見ざる言わざる聞かざる
「ねぇ、菫。お願いよ。私を帰して」
日当たりの良い岩場に寝そべって、つんとそっぽを向いた狸相手に半泣きで乞い願う。
人っ子一人いない森の奥深く。
私の姿は、はたから見ればさぞ奇々怪々に写ったに違いない。
通りすがるような者もいないのだから訝しんで距離を置こうと考える相手もいない訳だが。
「嫁ぎ先で初夜も迎えない内から妖に拐われて帰ってこなかった、なんて話が広まったら家族にどんな迷惑が掛かるか……」
妖付きの娘を寄越したのかと喜平太は怒っているだろうし、立場の弱い母や弟妹たちはいよいよ村に居られなくなる。
戻ったところでどうすることもできないとしても戻らないでいるよりは後悔がないだろう。
お願いよ、と繰り返していればおもむろに立ち上がった菫がぽこんと音を立てて姿を変えた。
化け狸のそれではなく人間の、私と同年代に見える男の人だ。
白髪に菫の瞳が浮世離れしていて、化ける瞬間に居合わせてなければ山神様と勘違いしたかもしれない……。
狸の姿でも喋れないことはないらしいが言葉が喉に引っかかったような調子になって、発音に酷く気を遣うので人の姿を取った方が楽なのだそう。
「いいか
私が唇を引き結んで黙ったのを確認すると彼はふんと鼻を鳴らして元の狸の姿に戻った。
再び寝そべって不貞寝の体勢に入る。
……望まない輿入れから救い出したつもりの相手が感謝を述べるでもなく帰せ帰せとせがむので、すっかりヘソを曲げてしまっているのだ。
なんだよちくしょう、と心の内でボヤいていたら堪らなくなって菫は声に出した。
「泣いてたから、迎えに行ってやったぁってのに」
仕方ないと諦めて。だけど本音を言えばあんな男と夫婦になるのは嫌だって。泣いてたから……。
なのに俺だと知った彼女はどんな反応を見せたと思う?
驚きが抜けるといの一番に怒鳴り付けてきて、それからはご覧の通り、だ。
泣きたい気分でいるのは俺の方である。
「ぐずっ」
「……気持ちは嬉しいわ。だけど」
「だぁまってろって、言ってるだろ!」
聞いてやるもんかと前足で耳を押さえて塞ぐ。
どうせ願うなら自分の幸せを願えってんだよ。
笑って過ごせる場所に連れていってくれと頼むなら、いくらだって頷いてやるのに。
若葉はそっぽを向く俺に呆れてため息を吐き出すのである。
ちくしょう。
あんな醜男の元になんて絶対帰してやるもんか!
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