首ったけ

 弥栄の家を出てそう歩かぬ内に、どこか他に寄るのかと声を小さくした若葉に尋ねられた。

 お優の言葉があったからだろう。

 真っ直ぐ空き家に向かう旨を伝えると彼女はそう、と相槌を打った。

 ……歯切れが悪いように感じられるのは気のせいではないに違いない。

 山の中腹で段になっている畑の中道をゆっくりと歩き進みながら言葉を待つ。

 すぐ後ろを歩いていた若葉の歩調が遅くなって距離が少しずつ開いていく。

 終いには足を止めてしまった彼女を振り返ると物言いたげな顔で瞳を揺らしていた。

 それでも俺からは口を開かない。

「君は……誰?」

 迷うように彼女は言った。

「誰って、俺は俺だよ」

「でも、菫じゃない」

 何を言っているのかと普通ならば思うだろう。

 俺は間違いなく彼女が菫と名付けた狸で、入れ替わってもなければ体を乗っ取られてもいない。

 けれど、菫じゃない。

 その言葉は当たっていないようで当たっている。

 今の俺は幸之助だ。

「穂付の姫神さんから名を給わったって言ったろう?」

「ええ」

「そういうことだよ」

 答えになっていない答えで意地悪をすれば若葉はむっと眉をひそめて唇を尖らせた。

 素直な反応に思わずははっと喉を鳴らす。

「神から名を給わるってのは、その眷属に下るってことと同義なんだ。幸之助として振る舞う以上はどう足掻いても影響を受けざるを得ない」

 名に縛られる、とでも表現すれば良いだろうか。

 民の幸福の助けになれと願われた。

 その名に沿った生き方しか許されない……。

 というか、神の使いがぐずぐず鼻を鳴らしてるような狸じゃあ恰好が付かねぇだろう?

 否定的な言い回しをしたが、俺という存在の根幹部分が変わる訳ではないし余所と比べりゃ十分過ぎるくらい自由にさせてもらってる。

 実際のところは菫の時ほど気を抜いていられないってくらいのもんだ。

 まあ、若葉は『その辺り』に敏感だから他が感じるよりも強く違いを認識しちまってんだろう。

 仕方がない。

「気になるんなら名前を呼んでくれ。お前が俺にくれた菫の名でな」

 その瞬間だけは、俺は神の使いでも何でもない。

 ただ彼女を思う狸になれるから。

「菫……?」

「ああ」

「菫」

 繰り返される名が耳に心地良い。

 雄が名乗るにはちっとばかし女々しい名だが俺はこの名を好いている。

 呼ばれて振り向けばいつだって無邪気に笑う彼女の姿があった。

 だから、この名を好いている。

 躊躇うように一度目を伏せ、開いた唇を閉じた若葉は拭い切れないでいるらしい迷いを滲ませながらも、真っ直ぐな視線を俺に向け直して言った。

「お咲紀さんと、それからお奈津さんって人のこと聞いてもいい?」

 思わずピタッと固まってしまう。

 お咲紀は分かるがお奈津の名前どこから出てきた。

 いや、後ろ暗いことなんて何一つねえから別に聞かれたところで困る話でもないんだが。

 さっきのお優の反応を思い出してもらえれば分かると思うが、村の女衆から口々に言われる言葉を思い出すとあんまり言いたくもねえというか……。

「構わねぇけど、その前に飯にしないか? 冷めちまう前に食った方がいいだろう」

「……嫌なら聞かないから、そう言って」

 あからさまな俺の態度に気を遣って引き下がろうとする若葉に、あーとかうーとか無意味な声を発して唸るしかない。

「嫌って訳じゃねーんだけどよ……」

「言いづらい?」

「ちょっと」

「なら聞かない」

 ……あらぬ誤解を招いた気がする。

 一歩踏み出し、そのまま近付いてくる。

 彼女が隣に並ぶのに合わせて体の向きを変えながら俺はそっとため息を吐き出した。

「お奈津とお咲紀は、あー……何つーか、その、俺を慕ってくれてるというか、慕ってくれてたというか」

「……無理に話してくれなくてもいいよ」

「そういうんじゃねーんだ。ただ、ぶっきら棒な言い回しになっちまうから……どう言ったもんかと」

 お奈津はもう嫁に行ってて、弥栄の話だとこの間三人目を身籠ったらしい。

 年の頃は『幸之助』と同じ。

 だから、村で付き合いの長い相手の一人と言えばそうである。

 見目の良い姫神さんを産土神に持つ故か新宮村には美男美女が多いが、お奈津もまた、目の肥えた男衆が揃って見惚れるくらいには整った顔立ちをしている。

 ……姫神さんのお気に入りってことで、彼女については色々と察して欲しい。

 若い頃のあいつは今のお咲紀とよく似てる。

 それ以上でも以下でもなくて、関係だって持っちゃいないがそれを簡潔にまとめようと思うとどうしても素っ気ない言葉になってしまう。

「あんまり無下な言い方はしたくないんだが、俺が惚れた相手は一人だけだし……」

 道を進んでいた若葉が再び足を止める。

 軽く目を見張って固まってしまい、俺はどうかしたかと首を傾げてから、また口を滑らせてしまったことに気が付いた。

「あ、ああああっいや、あのっ」

「菫」

「な、なんだよ」

 身構える俺に彼女は細く吐息をこぼした。

「一つ我が儘を言ってもいいかしら」

「お、う……?」

 手が差し出される。

 ……何かを出せってことか? 何を?

 首を傾げて問う前に言葉が足される。

「家に着くまでの間だけ、手を繋ぎたい」

 可愛らしい我が儘だった。

 なんだ、そんなことかと料理を包んだ風呂敷と提灯を片手にまとめて彼女の手に手を重ねる。

 それだけで満足そうに、安心したように顔を綻ばせるのだから本当に可愛らしい。

 ついつい俺も、と我が儘を言い出しそうになる口を閉ざして繋いだ手を軽く揺らす。

 並んで歩く道すがらは何だか童心に返ったようだった。

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