身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

 ――私の眼。他人の目。当たり前のように映る鮮やかな色彩の景色が等しく共有し得るものとは限らない。

 だから、言葉には気を付けるよう生前の父にはよく言い含められたものだ。

 私にしか視えていないものを口に出して伝えてはいけない。

 私にしか視えていない相手と言葉を交わしてはならない。

 人は己と異なる存在を怖がり疎むものだから。

 ……けれど、例えばここに一つの結い紐があるとして。私には美しい浅葱色に視えているのに他の皆は色褪せた桜色だと言う。そもそも結い紐なんてどこにあるのかと怪訝な顔を向けられることもある。確かにそこにあり美しい浅葱色をしてるのに。

 何が視えて、見えないもの?

 分からなくて口を噤んだらそれはそれで気味が悪いと噂された。

 人付き合いが億劫になって山菜摘みを理由に山に逃げていた部分があったことを私は否定できない。

 世間話や雑談といったものに混ざるのが実を言うと少し苦手だ……。


 一夜が明けて、風呂敷や提灯、村長さんの家でお借りしたものを菫が返しに向かっている間。

 家に残った私はさてどうしようかと視線を巡らせた。

 普段使われていない家というのはどんどんと黒く煤けて、しばらくすると薄ら寒さを覚える影がうろつき始める。その影が少しずつ家を傷めて壊してボロボロにしてしまうのだ。

 けれど、ここはそう放置されていないのか埃を被っているだけの空き家だった。

 目に見えて傷んでいる箇所も無い。

 昨日の内に軽く埃は払い換気も済ませたが、眠る場所を確保した程度。

 朝餉の食材については菫が帰りに揃えてくると言っていたので竃や食器でも磨いていようか……。

 水瓶の蓋を開けるも中は腐っている様子でどろりとした緑色の『何か』が静かに漂っていた。

 ……井戸の場所くらいは聞いておくべきだった。

 ふちをタンタンと二度叩いてから話し掛ける。

「捨ててしまうから、水の中から出ておいき」

 広がっていた緑色がこぶし大に固まってギョロリと一目を覗かせる。

 ……こういう分かりやすい相手ばかりなら言葉も選びようがあるのに。

 水瓶の中から飛び上がった緑色の『何か』はぬっちゃぬっちゃと粘着質な音を立てながら戸口の前まで移動すると私を振り返った。

 閉め切られているそれを開けろという催促だ。

 ちょっと待って、今行くから。

 足を向けたと同時――ガタガタッと音を立てひとりでに開いた戸にギョッとする。

「おはようございます、幸之助さん」

 凛と軽やかな声音。

 現れたお咲紀さんに『何か』が慌てて私の足元に戻ってくる。

 ……怖がってる?

 まあ、分からなくもないが。

 裾の中に隠れるのはいい。

 しかし、足に絡みつくのはやめてもらえないだろうか。

 ひやりと粘着質な感触に鳥肌が立つ。

「あなたは……」

「おはようございます」

 気取られぬように頭を下げ、折った腰を戻す前に表情を繕う。

「幸之助さんはどちらに?」

 剣呑な視線。棘を含んだ口調。

 彼女にとっての私は受け入れがたい泥棒猫も同然なのだろう。

「少し外に。じきに戻ると思いますがお待ちになりますか?」

 問い掛けるも、返ってきたのは言葉ではなくじろじろと値踏みするような視線だった。

 ぶるぶると震える『何か』が細く伸びて太腿の辺りまで上がってくる。

 やだやだ待って!

「少し動かないでいただけるかしら」

「え?」

 言うなり側まで来たお咲紀さんが膝をつく。

 おもむろに裾の中へと手を入れられ後退る間もなく私の足に絡みついていたものが引き剥がされた。

 そうして、祓詞はらえことばだろうか。

 何かをお咲紀さんが呟くと嫌だ嫌だと叫ぶようにのたうち回っていた『何か』がこれ以上くらいに目を見開いて涙を浮かべる。

 思わずあ、と声を漏らしてしまった。

 悲壮な表情に釣られ伸ばした手を紫紺の視線に制される。

 強い光を秘めた瞳が邪魔立てするなと私を睨む。

 ……彼らは濁った水辺を好むだけで、悪さは一つもしないのに。

 詞が光となって『何か』を塵へと還す。

 やめてくれと声に出して止めに入ることはできなかった。

「……視えていらしたんですね。平然としていらっしゃるからてっきり」

 立ち上がり膝についた埃を払いながらお咲紀さんは言う。

 どう返せばいいものか。

「ああいうは祓ってしまうに限ります。祓い方をご存知でないのならお教えしましょう」

「ご厚意傷み入ります」

 視え方にも程度の差というものがあり、認識や捉え方の違いでも色々と変わってくるから……。

 祓詞について、既に知っていると伝えたらお咲紀さんはいったいどんな顔をしただろうか。

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