3.一方、車内は冷え冷えと
駅前のロータリーに目指す人物を見つけ、
すぐに、若い女性がそこに乗り込む。
ロングスカートに白いブラウスという清楚な出で立ち。良い家柄の女性らしく、たかだか車に乗るというだけの動作さえも、優雅で物腰によどみがない。背中まで伸ばした髪の良い香りが、車内を満たした。
「珍しいですね。急に電話を掛けてこられるなんて」
車を走りださせながら、楠見は横目で女性を窺う。彼女は唐突に不躾な電話を掛けてしまったことを恥じらうように、こちらには顔を向けず、わずかに瞳を伏せた。
「ご無理を言って、ごめんなさい。お忙しかったでしょう?」
「いえ、構いませんよ。ちょうど手があいたところです」
なるべく気を使わせないように微笑んで答えたが、女性の顔は晴れない。
「ここのところずっとお会いしていなかったから。どうしていらっしゃるかと思って、つい。もしかしたら、私のことをお忘れなんじゃないかって、気になってしまって」
「すみません。新学期の前後は何かとバタバタしていて……まさか、忘れてなんかいませんよ」
「ええ。学校のお仕事って、三月と四月は特に大変だと伺っていましたから。たぶんお忙しいのだろうと思ってはいたのですが」
大学理事を祖父に、文科省の官僚を父に持つ女性は、教育業関係者の多忙にも理解があった。
とはいえ――。実のところは新学期だからというだけでなく、「裏の仕事」がらみで立て続けに起きる事件に、ここひと月ほど彼女の存在など頭に思い浮かべる余地もないくらいの慌ただしさだったのであるが。まあ、そこは黙っておくことにする。
常識的な教育業界に理解があっても、超現実的な「裏の仕事」にまで理解を示せる人間は、そんじょそこらにはまずいないのである。
「分かっていただけて助かります」
「でも……でも、ですよ!」
微笑んだ楠見に、助手席の女性は顔を向ける。かすかな不満と、それを露出してしまう恥じらいが同時に浮かぶ。高度な技術である。
「一か月以上もなんにも音沙汰がないなんて、少し、寂しいですわ」
「……そんなに経ちましたかね」
「ええ。三月十五日。最後にお目に掛かった日ですわ。それも、お食事の途中で電話が鳴って慌ただしく帰って行かれました。その前は二月の二十三日。お久しぶりだというのにこの時も終始お電話を気にされて……対応とメールの返信で、ゆっくりお話もできませんでした。さらにその前は一月七日。初詣に連れて行っていただいたのは嬉しかったのですが、楠見さんは実は初詣ではなくて年が明けて二回目のお参りだって仰るし、一月から四月に掛けては忙しいからあまり時間が取れないかもしれないとこの時伺いましたが、ですがまさかこれほどとは――あんまりお会いする様子がないので、父や母も少々心配しておりますし、わたくし――」
ハンドルを握る手が汗ばむのを感じた。
「す、すみません……いやあ、……時間が経つのって早いですね。歳を取るわけだ」
引きつった笑いを浮かべた楠見に、助手席の女性がますます眉を曇らすのを察し、楠見は口調を変えて提案する。
「お詫びにごちそうしますよ。夕食、何がいいですか? すぐそこに最近開店した美味い寿司屋があるんですが――」
言いかけて楠見はハッとなる。案の定、隣の女性はさらに険悪な面持ちで、それでも奥ゆかしく小さなため息をついた。
「生ものは苦手だと申し上げていたかと思うのですが……」
「え! ええ。そうでした。いや、もちろん覚えています。俺としたことが、うっかり……申し訳ない。何かお好みのものはありますか? この辺りの店なら一通り知っています」
「それでは、……フレンチがいいですわ。子牛のブランケットかフリカッセはどうかしら……それに、春野菜のシーズンももうあと少しですから」
「フレンチですね。分かりました」
周囲のフレンチレストランは……中でも予約なしで入れそうな店は……と脳内インデックスを慌ただしく検索する楠見の横で、女性はまたわずかに恥じらうように顔を伏せる。
「我がままを言いましたかしら」
「いえ、とんでもない。我がままも嬉しいもんですよ。それに、『なんでもいい』よりは具体的なほうが助かります」
「そうですかしら?」
かすかに安堵の面持ちを見せる女性に、楠見もここへきて初めてホッと息をつく。
心が軽くなったあまり、口も柔らかくなった。
「ええ。前にお話ししたかな。家の事情で面倒を見ている子たちがいるって。彼なんかね、食べたいものはって聞くと、『なると巻き』だとか『めかぶ』だとか……あれはあれでピンポイント過ぎて、店を探すのが大変です。めかぶの上手い店って、いったい何料理だと思われます? 普通に焼き肉とかしゃぶしゃぶとか言ってくれれば楽なん――」
言っている途中で、また女性の顔が深刻に曇るのを察知し、まずい――と思った時にはもう遅かった。
「……仲が、およろしいんですのね」
「えっ……いや、彼らは子供の頃から面倒を見ているので、その――」
「その彼らとは、頻繁にお食事をされているんでしょうね」
「いやいや、仕事を手伝ってもらうんでね。食事って言っても夜遅くなったから帰りにラーメンを食わせるとかファミレスに連れていくとか、その程度ですよ?」
「わたくしは、ラーメンやファミリーレストランにもご一緒していませんわ」
「あなたをラーメン屋に連れていくわけには行かないでしょう」
きっぱりと言う楠見に、女性はようやく顔を向ける。
「何故ですの?」
「相応の店ってものがあります。フレンチですね。良い店を思い出しましたよ」
ハンドルを切りながら、楠見はわずかに女性のほうへと顔を向け、微笑んだ。
「小ぶりの店ですが、味は確かです。チキンフリカッセは絶品だったな。きっと子牛も美味い。旬のテリーヌが名物なんです。それに口直しのグラニテが、いつも気の利いた味でね。ああ、店も洒落ているんですよ。食器や内装から庭先まで凝っているし、ピアノのサロン演奏なんかもたまにやっていて――今日はどうだろう。行ってみましょう。あなたに
「あら。素敵ですわね」
ようやく女性が柔らかい笑顔を浮かべる。そして可愛らしく冗談めかした口調で、
「ですがわたくしも、そのうちラーメン屋やファミレスにも行ってみたいですわ。それにほら、ファストフード店。入ったことがありませんの。通り掛かるたびに気になってはいるんですけれど」
彼女がいくつかの外資系チェーン店の名を流暢な英語の発音で挙げている間に、楠見の胸のポケットで携帯電話が音を鳴らしはじめた。
「ああ、ちょっとすみません」
ちょうどよく見つけた広めの路肩に車を寄せ、一言詫びて電話に出る。
だが――。
電話の相手の話に、楠見は眉を顰めた。
「なに――。そうか、それは厄介なことになったな」
受け答えながら、対応に思考を巡らす。隣にいる女性のことは、つい頭からこぼれ落ちている。
「ああ――ああ、分かった。すぐに行く。俺が行から、ひとまずそれまで待っているようにって、言っておいてくれ。
通話を切ったところで、助手席の女性のことを思い出しヒヤリと息を呑んだ。
「……あ、あの。ちょっと仕事でトラブルが発生しましてね。すぐに行かなければ――」
恐る恐る声を掛けると、女性はこちらに目も向けずに、
「……夕食は、どうなりますの?」
冷やかに問いかける。
(……まずい)
瞬時に険悪な空気に満たされ温度の下がった車内で、楠見は慌てて周囲を見回す。と。前方頭上に、燦然と光を放つ大きな「M」の文字――。先ほど女性が「入ってみたい店」として素晴らしい発音で挙げていた、外資系のファストフード店だ。
「今日はひとまず、あの店ではどうでしょうね」
言った瞬間、楠見は助手席から殺気を感じた。
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