10.その周辺にある警戒すべき問題について
ノックもなくドアが開いたのは、伊織たちが「遺失物展示」の撤収作業を終えて帰っていってからだいぶ経った頃だった。そろりと忍び込むように室内に入ってきた相手に、楠見は読んでいた書類に顔を向けたまま目だけ上げる。
ノックをしろ、よりも先に、彼に問いたださなければならないことがある。
「――お前、どこに行っていた?」
不機嫌な声で問う。
叱られるとは思っているのか、制服姿の
楠見は右手に持っていたペンを机に置き、顔を上げる。
「担任の先生からまた連絡があったぞ。授業に出てないって? それに伊織くんの件だ。お前が言い出したことだろう? それすっぽかすってどういうことだ。お前はそんなに無責任な奴だったのかな」
言って腕を組み椅子の背に持たれて、やってくるキョウを視線で迎える。
「ちょっと用事ができたんだ」
「用事って?」
執務机の向こうに立って神妙な顔をしているキョウに、楠見は両腕を机に載せて身を乗り出した。不機嫌な口調と表情は保ちつつ、けれど理由があるなら先に聞こうという体勢に、キョウはかすかに安堵するように小さく息を漏らして、
「学校ん中で、サイを見たんだ」
「……サイを?」
「ん。見たことないヤツだけど、こないだの『事件』ときの、スガワラとかアンザイ……だっけ? そいつらと似たような恰好で、似たような能力持ってる」
目を細め、しばし向かい合ったサイの少年と視線を対峙させる。
サイの名家「
この少年が、気になって授業はおろか自分から言い出した伊織のトレーニングまですっぽかすほどのサイを見つけたというのなら、それは警戒してしかるべき案件である――が。
「だからなんだ。まさかそのサイを、今日一日つけまわしてたってのか? 学校よりも、伊織くんの訓練よりも、それが優先させるべきことか? 俺はそんな仕事を頼んだ覚えはないがな」
ため息交じりに言うと、キョウはいささかムッとしたように眉根を寄せ口を尖らせる。
「昨日その後つけてったら、車を見つけたんだ。正門のとこだ。そんで、今朝も同じ場所でその車を見た。だからちょっと見張ってた」
言いながら、執務机の上に一枚のメモを置く。品川ナンバーの後に続くのは、ひらがな一文字と四ケタの数字。
「黒のBMW。中にもう二人男が乗ってて、全部で三人。二人はPKだけど、もう一人はよく見えなかった」
このサイ少年は、周囲の変化にとても敏感である。いつもと違うこと、変わったこと、違和感、見たことのない人物――そういったものを、鋭く察知する。彼の育ってきた環境が、そして、今あるその暮らしがいつ何によって阻害されるかも知れないというぼんやりとした不安や恐怖が、彼を、なんの屈託もなく無邪気に青春を謳歌していればいいだけの一介の高校生にはさせてくれないのだ。
どんな危険の起こる余地もない、平和の象徴であるべき「学校」という箱の中にあっても。その中で、社会の全ての害悪や困難から守られるべき「生徒」という立ち位置を与えられても。彼はその緊張を解くことができない。
キョウが机の上に置いた紙切れにしばし視線をやっていた楠見だったが、そのままわずかに考えて――、
「分かった。気を付けてみよう」
そのメモを取り上げ、胸のポケットにしまう。
「それだけかよっ」
憤然と言うキョウに、視線だけ向け、
「報せてくれてありがとう。ご苦労さま」
棒読みに言うと、キョウは不満でいっぱいの顔になった。
「じゃなくてー」
「ほかに何がある?」
「どうすんだよそれ! 放っといていいのかよ!」
「だって何をしろって言うんだ。学校の前に車が一台停まってて、そこにサイが乗ってたってだけだろう? 何か学校にとって悪いことをしているってんなら話は別だが――」
「これからすんのかもしれないだろっ?」
「かもしれない、でこちらから何かするわけにはいかないよ。一応守衛室に話を通して注意してもらうが――不自然な様子なら、ちょっと声を掛けてもらうことにしよう」
妥協策として提案するが、目の前の高校生はますます不機嫌な顔になる。
「守衛さんは駄目だ。相手はサイだ。変に声掛けたら危険なヤツかも」
「そうそう軽はずみな行動に出たりはしないだろうよ。怪しい奴だと分かればその時すぐに、お前たちに仕事を頼む」
「だって……」
もどかしそうに目を伏せるキョウ。彼の言いたいことは、もちろん分かっている。調査をさせろと言うのだ。仕事を命じろ、と。
「スガワラたちの仲間じゃねえのか?」
しばらくじっと床に目をやった末に、キョウはぽつりと言う。それから何やら一生懸命に言葉を手繰るようにして、
「まだ伊織のこと狙ってんのかも。それともほかのヤツかもしれないけど……哲也たちの組織のこと、片付いてねえじゃん。あいつらがスカウトしてこの学校に入れたサイが、ほかにもいるのかもしれないじゃん。目的もよく分んねえし……」
「そうだとして――」
言いながら、楠見は机の横を示す。キョウは壁際の椅子を引きずってきて、執務机の横に置くとカバンを肩から提げたままそこに腰掛けた。
「それを調べるのは、俺の仕事だ。組織のことはお前たちには調べようがないし、今はその件はお前たちの手を離れている。もしも危険があると思うなら、お前は伊織くんの傍にいて彼を守ってあげればいい。ほかの生徒のことに関しても、あやふやな情報ですぐに何か動きを取ることはできない。今調べているところだから、それを待て」
「……けど」
彼の不安はもっともだった。理解した上で、だが楠見は「この件」から一旦彼を遠ざけたかった。
「いいか、キョウ? 俺が今、お前にして欲しいことは二つだ。伊織くんの近くにいて彼のフォローをすること。それに授業に出ること」
「授業とか言ってる場合かよ」
「お前こそ、休んでる場合じゃないぞ。四月から何日欠席した? 連休が明ければすぐ中間考査だ。順位を落としたら――分かってるな?」
身を乗り出して顔を寄せると、キョウは苦いものを口に入れたみたいに顔を歪める。この子がこの表情をするのは、楠見製薬謹製の軟膏のにおいを嗅がされた時と、試験の話を持ち出した時だ。
そのいつもの反応に、楠見は少しばかり安堵して苦笑を浮かべた。
「なあ。こちらで調べて、必要となったらお前に仕事を頼むよ。だから仕事のない時ぐらい、ちゃんと学校に行ってしっかり勉強しておけ。後で仕事のほうが忙しくなっても、出席日数が足りてなかったら休ませないぞ? ほかのみんなに仕事してもらって、お前だけ学校だ」
困った顔で黙ってしまったキョウの頭に手を載せて、楠見は笑って見せる。
「そうなったら俺も困る。お前がやってくれないと仕事が片付かないからな。その時は頼んだぞ?」
「……分かった」
キョウはまだ不機嫌そうに斜め下に目をやってムスッとした口調で、一応こくりと頷く。
「よし。いい子だ。帰って今日の授業の分は自分でやっておけ。そうして明日ちゃんと授業に出て、先生に休んだこと謝るんだぞ?」
言いながら、キョウの柔らかい髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。
「車のことと学校の中にいたサイのことは、一旦こちらで預かる。何かまた気づいたら教えてくれよ」
そう言うと、キョウはいくらか機嫌を直した顔で、またこくりと頷いた。
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