応接に暇あらず

「つまらない娘だね」

 十を数えた頃だったろうか。

 夜の闇が集まって形を成しているかのようにどす黒い『塊』が私を見下ろしてそう言った。

 ――もし、娘さん。

 そんな呼び掛けに振り向いた先にいた『塊』が足元に落ちた櫛を拾ってくれというので、仕方なく拾って渡してやった後のことだ。

 礼に良いものをやろうと『塊』は言い、けれど私は断った。

 本当に良いものだよ、と食い下がるのであなたは嘘を吐いていると返した。

 だって『塊』が言葉を吐くたびに闇の黒さが増したから。

 ニタリと笑った闇が牙を剥く。

 もっと人目に付かぬところで食ろうてやろうと思ったのに、と『塊』は笑う。

 けれど父を亡くしたばかりだった当時の私は一時的に死への恐怖というものが麻痺しており、それでも構わないと考えた。

 ……村の皆は噂する。

 父が亡くなったのは私が良くないものを呼び込んだせいだ、と。

 死の間際の父を思い出す。

 目の前の『塊』よりももっとずっと濃く、腐臭を漂わせる闇が絡み付いて離れなかった。

 あれが私のせいであるなら、なんてことをしてしまったのかと……。

「あまり痛くしないでね」

 一目で近付いてはならないと分かる相手の櫛を拾って渡したのはこの身がどうなろうと構わなかったから。

 今にも私を食い千切らんとしていた牙がピタリと止まって私に尋ねた。

「怖くないのかい?」

 沈黙を返した私に『塊』は冒頭の台詞を吐いた。

 自分は恐怖に歪んだ顔をそのまま食らうのが好きなのだと。なのに受け入れる気でいるなんて興醒めもいいところだと。だからほら怖がってみせろ、なんて横暴な言葉を連ねてみせた。

「……ごめんなさい。今、あなたを怖がるだけの余裕が私にはないみたい」

「怖がるのに余裕なんていりやしないだろう」

「でも、怖いって思えない」

 困り顔を向けたら、そんな顔をするんじゃないよと叱られた。

 人喰いの『塊』は存外お喋りだった。

「その年で死ぬことを怖がらないなんていったいどんな育てられ方をしてきたんだい? 子供は素直に恐怖に怯えて泣き喚いて、それから逃げ惑うくらいでないと。喰い殺し甲斐もないったらありゃしない。死にたがりを喰らったところで何にも面白くないだろう」

「ごめんなさい」

「謝るんじゃないよ、まったく……」

 呆れたように溜め息を吐き出した『塊』は、仕方ないから話を聞いてやろうと続けた。

 それで余裕が出来たらちゃんと怖がるんだよって。

 よく分からない言い分だったけれど『塊』のような存在相手にはよくあることだ。

 私を探す母の声が響いて聞こえて来たから、また明日と指切りを交わしてその日は家に帰った。


 ――また明日。

 その約束がある限り『塊』は私を追えない。

 代わりに私は約束を守らなければならないのだけれど。


 翌日、家の手伝いの合間に時間を作って会いに向かった。

 お喋りな『塊』に父や噂のことを話せば、あの闇は死期の訪れを告げるものであり神にも仏にもどうしようもないもので、それを自分が呼び込んだと考えるなんてあまりに愚かで烏滸がましいことだと鼻で笑われた。

「悩みが失せたらほら、死ぬことが怖くなったろう」

 早く怖がり。

 そう牙を剥き出しにする彼を残念ながら怖がってあげることができなくて、名付け難い奇妙な関係はそれから一年程続くことになる……。

 私が祓詞を覚えたのもその頃のことだ。

 彼に会うと付いてしまう穢れが気になって家に帰り辛いと漏らした時、神社に通うよう勧められて。

「未練は多ければ多いほどいい。だから家にはきちんと帰って家族とは仲良く暮らすんだよ」

 曰く、お優しい神主に頼めば快く穢れの祓い方を教えてくれるだろうからと。紹介された相手は既に亡くなられており、そうと気付かないまま数ヶ月を過ごした私を彼は腹を抱えて笑ったものだ。

 お喋りな『塊』は意地が悪かった。

 そもそもが人喰いなのだから、当然と言われればそうなのだけれど。

 万物は須らく陰と陽とに分けることができ、世界は常にその均衡を保つよう作られている。

 そんな話を聞かせてくれたのも彼だった。

 長い時を生きて来たらしい彼はとても物知りで、よく色んな話を聞かせてくれた。


「さぁそろそろ死ぬのが怖くなったろう?」

「ごめんなさい」

 山に入る手前で道を少し逸れるとある半壊の空き家――お喋りな『塊』が住み着いた家で何度向けられたか分からない剥き出しの牙を前に私は謝った。

 彼に出会った頃と変わらず、このまま喰い殺されても構わないと考えてのことではなかった。

 怖がらなければ彼は私を喰べない。

 そう理解してしまえるだけの時間が流れていたから……。

 いや、怖くないのかと彼が牙を引かせた瞬間から薄々と気付いてはいたように思う。

「私、死ぬことを恐れるようになってもあなたのことを怖がってはあげられそうにない」

 人喰いの『塊』がその牙で私を咥える。

 けれど、肉を割くどころか皮膚を破ることもなく、着物にさえ傷を付けずにいる。

「……つまらない娘だね」

 興醒めだよ、そう言い残して消えた彼の行方を私は知らない。

 それでいいのだとも思っている。


 陰の側の者にとって陽の気は毒となり逆も然り。

 故に陽の側に住まう人の身に陰の気――穢れが良くないものを呼び込み体を壊す元となったり酷い時は死に至るものであるとも教わった。

 お咲紀さんの言うように祓ってしまうのが一番なのだという意見も理解ができないワケではない。

 けれど万物は須らく陰と陽とに分けることができ、世界は常にその均衡を保つよう作られている。

 なれば、いずれどこかで再び生まれ出ずるのだろう彼らを目の敵のようにして祓ってしまう必要はないのではないかとも考えてしまう。

 祓詞を習いながら人喰いの妖を見逃した私は善人を名乗れる人間ではない。

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