25.もしかして、修羅場?

 バスケットやバレーのコートが優に二面は取れる面積に、回廊と小規模ながらスタンドまで備えた第二体育館。いくつかの室内運動部でシェアしていると聞いたことがあったが、本日は全面バスケットボール部の貸切の日らしい。

 ボールが床を跳ねる音、人の手に渡る音が無数に響き、掛け声や応援の声が館内に満ち渡る。体育館は、熱気に溢れた空間になっていた。


 緑楠高校バスケットボール部は、全国大会出場経験こそないが、都大会では毎年そこそこの成績を上げているらしい。昨年のベストエイトのメンバーが二、三年となり、一年生にも有力な選手が多い今年は特に期待されているのだとか――というのは、数日前に藤倉ふじくらすぐるから聞いた情報だ。


『イオリンも、なんか部活入んなよー。楽しいよ、青春ーって感じで。バレーとかサッカーとかバスケとかさ、どうよ。俺も遊びに行くよー』

 フジは、陸上部員なのだが、どうやら球技が好きであちこちの部活に遊びで顔を出しているらしい。


 勉強もさることながら運動も決して得意とは言えない、というか端的に言えば運動音痴の伊織としては、団体競技、しかも球技など足手まとい要員にしかなりようがない。まして、都大会優勝を目指すレベルの部では。コートの外で所在なくうろうろしている自分の姿が見えて、入部は辞退した。


 先に教室を出たお嬢こと衣川きぬかわあおいと、まだ少し迷い気味の表情の小早川こばやかわ志穂しほには、体育館の入り口で追いついた。志穂が少々尻込みをしているのを、あおいが叱咤激励し、後からやってきた二人に背中を押されるようにして体育館の中に四人で踏み込んだちょうどその瞬間。


 それまで館内に鳴り響いていたボールの音や掛け声が一瞬やみ、館内はシンと静まり返った。

 何事かと戸惑いながら館内に足を踏み入れた四人の視線は、いや、体育館中の人々の視線が、一か所に集まっていた。宙に弧を描くボール。何かに引き寄せられるように――誰かが描いた線を忠実になぞるかのように、端然とした軌道を走り――


 ボスンと気持ちのいい音を立てて、ボールはゴールネットに飛び込んだ。


 刹那。歓声が上がる。

 部員が駆け寄り、見事なロングシュートを決めた人物へと次々にハイタッチを求める。

 その中心にいるのは。誰あろう、六組の色男、深町ふかまち孝之たかゆきその人だった。


「すごい……」

 ここにやってきた目的を一瞬忘れ、伊織は思わず口にしていた。バスケットボールに詳しくもないが、そのロングシュートがどれほど凄いことかぐらいは、分かる。


 幼馴染にして元カノ? の小早川志穂は、驚きと誇らしさと微妙な悔しさが滲んだような複雑な顔をして、両手で頬を覆っていた。


「……ちょっと、凄かったわね……。深町くんって、そんなに有力な選手だったかしら」

 こちらは少々不満そうな口ぶりで、あおいは腕を組んで首を傾げた。


 ハイタッチは延々と続く。

 そこで深町が称賛を浴び続けるのを見ているのも面白くないというように、あおいが志穂の手を引いて輪の中心に向かってずかずかと歩き出した。


「あっ、お、お嬢――」


 止めなくていいのかな……と慌ててハルを振り返ると。


「……あ、あれ? ハル?」


 ハルは驚いたように目を見開いて、ぼんやりと輪に取り囲まれた深町に目をやって突っ立っていた。


「えっと……ハル……?」


 そんなに驚いただろうか? たしかに凄いシュートではあったけれど、ハルがそんなに衝撃を受けるほど? 不思議に思いつつもう一度呼びかけてみると、ハルはハッと我に返ったように伊織の視線に応えて、


「あ、うん」


 慌ててあおいと志穂を追う。常ならぬ様子に疑問を抱きながらも、伊織は後に続いた。

 深町を取り囲んでいた輪の外側が、不機嫌そうな顔で割り込んできた異質な二人の女子生徒を迎え小さくほどける。


「ちょっと。深町くんに話があるんだけど」


 内側の人間も、学校中でも有名な美少女の襲来に一様に驚きと戸惑いの表情を浮かべ、道を譲った。

 中心にいた深町が気づき、――瞬時、びっくりしたように目を見張り、それから眉を寄せ鼻の頭にシワを作って大きなため息をついた。


「し……小早川。なんだよ」


 ゴールを決めた直後の得意げな顔も、ハイタッチの嬉しそうな表情も消し去って、低く言う深町。

 後ろで輪に紛れる状態になっていた伊織も一瞬その冷たい口調にドキリとしたが、呼ばれた志穂は輪の中心に向けて進めていた足を止めて、叱られたように小さく肩を飛び跳ねさせた。

 さらに前進しようとしたあおいは、掴んでいる志穂の手に引っ張られて立ち止まる。ほんの少し志穂を気にするような素振りを見せて。けれどすぐに深町に向きなおり。


「話があって来たの。あっちで少し、いいかしら?」


 と、深町は思い切り抑揚をつけて「はあぁ?」と訊き返し、あおいを見、それから志穂へと目をやって、

「あのな、部活中だぞ? いいわけないだろ。何やってんだよっ」


 話しかけたあおいではなく、志穂に向かってそんなことを言うのがあおいの気に障ったのかもしれない。


「ちょっとっ、せっかく来たのに『何やってんだよ』ってことはないでしょ」

 ハルやキョウといった仲間内にたまに凶暴な顔を見せる以外には、学校の中ではいたってにこやかに他人に接し可憐に振舞っているあおい。その彼女が、かすかにムッとした表情で声に険を滲ませる。キョウを絞めあげている時や、琴子と口喧嘩をしている時に比べたら、かなり可愛らしくはあるが。


 中学から一緒の学校とはいえおそらく大して話したこともない美少女から、わずかながらも喧嘩腰の口調で言われて、深町は怒るよりも戸惑った顔をした。


「は? なんだよ、衣川……話って、何?」

「ここじゃちょっと言いにくいの。みんなの前だし」

「長くなるのかよ」

「それは話の展開次第ね。それに」


 あおいは背後で固まっている志穂に、ちらりと目を向け、

「話がしたいのは、小早川さんだから」


 視線を受けて、志穂は困ったようにあおいと深町を見比べた。

 そんな志穂を一瞥し、深町はくるりと二人に背を向け足もとに転がっていたボールを片手で拾う。


「だったら後にしてくれよ。部活中なんだ。見りゃ分かるだろ?」

「そうやって、また逃げる気?」


「はあ?」ボールを両手で持って、深町はあおいを振り返る。


「ずっと小早川さんのこと、避けてるでしょ。話ができないって言うから、だからわざわざ来たの。今日は逃げないで、ちゃんと話してもらうから」

「なに勝手なこと言ってんだよ。ほら。練習の続きがあるんだから、そこ退いてくんないかな」


 ボールを片手から片手へと渡しながら言う深町に、あおいがさらに眉間のシワを深くするのが目に入り、伊織は背筋を凍りつかせた。


(ま、まずいぞ、深町くん……お嬢を怒らせるのは……)


「そういう態度はないでしょう」

 思った瞬間、あおいは先ほどまでよりも冷やかな声で。

「あなたがわけの分からない態度を取って小早川さんを避けたりするから、小早川さん、傷ついてんのよ」


 不快そうに眉を寄せた深町。周囲で「何が始まるのだ」と見守っていたバスケ部員たちの間に、ざわめきが広がる。


「き、衣川さん……」

 志穂が戸惑い気味に呼ぶが、あおいは深町をキッと見据えて一歩踏み寄った。


「どうして話してあげないの? 何が気に入らなくてこれまでと態度を変えたの?」


(お嬢……みんなが興味津々で見ています……)

 心の中で訴える伊織だが、あおいはもちろんそんなことは気にしない。


「な、何言ってんだよ」

 気圧されたように深町が小さく声を上げるが、あおいはさらに一歩詰め寄った。


「どうしてプレゼントのマフラーを部室に放置しておいたりしたの?」


(お嬢ー。それは小早川さんには……あと部員の皆さんにも……)


 伊織は泣きそうになる。

 マフラーを持ってきた俺のせいだ。俺が学校にまたあのマフラーを持ってきたりしたから、こんなことに……。


「あなたの態度がこれまでと変わったせいで、小早川さん、食事も喉を通らないし夜も眠れないくらい悩んでるんだから!」

「き、衣川さん、それほどじゃないよ……」


 小さく声を上げる志穂を無視して、あおいは深町の目の前まで詰め寄った。


「今日こそちゃんと、理由を訊かせてもらうからっ!」


 周囲の部員たちの中から、「おい、あれって一の五の衣川だよな」「小早川って、深町の彼女だっけか?」「付き合ってるってわけじゃないって……」などとヒソヒソ話が聞こえてくる。

 おろおろと困った顔であおいと深町を見比べている志穂が、ひたすら気の毒だった。


(もう止めたほうがいいのでは……)

 焦って頼みの綱のハルへと目をやると、ハルは何かを真剣に観察しているような視線で深町を見つめている。


「えっと、ハル……」

 そっと腕を掴んで呼んだその時。


「なんだよ衣川、お前には関係ないだろ! 余計なおせっかい焼くなよ、引っ込んでろ!」


 声を荒げた深町。

 その大声に、ハルは目が覚めたようにパッと瞳を見開き、伊織の視線に応える。


「あ、うん、止めたほうが良さそうだね」

 そう言って足を踏み出しかけたが、その前に、


「ちょっと、タカ! 衣川さんに、なんてこと言うの!」


 深町に輪を掛けて怒りに満ちた声を上げたのは、小早川志穂だった。


「衣川さん、あたしのこと心配してついてきてくれたんだよっ。変な言い方をするのはやめて! しかも何? マフラー部室に放置してたって……どういうことなの?」


 あおいを押しのけんばかりの勢いでまくしたてる志穂に、深町がたじたじとなる。


「忘れてたけど、小早川さんもだったんだよね」

 妙に感心した声色で、ハルが伊織にこっそり耳打ちした。


 しばし大人しくしていたので忘れていたが、小早川志穂も「姉御肌」と称される性質の持ち主なのである。おどおどと、あおいの陰に隠れて事態を見守るような少女ではなかった。


「いや、だからそれは――」

「ちゃんと説明してよねっ!」

「ええと」


「そうだぞ、深町、説明しろー」

「小早川さんのこと、どう思ってるんだー」

 輪の外周から囃したてるような声が飛び交う。


 もはや完全に面白がっているギャラリーに囲まれて、志穂に威勢を叩き折られた深町は困ったように視線をさまよわせる。その表情に、二月までの志穂と深町の関係が透けて見えるようだった。

 一方ギャラリーの応援を受けて勝機を掴みかけていた志穂とあおいだったが、二人が次の言葉を発しようとする前に、周囲がぴたりと静まった。


 先に「その存在」に気づいた数人の部員につられるようにして、数秒後には、その場の全員の目が体育館の出入り口に集まっていた。そこにいたのは。


 小動物系女子、真野まの美咲みさき


(もしかして、修羅場――?)


 あわあわとうろたえる伊織の耳に、

「あ、あの……あたし……」

 物凄く小さな美咲の声が届く。

 美咲は視線が自分に集中していることに怯えたように肩を震わせて、


「あ、あの……ごめんなさいっ」


 やはり小さく呟くような声で言うと、さっと身を翻して入口から姿を消した。

 それに誰よりも早く反応したのは、深町だった。


「あ! 真野――!」


 練習の続きに勤しむはずの深町は、持っていたボールを手近な男子部員にパスすると、入口へと駆けだす。そうしてあっと言う間に、美咲を追って体育館を出ていってしまった。

 しばし、呆気に取られる一同……。


「な、なんなの、あれ?」

 呆然としたように、あおいが呟く。


 その隣でやはり驚きに目を見張っていた志穂が、

「あたし……帰る」

 ぽつりと言って、どこかふわついた足取りで出口へと向かう。


「あ、待って、小早川さん」あおいが慌ててそれを追う。


 出ていく二人を見送って、伊織はハルと目を合わせた。




「なんか、お騒がせしました。練習、再開してください」

 ぺこりと一同に頭を下げて引き返すハルに続き、部員たちから「なんだったんだ」「もう終わりなのか」という目で見送られながら、体育館を出たところで。


 目に飛び込んできた光景に、伊織は足を止めた。


「……ん? どうしたの、伊織くん」

「あ、えっと……今そこに、深町くんと真野さん、いる?」

「え? いないよ、誰も」


 あたりを見まわして答えたハルに、ぎこちなく視線を向けて。


「え、あ、あれ、じゃあ例の……『残像』、なのかな」


 またカクカクとした動きで、体育館を出ていった二人へと目を向ける。数十メートル先、体育館の曲がり角で。


 真野美咲は何か思いつめたような表情で俯き、深町孝之は彼女を慰めるようにその背中に手を置いて何かを訴えかけているようだったが、すぐに深町が美咲の背に手を添えて、二人揃って正門のほうへと歩きだした。

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