狸に嫁入り

探求快露店。

事実は小説より奇なり

 私には人ならざる友がいる。

 朝露に濡れた菫のように艶やかで美しい紫眼に鳶色の柔らかくもしっかりとした毛並み……その正体は、なんて。格好付けた言い方をしてみたが言ってしまうと相手はただの狸。山菜摘みに出掛けるといつもひょっこり顔を覗かせて、他愛もない世間話や愚痴に付き合ってくれる。野生の何処にでもいる狸である。

 餌付けをした訳でもないのに擦り寄ってくる様は無防備で警戒心の欠片もなく、それで大丈夫なのかと心配になるが。

 その瞳の色からすみれと呼んでいる。

 雄の彼には相応わしくない名付け方をしてしまったものだと後から振り返って反省をしたけれど、出会った当時の私はまだ五つ。狸は狸と性別になど頓着していなかったのだ。

 汗の滲む夏場には暑苦しくて仕方ない彼を近くの川に投げ飛ばした。

 寒さが身に染みる冬場には腕に抱え込んで暖を取った。

 好き勝手に扱った私からよく逃げ出さなかったものだと思う。

 菫は噛み付くことも引っ掻くこともしない大人しい狸で、そういう点では『ただの』という評価は撤回すべきかもしれない。

 年の近い人の子の友人たちと遊んで回った記憶より彼との思い出の方がより鮮やかに脳裏に描き出せる。

 大切な友だ。

 彼は私の大切な友だ。

 けれど、時の流れというのは残酷なもので、無垢な幼子だった私も今年で十六となる。

 嫁ぎ先が決まって、隣村に引っ越すこととなれば、そんな大切な友にも別れを告げなければならない。

「もう私が山菜摘みに訪れることはないだろうから、ここで待つなんてことをして、無防備な姿を晒してはいけないよ」

 他の人に見付かればきっと狩られてしまうから。

 十年来の友の頭を最後に一撫でして、名残惜しさと寂しさで視界が滲む前に思い出の詰まった山から下りた。

 ――それは、隣村に引っ越す一週間は前のこと。


 引っ越しを終えた今。

 私が何故、菫のことを思い出しているのか。

 それを説明する前に夫となる男の話をしておこう。


 彼は隣村の地主の息子で名を喜平太と言う。

 ひょっとこの面を被っていた方がマシなのではと言われるくらいの醜男ぶおとこで、酒癖が悪ければ親の金に物を言わせてやりたい放題。そんなんだから縁談の話を持ち掛けてもことごとく断られる始末……。そうと知ってなおも嫁ぐと決めた理由を一言にまとめるなら「子が子なら親も親」これに尽きるだろう。

 喜平太は一人息子の大事な跡取り。どうにかこうにか縁談話をまとめて世継ぎの問題に目処を立てたいと足元を見て大金を積んだ彼の親は、しかし、こちらが頷かないでいれば柄の悪い男たちをけしかけてきた。家が荒らされ畑が荒らされ……病で父を早くに亡くしている我が家に抵抗するだけの男手はなく、巻き込まれまいと目を逸らした近隣の方々からは距離を置かれて村八分。どんどんやつれていく母と十を過ぎたばかりの弟妹を前に意地を張り続けることがどうしてできようか。

 幸せになれる未来がちっとも想像できなくても、家族の暮らしに平穏が戻るなら嫁ぐ意味もあるというものだ。

 そうしてやって来た隣村で、ひょっとこの面より酷い顔のくせしてどうやら女癖も悪いらしい喜平太に、初夜もまだ迎えてはいない昼間から私は着物の帯を解かれようとしていた――。

 そんな時。

 何の前触れもなく襖が倒され、何事かと振り返るより前に私の上に跨っていた喜平太が弾き飛ばされた。

 菫色の目をした狸が私の視界を埋める……。

 雪のように真っ白な毛並みで、八尺なんてゆうに超えている巨大な狸だ。

 そう、狸。

 体が大きすぎて部屋に収まり切らないらしく窮屈そうに身を屈めている。

 あまりに非現実的な光景にそれだけを理解して私はただただぽかんと口を開けた。

 化け狸と目が合い見詰め合う。

 数秒、あるいは一瞬のこと。

「な、ななななな……!」

 腰を抜かした喜平太の意味を成していない声が耳に届いてハッと我に返った。

 途端に恐怖が全身に巡りサァと血の気が引く。

 ぼさっとしてないで逃げなくちゃ。

 何処へどうやって?

 迷っている間にも口を大きく開いた化け狸は近付いてくる。

 熱のこもった吐息に鋭い牙と赤い舌を覗かせて。

 ああ、もうダメだ。食われる。

 私は化け狸の餌となるのだ。

 そう覚悟して固く目を閉じた。

 ……けれど、鋭い牙が体を貫くことはなく、口内に収まった私を唾液で濡れた赤い舌が呑み込む様子もない。

 混乱状態に陥って、何がなんだか分からないままに身を竦ませていれば、どれくらいの時が過ぎた頃だろうか。

 化け狸の口から吐き出された私は鬱蒼と木々の生い茂る森の中にいた。

 真白の巨体――ではなく、標準大で鳶色の毛並み狸に見下ろされ、考えるより先に名前を呼んでいた。

「……菫?」

 返事の代わりに擦り寄ってくる。

 柔らかな毛並みに首元をくすぐられて思わず身をよじる。

 ええっとつまり……。

「まさか菫が?」

 私を憐れんであんな化け狸を寄越してくれたのかと、そういう意味で尋ねた。

 喜平太がどんな男で、その親からどんな仕打ちを受けたかは話して聞かせていたから。

 けれど、事実は時として予想の遥か斜め上を行くらしい。

 擦り寄るのをやめて目をまたたかせた彼はおもむろに跳び上がるとぽこんと軽い音を立てて姿を消した。

 否、変えたと言った方が正しいだろう。

 八尺はゆうに超えようかという真白の大狸に、彼は姿を変えた……。


 ずっと、ただの狸と思って接してきた十年来の友こそが私を拐った化け狸だったのだ。

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