痘痕も靨
人間が狸に慕情を抱くことがあるのか。
普通ならあり得ない。
ああそうだ、あり得ない。
泣いていたからと、私を村から拐った化け狸。森では不自由がないようにと甲斐甲斐しく世話を焼いて、不穏な気配を感じ取れば離れていてもすぐ様駆け付けてくれる。村に帰ると言って聞かなければ知らないと言っていた家族にまで移住の話を持ち掛けて……。
新宮という村がどのような村かは知らないけれど、菫が選んだ村だならきっと悪いようにはならないだろう。
そんな風に信じられる狸が『普通』だって?
あり得ない。
普通な筈がない。
だったら通例に当てはめようというのがそもそもの間違いであるし、慕情を抱くことだってあり得るかもしれないじゃないか。
なのに、自分は狸だからと好意を押し付けるばかりで。村に戻って喜平太と結ばれるくらいならこのまま一緒に居たいと思った。新たな村で、今までのように家族と暮らせるのだと言われても迷っている私がいる。提示された安穏な生活に対して素直に喜べないでいる私とその理由を彼は知らないでいる。知ろうともしないで易々と手放し、村へ送ろうと言うのだ。バカだろう。
村へ戻りたいと願ったのは、何も家族のことだけが理由ではないのに……。
どうすればいいのだろう。
森で暮らすには、私はあまりに非力だ。
鬼の姿を思い起こせば恐怖で背筋が凍える。
腹の内に巣食って消えない不安を肩を抱いてやり過ごす。
「若葉」
柔らかな声で名前を呼ばれて閉じていた瞼を持ち上げると、黒から白へ。視界いっぱいに広がった卯の花に驚いて体を仰け反らせる。
私に少し待っているよう言い付けて何処かに行ってしまっていた菫と目が合った。
「卯の花は嫌いだったか?」
そんなことはない。
首を横に振ってから差し出されているそれを受け取れば彼は分かりやすく安堵の表情を浮かべた。
自然に枯れ、幹が朽ちて倒れた木に腰掛けている私の隣に座ると顔を覗き込んでくる。
「村にはかなり近い位置まで来てる。氏神の膝元に入れば鬼の心配はいらねーし……家族も、まだ着いてはいないだろうが後からちゃんと来る」
だから、そう浮かない顔をするな。
私が自分のことで悩んでいるなんてこれっぽっちも考えず、ただ安心させようとそんな言葉ばかりを彼は吐いた。
俺は狸だが嘘は言ってないぞ! とか。
誰も疑ってなんかいないのに。
もし鬼に見付かったとしても逃げるだけの時間を稼ぐくらいはしてやれるから、とか。
それって君も無事な方法なの?
真っ直ぐに私を写す菫色の瞳に見詰められるのがつらくなって、思わず彼の方に倒れ込む。
その肩に額を付けて。
手に持つ卯の花がなければ私の腕は何を掴んだだろうか。
慌てる彼は、しかしその手で私に触れようとはしない。
「わっわわわわ若葉?」
「君は酷い」
「なっ……! 何でだよ!」
「選んでもくれない、選ばせてもくれない。なのに悩ませることばかり」
「は?」
そして、悩み抜く時間だけは与えてくれない。
酷い狸だ。
「私、菫に何も返せない」
「別に何もいらねーよ」
「ダメよ」
「受け取ったらそれが目的になっちまうだろ」
「私を恩も返せないような女にしないで」
示されたままに従って、保身に走り、彼以外を選ぶとするなら機会は今しかないのだから……。
だって、そうでしょう?
無事に村へ着いたとして。
それから先、菫が今までのように私と会ってくれる?
狸に慕情は抱かない。
そんな風に考える彼が。
化け狸になんて会いたがらないだろう、そう言って二度と姿を現さなくなる未来なら簡単に想像ができるけれど。
「じゃあ笑ってくれよ。俺はお前に笑ってて欲しいって、それだけなんだ」
考えるように唸って、間を置いた彼が出した答えは結局そんなものだった。
笑ってて欲しいって、何よそれ。
「……そんなの、恩返しの内に入らない」
「んなことねぇよ」
肩を掴まれグッと押される。
勢いに流される形で顔を上げた私の頰に彼の手が添えられ、菫色の視線から逃れることを禁じられる。
穏やかに諦観を滲ませた表情で。
「怒らせて、困らせて、浮かない顔させて……ちっとも笑わせてやれねぇ。俺の手じゃあ叶えられない願いだ」
……本当に、どこまでバカなのだろう。
そうやって諦めて、私が答えを出す前に決め付けて。戸惑いだけを残して去って。
叶わないのは、君が逃げ出すからでしょう。
離れていこうとする手を捕まえる。
肺いっぱいに少し湿った森の空気を吸い込んで、深く深く吸った息を今度は空になるまで吐き出して、私は頰を緩めて微笑んでみせた。
彼が見たいと願ってくれている笑顔と比べたら、きっと劣るに違いない。
それでも、精一杯の笑みを浮かべてみせた。
「こんな状況じゃなきゃいくらだって笑うよ。君の隣で、君が望むのならずっと」
私はきっと笑っていられるよ。
だから恩返しの内には入らない。
「他にはないの? 私に望むこと」
菫は答えなかった。
目を見開いて固まって、もしかすると聞こえていないのかもしれない……。
しばらくして口をパクパクと動かし始めるも、うんともすんとも言わないまま。狸の姿に戻って何処かへ走り去ってしまった。かと思えば、すぐに駆け戻ってきて前足をわたわたと動かし、必死に何かを伝えようとしてくる。
「おっ……!」
お?
「おらぁ狸だぞ!」
見れば分かる。
だからなんだ。
「狸相手になぁに言ってんだバァカ!」
バァーカ! バァーカ! と繰り返す。
彼は涙声で半泣きだ。
えっ私、泣かせるようなこと言った?
「ああいう台詞はなぁ、惚れた相手にしか言っちゃあいけねぇんだぞ!」
「なら、別にいいじゃない」
「良かぁねーよ! 惚れた相手ってぇ言ってんだろ!」
「菫が私を惚れさせてくれたら何の問題もないことでしょう」
安穏な村での暮らしなんて必要ない。危険を承知の上で、離れたくない。一緒に居たい。そう迷わず言えるくらいに。
今の私にその勇気はないけれど……。
「他にはないの? 私に望むこと」
「ねぇよ! ……ねぇよ! おらぁ狸だぞ!」
行ったり来たり。
その場をくるくる回る。
そうして今度は、俺は狸なんだと繰り返し、終いには頭を抱えて丸まって、ぐずっぐずっと泣き出してしまった。
……泣かなくったって良いじゃない。
ため息一つ。
「迷惑になるなら、もう言わないから忘れて」
困らせたい訳ではないのだから。
ただ、勇気がないから言葉が欲しくて。
迷う私の背中を押して欲しかった。
女々しいと言われても、だって私は女だし。現実性を捨てて盲目的になれるほど夢見がちな乙女ではないけれど、非道な醜男から救い出してくれた相手にこれだけ心を砕いてもらって何も思わないような薄情者とも違う。
菫が望むならこの身を差し出したっていいと思ってる。
けれど、そんな私の考えが当の相手を困らせるものでしかないのなら忘れて、捨てて、無かったことにすべきだろう。
視線を落とせば卯の花が花弁を揺らした。
浮かない顔で考え込んでいた私を気遣って彼が手折ってきてくれた花。
この花の美しさと共に芽吹いたばかりの感情は記憶の片隅に埋めてしまおう。
思い出に変えて、一時の気の迷いだったと、彼に与えられた幸福の中で笑う為に……。
不意にぐっぐっと腕を下から押された。
持ち上げてみれば膝との隙間に潜り込もうとしていたらしい菫の姿があり、びたんと体を伸ばした彼は私の太腿に伸し掛かるとぐずっと鼻を鳴らす。
「い、今考えてんだからぁ少しぐらい待てよぅ」
「…………」
「迷惑だなんて言ってねぇだろぉ」
ぐずぐず。
ぐずぐず……。
すぅーすぅー。
言われた通りに待っていた私はしばらく経ってから聞こえ始めた寝息に目を瞬かせた。
様子を伺いつつ、そうっと彼の体を持ち上げる。
だらんと垂れ下がる前足後ろ足。
眉間にシワを寄せつつも降ろされている瞼。
泣いていたせいで詰まっているのだろう、時々ずずっと鼻をすするけれど規則的と言える呼吸。
呼び掛けても、うーんと唸るばかり。
泣くことにも考えることにも疲れて眠ってしまったらしい。
嘘でしょう。
「もう、なんなのよ……」
人のことを引き止めておいて。
「ん、あ? ……おらぁ山神だぞ!」
「狸でしょ、ばか」
寝言で返事をしたかと思えば、山神って。
すぐに泣いて頭を抱えてぐずぐず鼻を鳴らす情けない化け狸の癖に。
嘘ならもっと分かりにくいものを、起きてる時に吐くべきでしょう。
膝に降ろせばもぞもぞと丸まって、完璧に寝入る姿勢の菫に嘆息を吐き出す。
まったく……。
仕様のない狸だ。
眠りを妨げないよう頭を撫でてやりながら木漏れ日の先の空を見上げる。
風に流されながら漂う雲がたまにお天道様を隠して影を濃くする。
そういえば、昔森で迷った時に助けて下さった元居た村の近くに住まう山神様はお元気でいらっしゃるだろうか。
菫と出会ったのが先か後か……という頃のことなので、御顔も御姿もすっかり思い出せなくなってしまって久しいのだけれど。
確か瞳は菫色。
それが理由で同じ目を持つ菫のことを山神様の遣いだと信じていた時期があったように思う。
いつしか忘れて、ただの狸。話を聞いてくれる人外の友人へと認識はすり替わり、今では泣き虫のおバカな化け狸。
撫でる手を止めると催促するように擦り寄ってくる。
本当に寝ているのかと突けば、突いた場所を押さえて縮こまる。
愛しくて仕様のない狸だ。
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