13.ここはなかなか悪くない場所で、だから少し困っている
「きみがこの学校に入って、なかなか学校に慣れなくて困っていた時にね。若もまた、悩んでいたんだよ」
「楠見が?」
首を傾げて校長の顔を見るが、彼は真っ直ぐに正面を向いたまま目を細めた。
その視線の先に、その頃の楠見や自分がいるような錯覚に陥って、キョウも思わずそちらに目をやる。けれど、正面の壁に、五月の予定や何かの数字のような簡単なメモの書かれたホワイトボードがあるのみ。
「学校に通わせ教育を受けさせることは、もちろん良いことだ。あえて言うよ。私は学校畑の人間だからね。知識を身につけ、思考能力を養い、友達を作りながら、他の子供たちと同じように守られて暮らす。将来の選択肢も広がる。何より普通の子供として、子供らしく伸び伸びと育って欲しい。ごく常識的に考えるとね、それはきみにとって一番良いことだと思われる。若も最初は当然そう思った」
けれども、と校長は遠くを見やって、
「けれどな。もしもこのままきみが学校に慣れず、学校生活が苦痛でしかないのだとしたら? きみはそれまで同じ歳のクラスメイトたちとはまったく違う育ち方をしてきたし、その行く先も彼らとは全然違う、およそ一般的でないものになるだろう。そんなきみに、普通の子供たちと同じ生活をさせることは果たして必要だろうか? 学校という場所に縛り付けて、きみの限られた時間を無為に消費させることにはならないか? それに――」
言って、ちらりとキョウのほうに視線を向ける。
「当たり前の子供たちの中で、彼らと一緒に当たり前の生活をさせることは、きみを傷つけることにはならないだろうか?」
じっとその目を見つめていたキョウに、そこで校長は、ニッと目を細めた。
「何を気弱なことを。と私は言ったんだよ。彼はこの学校の経営者なんだからね。成宮くんを学校に通わせたいと思うんだったら、成宮くんが通いたい学校にすればいいじゃないか。そうさ。きみが楽しく通えてきみのためになる学校を、若が作ってあげればいいんだ」
妙な顔になったキョウに、さらに校長は笑顔を大きくした。
「大学に行くためだとか、いい仕事に就くためだとか、学校というのはそのためにいろいろと我慢しなけりゃならない場所か? 他人と違う特殊な道を歩む生徒にとって、そこで過ごした時間が無駄になる? そんなのは、そもそも緑楠の理想じゃない。緑楠の生徒たちが送るのは、画一的な大人になるための準備期間ではない。学ぶこと、知ること、世界を広げること。それそのものを今、楽しめなくちゃ駄目だ。そうして自分の力で一歩道を切り拓く方法を。生徒たちが将来どういう道を歩もうと、その人生が長かろうと短かろうと、常にその時に豊かな人間でいられる方法を教えるんでなけりゃな。未来はその延長線上にある。どの道を選んでも、決して学生時代が無駄になることはない。それが緑楠の理念だ」
ひとつ大きく頷いて、校長はキョウの背中に当てていた手をポンっと肩に置いた。
「誰かを通わせたい学校、ってなって、若は頑張ったよ。彼は元々真面目だし勉強熱心だが、何しろまだ若い。周りのほかの理事たちがたいがい経験している、子供の教育ってもんを知らないからね。きみや神月くんがこの学校に入ることになって、初めて理想が明確に見えた。どうだい、ここはなかなか、悪くない場所だろう?」
新田校長が目尻のしわを一層深くしたのにつられるようにして、キョウも小さく笑っていた。
「悪くは、ないよ」
けれどすぐに、その口元が困った風に歪んでしまう。
困る。そうやって大事にされるのは。居心地のいい場所を与えられるのは。ずっとそこにいたくなってしまうから。変わらずに――。
「大丈夫さ」
校長先生ははやり、キョウの不安な心を読んだのかもしれない。サイではなくて、何か別の能力で。肩に置かれた手に、力が入った。
「きみは緑楠で大きくなる。大切なものや大好きなものがたくさんできて、やりたいことが見つかる」
「やりたいこと」
「そうさ。なんだっていい。別に具体的な夢じゃなくたっていいさ」
「んー」
「やりたいことが、あるね? 私の勘では、それはきっとここに書けないような漠然としたことだ。大曽根先生には秘密だ、そうだろ?」
校長はキョウの肩をぽんぽんと叩いて、テーブルの上にあった一枚の紙を取り上げ、手早く折りたたむ。見る間にそれは、一機の紙飛行機になった。
「いいさ、それなら――」
校長が軽い動きでそれを飛ばすと、飛行機は緩いカーブを描いて室内を飛んでいく。
彼はテレキネシスではないはずなのに。まるで物体浮遊のような動きに目を丸くしているキョウに、校長は優しく微笑む。
「『将来の夢』の話は、またそのうち、だ」
彼の執務机の向こうに飛行機が消えると、キョウは校長に目を戻した。
「なんか書かなくていいの?」
「いいよ。何百といる生徒たちそれぞれの考えをね、同じ質問で知ろうってほうが土台無理な話さ。すぐに答えを閃かない生徒も、分かっていても文字にすることはできない生徒もそりゃいるだろう。慌てて適当な答えを言って、教師を安心させるのが目的じゃないからね」
言いながら、新田校長は悪戯っぽく笑った。
「それにきみには、道に迷ったり変な方向に行きそうになってしまっても、常に見守ってくれている人たちがいる。彼らを安心なんかさせてやることはないぞ。心配させてやればいいさ」
相原伊織は理事長室のソファに座って、プリンターから吐き出される紙を数枚ずつホチキスで留めるという重要にして困難な仕事をしていた。印刷されてくるPDF文書は、何かの論文のようだった。ようだ、としか判断できないのは、次々吐き出されてくるその紙面にひとつも日本語が見当たらないためである。
辛うじて分かる英語の文書の単語から、きっと学術論文なのだろうと推測するが、紙面のどこにも知っている単語の載っていない――おそらく英語以外の言語のものも、あった。
(……楠見さん、これを読むんだろうか……)
伊織にその重大な役割を命じた副理事長・楠見林太郎は、執務机で書類に向かっている。
仕事の邪魔をしてはいけないかという遠慮もあり、またこんなことを聞いては失礼かという思いもあり、けれど好奇心が勝って、
「あの……」
「うん?」
楠見は手に持っていた紙から視線を外し、伊織に目を向ける。
「これ、楠見さんが読むんですよね……」
「読むよ。と言っても『表』の仕事が溜まってるから、時間のある時に少しずつだけどね」
ということは、これは「裏」の仕事の――つまりサイに関する論文なのだろうか。そういえば、ちらほら「PSI」とか「ESP」とか言う文字が散見する。
「英語……ですよね」
「うん。あとはドイツ語とスペイン語のが混ざってるかな」
「……どれも、読めるんですよね」
「ドイツ語とスペイン語は、多少は辞書を引きながらだけどね」
「……楠見さんって、何カ国語くらい出来るんですか……?」
また書類に目をやりながら何食わぬ感じで答えていた楠見は、伊織の問いに少々目を上げる。
「困らないくらいに出来るのは日本語と英語ぐらいだよ。ドイツ語は、日常会話とか読み書きは問題ないと思うけど、討論だとか専門論文となるとちょっと大変かな。中国語とスペイン語はもう少し落ちるね」
(なんだか凄いんだなあ)
認識を新たにする。初めてここに来た時から、本棚に洋書が多いなとは思っていたが。
「サイに関する研究ってね」視線は書類にやったまま、楠見が言う。「日本じゃ少ないからね。イギリスやアメリカじゃもう少し盛んだから、昨今のサイ研究に関する情報を知ろうってなると、そっちの学術論文が中心になるな」
「……はあ」
次の質問を投げかけようとしたところで、唐突にドアが開く。
楠見が書類を顔の前からよけ、「ノックを――」と言いかけて止まった。ノックもせずにドアを開けたキョウに続いて入ってきた人物に、目を見開く。
伊織もその人物を目にし、思わずソファから立ち上がり姿勢を正していた。入学式や朝礼で壇上に見たことのある、それは伊織の認識からするととてつもなく偉い人だったのだ。
「こ、こ、こう、こう――」
「ん?」
とてつもなく偉い人を連れて部屋にやってきたキョウは、固まっている伊織に目を留めると、
「ん。校長センセイ。センセ、こいつ、伊織」
(ええ! 校長先生にまでタメ口!)
おろおろとする伊織であったが、校長先生はタメ口のキョウに笑うとその朗らかそうな顔を伊織に向けた。
「おおっ、きみが相原伊織くんだね。やあ、会ってみたいと思っていたんだよ、ハッハッハ」
(えええー!)
硬直している伊織の手を取り握手する校長。背後の楠見に説明を求めようと首をめぐらすと、楠見は苦笑しながら席を立った。
「
とても親しげに笑う。そりゃ、副理事長先生と校長先生なんだから、立場は同じ――いや、経営者である副理事長のほうが上ってことになるのか――? 戸惑う伊織へと楠見は視線を向けた。
「先日の事件の時にね、校長先生にはいろいろと協力していただいたんだ。警察の人をこっちに呼んでもらったりとかね」
「いやなに、大したことはしていないよ。それよりも、いろいろと大変だったね」
言って、少々笑みを納める。
「まだこれからも大変だと思うが、『若』が力になってくれるというなら安心だ。困ったことがあったらなんでも言うといい」
(『わか』……?)
「……先生」
苦い顔で口を挟んだ楠見へと、校長先生は歩み寄る。
「それで、どうされたんですか、わざわざここまで」
「ああ。担任の先生を困らせる問題児の成宮くんと話をしていてね」
「センセ!」
慌てたように声を上げたキョウに、楠見は顔を歪めた。が、校長がまた朗らかな声で、遮るような形に両手を上げて。
「いやいや、話は済んだよ。それで、彼が若のところに行くって言うから、一緒に来たんだ。『例の件』で会って話もしたいと思っていたところでね」
「ああ……わざわざお運びいただいて恐縮です。ちょっとあちらへ」
言って、本棚の間にある扉へと
「校長センセ、後で俺が美味いコーヒー入れてやるよ」
「おお、頼むよ」
パタリと閉じられた扉を見やって、伊織は呆然としていた。
「……キョウって、校長先生とも仲がいいんだね……」
「ん? んー。学校に入る前、勉強教えてもらったんだ。ハルと二人で」
言いながら、キョウは向かいのソファに通学カバンを置く。
「へえ……」
「その頃は、校長センセ―は小学校の校長センセ―で」
校長先生から、個人的に勉強を教わるって……?
「俺とハルが中学校に入る時、中学校と高校の校長センセ―になった。だからずっと一緒の学校なんだ」
クラスメイトでも紹介するみたいに言うキョウ。
(……ねえ、楠見さん、それは『強権発動』ではないんですか?)
確証はなくとも、楠見がハルとキョウを心配してどうやら事情に通じているらしい校長を異動させたのであろうということは想像が付き、伊織は笑いを引きつらせた。
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