27.桜吹雪の下で、その子は一枚の絵のように
「本家」の屋敷の裏庭には、抱えるほどの幹の太さをした立派な桜の木が植わっていて、毎年それが花開き見上げた視界いっぱいが薄桃色に染まる季節を、あおいは子供心にとても楽しみにしていた。
屋根の上に冬じゅう載っていた雪がすっかり溶け去って、桜が小さな蕾を付け始めると、何かと理由を作っては本家に近付きその木を見上げるのが日課になる。
ほかの家の子供が勝手に本家に近付けば親や周りの者に厳しく叱られたが、
ほかの子供は来てはいけないけれど、あおいには許される場所。それもまた、この場所が好きな理由のひとつだった。
その日もそろそろ葉を吹きだして終わりに近づいた桜の花を、これから先一年分まぶたの裏に焼き付けておこうと思って、本家の庭にやってきた。
「いな」に見つかるといろいろと煩いから、この日のあおいは手習いの時間に「いな」がおやつの準備に立ったのを見計らってこっそりと家を抜け出した。
「やかたさま」は勉強や訓練や「よりあい」で昼間はたいてい不在にしているので、あおいはいつものように垣根の隙間から勝手に庭に入る。――と。
あおいが花の下にやってくるのを待っていたかのようにその時、一陣の強い風が吹いて、枝を大きく鳴らし一斉に花びらを巻き上げた。思わず顔を庇って目を閉じ、それから慌てて開くと、目が覚めるように絢爛な花吹雪の中に立っていた。
被っていた帽子を風に飛ばされたのは、だから、花びらの渦に身を包まれる快感に瞬時浸りきってしまっていたから。
普段なら、そんなことはない。うっかり帽子を攫われかけることがあっても、「戻ってきなさい」と頭の中で命じれば、帽子はあおいのところに戻ってくるのだから。
風に巻き上げられた帽子を目で追って、それを手に取り戻そうとして――。
けれど、視界の端にちらりと引っ掛かったものがあって、あおいの意識はそちらに向いた。
その間に、帽子はさらに舞って桜の木の中ほどの枝に引っかかった。
帽子の行方を確かめてから、いま視界に引っ掛かったもののほうへと視線を向ける。
本家の離れの濡れ縁に腰掛けて、ぼんやりと宙を見つめている男の子。あおいと同じ年頃の。知らない者などほとんどいない小さな村の中で、だけど初めて見る子。
「やかたさま」や本家の人間のほかには、あおいしか入れないはずの、この庭に――?
まぼろしかもしれない、と一瞬思ったのは、一面の桜の中にその男の子があまりにもしっくりと溶け込んでいたから。まるでそれは、一枚の絵のように。人じゃなくて、桜の神様が生み出した幻影かもしれないと。そう錯覚するほどに。美しかった。
自分の場所を侵された反発よりも、綺麗なものへの純粋な興味が勝って、あおいは少しだけその子に近付いた。
「やかたさま」に似ていると思った。「やかたさま」もとても綺麗な顔立ちをしていて、村の者たちの、特に女性たちの間ではその名が口に上らない日はない。「やかたさまと目が合った」だとか、「笑いかけてもらった」だとか、「こんなことを言われた」だとか――大人たちが彼のちょっとした行動を報告し合うのを、あおいは面白いような奇妙なような、不思議な感覚で聞いていた。
けれど――その子の美しさは、「やかたさま」のそれともちょっと違った。
色がない。と、あおいは感じた。その子は透明だった。あおいたちと同じ現実の世界に生きている、あおいの知っている人間の子供のように、見えなかった。もしや近寄ったら消えてしまうのではないかとさえ思い、その場で足を止めた。
もうひとつ。意外な思いでその子を見入っている。かつてあおいが目にしたことがないほどの強大な能力が、その子に見えたからだ。村の一族の中で一番強いはずの「やかたさま」をもはるかに凌ぐであろう、その能力。そんな子がいるなど信じられなくて、あおいは目を疑った。
その場で留まって見つめている少女に、その子はちらりと目を向けた。一瞬目が合って。けれど、すぐに興味を失ったように視線を逸らす。そして、風に花を散らしている桜の木へと茫洋とした瞳を向ける。
今しがた感じたその存在の希薄さ、危うさを瞬時忘れ、あおいは現実に戻って少しばかり腹を立てた。あおいだって、「やかたさま」に負けず劣らず村の中では下にも置かぬ扱いを受ける少女である。すれ違えば皆その場に立ち止まって深くお辞儀をするし、目が合えば挨拶のひとつも掛けてくる。容姿や家柄、そしてそれに釣り合った能力を褒めそやされることにも慣れている。無視されたり、ぞんざいにあしらわれたりするようなことは、この村の中にいる限り有り得ない。
「ねえ。あんた、だあれ?」
その場で立ち止まったまま、あおいは声を掛けた。
その子は答えない。じれったくてほとんど待たずに、あおいは次の言葉を掛けた。
「どうしてここにいるの? ここにいていいのは、本家の人だけなのに」
その子はまたちょっとだけあおいのほうへと視線を動かして、先ほどまでは長く――と言ってもほんの数秒のことだが――自分に声を掛けてきた少女のことを見ていたが、やがてやはりさほどの関心はないと言った風に目を逸らす。
(くちがきけないのかしら)
内心で首を傾げる。それとも――
(言っていることが分からないのかしら)
そう思ったのは、その子があまりに無表情だったから。いや。無表情、というものではない。あおいはそう思った。感情がないのではないかしら?
それは理屈抜きの直感だった。
彼の中にはあおいの知っている人間の感情のようなものはなくて。桜吹雪に目を奪われるように双眸を向けているのは、美しさに感動しているからではなく、単に動いているものに反応しているだけなのではないかと。
声を掛けてきた女の子がなんであるかとか、その子がなんと言ったのかなど、少しも気にならず――いや、自分がどこにいて何をしているかにすら、まったく関心がないのではないかと。
まさか。だってその子は、あおいと同じ。村で見かける子供たちよりも綺麗な顔をしていて大きな能力を持っているということ以外は、当たり前の人間の容姿をしている。あおいと同じぐらいの大きさで。「やかたさま」に似た面立ちで。
人形? それとも人の形をした入れ物? まさか――。
(ちがう、ちがう)
つい頭に浮かべてしまったそんな想像に、少しばかり怖くなって。
それを打ち消したくて。
(そうだ。あたしの力を見せてあげる)
知らず、悪戯を思いついた時のような笑みを浮かべていた。
強大な能力を持っているらしいその子でも、あたしのこの能力には適わない。
何日か前に、あおいはまた能力を扱う腕を上げたと「先生」から褒められた。大きさでこそ「やかたさま」には適わないが、その使い勝手に関しては、一族の誰もが一目置いている。「やかたさま」にだって、これはできない。
あおいは唇の端に笑みを載せたまま桜の枝に引っかかった帽子を睨みつけると、頭の芯に意識を集中させた。
(こっちへ。戻ってきなさい)
枝が変な具合に引っかかっているのか、帽子は枝をかさかさと揺らして少しばかり角度をずらすのみ。揺れた枝から花びらが散って、風に舞った。もう少し――今度は枝のほうに意識を向けて――ちょっとだけその先を動かして――
その子がちらりとあおいに視線を向けたのが分かった。あおいは緊張した。失敗なんかしないんだから。あたしの力を、あの子に見せてあげるんだから。
何度目かの挑戦で、ふっと帽子が枝を離れた。
(やった!)
するりと宙を滑るようにして、帽子は人に懐いた小鳥のようにあおいの元に飛んでくる。あおいはそれを、両手で受け止めた。
満足しながらその子へと目をやる。
その子は、わずかに目を見張り、あおいを見つめていた。先ほどよりもはっきりと。
かすかながらもその表情に驚きが混じっているように感じられて、あおいは嬉しくなった。
その子もまた、村のほかの人間と同じように、あおいの能力に感心し敬服したのだと思ったから。自分の能力を見せつけてやることに成功したと思ったから。
けれど――この時あおいを安堵させたのは、別の理由だったのかもしれないと、それはもう少しだけ大きくなってから考えたことだ。
その子があおいの知っている種類の心の動きを見せたことに――感情のない、人の形をした入れ物なんかではないと分かったことに、たぶんほっとしたのだと。
得意な顔で「ふふ」とその子に笑いかけた時、
「お嬢さま? お嬢さま――!」
屋敷の庭の外から声が聞こえてきた。
「いな」だ。抜けだしたことが分かって、捜しに来たのだ。
あおいは声のほうを振り返る。本家の庭に入ったと分かれば、叱られるとまでは言わないが、また面倒な小言が待っている。
同じように声のほうに目を向けたその子に、
「またねっ」
一方的にそう言って、あおいは入ってきた垣根の隙間をすり抜け自分の家のほうへと駆けた。
あおいはその年、その桜の散る季節から、うだるような暑さの夏がようやく終わりを迎えようかという頃まで、その子と一緒に過ごした。その夏の思い出は、キラキラと輝き胸をときめかせるような恍惚感に包まれていて、けれどそれ以上に、にがく、苦しいものになった。
* * * * *
「プラスチック・シンジケート」、ぼちぼち折り返し地点となります。
次回、第6話はあおいが中心のお話となりますが、更新までたぶん1週間ほど間があきます。引き続きお付き合いいただければ幸いです。
次々話かその次くらいに、「スウィング・ロウ」でちょっとだけ出てきた人が再登場いたします。未読の方は、この機会にご興味あればぜひ♪ (CMでした)
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