第3話 成宮香の抱える、やや複雑な問題について

12.彼はテレパスではないはずなのに

 六時限目の授業を終え、英語の教科書とノートとなんだか受け取ったプリントを雑にカバンに詰め込みながら、成宮なるみやきょうは宙に視線を上げた。


 今日もこれから理事長室でアルバイトの伊織を、陣中見舞いに行く。そういえば訓練に付き合うようなことを言っておきながらほったらかしにしてしまったので、何か差し入れでも持っていくか。久しぶりに正門脇のカフェテリアのエクレアはどうだろう。伊織はまだ食べたことがないかもしれない。そうだ、牧田の分も買って、診療所に寄ろう。牧田が物々交換でクッキーかチョコレートか何かをくれるだろうから、それも持って理事長室に行く。良い考えだ。


「成宮くん」


 ハルもそのうち来るだろう。あおいや琴子も来るだろうか。そうなるとエクレアは結構な数が必要だ。キョウはサイフの中身を思い浮かべた。二十個くらいは買えるだろうか。


「成宮くん?」


 イチゴ味のエクレアが、まだ残っているといいが。あれは人気だから、早めに売り切れてしまうのだ。待てよ、それよりしばらく行っていないから、新作も出ているかもしれない。そういえば夏季限定のマンゴー味もそろそろだ。


「成宮くんっ!」


 成宮って、俺だったか。ふと思い出してエクレアを頭から追い払うと、遠くから聞こえたような気がした声の主が、すぐ目の前に立って腰に手を当てキョウを見下ろしていた。


「エツコせんせ。何?」


 首を傾げると、担任にして英語教師の大曽根悦子教諭は大きなため息をついた。


「あのね……これからすぐに、校長室に行ってください」

「……校長室」


 さらに首を傾げる。


「そう。校長室。場所は分かってるよね?」

「……ん。校長センセイ、俺になんか用事?」


 訊くと、エツコ先生はまた腹の底からみたいな息を吐き出した。


「授業を休んでいる件と、それから『進路希望調査』の件で。校長先生から、きみにお話があります」

「進路希望調査」

「そう。白紙で提出したでしょう」

「名前は書いた」

「ええ。書いてありました。だから分かったの。きみがもしかしたら、ちょっと高校生活に問題を抱えているんじゃないかってことがね」

「問題」


 エツコ先生は、大真面目な顔で頷いた。


「まずは校長先生と話をして。それに何か悩んでいることがあったら、いつでも聞くからね」




 そんなわけで。エクレアと診療所と理事長室を一旦保留して、キョウは校長室のドアを開けた。

 踏み込んだ瞬間、


「やあ! 成宮くん、久しぶりだねえ。ようこそ高校へ。入学おめでとう!」


 勢いよく飛んできた声に、ドアを後ろ手に閉めながらキョウは苦笑を浮かべた。


「ようこそっつったてさ。教室が左から右にちょっと変わっただけじゃん。てか校長センセイは、中学も校長センセイだったじゃん」

「いや、だけどめでたいよ。きみが無事に高校生になったことはね」


 言いながら正面の席を立って、緑楠学園中学・高校校長の新田にったはキョウへと歩み寄ってきた。深く刻み込まれた顔のしわを一層濃くして、満面の笑みでキョウを迎えると、背中に片手を当てて室内に導く。そしてソファに座らせて、自分も隣に腰を下ろした。


「用事って、なに?」

「ハッハッハ、ご挨拶だね。きみがあんまり担任の先生を悩ます腕白小僧だから、ここに呼ばれたってのに。自覚がないのは何よりで結構なことだ。それでこそ健全な高校生だよ」


 言われてキョウは、眉根を寄せる。


「なんかしたっけ、俺」

「したかしていないかと言えば、していないってことが問題になっている。入学早々に何日も授業に出ず、進路希望調査の紙には何も記入せず。大曽根おおそね先生が、きみに何か問題や悩みがあるんじゃないかと心配されているので、私がひとつ話をしておこうと請け合ったんだよ」

「んー。休んだのは、仕事があったりして忙しかったから……」


「ふむ」校長はわずかに身を引き、腕組みをする。「四月以降、何かと事件が立て続けに起きてきみが忙しかったということは、『わか』から聞いているよ」


 校長は、初めて会った時から楠見のことを「若」と呼ぶ。楠見は嫌がっているが、つい出てしまうのだという。楠見と校長は、かなり古く――楠見が子供の頃からの付き合いのようだった。


「それでなくてもまあ、真面目で優秀なきみのことだ。学校を休むにしても抜き差しならない事情があるということは理解できるよ。仕事があっただとか、仕事の後で疲れているだとか、体調を崩したとか、朝起きられなかったとか、制服に着替えるのが面倒だったとか、なんとなく行く気にならないとか、やむにやまれぬ理由があるのだろうね」


「ん。それと」

 テーブルの上に目をやった。来たときからそこに置かれている一枚の紙。キョウが白紙で出した進路希望調査の紙だった。

「それは、書くことがなかったんだ」


「ふうむ。学校からのアンケートを白紙で提出すれば、通常は、何か悩みや問題を抱えている生徒であるか、あるいは反抗的な態度を取ろうとしていると判断される」

「何か書かないとまずかったかな。特になしとか?」

「白紙でも『特になし』でも、効果に大差はないだろうね」

「そっか?」

「うむ。担任としては胸を痛める」

「んー」


 そう言われると、少し困る。


「次は別のアンケートにしてくれよ。今どの味のエクレアが食べたいとか、そういうのならちゃんと書く」

「ふむ。それはいい案だ。一考の余地がある。出来ないことにこだわるよりも、出来ることによって問題を打開しようとするのはとても良いことだし、それが有効な場面は多い。けれど今回の問題に関しては、きみのその案を採用したとして、進路希望のアンケートを取らなくてよくなるわけではないんだな」

「そっか……」

「先生方は往々にして、生徒の本日三時のおやつよりも、三年後、五年後、十年後のことを重要視する。すなわち将来何になりたいか、だとか」


 心持ち申し訳なさそうな色を滲ませる校長の声に、キョウも困った顔になる。


「なんで大人はみんな、将来の夢とか知りたがんの?」

「ん? うーむ。そう来たか」


 校長はしばし視線を宙に上げて、考えるような素振りを見せ、それから顎を撫でながら、


「……つまりだな。子供がひとつの確たる夢を持っていて、それに向かって道筋を決め真っ直ぐに進んでいれば、大人は安心するんだな。この子供は進むべき道を分かっている。大人はその子がその道を踏み外さないようにだけ、見守っていてあげればいいってね。それがないと、フラフラどっか行ってしまうかもしれないし、途中で行き倒れてしまうかもしれない。だから心配で仕方ないんだよ」


「ふうん。大人を安心させるために、なりたいものを決めんの?」

「痛いところを突くね。けれど当人にとっても、それはたいがい良いことだと思うよ。的確なアドバイスをもらえれば、順調に道を進める。回り道が無駄になるとは言わないが、それも程度問題だ。変な方向に進んでうっかり取り返しのつかないとこまで行ってしまったり、寄り道のせいで疲れ果てたりしちゃ、コトだろう?」


「んー。けどさ、なりたいモノとかは、ないんだ。あったところで多分なれないし」

「そうなのかい?」

「ん。進学したい学部とかも、なんでもいいんだ。その前に、大学に行くかどうか分んねえじゃん」

「……そうかね?」


 また少々悲しげな顔になってしまった校長に、少しばかり気まずい気持ちになる。そんなに深刻な顔をさせたいわけではない。だから、


「だってさ」ちょっと言い訳みたいな口調になって、「そんな先のこと、分かんないだろ」


「それほど先じゃないぞ? 大学まであとたった三年だ。中学校の一年から今まで、すぐだっただろう?」

「そうでもないよ」

「そうかね。大人になると一年の経つのが早いからね。きみがここにやってきた小学校五年生の時から今まで、私にはあっという間だったねえ。あの頃のきみは」


 言って、自分の胸のあたりに手を水平に上げる。

「まだこのぐらいの背丈しかなかった」


「もう少し大きかったと思うよ」

「そうかな? いずれにしても、きみは大きくなった。まだこれからも大きくなる。若の背だって抜いちまうかもしれないぞ? すぐだよ」


 んー、とキョウは眉を寄せた。楠見は背が高いから、簡単に追いつきそうな感じはしない。前ほどは、見上げるのに首をのけぞらせなくてよくなったし、楠見も話す時いちいち腰を折り曲げたりしなくなったのは確かだが。


「その頃には大学生だ。なあ?」


 にっこりと笑う校長に、やはり少しばかり後ろめたい気持ちになって、キョウは曖昧な表情になる。すると新田校長は、わずかに身を屈めてキョウを覗きこんで、


「それとも大学に行きたくないか? 勉強は嫌いかね?」

「好きでも嫌いでもないよ。試験と宿題は面倒だけどな」

「ハッハッハ。いいね。それじゃ学校はどうだい? 楽しいかな」

「まあまあだな」

「ふむ。嫌いだから休んでいるわけじゃないね?」


「嫌いじゃないよ。けどさ……」

 言って、キョウは少し目を伏せる。

「仕事は勉強よりも、もっとしないとならないし」


 キョウはそのために、この学校に――楠見の元にいるのだから。


「だからさ、学校が楽しいとか好きとか、将来何になりたいとか、そういうのは、いいや。あんまり楽しかったりとか、何かが楽しみだったりすんのは、駄目なんだ」


 軽い調子で言ったのに、校長はますますキョウの顔を覗きこむように身を乗り出した。

 彼からそういう風な顔で見つめられると、居心地が悪くなる。垂れさがったまぶたに覆われた瞳には、鋭い光があって。それは、キョウの知っているサイだとか、犯罪者だとか、刑事だとか、そういった人たちのどれとも違う鋭さで。

 テレパスではないなずなのに、彼には何故だか人の気持ちが読めるのだ。隠していることも分かるし、思っているのと違うことを言っても見抜かれてしまう。相手が欲しい言葉も知っている。

 テレパスではないから、慣れた感覚で思考を「ロック」しようとも、彼には効果がない。


 だから。きっと、彼には分かってしまう。キョウが今の暮らしをとても気に入っていることも、楽しいと思っていることも、大事な仲間が増えてしまったことも。

 けれどキョウは、それを誰にも知られたくなかった。キョウがそう思っていることを、悟られてはいけなかった。人生を楽しむということは、とてつもない背徳なのだ。

 キョウは、幸せで満ち足りていてはいけないのだから。何かを強く望んではいけないのだから。そんなことが知られたら、きっと責められる。後で大きな罰を受けることになる。もしかしたら、掴んでいるもの全てを奪われてしまうかもしれない。


 不意に怖くなって、キョウは校長から目を逸らした。


「けれどねえ」校長はそんなキョウの背中に手を置いて、ひとり言のような調子で言う。「きみが仕事をしてくれるのは若も助かっていると思うけど、学校生活も楽しんでくれたら、もっと喜ぶんだけれどねえ。何しろきみのために良い学校を作ろうと思って、寝る間も惜しんで働いているんだからね」


「楠見は……学校のことが仕事だろ? 別に、俺のためってわけじゃないよ」

「そうかな?」


 背中に手を置いたまま、

「きみがこの学校に入って、なかなか学校に慣れなくて困っていた時にね」

 彼は慰めるような笑顔を作った。


「若もまた、悩んでいたんだよ」

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