幕間と、小さな幕間

9.校医・牧田真樹の危惧する、それなりに根深い問題について

 窓の外の賑わいを微笑ましく見やりながら、緑楠学園校医・牧田まきた真樹まさきはコーヒーの並々入ったカップを二つ、テーブルの上に置いた。


「ああ、ありがと」

 テーブルをL字に挟んだ席に座っていた楠見は、カップを引き寄せると中の液体をしげしげと眺め、においを嗅ぎ、しばらく仔細に検分する様子を見せた後で慎重に口をつけた。


「……にしても、本当にやるとはねえ。こんな『イベント』」


 苦笑しながら席に着いた牧田に、楠見も可笑しそうに口もとを緩める。


「まあなぁ……ハルは元々面倒見がいいし、お嬢も基本的に親切なほうだけどさ、あのキョウやあの琴子までもが他人の世話をするなんてことを考えだしたんだ。いい傾向じゃないか。こっちも多少の追い風は送ってやるかって思ってな」

「多少のねえ。全学園を巻き込んでねえ……」

「話を通しただけさ。スタッフも準備もみんな『自前』だ」


 肩を竦めた牧田に、年下の友人である学園副理事長は事もなげに言ってにコーヒーを啜った。

 その視線の先、窓の外では、相原伊織が真剣な顔をしてブルーシートの前にしゃがみ込んでいる。彼は落とし物らしいウサギのぬいぐるみを両手で顔の前に掲げ持ち、ああでもないこうでもないという具合に角度を変えたり目の前にかざしたり頭上にいただいたりしていた。

 後ろに立ち心配そうに見守っていた神月悠が、ウサギを睨む伊織に何か口添えをしている。


 まったくこの友人は、彼らに甘い。そのマメさと細やかな気配りを、ほかの方面にも向けたらどうなんだろう、と思い――。椅子の背もたれに深々と持たれて、横目でその友人を睨む。


「楠見お前、また見合い相手から、断りが来たんだって?」


 するりと言うと、楠見はカップを持ったまま動きを止めた。


「……ずいぶんと、話が早いな」

理事そっち豊原とよはらさんから泣きつかれたんだ。俺からも、お前に何か言ってくれよってさ。もっと真面目に、さっさと話を進めるようにしろと」


 カップを置き、顔をしかめて額を手に載せる楠見。それを横目に見やって牧田は眉を上げた。

「知りませんよって言っといたけど。そういう話こっちに持って来られても困るから、お前のほうでちゃんとやってくれな?」


「んなこと言われたって――」

 手の下から牧田を見上げ、楠見は恨めしそうに眉を寄せる。

「そんな急がないといけない話かな。俺まだ今年やっと三十だよ? 今時さっさと身を固めないとならない歳でもないだろうが」


「そう思ってんだったら、なんで見合いなんか受けるんだ」

「こっちはそんなつもりじゃなかったんだ。他大学理事との懇親のための会食だって言われて行ったらさ、一方的に紹介されて、後は仲良くやりなさい、だ」

「けどそれにしちゃ今回は、半年近くも付き合ってたっていうじゃないか」

「月に一度くらい会って食事しただけだ」

「最初からその気がないなら、食事なんかしないでその場で断ればいいだろう?」

「断れるような持って行き方じゃないんだよ。『学校経営関係者どうしいい友達になって、たまに食事でもするといい』って――何を断ったらいいんだよ」


 言い訳めいたことを言うが、牧田の知る限りこれは初めてのことではない。本人は「いつも断っている」というが、何度かに一度そんな風に、本人の認識では「陥れられる」ような形で見合いらしきものをしている。そしてたいてい相手をほったらかし、そのうち向こうから断られる。半年は持ったほうだ。気の長い女性だったのか。それでは余計に、半年間も気を持たされた女性が気の毒である。


「まあ――ここ半年、おかげでそういう話が来なくて良かったんだけどな。またごちゃごちゃ始まると思うと、気が重いな」


 他人事のような顔で言う友人に、牧田は呆れた顔を向ける。


「お前は……ほんとに女の敵だね」

「なんだ。自分は女の味方みたいな言い方するじゃないか」

「お前よりゃよっぽど良心的だね。毎月次々新たな見合い話を持って来られるのが面倒だから、とりあえず特定の相手がいるような振りをするためにその気もない女性を横に置いておく――なんてのが、健全な男女関係じゃないって思える程度にはな」


 そう言うと、楠見はほんのわずかに気まずそうな面持ちを浮かべた。


「そんなつもりはないよ」

「だったら、相手の女性のことをどう思っていたんだ? 好きで付き合っていたのか?」

「可愛らしい女性ひとだなとは思ったよ」

「それだけか? 相手はそのまま行けば結婚まで視野に入れてたんだろ? お前はどうなんだよ」

「そりゃあ、そのまま進んでそうなれば、別にそれはそれだって……」


 牧田は驚く。


「そうなのか? いいのか? その程度にしか思っていない相手と、結婚するんだぞ?」

「結婚なんて、そのぐらいの相手とするもんなんじゃないのか?」


 当然とばかりに眉を上げた年下の友人に、訊いた牧田のほうが一瞬絶句した。

「だって……好きでもない相手と? 本気か? それでいいのか? 恋愛感情はなしでか?」


「嫌いだったらそりゃ無理さ。けど、別に一時いっときも一緒にいたくないほど嫌いじゃなけりゃな、愛情だとかそういうのは後からついてくるもんなんじゃないのかな。仮に先にそれがあったにしたって、でも、それだけで決められる要素じゃないだろ」


「そりゃまあ……」と思わず言葉を濁す。楠見家の息子にして将来この学園を、あるいはほかの企業までも――そしてことによると、社会の裏側に位置する組織をも――手中に収めることになるこの友人にとっては、結婚相手だって一時の感情で勝手に決めてはいけないものなのだと言われれば、そうなのかもしれない。


 けれど三十前にしてその、社会一般から言えば「諦めている」と称してもいいような結婚観を当たり前のように身に着けている相手に、少々危ういものを感じないでもなかった。

 そうして彼の家や、両親に思いを巡らす。その複雑な家庭環境が彼に与えた傷は、おそらく小さくはないのだ。理不尽なほどの特殊な事情を背負ったサイたちの中にいれば、相対的に常識的で真っ当な考え方を持った大人に見える楠見だが、彼もまた、およそ一般的とは言い難い荒波に身を揉まれてきたのである。


「だったらさ」

 そんな牧田の思いを拭い去るように、楠見はさっぱりとした口調で、

「先に『お前はこの女性となら一緒になってもいいぞ』って相手を見繕ってきてもらって、その中から将来恋愛感情に発展しそうな――少なくとも嫌いじゃなくて条件も悪くない相手を選ぶってのは、悪くはないと思うんだ。けどさ、今は何しろ仕事に忙しいし、それに」


 言いながら窓の外をちらりと見やって、

「あの子らのこともあるしな。その方面のことで時間を割かれるのは正直面倒だよ。別に急いで結婚しなけりゃならない歳でもないんだから、もうちょっと落ち着いてからにしてほしいって言ってんだ」


「ふん」一瞬心に浮かべてしまった楠見への同情を振り払って、牧田は鼻を鳴らす。「お前は『それどころじゃない』だろうがな、相手からすりゃそんなことも言ってられないだろうさ。何しろ早いもん勝ちだ。席が空いたってなりゃすぐに次が来るぞ。行列ができてるんだろうからな」


 せいぜいこの優柔不断な女の敵を、嫌がらせてやることにする。

 案の定、楠見は露骨に顔を歪めた。

「勘弁してくれよ」


「はん。言ってろこの贅沢もんが。可哀そうに、『見繕われて』くる女性は、相手がこんな淡白な奴だとは思ってないだろうね。生まれよし育ちよし、見てくれも悪くない、三十前にして学園副理事長の椅子に座り、遠からず理事長に就任する、この先何十年も安泰の優良株だ。若い女性が未来を夢見てやってくる。『そのうち好きになるかもしれない』で空いた時間に食事を奢る程度の奴とは想像もしないでね。はあ、不毛だねえ。相手の女性もお前さんも。まあ頑張れよ」


「勘弁してくれよ……」繰り返して、楠見はテーブルに肘をつきこめかみのあたりを抱えた。「それに、俺はそんなに『優良株』じゃない。正直、相手のほうだって賭けに出る気分だと思うぞ?」


 どこか他人ごとのように言って、また窓の外に目をやる。

 そう言われるとどう答えていいのか分からず、ここで話がこれ以上核心に迫ってしまうのも気鬱で、牧田も黙らざるを得ない。


 わずかな間、沈黙が流れていたが、ふっと楠見が視線を戻し話題を変えた。


「それより、どうだった? 例の件。何か分かったか?」

「ああ――それな」


 そうだった。そもそも楠見は、その話をしにこの部屋にやってきたのだ。

 牧田はテーブルの上に置いてあった書類を引き寄せ、手に取って眺めながら、


「相原哲也てつやくんの診察状況ね……」


 先日の事件で捕まった、相原伊織の従兄弟、哲也。逮捕されたものの、持って生まれた器には大きすぎる無茶な「サイ」の能力の行使によって、心身の衰弱に追い込まれていた彼は、長期療養の必要からまだ入院中であるという。

 書類は、楠見の依頼を受けた船津刑事が哲也の入院先から手に入れてくれた、彼の診療記録の複写だった。


「せっかく手に入れてもらったけれど、あまり分かることはないな……」


 軽く書類に目をやりながら言うと、楠見は「そうか」と肩を落とす。

 牧田はそんな楠見の前に、書類を差し出した。その視線が書類に向かうが、当然人並み以上の医学知識などない楠見には何が書いてあるのかまでは分からない。そうは知りつつ楠見の視線が漫然と資料を追うのを見ながら、牧田はゆっくりページを捲って見せるようにして、


「どういう能力や使い方が、身体にどう影響を与えるのか、ってのが知りたいんだろう? どこか一部分に異常に悪いところがあるってんなら、そこから類推できるのかもしれないけどな。だけど彼の診察記録を見た限りじゃ、取り立ててそういうところは見つからない。極度の疲労、と言ってしまえばそれまでだ。心臓を中心に、全体として体の機能が低下しているけれど――」


「心臓……」

 呟くように言って眉を顰める楠見。

 その思うところを想像しつつ、「けれど」と牧田は続ける。


「そもそも体のどこに不具合を来たしても、ほかの臓器に影響を与える。最終的に心臓に負担がかかる。だから、何が原因でどこが最初に悪くなったのかってのは、まだこれだけじゃなんとも言えない。前の彼の身体がどういう状態だったかも分からないしな」


 軽く息をつくと、楠見も同じようにため息を落とし、その視線を牧田に戻した。牧田はそれに応え、


「もう少し継続して様子を見るよ。と言っても、送ってもらった資料から分析するぐらいしかできないけどな。向こうの医者も、見たことのない症状に戸惑っているらしいから、少し詳しく調べるだろう。続けて知らせてもらうように、船津さんには頼んである」


「ああ……頼むよ」


「……だけどな」

 目を伏せるようにして頷いた楠見に、牧田は片肘をテーブルに置いてわずかに身を乗り出す。

「これはあくまで、『相原哲也くんのケース』なんだ。ほかのサイであったとしても同じかどうかまでは分からないぞ?」


「ああ。分かってる」


 もう一度楠見が頷いた時、そのポケットの中で携帯電話が鳴りだした。「出ていいか」と目で訊く楠見に顎をしゃくって、牧田はコーヒーのお代わりを注ぎに席を立った。

 サーバーの中でだいぶ煮詰まりだしたコーヒーをマグカップに注ぎながら、考える。


(臨床データが少なすぎる)


 そもそもサイというのがそう数多く世間にいるものではなく、身体に影響を来すほどの膨大な能力を持ったサイはさらにごく少数であり、それが医者にかかって医者がそれを前提として診察するなどということはまずないのである。

 楠見の組織ほどの多くのサイを抱えていれば、内部にはそういった記録が蓄積されているのかもしれないが、それをもとに医学的に正しい分析がされているのかと言えば楠見の話を聞く限り微妙なところだった。

 サイの多くは年齢とともにその能力を低下させ、いずれ失い、その後は組織とも無縁の者となる。サイの身体を継続的に診続けた医師というのがいないのである。


 楠見の懸念は牧田にもよく理解でき、牧田もその打開策を見つけたいのは一緒なのであるが、どこからどう手を付けていいのか分からないというのが現状だった。

 相原哲也のケースは、その状況下では有力なデータとして期待が持てるのであるが――。


「え? そうですか――それは……申し訳ない」


 背後で楠見が電話の相手に何事か詫びているのを聞き、振り返ると、彼は電話を耳につけながら小さく頭を下げたところだった。


「はい……こちらからもよく言って聞かせます。本当にご迷惑をお掛けしてばかりで……」


 ひたすら恐縮し謝罪の言葉を繰り返した後で、楠見は通話を切って口を歪めながら電話をポケットにしまった。


「キョウだ――あいつまた授業に出てないって、担任から」

「へえ? こっちには来てないよ? そういえば昨日も見かけなかったね」

「……何をしてるんだ?」


 眉を顰め、楠見は窓の外へと視線をやる。外の「遺失物展示会場」の様子は相変わらず。伊織は悩ましげな表情で芝生に膝をつき、三十センチ定規を恭しく両手に掲げ持って、どこかの宗教儀式よろしくひれ伏さんばかりの体勢で停止していたが、やがて諦めたように置く。すかさず隣に立っているハルが、その手に次の何か小さなものを手渡している。

 受付のテーブルでは、にこやかに男子生徒に対応するあおいと、不機嫌そうに腕を組んでいる琴子。


 この件の言い出しっぺであるはずのキョウは、ついに二日ともその会場に姿を現さなかった。

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