幕間
20.神月悠の漠然と意識する、切実な問題について
緑楠中学・高校弓道場。弓に青春を掛けた部員たちが日々の鍛錬にいそしむべき神聖なその場所は、今、ジュースや炭酸飲料やお茶のペットボトルと大量の菓子に埋め尽くされ、ペットボトルの間を縫うようにして人が行き来している。
一応ジュースをこぼして汚したりしないように、などという気を遣ってブルーシートを敷き詰めたので、そこだけ切り取ってみたら花見の宴かという風景だ。
(こぼすとか……お酒を飲んで酔っ払うんじゃないんだからさ……)
内心で突っ込みを入れるハル。その手にした紙コップの中のオレンジ色の液体が減っているのを、隣に座っている女子部員が目ざとく見つけ、
「あ、
にっこりと言って、一・五リットルペットのオレンジジュースを取り上げ蓋を開けた。
「ありがとう」
お義理で笑って注いでもらうが、この一時間ばかり少しカップが軽くなろうものならすかさず輪のどこかからペットボトルが差し出されるため、正直お腹いっぱいである。
「それで……早く上達するにはどうしたらいいかって話だったよね」
車座になった七、八人の女子部員たちの誰かから出た質問に、ハルはみんなの顔を見渡しながら答える。
「やっぱり基礎訓練は大事だよ。最初に形ができないと、上手く
もっともらしく言うが、これには「シナリオ」があった。ハルは、与えられた台詞を言っているに過ぎない。
『女子新入部員の質問はお前に集中するだろうから、任せた。上手くやれ』
と、慧眼な先輩から一問一答式の綿密な台本を渡された。弓道という競技について。部活動全般について。上達のコツは? この競技の楽しさは? 試合の雰囲気ってどんな感じ?
いやいや、そういう質問に答えるの、先輩の役目でしょ? 俺、一応新入部員なんだし。
そう断ったが押し切られた。そして先輩の予想は実際のところ「的中」し、ハルはこの一時間、高校から入部してきた一年生女子の質問攻撃を受けている。シナリオが上手くできていたのは助かったが、弓道や部活動に関する質問に交じって、「ところで神月くんはどこに住んでるの?」とか「好きな食べ物は?」とか「兄弟は何人?」とか「どんなタイプの女子が好みなの?」とかいう質問が差し挟まれるのに、少々――いやだいぶ弱っている。
新入部員歓迎コンパ。……というには時期が少し遅いが、緑楠の弓道部は中学も高校もこの時期にこの手の「宴」を催す。
部員勧誘シーズンに、道着袴で格好良く矢を射る姿を見せられて憧れ、少しばかり弓に触らせてもらって気をよくして入部してきた新入生が、地味な徒手練習と作法や型を覚えるだけの日々に飽きてきたこの時期。堪え性のない新入生が体験入部の二、三週間で辞めていった頃に、正式入部の意志を見せている有望な新入部員を接待するということらしい。
本格的にやろうと思えば道具や装束を揃えるのにお金が掛かることもあり、体験入部の時期を長く取った形なのだろう。
今年は女子の入部が多いとあって、先輩たちも「接待」に気合が入っている。
それはいいのだが――。
「それで、ぶっちゃけた話なんだけど、神月くんって彼女いるの?」
これだ。ハルは曖昧な笑顔を作って内心でため息をついた。
と、そこへ。
「ちょっとちょっとー。神月ばっかり女の子と話して、ずるいでしょー?」
二年生の男子の一人が紙コップと菓子の袋を手に割り込んできたのをきっかけに、周囲で細かい島を作っておしゃべりに興じていた二、三年生の数人が輪に入ってくる。
「もうだいぶ質問もしつくしただろうし、そろそろみんなの『今後の抱負』を聞かせてもらいたいな」
やはり紙コップを片手に、落ち着いた声でにこやかに言ったのは、三年の
持田はハルの横に座り込むと、「ご苦労さま」というようにハルへと目配せを送る。質問攻めでそろそろ口が疲れてきたハルを解放してやろうという意図が半分。あとの半分は、本気で「お前だけいい思いをしているんじゃねえ」という本音が見え隠れしている。とりあえず、「助けが遅いですよ」という気持ちを込めて、ハルは中学時代から世話になっているその薄情な先輩に向け肩を竦めた。
「えー? 抱負ですかあ?」
「発表するんですかあ?」
口々に言う女子たちの声を耳に入れながら、彼女たちの相手を先輩に任せちょっと手洗いにでも立つような振りで立ち上がったところへ、
「神月っ、お疲れぇっ」
耳元で小さく呼ばれ、肩を叩かれた。
スポーツ刈りとジャージ姿が今ひとつ弓道部員らしく見えない、同じ一年生の
原田は片手にジンジャーエールの一・五リットルペットボトルを持ち、そのキャップ部分に伏せた紙コップを二つ引っかけ、ハルの肩を叩いた手でそのまま肩を押して射場の端へと歩いていこうとする。
ジュースでタプタプになったお腹にジンジャーエールは厳しいな……と横目で見つつ、ハルは特に逆らうでもなく押されていって、射場の端に矢道に足を投げ出すようにして腰掛けた。
隣に胡坐をかいて、原田は紙コップを二つ並べると、「まあまあまあまあ、ぐいーっとやってくださいよ」と酔っ払いみたいな口調で言った。
「神月くん効果で今年、女子部員多いよねえ。いいねえ。先輩たちも大喜びよ。ね、一応訊いとくけどさ、目ぇ付けてる女子いんの? だったら俺ら、遠慮しとくよ?」
「何言ってんだか」
「あ、特になし? いいの? 俺、攻めちゃうよ? そんじゃ遠慮なく」
ニカッと笑って、ジンジャーエールを並々と注いだコップをひとつハルに手渡し、自分も持つ。
「いやさ、最初は『神月くんかっこいー!』って入ってきてもさ、どっちかってーとレンアイとかじゃなくて、ファン精神でしょ? 全員お前の彼女になれるわけでもなし、てか誰もなれない可能性もおおいにあり、そうこうしているうちに、気が付くといつも優しく接してくれる男子部員が隣にいて、『なんだかあたし、原田くんのことちょっと気になるみたい』って展開」
うしししし、と悪そうに笑って、原田は乾杯の形にコップを持ち上げた。付き合いでハルもコップを軽く上げ、もう一度「何言ってんだか」と繰り返す。
「や、ねえ。正直ねえ、俺も男として、他人のおこぼれをもらうような形になるのは釈然としないものがなきにしも非ず、なんだけど、不思議とお前相手だと、あんまり悔しいとか妬ましいとかって気持ちにならないんだよなあ。人徳だよなあ」
「そんなこと言ってるけど、原田だってバレンタインデーにはチョコレートいっぱいもらってたじゃない」
眉を上げて言うと、「や、そうだよねえ」と原田は臆面もなく得意げな笑顔になった。
「まあさ、大会で一躍有名になれたのも、お前の活躍あってこそですからねえ。神月さまさま。ささ、遠慮なくぐいーっとやってくださいよ」
さ、さ、と両手の平を上に向けて勧められたが、ぐいーっとやれる腹具合ではなく、控えめに一口飲んでコップを置いた。
「にしてもさ」ほとんど一口でコップを空けて、次の一杯を注ぎながら原田は視線だけハルへと上げる。「珍しいじゃん。お前がこういう機会に遅くまで付き合うの。時間、大丈夫なの? 早く帰んないとならない用事あんじゃないの?」
連休の一日を丸々使って部活動を行い、「宴会」の始まったのは夕方の六時近かった。それからなんやかやですでに弓道場の壁時計の短針は、八に近い場所を指している。部活動は夜九時まで許可されているが、通常の練習でそこまで遅くなることはなく、なったとしてもハルは早々に切り上げて帰るのが常のことだった。
「去年の優勝祝賀会なんてさ、ほとんどお前が主役だっつーのに、乾杯だけしてさっさと帰りやがったし」
恨めしそうに言う原田に、ハルは小さく苦笑する。
「今夜はさ、家のもんが泊まりで出掛けてて、帰ってご飯作ったりしなくていいからさ」
「ふうん」
頷いて、原田は少々神妙な顔になる。
「弟と二人暮らしなんだっけ。大変だよな、お前も」
「そうそ。一人で放っておくの心配だし。帰って晩ご飯を食べさせてあげないとねえ」
「いいお兄ちゃんやってんのな」
たぶん、原田がいま頭の中に思い描いている「ハルの弟」は、小学校の低学年か幼稚園児くらいの世話の焼ける年頃の子供だろう。世話が焼けることは確かだが、同い年などとは想像もしていまい。
後ろめたい気持ちはあれど、イチから打ち明けるのも面倒なので、詳しく訊ねられたりしないのをいいことに説明していない。
ハルとキョウが実の兄弟であることを知っている人間は、楠見のごく周辺の人間や仕事仲間のサイたちを除いて、この学校にはほとんどいなかった。特に関係を隠すわけでもなく学校内でも話したり一緒に登下校したりするし、小さい頃はよく似ていると言われたから、小中学校から一緒の同級生には血の繋がりに勘づいている者もいるかもしれない。先日、出会って間もない伊織に気軽に打ち明けてしまったように、真剣に秘密にしているわけでもない。
けれど、その家庭の事情を他人に説明するのはやはり億劫だった。同い年で、名字の違う兄弟。となれば、それはなんの詮索の余地もないごく普通の家族関係であるはずはないわけで。
あるいは当たり障りなく簡単に、たとえば「母親が違うんだよ」などと言っておけば、それなりにデリカシーもあり行儀も良い緑楠の生徒たちはそれ以上の追及は控えるかもしれない。
それでも――。何も知らない人間から無邪気に「そのこと」に触れられて、キョウが傷ついた顔をするのは嫌だ。訊かれれば、否応もなくキョウは意識の上のほうに浮上させてしまうから。自分は生まれてくるべきじゃなかったと、小さな子供の頃からずっとキョウにそう思い込ませている原因を。
いや、口に出して言わないだけで、あいつは今だって、ずっとそう思っているのだから。
「ま、そんじゃさ、今日は楽しくやろうぜ。久々に羽根伸ばせんだろ?」
「うん」
にっこりと笑って返しつつ、でもその内心ではあまり笑っていなかった。キョウと離れて眠る夜って、いつ以来だろう。一人きりの家に帰る気分にならないというのが本音だった。キョウのことを甘えん坊だと思っているけれど、俺も大概だな……と小さくため息をつく。
と、原田はそのほんの小さなハルの憂鬱を、別の意味に捉えたらしい。
「あ、つっても終了時間までもう一時間もねえでやんの。せっかく羽根伸ばせる日に新入部員の接待させるなんて、先輩も気が利かねえよなあ」
「いやいや」
不満そうに口を曲げた原田に、ハルは笑っていた。
「四月はかなり部活休んじゃったし、俺。新入生勧誘ほとんどみんなに任せっきりだったもんね。さすがに多少は協力しないと」
「や、けどぶっちゃけさ、なんか先輩たち、お前が入ってくれただけで嬉しいって感じじゃん。練習も雑用も多少すっぽかしたって、文句言われねえと思うよ?」
「そんなわけにも行かないよ」
「いや、ホントだぜ? モッチー先輩なんかさ、けっこう真剣に、お前がうち入ってくれないんじゃねえかって心配してた」
「そう?」
別にそんな態度を見せたつもりはないので、ハルは目を丸くして首を傾げる。
「うん。神月って運動も勉強もできるし、ほかの部活からだって勧誘すごいんじゃねえの? 高校入学を機に、別のことやりたいって思うかもしんないし」
「俺の弓道に対する情熱を疑ってるね?」
苦情気味に顔を歪めて見せる。
正直、ほかに選択肢はないのだ。弓道は好きだし、始めるに当たっても集中力や精神力が鍛えられるから――それはとりも直さず、サイの訓練に有効だ――とあえてこれを選択したのは本当だが、それを抜きにしてもほかに考えられない。
(運動神経、か――)
みんなと一緒にスポーツを楽しむには、ハルたちは少々運動神経が良すぎるのだ。部活動として本気で頑張ろうと思えば手加減なんかしたくない。それに、人間離れした運動能力はどうにか隠したとしても、サイとは無縁の一般人に対してどうしてもズルをしている気分になってしまうことは必定だった。そんなつもりはないのに。それが自分の本来の能力であるというのに。
個人競技であり、しかも他人と向かい合って対戦することのない弓道でやっと、その種の遠慮や罪悪感に似たものを抱かずに済んだ。
藤倉卓が、たぶん本当は派手な球技だとかみんなでワイワイやる団体競技なんかのほうが好きなのに、陸上部で個人種目に徹しているのも。キョウがそもそも部活に入らないのも――まあキョウの場合は部活動などやる気が起きないのだろうが――おそらく同じ理由だ。
「俺は弓道部以外、入るつもりはなかったよ。高校生になったら自動的に高校の弓道部に所属してるぐらいにしか思ってなかったな」
膝の上に両手で頬杖をついて、ハルは矢道の先にある的へと目をやりながら言う。
「だよな」と原田はすぐに頷いた。
「けどさ、ほかのことでもお前、忙しそうだし。家事とか弟の世話だけじゃないんだろ? バイトしてんだっけ? ほんと大変だよな」
「バイトってほどのものじゃないよ。なんていうか……知り合いのおじさんの手伝い?」
おじさん、のところでつい笑みが大きくなった。
「ふうん……けどさ。そんで勉強とかもしっかりやってそうだし、どういう時間のやりくりしてんのって感じだよ。あんま無理すんなよ? 寝不足で、高校生のクセに過労で倒れるとか、勘弁してな?」
「うん、大丈夫だよ。サンキュ」
頬杖のまま少しだけ顔を原田のほうにずらして、笑う。
この良い友人に、ハルは隠し事をたくさん持っていて、にも関わらず彼が深く詮索してこないのが有り難かったしやはり少し申し訳なくも思った。
彼だけじゃない。先輩も、ほかの部員たちも。クラスのみんなも。
緑楠の生徒たちの、そういうさっぱりしたところをハルは好ましく思っていた。見た目や性格だとか、学業成績、部活動の実績だとか、いま目の前に見えている範囲のことは取り沙汰しても無理やりプライベートにまで踏み込んでこない。
先日の伊織の事件のことも。クラスメイトの個人的な嫌がらせで、一時彼のクラスでの立場が危うくなったりもしたが、それ以上に問題が大きくなる気配はない。むしろ、その後で中西というクラスメイトと取っ組み合いの喧嘩をした話のほうが広がって、どうやらクラスの中では一目置かれる存在になりつつあるらしい――と、これはクラスの女子たちの反応を見たあおいからの報告である。
善良で開放的で、屈託がない。そういう気風なのだろう。
この学校は、ハルには居心地が良かった。
学校が好きだなどとはっきり表明すれば、楠見が大喜びしそうだから言わないが、けれど、そう――ハルは今の暮らしをとても気に入っている。
ここが嫌なら、ハルはどこへでも行ける。けれど留まっているのは、満足しているから。
また、あんな思いをすることを想像したら。
絶対に、失いたくなかった。
キョウと一緒に暮らす時間を。何ものにも脅かされることのない、安全で快適な空間を。眠って目が覚めたら当然のように今日と変わらない明日の朝が来ている、そんな日常を。
その生活を守るためならば、寝不足とか過労とかそんな多少の苦労など些細な問題だと。自由な高校生活を担保にしてでも。ハル自身の何と引き換えにしても構わないと、そう思える程度には気に入っている。
(だけど……)
頬を両手で覆ったまま、ハルは遠くの的へと視線を向けていた。うっかり笑顔を保つのが難しくなって、眉が寄っていた。
だけど。ハルがどんなに命を懸けて守ろうとしても、この生活はきっと、いつまでも永遠に続くものじゃない。それは明日、唐突に途切れるかもしれない。また奪われるかもしれない。しっかりと、握りしめていなければ。
五年間。ハルは思う。五年の間、多少の波風はあれおおむね平穏に続いた、日常。
キョウが怖い夢を見たら、すぐに起こしてあげられる場所で。朝になったら一番先に、その顔が見られる場所で。そうだ、キョウと別の空の下で眠るなんて、五年ぶりかもしれない。
(今ごろ何してるのかな)
ぼんやりと、ハルは思った。
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