目は口程に物を言う
菫に連れ去られてから数日……。
村に戻らねば、と思う気持ちに変わりはないが頼んだところで聞いてはもらえない。ならば自力で、と試みても方角さえあやふやな中。道が分かれば苦労はない。山道獣道には慣れていると言ってもどう進んだものか……。森を抜けることすら出来ないで迷っている内に連れ戻されてしまう。
正直、八方塞がりだ。
菫は毎日寝床を変えるので、少しずつ調べて場所を覚えていくということも出来ない。
一日、二日目はまだ良かった。三日、四日目もまだ気力が残っていた。五日、六日目になるとさすがに諦めが顔を覗かせて、早く戻らねばと急いていた気持ちも
帰してはもらえない。自力では困難。
だったらもう、泣き寝入りするしかないじゃないって。
「ねぇ、どうして毎日場所を移すの?」
日が傾いて空が橙色に染まる頃。
いつも通りに移動を終え、乗せてもらっていた背中から降りた私は遠回しな非難を言葉の端に滲ませながら尋ねた。
狸の彼にとって森の中は勝手知ったる我が家のようなものでこれという理由などないのかもしれない。けれど、一所に留まった方が私を連れて移動する必要もなくなり、山菜、魚、猪……といった食材を得るのに易い立地であれば日々集めに回ってくれている菫の手間も減るだろう。
何も私だけが得をする話ではない。
目をまたたかせ、化け狸から人へと姿を変えた彼はさも当然のことのように答えた。
「そりゃあ見付かったら俺は退治されてお前はあの男の元に戻されちまうだろ」
決まった住処で寝起きすれば楽は楽だろうがその分居場所を特定される可能性が高くなる。寝床を移すのは追手から逃げ続けるのに必要な行為なのだそう。
「退治って、」
何故? なんて疑問を抱いた私はまったく愚かだったと思う。
「俺はお前を攫った化け狸だからな」
改めて言葉に直されて愕然とした。
知っていた筈なのに。連れ去られた時は食べられてしまうのだと確かに恐怖したのに。今の今まで忘れていたかのように言葉を失った。
村に戻らねば、という気持ちに変わりはない。
ただ、私にとって彼は望まぬ婚姻から助け出そうとしてくれた大切な友人で。御伽噺で懲らしめられているような、退治されてしまわねばならない悪い狸とは結び付かなかった。
しかし、世間から見れば人攫いの化け狸……。
妖術で火を起こした彼は昼間に川で獲った魚を木で作った串に刺すとその近くに立てた。
夕餉の仕度だ。
拾い集めた枯れ木の枝を焼べて火を安定させる。
菫の姿を見つめながら立ち尽くす。
……連れ去られてから今に至るまで。
食事の準備に始まり森を彷徨い歩く私の迎え。
調理法は生か素焼きと限られてはいるものの量で言えば用意される食事は平時よりずっと豪華だ。日暮れ前の寝床を移す頃となるまでは好き勝手に動き回っても咎められず、森の中で怪我を負おうものなら酷く慌てて薬草を探しに向かってくれる。そうして夜は風邪を引かないようにと真白の巨体で私を包んで自ら布団代りを務めてくれる……彼に困らされていることと言えば頑なに帰してくれないことくらい。化け物と呼ぶにはあまりに甲斐甲斐しく気遣ってくれるから。彼と過ごす時間にもすっかり慣れ始めていて。ただの狸だと思っていた時と変わらない調子に戻っていた。
人に見付かれば彼は化け狸として退治されてしまう、なんてことはこれっぽっちも考えずに。
「若葉?」
川魚から私に視線を戻した菫が首を傾げる。
どうかしたかって。
どうかしてるのは君の方でしょう。
危険を冒して。退治されるかもしれないってのに私のことばかり気に掛けて。
帰してもらえないとか自力では困難だとか。
諦めてる場合じゃないじゃない……。
「私、やっぱり村には帰らなきゃ」
この心優しい狸が退治されてしまわない為に。
追手がいるのなら、もう必要ないと言えるのは私だけだろうから。
帰らなきゃ。
途端に閉口して不機嫌顔を覗かせる菫に頭を下げる。
膝をつき、頭を地に擦り付けて頼み込む。
「お願いします。私を村に帰して下さい」
「……帰すつもりはないって言ったろ」
「お願いします。帰して下さい」
頷いてくれるまで頼み続けよう。
それで朝になってしまったら挫けていないで帰路を探すのだ。
どんなに頼まれても帰してはやらない。頭を上げろ。そう言われても馬鹿のひとつ覚えみたいに同じ言葉を繰り返した。
お願いします。帰して下さい。
頑なな私に痺れを切らした彼がぽこんと姿を変える時の音を響かせて、あんまりうるさいようだと口を開けないようにしてやると言っていたことを思い出す。
怒って化け狸の姿に戻ったのかもしれない……。
自然と背筋が震えたが、しかし、鼻先と地面との隙間に体を捻じ込ませてきた鳶色の狸の所業にそのような畏怖も、村に戻るという意志も霧散させられることになる。
――ぺろり。
口元を舐められ、一瞬にして頭の中が白く染まった。
反射的に顔を上げると体勢を変え、最終的には上体を起こした私の膝の上に立ち、なおも続けてぺろぺろと舐めてくる。
唐突なことに焦るも彼はお構い無しだ。
「ちょ、まっ……んあっ」
ざらついた舌が唇を割る。
やばい。
危機感を覚えた私は彼の両脇に手を差し込んで無理矢理引き剥がし――ぽこん、と再び人の姿を取った彼に押し倒された。
「ままま待って菫待って!」
「……もううるさくしないか?」
「しない。しないから!」
吐息の掛かる距離まで近付いていた彼がこちらの様子を伺いつつも離れていく。
「うるさくしたらまた口を開けないようにするからな」
私に覆い被さった体勢はそのままにムスッとした表情で彼はそう言った。
え、と間の抜けた声が漏れたのは仕方のないことだったと思う。
いきなり口を舐められて訳が分からなかったが、まさかそういう……?
「何だよ」
「わ、私を食べるって意味だと思ってたから」
「はあ?」
何言ってんだこいつ、という目を向けられた。
いやいや。食べる食べないはさておき「口を開けないようにする」と言われて、きっとひたすら舐められるに違いない……なんて考える人間がどこにいるというのだろう。
確かに口は開けなくなるが。
「慕ってる相手を食い殺してどうすんだ」
さも当然のことのように吐き出された言葉に再びえ、と間の抜けた声が漏れた。
これも仕方のないことだったと思う。
「慕ってる……?」
「……安心しろよ。村に帰してはやらないが、人里にはちゃんと降ろしてやるから」
多分それは、私に何かを求めるつもりはないという意思表示。
菫色の瞳が僅かに
狸の姿に戻った彼は程よく焦げ目のついた魚を前足で器用に火から離すと、内の一つを咥えてどこかに行ってしまった。
……片面しかまだ焼けてないのに。
ああ違う。そうじゃない。
彼がどこかに行ってしまったのは私の反応から自分の気持ちが受け入れられるものではないと考えたから。気不味くて。一方的に好意を寄せてくる相手が側に居ては休まらないだろうと。
それは正しい? 間違ってる?
答えを決められるのは私だけ。
だが、彼をそういう目で見たことなんて当然ながらないし、狸相手に慕情を抱けるかと聞かれたら頷き難い。だって狸だ。狸なのだ。
戸惑っている。困ってもいる。
彼の思いを拒絶するでもなく、否定するでもなく、真剣に向き合って受け止めようとしている自分がいることに。
これが喜平太だったなら不快感に鳥肌が立ったに違いない。昼間から着物の帯を解かれようとした時、受け入れ難いと感じた。あの男の欲で濡れそぼった唇も。肥え太った指も。荒い息遣いも。思い出しただけでゾッとする。
「どうしよう……」
村に帰りたくない。
喜平太の元に戻るなんて嫌だ。
我儘を言う私がひょっこり顔を出す。
帰らなきゃ。
家族のことがある。菫のことがある。
そう頭で考えても、心が正反対の言葉を吐き出す。
人里にだって降りたくない。
このまま攫われたままでいたい。
菫と一緒に居たい……。
愚かな自分から目を逸らすように両手で顔を覆った。
私を見詰める菫色の瞳が脳裏に描き出され、頰に集まる熱に奥歯を噛み締める。
他でもない君と私は一緒に居たい。
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