22.野良猫とキョウに会った時の正しい反応とは

真野まのさん? 真野さん、ねえ……」

 視線を斜め上にやって、ハルがつぶやく。学年中の生徒を網羅しているらしいハルでも、さすがに新入生の情報となると検索に時間がかかるのか? と思った伊織だったが、案に反してハルはすぐに伊織へと視線を戻した。


「フカマチくんと、真野さんが、ねえ……ちょっと気になるなあ」


 真野さんがどういう人だったかを記憶に呼び起こしているのではなく、ハルの引っかかりは別のところにあるらしい。なんだろう? 拳を顎に当ててしばし考え込んでいる様子のハルを、言葉を止めて見つめていたが、


「その真野さんって子は、可愛いの? フカマチくんって子が元カノを振っちゃうぐらい?」

 爽やかな笑顔で問題発言をしたのは、カップを手に椅子を引き寄せながらテーブルに着いた牧田医師だった。


「うーん。まあ、可愛い感じの子かな。ちょっと守ってあげたくなっちゃう系って言うのかな、ああいうのは。小早川さんはどちらかというと姉御肌? みたいな感じだから、対極ではあるね。まあ好みの問題だろうけど」


 ハルはやはり、全学年の生徒を網羅していた。


「ふうん。いいねえ。青春だねえ。楽しそうで何よりだねえ」

 どこか遠い目をして牧田は二、三度頷き、それからアンパンの袋を開けた。


 連休最終日の緑楠学園診療所。この部屋を預かる校医の牧田は、「家にいてもすることないし、患者の来ない休診日に部屋の掃除をしちゃいたいから」と言って出勤し、一人黙々と作業を進めていた。

 部活で出てきたハルと、補講を終えてこれから図書館にこもる予定の伊織は、そこで昼食を取らせてもらっている。

 交替とはいえ連休中に補講に出てきてくれていた教師たちと言い、牧田医師と言い、緑楠の教職員の勤勉さには頭の下がる思いだった。


「で……」

 牧田は大きく一口かじったアンパンを飲み込んで、それを片手に持ったままハルへと視線を向ける。

「ハルの気になることってのは? 小早川さんと真野さんのどっちが可愛いかとか、フカマチくんが女の子を泣かせているかどうかについてとか、そういうことじゃなんだろ? 何が引っかかってるんだい?」


 するりと核心に触れる牧田。

 そ、そうだ、それだ。うっかり自分だったら真野さんと小早川さんとどちらを選ぶか――などという俗物的なことを思い浮かべてしまっていた伊織は、牧田に内心で頭を下げつつハルへと視線を戻す。


「うぅん、それがねえ」

 ハルが考えながら呟いた、その時だった。


 バチンと派手な音を鳴らして、診療所の廊下に続くドアが開く。


「ハル! 助けてくれ!」

 飛び込んできたのはキョウだった。テーブルに駆け寄ってきて両手をつきハルへと詰め寄る。


「……どうしたの、キョウ?」

「やあ、キョウ。アンパン食べるかい?」


 必死の形相など目に入らぬように、牧田は柔らかく笑う。

「商店街の高崎屋のアンパンね。いつもは通勤中に寄れなくて買えないんだけど、休みだから特別に買ってきたんだよ」

「ん」


 キョウは訴えを一旦停止しアンパンを受け取ると一口で頬張って、

「ふふひはいやらひほほおひふへんら」


「楠見が嫌な仕事を押し付けるんだ! って?」

「んっ、はいへんらんら」

「大変なんだ」

「大変な仕事させんだ! 嫌なんだ! 俺もう耐えらんない! やめたいんだ!」


 眉を寄せ、途方に暮れた面持ちで訴えるキョウ。なんだか分からないが、大変らしい。なんだか分からないが一瞬、「キョウにそんな辛い仕事をさせるなんて、楠見さんてばなんて可哀そうなことをするんだ」という気持ちになって、けれど、


「どんな仕事なの?」


 冷静に首を傾げたハルの声に、我に返った。

 見ればハルの横に座っている牧田も、ズズズと音を立てて平然とコーヒーを啜っている。


「監視カメラなんだ……」


 悲壮な顔で言葉を落としたキョウに、ハルはまた首を傾げた。


「監視カメラが、何?」

「正門とこにつけてあるカメラの、二週間分の映像」

「うん。それが?」

「それ全部見ないと家に帰れないんだ!」

「チェックして何が知りたいの?」

「ん。サイが乗ってた、妙な車があったって言ったじゃん。その車のヤツが、うちの学校の生徒に接触した様子がないか、調べんだ」


「うん――」ひとつ頷いて、ハルは手際よくキョウの仕事内容を要約する。「つまり具体的に言うと、館山に行ったときに尾行してきた車に乗っていた、っていう女子生徒のことだね。彼女と正門前の怪しい車の接点が、監視カメラの映像に残っていないかどうか探るわけだね」


「そうだ」

「その不審な車が例の女子生徒と繋がっている様子なら、『不審な車』と『尾行』は同じ組織の人間だ、という判断するわけだ」

「そうだ」

「監視カメラを二週間分遡って、それを調べるわけだね」

「そうだ」

「頑張ってね」

「そう――ちがーう! 二週間だぞ? 三百三十六時間だぞ? んなもん見てられっかよー!」


 首をのけ反らせて悲嘆の声を上げたキョウに、

「ハハハ」と牧田が爽やかに笑う。「十五年間の人生の中の三百三十六時間は、おっきいねえ」


「って言ったって、別に三百三十六時間かけろってわけじゃないんでしょ?」

「八倍速だ」

「ハハ、まだ四十二時間だ。二日弱かかるもんね。長いねえ」

「深夜とかはさすがに見る必要ないでしょ?」

「正門の閉まってる時間はカットだ」

「そうすると……何時間かな? ええっと」

「やってられっかよー!」


 ハルは同情の視線を送りつつ、軽く肩を竦めた。

「謎のサイの尾行とカーチェイスの末に傷だらけで帰ってくる仕事に比べると、だいぶマトモに見えるんだけど」

「やーだー! もう絶対! やだー!」


 力を振り絞って叫んだキョウに、


「だけどキョウ。その、尾行の車に乗っていたっていう子なんだけどさ」

 ハルが何か言いかけた瞬間、またぞろドアが勢いよく開いた。


「あーいたいた。キョウ」

 顔に笑みを張り付かせながら、診療所に踏み込んできた楠見。

「ここだと思った。ちょっと目を離した隙に。おい、まだあと六日分残ってんだぞ。早く来い」


 言ってキョウの首根っこを掴み、引っ張り立たせる。

 キョウはしがみついていたテーブルから引き剥がされながら、


「やーだー! 俺もうやめる! 仕事やだ―!」

「あぁあぁ分かったよ。ほんとにお前はじっとしてられない子だな」


 本当にしょうがないという目で言った後、楠見はキョウの襟首を掴んだままテーブルの上を眺め。


「そうか、そろそろ昼ごはんだな。ピザでも取ろうかな」

「ピザ」

「ああ。お前、食べるか?」

「……クワトロ取っていいか」

「ああ、もちろん。何枚でも」

「……チキンナゲットもつけていいか」

「いいとも」

「サラダとミートパイは」

「ああ、いいぞ」

「アイスは」

「なんでも食え」


 キョウは楠見に首根っこを掴まれたまま、診療所の外へと引っ立てられていく。

 ドアの外から「チキンナゲット十八ピースでもいいか!」「いいぞ、いっぱい食え」という声がフェイドアウトしつつ廊下に響いた。


 二人を見送ってしばし。向こうに行っていた三人の視線が、テーブルに戻ってきて。


「伊織くんっ」

 ハルが、テーブルにがつんと両の拳を載せて力強く呼んだ。


「は、はい!」

 ビクンとして伊織は姿勢を正す。


「餌付けだよ! これはね。餌付け!」


 両手を握りしめ、憤懣やるかたないといった面持ちで全身に怒りを滾らせるハル。


「キョウはね、神月家の数百年に一人っていう神剣の使い手なのに、楠見なんかに餌付けされちゃったんだよ!」

「は、はあ……」

「こんなこと、許せるかな!」

「えっと、はあ……?」


 少々戸惑い気味に声を発する伊織に、「ハハハッ」とまた朗らかな笑い声を上げたのは牧田だった。


「あれはねえ、昔っからだよねえ、あの二人は」


 目を細めて、心持ち懐かしそうな表情をして笑う牧田。

 不思議な顔をしている伊織に気付き、牧田は苦笑気味に視線を上げた。


「いやね、初めて会った頃のキョウがね、あんまり弱々しい感じだったもんだから――」

「……はあ……?」

「楠見は心配してね、いろいろ食べさせて」


 初めて会った頃のキョウ? 思考が追い付かずに曖昧な顔をした伊織だったが、牧田はやはり、ちょっとばかり懐かしいような雰囲気を滲ませて笑い顔を作った。


「それですっかり、キョウを手懐けたよねえ」


「失礼なっ」

 ハルが声を上げる。

「その時はそうだったかもしれないけど、今はちゃんと俺が食事を与えている!」


(え……与えているって……そんな……)


「ハハハ、まあ、そうだけど……なんていうか、物をあげたくなるんだよねえ、キョウって。嬉しそうに食べるんだもんねえ」

「それに関しては否定しない」

「俺もね、キョウの顔見ると反射的に、『何かあげられるもの持ってたっけっかな?』って思ってポケット探っちゃうんだよね」


(……牧田さん、それは完全に、野良猫に会った時の反応です……)


 もはやどう突っ込んでいいのか分からない伊織を尻目に、ハルは「うんうん、まあね」と頷いた。

 そんなハルから視線を離して、牧田は、


「でもそれで、命まで助かる結果になるんだから。あげておくもんだよねえ」


 微笑み混じりにどこか遠い目をして言うのが、伊織には引っかかった。けれどそのことに触れる言葉を探しているうちに、


「あっ」

 思い出したように、ハルが二人の出て行った戸口に視線を向ける。

「言おうと思ったのに、忘れた。『真野さんの件』。さっき伊織くんが見たっていうこと」


「えっ、真野さんの?」

 先ほど見た――そしてハルに語って聞かせた光景を思い出し、しかしそれと彼らの仕事の関連が分からずあたふたとしている伊織に、ハルはさらりと、


「その尾行の車に乗ってた女子生徒っていうのがね、真野さんなんだ」

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