18.空振りドライブ
「そんなはずないっ」
楠見は大理石の長い天板を渡したカウンターに片肘を置き、身を乗り出すようにしてカウンターの向こうの男に訴えていた。意図した以上に大声になってしまい、ロビーの中央にあるラウンジでティカップを傾けていた身なりの良い壮年の男女数人がこちらを振り返った。
「ここで会う約束をしたんだ。ともかく俺が来ていると、伝えてください」
いくらか声を潜め、けれどもう少し乗り出して食い下がる楠見へと、黒いベルベットの制服を着た男は表情も変えずに慇懃に頭を下げる。
「申し訳ありませんが、どなたもお通しにならないようにと承っております。たとえお知り合いであっても、約束があるという方が見えても。この場でお断りするように、との仰せですので、お繋ぎすることは致しかねます」
丁寧な口調で、しかしきっぱりと言われて楠見はわずかに身を引いた。けれどこれですごすごと帰るというのも、どうにも腑に落ちないではないか。
楠見としては朝早くに家を発ち、思い切り遠回りをしながら尾行の追跡を必死にかわし、同行の少年を置き去りにまでしてようやくたどり着いたのである。
「それじゃせめて……一緒に滞在している者がいるでしょう。秘書か何か……その人間に繋いでもらえませんか?」
「そちらも承りかねます。どうぞ、ご理解ください」
もう一度頭を下げたフロント係を楠見は苦虫を噛み潰すような顔で数秒間睨んでいたが、相手はやはり表情も変えることなく「誠に申し訳ありません」と繰り返しただけだった。
仕方なく、楠見は引き下がる。
「あの人」の気まぐれはいつものことだ。約束をすっぽかすなどという意識すら、「彼」にはないのだ。ただ事情が、予定が変わっただけ。なんなら気分が変わっただけ。「彼」と会いたい人間は、「彼」が会う気分になるその時を待たなければならない。一介の取引先企業の担当者ならまだしも、この自分であってさえも、である――。
釈然としないが、ここでこの常連客の満足を第一義として教育された優秀なホテルマンに食いつき続けたところで埒が明かない。
そう考えると、先には一歩も通さずフロントで追い返そうという相手の策の正しさを、楠見は認めざるを得なかった。秘書や取り巻きと言った連中にまで通せば、彼らは楠見をそう無下に扱うことはできない。こちらの人間関係や事情など一切知らないこのホテルマンでなければ、言下に訴えを却下することはできないのだ。
そこに、先方の強い拒絶を感じる。そしてその意思は、こうなったらもう変わらない。
怒りを載せたため息をついて、楠見は広いロビーを引き返し表に出る。
ギリシアの神殿かと思わせるような豪奢なエントランスで、両側に立っていたドアボーイが深く腰を折り曲げ礼をするのに不機嫌な視線で応え、駐車場に向かった。
車に乗り込んで、予約を入れたホテルの所在地をカーナビゲーションの画面に呼び出す。
キョウを置いてきた病院からタクシーでほど遠くない場所と思い、宿は房総半島の付け根に取った。ここから車で、スムーズに行っても二時間近くもかかる。明日また出直すにしても、地元多摩から来るのとさほど変わらない距離に、改めてため息が出る。いや、家からやり直したのでは、再び尾行を撒くところから始めなければならないわけだから、いくらかマシと思うことにするか。
エンジンを入れて、ふと思いついて携帯電話を取り出し一件電話を掛けるが、相手は出ない。
車を出しながら今後の予定を算段し、そしてホテルで待っているであろうキョウにどう言い訳をしようかと考えている。
(怒ってるだろうな……)
置き去りにされたキョウがどんな態度で楠見を迎えるかと想像すると、苦い気分になって思わず口を曲げていた。
キョウには元々、対談中はどこか別の場所にいさせるつもりだった。あのサイの少年を連れてきた目的は、おそらく自分を尾行してくるであろう人物がサイなのかどうかを知りたかったため。そして念のためのボディガードだ。
尾行を撒いてしまえば彼の仕事は終わるわけだし、「プライベートの用事だ」と言えば、あの子はそれ以上深く詮索しようとすることはない。それはキョウなりの、楠見との距離の置き方であり、本来は他人なのである楠見に対して残しておくべき最後の「遠慮」なのだろう。
けれど事情が変わったのは、あの尾行が思いがけずしつこかったため、それに撒くだけで済まず直接ぶつかってしまったため。
こうなると、「会合の相手は安全な人間だから心配いらない」と言い聞かせても、あの子は納得しない。SPよろしく、百歩譲って会合の部屋のドアの前まで一緒に行きたがるに違いない。
けれど「彼」にキョウを会わせることはしたくなかった。キョウをその人物の元に連れていくことに比べれば、多少機嫌を損ねられるぐらいのほうがいいと思えたのだ。
たぶん、後で謝って美味いものでも食べさせれば、あの子は機嫌を直すから。たぶん、だが。
だいぶ傾いた初夏の日差しを左半身に受けながら、車を北上させる。窓を開けると潮の香りを載せた海からの風が車内に流れ込んできて、沈鬱な気持ちがいくらか浮上するのを感じた。
先ほどの高級リゾートホテルとは打って変わった、駅近くの雑多な繁華街にあるウナギの寝床のような形をしたビジネスホテル。楠見の執務室と大して違わない程度の広さのフロントで、連れの先着を尋ねた楠見は、フロント係の返事に目を見張っていた。
「……まだ、着いてない?」
「え。見えてませんね」
これも先ほどのホテルマンと同じ職業の者とは思えないような、砕けた――良く言えば親しみのある口調で答えて、五十前後と見える小太りのフロント係は予約の入っているはずの部屋のキーを確認する。
「え。やっぱりまだですよ。レストランの営業が終わっちゃいますからね、ここで食事されるなら、早めに来られたほうがいいですよ。外に出られるなら当分どっかしらやってますがね。連絡されてみちゃどうですか?」
「……そう、します」
ひとまずチェックインだけ済ませ、部屋には寄らずに表に出る。
五月に入りだいぶ延びてきた日もすでに暮れ、大型連休半ばの街には別の煌々とした灯りが氾濫していた。居酒屋の呼び込みと通行人が何やら真剣に値段交渉をしているのを道の向こう側にぼんやりと見ながら、楠見はまた電話を掛ける。
ここに来る途中も何度か掛けているのだが、まったく繋がらず、最後の数回は呼び出し音すら鳴らずに留守録のメッセージに切り替わった。今もまた、やはり。
仕方なく部屋に入り、旅行中時間があれば読もうと持ってきた英語の論文を膝に置いて目を落とす。数分ごとに、また電話を掛ける。論文に集中はできない。日本語とさほど変わらずすんなり理解できるはずの英語の文章の上を、しかし目が滑っていくだけである。
(……いったいどこに行ってるってんだ?)
この地でキョウの個人的な用事のある場所など想像できない。一人で街に遊びに出るような奴でもない。
置き去りにされたことに腹を立てて、キョウが電話を無視することは予想できたし、ホテルに戻って会ってもしばらく口を聞いてもらないかもしれないと覚悟もしていた。
けれど、姿も見えないとは――?
拗ねて黙んまりを決め込むところまでは想定の範囲内だが、この「ドライブ」への同行が楠見の護衛という仕事なのだと認識した以上、いくら腹を立ててもそれを放り出して一人で先に東京に帰ってしまうようなキョウではないだろう。
時を追うごとに、次第に心配の種類が変わってきた。
(何かあったんじゃ……)
事件に巻き込まれているのだとか。いや、事件ならば起こしているほうが心配だ……。その前に、置いてきた病院でどこか悪いところが見つかって、まだそこにいるということはないだろうか? まさかとは思うが――。
窓の外を見やり、室内を少し歩き、ドアの前まで行って引き返し。
電話を取り上げて、少し考える。先ほどの病院に問い合わせてみるべきか。それともハルに、キョウから連絡が来てないか聞いてみようか。ハルも怒るだろうな……想像して気鬱になる。いくつかの電話番号を呼び出しては消しながら逡巡した結果。
もう一度、キョウの番号を呼び出す。すると――。
『楠見』
三コールで電話が繋がった。
「キョウ! お前どこにいるんだ!」
変わらぬ声で出たキョウに心の底から安堵して、思わず勢い込んで聞く。と、
『ん? ここ……』周囲を確認するかのような間をあけて、『
「……は? なんだって?」
キョウがさらりと口にしたのは、同じ千葉県内とは言っても東京と埼玉に近い北部の県境周辺だった。
「松戸って、
『松戸駅は……まあまあ近いな」
『お前……なんだってそんなとこにいるんだ』
勢いに押されたように、キョウは少々口ごもり気味で、
『いろいろあったんだ』
「なんだ、いろいろって……ああ、まあいい、それは後だ。お前、何か事故でもあったわけじゃないな? 無事だな?」
『ん』
「今、一人か?」
『ん』
「松戸駅に向かえるか?」
『ん? ん』
訊きながら、楠見は携帯電話を耳に当てたまま上着の袖に腕を通していた。
「すぐに迎えに行くから、駅の近くで待っていろ」
すぐ、と言っても小一時間はかかりそうだが――道のりを想像しながら言うと、
『ん。分かった』
キョウがすんなり答えたのに少々胸を撫で下ろし、通話を切る前に楠見は部屋を出ていた。
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