうん。あんたもああいう子に興味があるんだ」

「へ? 興味っていうか――」

「みんなあの子のこと狙ってるってわけね」

「まあ。狙うヤツはいるだろな」

「なんでみんな、あの子がいいわけっ?」

「はあ?」


 喧嘩腰の口調で畳みかけるあおいに、キョウは戸惑ったように眉を寄せた。


「だって、そりゃそこらへんにいるもんじゃないし。やっぱ希少だろ?」

 当たり前だろう、というように言うキョウ。


 たしかに、今どき珍しいタイプではあるかもしれないが。そんな風に言われると、どちらかと言えばキョウや周りの男たちに対してつい強い態度に出がちなあおいへの当てつけにも感じられて、腹が立つ。


「ふうん。でも残念でした。あんたよりも先に、もっと彼女に近づいてるヤツがいるんだから」

「んー、それなんだよなあ」

「それも知ってるの?」

「は? だって、現に一緒にいたじゃん」


 昨日の一幕を、ハルや伊織から聞いたのだろうか。それともどこかで見ていたのだろうか?


(ますます……腹立たしいわ!)


「そ、そうよ。あっちがとっくに目を付けてるんだから。彼女が高校に入る前からなんでしょ?」

「なんかそんな感じだな」

「そうよ! 出遅れたんだから、諦めれば?」

「そういうわけにも行かねえだろ。なんか困ってんのかもしんねえし」

「希望的観測に過ぎるんじゃないかしら?」

「だいたい、本人に直接関係聞いたわけでもねえし」

「それは、そうだけど……」

「向こうもあんまマトモなヤツじゃなさそうだからな」


 たしかに、幼馴染をないがしろにしてもらったマフラーをゴミ同然に放置するような男だ。あおいの中では、深町はもう「マトモじゃないヤツ」認定済みである。


「で、でも。彼女がそれがいいって言うんなら、別にいいでしょ。決めるのはあの子なんだから」

「まあな。特に危険もなくて、あいつが満足してるってんなら問題ねえんだけど。一応、ハルや楠見とも要観察ってことになってんだ」


(ハルや楠見さんまで、公認なわけっ?)


 愕然と言葉を失ったあおいに、キョウは少し考えて、それから「そうだ」と閃き顔になる。

「お嬢お前さ、あいつと仲良くなって、様子探ってくれ」


「……はあ?」

 理解できないという気持ちを前面に出して、思いっきり抑揚をつけて聞き返す。


「なーんで、あたしが? あの子と?」

「なんでって。女どうしのほうが話しやすいだろ、そりゃあ」

「だからって!」

「一緒にいて変なヤツに声掛けられたりしてないか見張ってさ、ついでにそれとなく向こうとの関係とかあいつの気持ちとか聞きだしてくんねえ?」

「ええ……?」


 信じられない。あおいは狼狽していた。あたしにほかの男の邪魔をして、キョウとあの子の仲を取り持てっていうの? 冗談じゃない。

 動揺するあおいに、キョウは困ったような真剣な瞳で、片手を拝む形に上げる。


「頼む」

「キョウ、あんた――」


 呆然と、あおいはキョウを見つめていた。


(あんた、本気なの?)

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