第2話 相原伊織の直面する、極度に深刻な問題について
5.果たしてこれほど恐ろしい罰ゲームが
学校法人
現代に至る学校法改正により、東京を本拠地に一九五一年に学校法人緑楠学園となる。
創立者は明治時代の事業家、
(……楠見さんの、ひいおじいさんか……いや、もっと前の代の人だよな……)
学園案内のパンフレットを閉じて、
兄弟や甥っ子やそういう人に事業を譲ることもあるだろうから、直系かどうかは分からない。そのうち知る機会があるだろうか。
再びパンフレットに目を戻し、ぱらぱらとページをめくる。
楠見家は現在も製薬会社、運送会社、不動産会社など複数の企業を経営していて、理事や評議員の肩書にもそれらの企業の名前がちらほら見える。
製薬会社はじめほとんどの企業は現在も神戸やその周辺を拠点にしていて、伊織の「雇用主」である
運送会社や不動産会社は西日本が中心のようだが、楠見製薬は全国区で、その名前は伊織もコマーシャルや店頭で見たことがある。
『くすみのくすりっ、くすみのくすりっ、くすみのくぅすぅりぃぃぃぃ』
子供の頃から聞いているコマーシャルソングが、たまにそれを歌っているハルの声で頭によみがえってきた。――あれはこのフレーズが大嫌いな楠見に対する、ハルのささやかな嫌がらせらしい。
ぱらぱらとまたページをめくりながら、ぼんやりと考えていた。
伊織は学校の沿革だとか背景企業だとか、そんなことをまったく知らずに、卒業生である従兄弟やその両親である伯父夫婦に勧められるままに入学したのだった。ただ、中学まで住んでいた神奈川を離れ、世話になっていた伯父の家を出て一人暮らしがしたい一心で。
(ほんと俺って、ぼんやりしてるよなあ……)
だが、パンフレットやホームページや学校史の本をどれだけ仔細に眺めても載っていない、もうひとつの楠見家の事業。それこそが、伊織に関わるものだった。
――サイの組織。
世の中の
楠見はその後継者となる予定だったが、やり方に反発して組織を離れ、東京で「個人的に」サイに関するトラブルを解決する仕事をしているらしい。ハルやキョウたちほんの数人のサイを抱え、警視庁の
組織を離れるに至った詳しい事情は聞いていない。ハルやキョウも、あまり詳しく知らないようだった。
またページをめくると、一面に大きな写真の掲載されたページが目に入る。
緑楠大学の写真だ。
(大学まで行けたらいいなあ……)
入学早々に起きた「事件」により、経済的困難に陥っている伊織を見かねて、楠見は伊織を「裏の仕事」の事務作業員として雇ってくれた。
ただし。放課後に楠見のいる理事長室に通うようになってまだ一週間にもならないが、伊織に任されるのは楠見が会議に出ている間に電話の番をするだとか――けれど電話などほとんど掛かってこない――、簡単な書類の整理だとか――整理する書類もほとんどない――、たぶんいてもいなくても変わらない簡単な仕事ばかりだ。
これで大学までの学費を賄えるほどの給料をもらうのは、図々しすぎる。その前に、ずっと楠見の仕事を続けることができるのだろうか。そのうちやっぱり伊織なんか必要ない、ということにだってなりかねない。
『今はたまたま大きな仕事がないからだよ。そのうち忙しい日もあるよ』
ハルはそう言って慰めてくれるし、
『そん時んなったら楠見はブラック企業だから気をつけろ』
キョウには脅されているが……。
(全体として、情けない)
伊織は机に突っ伏した。
ハルやキョウのように、サイの能力を自在にコントロールして仕事に使うことができれば。次々やってくる仕事に忙しく立ち働いたり、持ちあがる事件の解決に直接関与したりできれば、胸を張って「仕事をしている」と言えるのだが……。
(せめて、能力がもう少しだけでも意図的に使えるようになればなあ)
長らく封印されていたという、そもそも伊織自身が持っていることすら知らなかった、サイコメトリーの能力。まだ何度かわけの分からないままに発現しただけで、どういう能力なのかさえよく分からない。
少なくとも、先日のように不味い場面で突然発現して他人の迷惑になることだけは、避けられるようにならなくては。
(はあ……超能力って、もっと凄くてかっこいいもんだと思ってたのに……)
突っ伏したまま大きなため息をついたところで。
「おい、相原……」
クラスメイトから名を呼ばれて、顔を上げる。
「む、迎えが来てるみたいだけど?」
「あ……」
視線で示され教室の入口を見ると。
教室と廊下の境目ギリギリの場所に、真っ直ぐな黒い髪を肩のあたりで切りそろえた日本人形のような美少女の姿。だが、その顔は恐ろしく不機嫌そうで、その瞳はもはや伊織を睨んでいると言っても言い過ぎではない……。
学年でも有名な他クラスの美少女が迎えに来るという、高校一年男子としてこの上もなく贅沢なシチュエーションにも関わらず、クラスメイトが冥途の迎えがやってきたみたいな戸惑った声を上げるのも無理はない。
そして伊織もまた。胸に重いものを抱えつつ、カバンを取り、週末からの大型連休突入を控え浮かれていた放課後のクラスから冷え冷えとした雰囲気で見送られて廊下に出る。
「あ、こ、
「ぐずぐずしないで。早く来て」
冷たい瞳で伊織を横目に睨み、眉間にシワを寄せて怒ったように言うと、美少女・
「あ、はい……」
慌てて後についてやってきたのは、三階の予備教室。
放課後の誰もいない教室で、美少女と二人きりという美味しすぎる局面にしかし、伊織は恐怖以外の何も感じることができない。
「座って」
「あ、はい」
「始めて」
「あ、……はい」
恐ろしく不機嫌そうに指示をする琴子。けれどこれは怒っているわけではなく、彼女の通常の表情と話し方であるという事実に、伊織はようやく慣れ始めていた。最初の頃は、目が合うたびに「ごめんなさい」と頭を下げそうになったものだ。
「あ、えっと。せ、精神を、統一? するんですよね。心を無にする練習ですよね。昨日と同じ……」
確認すると、机を挟んで正面の席に足と腕を組んで横座りしている琴子は、一層険悪な視線で伊織を睨む。
「何度も言わせない」
「すっ、すみません!」
慣れては来ても怖いので、やっぱり謝る。
フンと息をつき、琴子はそっぽを向いた。
こう見えて、琴子は伊織の「トレーニング」に付き合ってくれているのである。精神を統一し心を無にするというのは、「超感覚」をコントロールするトレーニングの基礎訓練なのだという。
コトの始まりは昨日。前日、不用意にサイコメトリーの能力を発現してハルとキョウの仕事の邪魔をするという失態を犯し落ち込む伊織の元に、放課後になって琴子がやってきた。
『能力をコントロールする訓練、手伝ってあげてもいい』
恐ろしく嫌そうな顔で――たぶん彼女にとっては常の表情なのであるが――、琴子はそう言った。
能力をコントロールする訓練。それこそは伊織の望むものであったが、嬉しさよりも本能的な恐怖が先に立った。
『お、俺……この後は仕事だから、楠見さんのところに行かないとならなくて』
『分かった』
琴子は無表情に頷くと、伊織を引きずるようにしてまず理事長室に向かう。ちょうど在室していた楠見は、琴子の不機嫌そうな顔に臆することもなく事情を聞くと、
『なに? 能力の訓練をするから仕事に遅れる? いや、それはむしろ大事な仕事だ。伊織くん、就業時間につけておくから頑張ってきなさい。毎日? 分かった。毎日最初の三十分は研修タイムにしよう。琴子、よろしくな』
(たっ、助けてください楠見さん――!)
伊織の必死の心の叫びは、楠見に届くことはなかった。
要は、座禅のようなものである。心を無にする。心を無に。無に――何も考えなければいいのだ――何も考えない――
「何も考えないって思わない!」
「ひえぇっ、ごめんなさい!」
座禅ならまだいい。警策で肩を叩かれるほうが、まだマシだ――心の中を読まれるよりは。
テレパスである琴子には、「心を無にしている振り」は通用しなかった。うっかり心の中に何か思い浮かべようものなら、たちまちそれを声に出して読み上げられるという恐ろしい仕置きが待っているのだ。
年頃の男子にとって、同い年の美少女に心の内を読まれそれを声に出されるほどの酷い罰ゲームが、果たして世の中に他にあるだろうか?
「連休の予定を考えない!」
「数学の四十九点は忘れる!」
「ハルの手料理を思い出さない!」
読み上げられるものは今のところ可愛らしい思考ばかりだが、うっかり覗かれては不味いことを思い浮かべないように伊織は必死だった。が、しかし。思い浮かべないようにしようと思った瞬間に思い浮かんでしまうのが人の常ではないか。
「…………不味いことって、なに?」
先日の連続暴行犯も顔負けの凶悪な表情で睨む琴子に、伊織は震えあがった。
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