11.担任・大曽根悦子を戸惑わせる困った問題について

「エツコせんせー、さようならー」

「さようならー、また明日ー」


 廊下ですれ違った二人連れの女子生徒が軽く頭を下げながら口々に言うのに、


「はーい、さよならー。気を付けて帰りなさいねー」


 にこやかに返し、緑楠高校一年三組学級担任・大曽根おおそね悦子えつこ教諭は職員室に入ると自分の席に着く。

 向かいの席で他クラスの教師と話していたスポーツ刈りの男子生徒が、話し終えて帰り際こちらにも目を向けた。


「エツコせんせ、また明日」

「はあい、また明日ね。宿題やってきなさいよ?」


 机の引き出しから書類の束を取り出し軽く整えながら悪戯っぽく笑うと、男子生徒も「へへー」と苦笑を浮かべ職員室を出ていく。

 他愛のないやりとり。軽い挨拶。そんなちょっとした生徒との触れ合いが、好きだ。自分は生徒たちに受け入れられていると思う。


 緑楠学園の高校英語教師として採用されたのは、三年前。大学院の修士課程を終えてすぐ。高校生と大して歳の離れていないことから、最初は舐められてはいけないと肩肘を張って着任したものだが、その種の心配が要らないことはすぐに分かった。歳の近い若い女性教師に対する生徒たちの態度は、どちらかといえばフレンドリーで無邪気なものだった。

 比較的裕福な層の子供たちの通う私立学校。中でもレベルが高く、大学までの一貫校として人気のある緑楠は、入学試験や面接の工夫もあり優れた生徒を集めていると思う。そうそう問題のある生徒は入ってこない。

 加えて大学受験のストレスや、詰め込み教育と言ったものから解放されているここの生徒たちは、大らかで伸び伸びした雰囲気――全体として、質が良い。


 高校のクラス副担任として三年を過ごし、この四月から担任することになった一年三組の生徒たちも、おおむねみな自分を慕ってくれている。何気なく書類――生徒たちから集めた進路に関するアンケート調査をめくりながら、名前の上に彼らの顔を一人一人思い浮かべていく。

 私は生徒に恵まれている。みんな、素直で良い子たちだ――


 ――彼を除いては。


 半分ほどめくったところで、その生徒の名前にぴたりと手が止まった。


 入学式の直後から数日の無断欠席。ようやく顔を見せたかと思えば、ふいにまた休む。授業中もどこかぼんやり過ごしていることが多く、学習や学校行事への積極性が見られない。と言って反抗的な態度を取るでもなく、注意をすれば「ん」と素直に頷く姿に悪びれた様子はないし、どこに問題の根っこがあるのか判然としない。どうにも掴みどころがない。


 気になって中学時代の記録を見れば、やはり欠席や遅刻早退は多いものの、成績は悪くない。むしろ試験では毎回そこそこの上位をキープしている。特別な問題を起こした様子も見受けられない。

 クラスに特定の親しい友人がいる雰囲気でもないが、そうかと言って人当たりは悪くない。クラスの中で特別浮いているような気配は感じられない。どうにも、どうにも掴みどころがない。


 正直、どこからどう注意すればいいのかよく分からず、悦子は悩んでいた。

 たとえば今日また授業を無断で休んだことも。

 たとえばこの、進路希望アンケートのことも――。


 基本的に大学受験のない緑楠高校では、早い段階からカリキュラムの中に職業教育や大学への架け橋としての特別講義が組み込まれている。そのための予備調査として、四月の終わりに進路に関するアンケートを取る。

 好きな科目や興味のある分野は? 現時点で進学を希望する学部は? 将来就きたい職業は?


 だが――「彼」がその用紙に記入したのは、氏名欄のたったの三文字のみ。


 成宮香、と。


 その他の質問は全て白紙のままで、提出してきたのである。


(いったい何を考えているんだろう――)


 一度、彼の保護者と面談をしてみようか。

 先ほど電話を掛けた相手の声を思い出す。「楠見」という名の男。――どこかで聞いたことがあるような気もする名前だが――少なくとも、おそらく成宮香の親や肉親ではなさそうだ。名字が違うし、声から察するに高校生の息子がいるような歳にも感じられなかった。


 成宮香が学校を欠席している件について何度か電話をしているが、そのたび丁重な言葉遣いで詫びる姿勢から、歳のわりにはしっかりとした仕事をしているまともな大人だという印象を受けた。しかし、電話を掛けるたびすぐに通話に応じるところは少々不思議だ。普通に仕事をしている社会人ならば、悦子が電話を掛けるような時間にそうそう個人的な連絡を受け取ることなどできないのではないだろうか――。


 どういう立場の、そして成宮香とどういう関係にある人間なのだろう。

 成宮香には、両親はいないのだろうか。だとすると。


(彼の生活に、何か問題があるのかしら――)


 書類に目を落としたまま、深いため息をついたところで、


「大曽根先生、どうされましたかな? 浮かない顔で」

 背後から声を掛けられ、振り返る。

「何か悩み事でもありますかな?」


 思わず立ち上がろうとした悦子を、彼は大きな分厚い手で遮った。もう片方の手で、マグカップをくるくると揺すりながら、


「ああ、そのままそのまま」

 言って、悦子の机の上の資料を覗きこむ。


「ふうむ。成宮くんね」

「ご、ご存知なんですか?」

「うん?」


 彼は驚いた表情の悦子と視線を合わせて、すぐに相好を崩した。


「もちろん、生徒のことはみんな知っていますよ」

「全校生徒の名前と顔をご存知なのですか?」

「新入生は、全員となるとまだちょいと怪しいですがな。何年もいる生徒はそりゃ、頭に入ってますよ。それで、成宮くんがどうしましたかな」


 驚きと尊敬の念を抱きつつ、悦子は彼の前に書類を差し出す。


「進路希望調査なのですが、彼、白紙で提出してきたんです。まだ進級から一カ月だというのに欠席も多いし、何か問題を抱えている生徒なのかと――」


「ふうむ」

 考えるように唸って、片手に持ったカップを口元に運び、ズズズと音を立てて液体をすする。コーヒーの香りが漂ってきた。

「ちょっと私から、話をしてみますかな」


「ええっ? ですが――」


 悦子は眉を寄せた。問題のある生徒の指導を、いくら彼だとはいえ他人に任せるなど、担任教師として失格を言い渡されるような気分でショックだったのだ。が、相手は悦子の心境を察したように、「まあまあ」とカップを持たないほうの手を上げて微笑む。


「初めての担任で、ほかの生徒のことも見なければならないで大変でしょうからな。少しぐらいは私が受け持ちますよ。なに、ちょっとばかり話して、後のことは大曽根先生にお任せします。まあ、少し待ってみてください」


 目尻のシワをさらに深くして笑う相手に、悦子は若干の戸惑いを感じながら頷いた。

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