19.彼を改心させるには、結局アイスが最適と思われ
キョウは、車に駆け寄ってくると無言で助手席に乗り込んだ。
置き去りにした楠見を怒っているようでもあり、言いつけどおりホテルに向かわなかったことで楠見に叱られるのを警戒しているようでもあり、無表情の中にも複雑な色を滲ませながら。
「いったい何をしてたんだ、ここで。こんな時間まで」
ホテルに戻るべく車を発進させ、ハンドルを軽く叩きながら聞くと、キョウは軽く上目遣いに楠見を睨む。
「お前こそ。俺を置いてどこ行ってた」
やはりそちらが先なのである。
もうひとつハンドルを叩き、楠見は大きく息を吐き出した。
「館山だよ。人に会いにな。そう言ったろ。予定どおりだ」
「なんで置いてったっ」
「お前を連れて行きたくなかったからだ」
「だからって、黙って行くことねえだろっ」
「俺は行くけどお前はついて来るなって言ったら、お前、大人しく俺と別れてホテルで待ってたか?」
ムスッとした表情で、けれどキョウは黙る。
「悪かったよ」
信号で車を止め、楠見はハンドルに手を載せたままキョウを振り返る。
「黙って置いてったのは、謝る。もうしない」
腕を組んで、キョウはふいっと顔をそむけた。
「信じらんねえ」
「悪かったよ」
もう一度繰り返し、楠見はまたため息をつく。この流れでは、とても言い出しづらいのだが――。
「キョウ。結論から言ってな、約束の場所には行ったが、目的の人に会えなかったんだ。明日またチャレンジしてみる。けど、お前は――」
「ホテルで待ってなんかねえからなっ!」
こちらに向きなおって噛みつくように言うキョウに、やはり、と楠見は宙を仰いだ。
「なあキョウ、お前についてきてもらったのは、尾行の心配があったからだ。けどな」
信号が変わり、車を走りださせながら、
「人に会いに行くのは俺の個人的な用事だし、危険なことはない。心配いらないから、お前はそこらへんで遊んでいろ。元々そのつもりだったんだ。朝、港まで送ろうか? 海鮮丼食べるんだろ?」
海鮮丼、の言葉に、キョウは反応しなかった。
「だって……またあの尾行してたヤツらが来るかもしんねえじゃん。てか、サイが追ってくるような人間と会うんだろ? それ、なんで危険じゃないって言えんだよ」
苦い息をついて、楠見は観念した。
「あのな。俺は、『本店』の……」しばし言いよどみ、「重要人物に、会いに来た」
腕組みのまま、キョウはほんの少しだけこちらに視線を向ける。その双眸は、まだ不審の色を湛えているが。
「『本店』の人間は、俺にとっては別に危険でもなんでもない。尾行を撒きたかったのは、昼間も言ったように、面談相手の居所を他人に知られたくなかったからだ。『彼』は人に行方を告げずに一人でバカンスに出かけるのが好きでね。休養先まで人に追って来られるのが大嫌いなんだよ。変な『おまけ』を連れて行ったら、会ってもらえない――って言っても、尾行を撒いても今日は会ってもらえなかったがな」
思い出したらまたため息が出たが、ひとまずその気持ちは押し込めて、キョウの説得に当たる。
「だけど、お前や緑楠にいるサイたちを、『本店』の人間に近づけたくはないんだ。『本店』とのやり取りは、俺の役目だ。『本店』みたいな組織から、俺の元にいるサイを守るのは、俺の仕事だからな?」
「ほかのみんなはそうでも、俺は違う!」
こちらに体を向け少しばかり声を荒げたキョウに、ちらりと目をやって。
「何が違う?」
「俺は……だって、守られるんじゃなくて。みんなやお前のこと、守んなきゃ。それが俺の仕事だろ? そのために、ここにいるんだろ?」
そうだろう? 訴えかけてくるキョウの視線から目を反らし、前方を睨みながら楠見は重い息を吐く。
危険な目に遭うことになっても。辛いことがあったとしても。この仕事をしていなければ、ここにいられないのだと。この少年にそう思い込ませてしまっているのは、楠見なのだ。
自分の存在を許せなかった子供のキョウに、その存在する理由を与えるために。ここにいていいのだと、生きていていいのだと。
彼はとても弱々しくて。世の中に絶望してもいて。
――お前の能力が必要なんだ
そう言い聞かせなければ、彼は楠見の手をすり抜けどこかに行ってしまいそうで。
――ずっとここにいて、俺の仕事を手伝ってくれよ
楠見の仕事には、キョウの能力がとても有用で。キョウには自分が生かされている理由が、その能力を認められる仕事が、必要だったから。
そう言うほかに、彼をこの世界に繋ぎ止めておく方法は思いつかなかったから。
けれどそのことで、この少年が命を懸け自分を犠牲にしてまで仕事を遂行しなければならないと思うのは、間違いなのだ。
「いや。お前もほかのみんなも、違わない」
前方を睨みながら、確然とした口調で告げる。
「サイである前に、高校生だ。子供なんだ。俺は学校の副理事長だし、お前の保護者でもある。守るべき立場にあるのは俺のほうだ。お前に体を張って守ってもらいたくなんかないし、何よりも仕事を優先しなきゃならない責任なんかお前にはない」
「駄目だよ……」
突き放されたような不安な声で言って、それからキョウは強い視線を向けた。
「駄目だ。仕事してるんじゃなきゃ、俺がここにいる意味ない」
……この少年にそう思い込ませてしまっているのは、自分なのだ。
再びそう思うのと同時に、どうにもやり切れない苛立ちが込み上げていた。この子をこの世界に、楠見の元に引きとめておきながら、最善の道を見つけさせてやれないもどかしさに。
束縛などするつもりはない。自由に、彼は自分の人生をつかみ取るべきなのだ。
「そんなことはない。仕事がしたければしてもらうさ。だけどな、それをしてないとならないなんてことはない。ほかにやりたいことがあればそれでいい。みんなにも言ってるが、お前だって同じだ」
「なんだよ、楠見はほんとにそれでいいのかよっ。俺が別のことやりたくなって、楠見の仕事しないって言っても、いいのかよっ」
「いいよ。お前が好きなこと見つけて、将来に見通しを立てられるようになるんなら、それが一番いい」
「なんだよ……将来の見通しって……俺、そんなもん要らねえよ」
「要らないわけないだろ。俺はお前の保護者を引き受けたんだ。お前をちゃんとした大人にする責任がある。サイの仕事だけじゃない、いろんなことを学んで、見聞を広げて、それで――」
「大人になんかならないかもしれねえだろっ」
楠見の言葉を遮って、キョウはそう言うと顔を背ける。大きく息を吐き出して助手席のシートに沈み込んだキョウに、楠見は先ほど来の苛立ちやもどかしさがさらに募るのを感じた。
「だから刹那的な考え方でいていいっていうのか?」
苛立ちを抑え、努めて冷静に言ったつもりが、思いがけず冷たい声色になる。けれど、気持ちを仕切りなおすことはできなかった。
「だから、後先のことは考えなくていい、って思ってるのか? お前のそのせいで、周りの人間はどれだけ心配して肝を冷やしてると思ってるんだ。さっきだってなんだ、あれは」
尾行の車を落とした件だ。思い出したら腹が立ってきて、話が逸れるのを頭の片隅で認識しつつも止められなかった。そうだ。あれについては苦言を呈しておかなければ。
「危険なことはするな、自分と周りの安全を最優先しろって、いつも言ってるよな。それをお前は――ちょっと間違ったら大惨事だったんだぞ?」
「けど……上手く行ったじゃんか」
少々声を小さくして、キョウは横目で楠見を窺う。
「行ってない! 怪我をしたじゃないか」
「かすり傷だって」
「そんなもんは結果論だ、運良くかすり傷で済んだだけだろうが。そのかすり傷だって負わない方法もあった」
「んなまどろっこしい方法じゃ、いつまで経ったって尾行撒けなかったかもしれねえだろ」
「撒けなきゃそれで仕方ない。予定は諦めるさ。無理して危険な方法に出る必要なんかなかったんだ」
「けど」
「けどじゃあない。だいたいお前はいつだってそうだ。先日の一件だって」
伊織を庇って銃で撃たれたりした件だ。これも説教がまだだった。また思い出して、腹立ちがいや増す。
「無茶して怪我でもされるんだったらな、仕事なんかしないで大人しく学校で勉強に専念してくれたほうがよっぽどいい」
「じゃあ誰が仕事すんだよっ! 必要なことなんじゃないのかよ!」
「仕事は誰かがやらなきゃならない。だがな、お前が身を危険にさらしてまでやる必要はないと言っているんだ! あえて危険な行動を取る人間に仕事を任せられるか。時間が掛かろうが、スムーズに処理できなかろうが、安全にやってもらえりゃそのほうがいいんだ」
憤然と言って、ゆっくり息を吐き出し、
「いいか? たしかにお前はほかの誰よりも優秀なサイだ。だから人より難しい仕事だって任せてきた。けどな、それは、お前なら他人も自分も傷つけずに仕事を遂行する能力があるって思うからだ。それが出来ないってんなら、もうお前には仕事はさせない」
ぴしゃりと言うと、キョウは一瞬途方に暮れたような瞳で固まって、楠見を見つめた。
そのかすかに震えるような視線を受けてすぐに、楠見はとてつもない後悔に襲われる。
もう仕事はさせない。
その言葉が、この少年にとってどれだけの重みを持つものか。
思わずハンドルに持たれかかるようにして背中に圧し掛かる後悔に耐える楠見に、
「分かったよ。気を付ける……」
悄然と、呟くように言うキョウ。
途端にますます苦いものを舌の上に感じていた。
言いたいことをようやく受け入れられたというのに、小さな子供を力でねじ伏せたような後味の悪さだけが残る。仕事をさせないなど、キョウにとっては存在意義を奪われるのに等しい。何を与えられないよりも辛いことなのは楠見にはよく分かっているはずだったのに。
だいいち力尽くで
――成宮くんは、一人では立てない子だ。周りの心配があって、ようやく自分の存在を認識できる。彼が自分のことを大切に思えない分、周りの人間が彼を大事にしてやらないとなりません
新田校長の言葉が、重い響きで心のうちによみがえってきた。
楠見には、よく分かっているはずだった。なのに、つい感情的になった――。
(新田先生……やっぱり俺は、まだまだです……)
何があっても泰然と受け止めるなどということは、できない。それはこの子のことを心配しているからなのだ。だが、だからと言って感情的に叱りつけるなどしていいはずがない。
時間を掛けて、ゆっくりと諭して、彼が自然と良い方向に向かうようにするのでなければ――。
(いや……)
どこかで言う必要のあることだ。少々言い方には問題があったが、決して間違ったことは言っていない。
そもそもこれまで何かあるたびに一時的に叱るだけで、そのままうやむやに許してきてしまったから、いつまで経っても同じことの繰り返しになるのだ。時間を掛けてなどと言っているうちに、大怪我をしたり命に関わるようなことにならないとも限らない。そうなる前に、無茶な行動はやめろとはっきり言わなければならないことは確かだ。
そう。決然と表明した以上、そしてキョウも「分かった」と頷いた以上、これを二人の間の新たな契約としてやっていくべきなのだ。これからの仕事の仕方を考えるいい機会だ。
……なのだが。
横目で助手席を窺えば、心の底からその存在価値を揺るがすほどのショックを受けたような顔をして、黙り込んでいる少年。それは純粋に悲しそうで、楠見に対して反抗心を抱いている様子は見受けられない。反省しているのだろうか――?
(そんなにショックだったかな……)
やはり少し、可哀そうなことをしただろうか。
「……キョウ」
「ん」
俯いたまま小さく答えたキョウに、楠見は顎で前方の明るい店舗を示した。
「……アイスでも食おうか?」
「ん」
「そうだ、そういえば」
コンビニでチョコアイスバーを箱ごと買ってきて、溶ける前にと必死で食べているキョウに、楠見は一本もらったアイスを食べながら声を掛けた。
「お前、何しに松戸まで行ってたんだよ」
すぐに聞くはずだったのに、うっかり後回しになっていた。
「ん。そうだ」
アイスを食べながら忙しそうに、キョウは片手でポケットから出した何枚かの紙を膝の上に置いた。それを一枚ずつ確認するようにしながら、
「あの病院でな。楠見が俺のこと置いていった」
「……悪かったって」
「ん。そこ出る時、救急車が来たんだ」
「救急車?」
「ああ。尾行撒いた場所から一番近い病院だっただろ? そんで、もしかして尾行のヤツらかなって思って見てたらさ」
話の続きを察し、楠見はわずかに助手席を見やって目を見開く。
「やっぱそうで。次に通りかかった誰かが事故に気づいて救急車呼んだかな。一人は担架に乗せられてたけど、単に気を失ってるみたいで。もう二人は自分で歩いてて、診察もすぐ済んで。で、警察が来たりしてしばらくいたんだけど、終わったら迎えのヤツが来て出てったから、つけた。そしたら松戸についた」
あ、これタクシー代な、と領収書を一枚ダッシュボードの上に置く。街灯に一瞬浮かびあがった金額欄の数字が見間違いであることを内心で願ったが、あの場所から松戸では安く済むはずもなかった。
「そんで」
とキョウは次のアイスの袋を開けて口に入れながら、膝の上の紙を手に取る。メモ用紙と写真が数枚。
「あ、楠見アイスもう一本食うか?」
「いいよ、一本で」
「ん。これ、追ってきたヤツと、後から病院に来たヤツの写真な。スマホのズームで撮ったから、あんまはっきり写ってねえけど」
言って片手で十枚近く見える写真を扇状に広げ、楠見のほうに向ける。
ぱっと見た感じ、車から降りる時と雑居ビルのような建物の中に入っていく時を狙って撮ったような背景だった。
「後で見ろ」
と言ってその写真もダッシュボードの上に置き、
「それと、船津さんに聞いて、追ってきた車のナンバー照会してもらった。偽装でなけりゃ、持ち主分かった」
「お前……何か船津さんの弱みを握っているわけじゃあるまいな」
警視庁の船津刑事は楠見たちと協力関係にあるのだが、先日来、彼がキョウの問い合わせに応えて調べてくれる内容は、たかだか高校生にこんなことを教えてくれていいのだろうかと首を捻るものがある。
「んなもんねえよ」
さらりと言って、キョウはそのメモもダッシュボードに載せる。
「そんで、そいつらの入ってったのはさ、松戸の駅からそんな離れてないとこの。なんか商店街の裏通りのオフィスビルみたいな建物なんだけどな、追ってきたヤツらと合わせて五、六人出入りしてた。中途半端に聞きこんで警戒させると不味いから、ビルの管理会社だけ調べてきたからさ、必要なら後から調べて」
楠見と離れていた数時間のうちに、キョウは尾行の相手を調べてきたのか。
「お前は……」
ダッシュボードに重ねられた紙の山へとちらちら視線を送りながら、楠見は思わず声を上げていた。
逆尾行なんて、そんな危険なことをまた――相手が何者で何人いるのかも分からないってのに――危ないことはするなと言っているそばから――まったく全然分かっちゃいない、一人で何かあったらどうするつもりだったんだ――という言葉が一瞬で頭の中を駆け巡り――全ての思いを要約して一言、
「本当に優秀だな」
「ん」
キョウは得意げに唇の端を上げて、最後のアイスの袋を破り、少々とろけて柔らかくなっているらしいアイスを「おっと!」と言いながら慌てて口に入れた。
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