23.小早川さんを泣かせているのは、決して伊織ではなく

 少々寝不足の、連休明け初日。

 朝一番で配られた「中間考査の出題範囲」のお知らせには目が覚めたが、そこでピシッと伸びた背筋も六時限目を終えるまでにはだいぶたるんでいた。


 昨日は診療所でだらだらと昼休みを過ごしているうちに、「ピザを取ったからハルと一緒に食べに来ないか」と理事長室から呼び出しがあり、行ってみればまんまと罠に掛かってハルとともにキョウの監視カメラ映像鑑賞会に付き合うこととなった。

 よくよく考えると、楠見を追ってきた車に乗っていたという緑楠高校の女子生徒が真野さんならば、伊織もハルも顔は知っているのである。「正門の前に停まっていた車と彼女が接触していないか」という確認は、何もキョウ一人にしかできないことでもないのであり。


 三人で分担すると確認にかかる時間はぐっと短くなって、キョウは大喜びだったが、後半は一週目で動きのなかった授業中の時間もを外し再生速度を上げても、作業は夜までかかった。

 まあ――。午後の図書館での自習は断念したが、ハルが勉強なら教えるから泊まり込みで来ていいよ、と言ってくれたし。楠見はちゃんと勤務時間としてつけてくれると言っていたし。


 それに。

 思い出してほんわかと顔が緩む。

 その仕事は、楽しかった。ハルとキョウと三人で並んだモニターを見つめながら、たまに雑談を交わしては、楠見に「しっかり見ろ!」と叱られつつ。最初はピザをつまみながら。夜にはやはり店屋物の天ぷらそばを啜りながらの作業。単純な作業ではあるが、ハルやキョウと同じ仕事をしているという気負いもあり、伊織は楠見に雇われてからというもの初めて仕事らしい仕事をしたと思った。


 八時間近くに及ぶ上映会の末に、三人は、真野美咲が問題の車に乗り込む瞬間を三回、車から降りてくる瞬間を二回ほど見つけた。降りてきた映像のうち一回は、美咲は車から出てすぐに、正門の前で自転車を引いて立っているフカマチに駆け寄っていた。

 それがつまりどういうことなのか。伊織には分からなかったし、楠見も考え込んだばかりで教えてはくれなかったが、彼らの表情から考えてかなりの重大シーンを見つけたのであることは想像がついて、伊織は一人勝手に「仕事をした充足感」を覚えていた。


 思わず緩んでしまった頬を引き締めて、机から引き出した教科書やノートをトントンと整え通学カバンにしまおうとして、


(あ、そうだ――)


 思い出した。


 カバンの中には、連休前に「落とし物」としてフジが拾ってきたマフラーが入っていた。


 連休中、伊織は部屋の押入れの中から古い教科書の入った段ボール箱を引っ張りだして、小中学校時代の家庭科の教科書をあさり、被服の項目の「毛糸製品の洗い方」を文字通り教科書にしながらそのマフラーを綺麗に洗濯した。

 編み手の技量とセンスによる部分はいかんともしがたいが、綺麗に洗ってほこりや汚れが落ちてみると、それはそこそこまあ手に触れるくらいなら抵抗はないほどの代物になった。


 連休明けの今日、それをカバンに入れて学校に持ってきたことに、特別な思惑があったわけではない。ちょっと見られるようになったマフラーをハルやキョウやみんなに見せて、小早川さんの汚名を少しでもすすいであげたいと思ったような気もする。預かってはみたものの、マフラーの処遇を持て余した気持ちもある。――そもそもそれは、伊織のものではないわけだし。

 だから何気なく今朝、カバンに入れて学校に持ってきて、教科書を机にしまってからはそのまま忘れていた。


 綺麗になってももっさりとした厚みと体積は変わるわけでなし。伊織はカバンの中を占領している巨大な毛糸製品を避けながら、どうにか少しずつ教科書をしまう。


 その作業に思いのほか時間のかかったのが、マズかった。


「あれ、それって――」


 斜め後ろから、少しばかり戸惑ったような声を掛けられて、伊織は自分の失態を知る。

 ぎこちなく首をめぐらすと。

 小早川こばやかわ志穂しほが、伊織のカバンへと呆然と目を奪われるようにして立ち尽くしていた。


「あ、えっと……小早川さん、どうしたの?」

 相当不自然な口調と面持ちで訊いたと思うが、小早川志穂は伊織のそんな不審な様子を気に留めた気配はなかった。


「そのマフラーって……どうしたの?」

「えぇっ? これっ?」


 マフラーのことを尋ねられるなんて、思ってもみなかった! という表情を作って――たぶん失敗していたとは思うが、それも志穂は気にしない――、やや大袈裟に叫ぶ。


「うん、そのマフラー……」


 ふわふわとした足取りで志穂は伊織の机に近づいてきて、カバンの中のマフラーに手を触れた。


「ちょっと、いい」

「あ、ああ……? うん……?」


 引きつった笑顔で曖昧に頷くと、志穂はカバンからマフラーを引っ張りだして、その手触りや見た目をしかと確かめるように両手に持ち自分の顔の前に掲げた。


「このマフラー……どこで?」

 マフラーを顔の脇に除けて、そこから志穂は少し吊り上がりの気味の切れ長の目を伊織に向ける。


「あ、これ?」少々上ずった声で、伊織はあたふたと続く言葉を考えた。きみがプレゼントした相手がこれを冬中部室の片隅に投げ打っておいたのを、ゴミと間違えて拾った人がいるんだよ、などとは口が裂けても言えない。


「えぇっと……落とし物、そう、落とし物で、こないだほら、展示したでしょ? あの時に見つけてさ。会場のスタッフの人と話していて――」


 どちらかと言えば口下手だったと認識している自分のどこにこんな能力があったのか……と意識の片隅で首を傾げたくらいに、言葉は少々頼りないながらも淀みなく口をついた。


「えと、誰かが落としたみたいなんだけど、だいぶ埃を被っちゃってて……あ! ほら、外にあったから。砂埃だよ? そんなに汚かったわけじゃないよ? でもそのままだと落とした本人が見つけても自分のだって分からないかなって話になってさ。いや、こんな素敵なマフラーなんだから、落とした人も捜してると思うんだ。けど、色合いが自分の知ってるのと違っちゃってたりすると、分からないじゃない? だから俺が預かって、洗ってきたんだ」


 こんなにもすらすらと言い訳の言葉が出てくるなんて――ああ、俺はとんでもない大嘘つきです!

 いや、でも、半分ぐらいは本当のことだと思うけど……。

 誰にともなく懺悔と弁解をしながら、伊織はぎこちない笑いを浮かべたまま志穂の表情を窺っていた。


 小早川志穂は、伊織の顔をもう一度見て、それからマフラーをまた目の高さまで両手で上げてまじまじと見て、少しばかり口をへの字に歪めて大きく鼻から息を吐き出した。

 気まずい思いでその視線を見守っていた伊織は、次に志穂の口から出てきた声にまた表情を固めていた。


「あぁーっ、もう! ちきしょー!」

「……へ?」

「そうかよそういうことかよ! ああっもうー!」

「あ、あの……?」

「なんなのもうー! 悩んで損した! もう、……ほんと、知らない!」


 マフラーを持ったままの両手を下げて、志穂は「やってられない!」という表情で天を仰いだ。


「えぇっと、あの……」


 天井を見上げた状態で志穂は、声を掛けていいものかどうか戸惑っている伊織に気付き視線だけ落とす。そうして伊織の困惑を悟り、もう一度大きなため息をついてカクンと首を元に戻した。


「ああゴメン、相原くん。どうもありがと。よく分からないけど……これ救出してくれて。これ、あたしんのだ」

「え、ええっと? え? 小早川さんの?」


 はじめて知った! 驚いた! という演技が半分。けれどもう半分は、本当に疑問に思っていた。彼女は他人に、これをプレゼントしたのである。だとすれば、これを彼女が「自分のもの」だと言うのには少々違和感がある。

 これは、フカマチのものだろう? 伊織のサイコメトリーが本当なのであれば。


「ああ、人にあげたんだけどね」

 片手に持ったマフラーに軽く目を落として、志穂はちょっと言い訳めいた口調で続けた。

「そいつこれ身に着けてる様子ないし、どうした? って聞いても『汚れるともったいないから家に大事にしまってある』って。そのうち春になっちゃったんだけど。まさか、どっかに捨ててたとはねえ」


 伊織が疑問の声を上げるまでもなく、自分から語りだした志穂であるが、話がよくない方向に行っているのを察して伊織は口を挟む。


「あの、そそその、捨てた……ってわけじゃないと思うけど……」


 まあゴミ同然に放置していたのは確かなんだけど。


「でもさ、落とし物で届いてそのままってことは、捜しもしなかったってことでしょ? 同じじゃん」


 さっぱりと言う。落とし物で届いていた、という方便がいけなかっただろうか。


 きっと事務室に行くことを思いつかなかったんだよ。いや違うな――学校で落としたって思わなかったんじゃないの? だけど必死で捜していたら、訊きに行くくらいはするだろうか――誰かに貸してあげたんじゃないかな。これもマズい。寒そうにしている道端のお地蔵さんに巻いてあげたんだよ、じゃなくて――


 あたふたと言い訳を探す伊織に、「気にしないで」と志穂は肩を竦めた。


「別に、いいんだ。ちょっとこないだの冬、編み物にハマっててさ。マフラー何本か編んだうちのひとつなんだよ。特別なプレゼントってわけじゃないんだよ? ほかにも何人かにあげたし」


(ほかにもこんな……手編みの素敵なマフラーをもらった人がいるのか……!)


 と考えかけて、伊織は内心で慌てて首を横に振った。いけないいけない。いま同情すべきは、不出来な手編みのマフラーをもらって困惑している彼女の友人たちではない。


「でも、たしかに……最初のひとつだから、ちょっと、思い入れがあった……かな」


 言いながら、次第に口調が震えだす。


(こ、これは……マズいぞ?)


 伊織は戦慄する。良くないことが起ころうとしている。

 思った瞬間、志穂の黒い瞳が潤んだ。


「あ、あわわ、えっと、小早川、さん?」


 瞳の縁に溜まったしずくが、溢れんばかりに膨らんだ、その時。


「あれ? どうしたの? 伊織くん、小早川さん」


 授業後、教師の遣いでどこかに姿を消していたハルが、教室に戻ってきて伊織の陥っているただならぬ様子に気付き声を掛けてきた。


(助かっ――)


「あれー。伊織くん、女の子泣かせたらダメだよー」

「あら、どうしたの、何かあったの?」


 教室の後方で別の女子生徒と話していたあおいも、駆け寄ってくる。


「ええっ、伊織くん、うそ……小早川さんを泣かせたの?」


(――ってない――!)


「えっ! ちがっ!」


 あわあわと三人を見比べる伊織の正面で、小早川志穂はマフラーを両手に抱えるとタオルみたいにそれに顔を埋めて「うわーん」と大声を上げだした。

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