第一章『異界流転』
第2話 青空
澄み切った川のような青に、小さな雲がそろそろと流れていく。
小鼻を燻る青々とした若草の香り。
「ふうむ……青空を仰いで眠ったつもりはなかったのだがなぁ」
そんな事を呟き、十兵衛は頬を擦った。
「ううむ!?」
ざらりと擦るべき髭が無いことに声を唸らせる。
髭が無くなっていたのだ。鼻筋、口元を擦ると皺が無く肌に張りがあるではないか。
夢でも見ているのかとも考えた十兵衛であったが、とっさに上体を起こし掴んだ草に目を向けた。
草原に十兵衛はいた。
野山の島は遠く、草原の海は広く、ぽつぽつと所々に針葉樹が離れ小島の如く浮かんでいる。
十兵衛は頭を擦り、首を傾げた。
狐に化かされたか……あるいは俺は死んだかのどっちかだな。
十兵衛はそう思い、立ち上がり、カラッとした空気に胸を膨らませる。
服装は鹿狩りに出かけた時と同じようだ。腰には三池典太が収まっていた。
十兵衛は「ふう」と一息押し出すと、体を少し肩を揺らす。
「どうにも、俺は死んだか」
そう言う十兵衛が納得したのは、自分の体が思った以上に軽く動いたからである。
40を過ぎたころから肩を動かすのが少し重く感じていたのだが、これがない。年齢から来るもの故、治ることはないと思っていたのだ。それが、こうして思い通りに動く。ともなれば、もはや死ぬしかないだろう、というのが結論を出したゆえんだ。
死んだ身にも刀を持たされるとは……まあ、それだけ斬った故なぁ。となるとここは地獄といったところか。
少ししょんぼりと十兵衛は片方しかない目を落とした。
その時である。何処からか声が聞こえる。
「いたぁああああああああ!」
何処か殺気を含んだ女の大声に十兵衛は咄嗟に刀にではなく音とは対の方向に駆け出していた。
斬るはたやすかろうが、女は斬ると祟られるとは沢庵和尚の言葉であり、十兵衛は咄嗟に逃げた次第であった。
迫り来る女は南蛮の物だろうか、ひらひらとした服を腕にたぐり上げ、こちらに駆け寄ってきているのだ。
「何で逃げるのよ!」
女が叫んだ。声からしてまだ娘というべき若さであると考えられた。
「お主が追って来るからだ!」
「逃げるからでしょ!」
十兵衛はこれはいかん水掛け論になるだけだと、キッと動きを止め、振り向いて見せた。
これには驚いたようで、娘もまたその場で動きを止める。
「な、何よ……」
「ええい。煮るなり焼くなり好きにしろ! まったく……、死後は鬼に食われるかとも思っておったが、まさか女に食われるとはな。いやはや、何とも地獄とはよく言ったものよ。人の苦手を心得ておるわ!」
十兵衛は片目を閉じて、両手を広げて大の字を娘の方に向けた。
「ちょっと、何言っているのよ」
そんな言葉に十兵衛は片目をそっと開け、腕を組んで口元をへの字に歪めた。
娘は17か18といったところか、顔立ちはそれこそ南蛮人らしく大きな青い目に、二重瞼。黄色の髪は後ろで結われている。
そこではたと、南蛮人であるというのに、何故言葉が通じあっているのだ、という事を十兵衛は考えたが、地獄ならばと納得しなおした。
「死んでるって何よ」
「何とは……俺は死んだのだろう?」
「死なれちゃ困るってのよ。折角呼び出したのに」
「呼んだ? 俺は覚えがないぞ……」
「そりゃないでしょうね。ってかもう、いろいろ説明したげるからさ、ついて来て!」
「ついてくるとはどこにだ?」
「村があるからさ」
娘はそう言うとすたすたと十兵衛に背を向けて歩き出した。
ついて来いという事らしい。十兵衛は「ふむ」と顎を擦り、少し間をおいて娘の後ろを歩いて行く。
「村……地獄に村があるのか」
「何なのよ、地獄って」
地獄とは何ぞや……娘はそう言った。
十兵衛は短く意味も容易いその言葉に何やら恐ろしく深い意味を感じた。つまり、今自分は試されているのではないかという事だ。
「そう問われると弱いの。一種の禅問答と言うやつだな」
「はあ? ああ、まあ、そうね、それはアンタの世界の話ね……うーんと、まあ、そう言う面倒なのも含めて村で説明してあげるから」
「先ほど、俺が死んでいないと言ったが、何故そう思う。俺は俺が死んだとそう思う訳だが」
「なんで生きてるのに死んだなんて思えるのよ」
何故、生きているのに死んだと思う。つまりは逆もまた然り。死んだのに何故生きているのか、とそう言う訳か。
「いやはや深いのう……」
十兵衛はしみじみと彼女の言う言葉に頷いて返す。
「うん?」
娘は何を言っているのだこの男はといわんばかりの顔で十兵衛を見上げるが、十兵衛はその視線もまた己を試さんとする眼差しであると捉えている次第なので、いよいよもって噛み合わせが悪いどころの騒ぎではなかった。
そんな互い違いの言葉を交わして数刻、二人が草原の緩やかな丘を越えたところで、その先に小さな村があるのが見て取れた。
村というから雑に家がぽつぽつと有り、田畑に取り囲まれているものと思っていたが、村の周りには柵があり、それが丁度先ほどの二人の会話よろしく互い違いになるように八枚置かれていた。
城などで言う虎口のそれと近いと十兵衛は読んだ。敵の軍勢を一挙に受け入れては村など踏みつけられるだけ。けれども互い違いに壁があれば必然的に中に入れる敵の数が制限されてしまう。
勝てる見込みはないかもしれないが、わずかくいとめるだけの時間は稼げる。死体が積もればなお良しといったところ。
十兵衛は「ふうむ」と村の防御に一人唸った。
「なによ」
「いやな、なかなかの防御をしておると感嘆したところだとも」
「防御?」
「村の防御じゃ。ほれ、壁を設けておるではないか」
「ああ、あれはうちの家臣がやったのよ」
「家臣……んん? 待たれよ。今家臣といったか?」
「ええ。それが?」
「という事はお主はそれ相応の身分になるという訳か?」
「それも説明するから、ちょっと黙っててよ!」
そう大きく叫ばれると十兵衛は弱い。
頭も剣も斬れるこの男、柳生十兵衛三厳ではあったが、こと女人はそれとなく苦手なのであった。
いや、女性は好きではある。けれども、こう、お淑やかというかはんなりとした麗しき女人──京美人なんて良いよなぁ──が好みなのだが、如何せん十兵衛は運が良いのか悪いのか、女人の縁は、限ってこう気が強い女子にばかり結ばれるのである。
大声で怒鳴られるとこの大剣豪柳生十兵衛、四十年の人生経験からくる恐怖でそこもかしこも縮こまってしまうようになった様子なのであった。
それに、この娘、身分はそれ相応に良いと見える。
ともなればと、十兵衛の脳裏をかすめるのは、奈良の良家の出であり、豪族の血を引くと嬉々として迎え受けた鬼……あいや、嫁の顔であった。
あれははんなりとお淑やかに恐ろしいからなぁ……何とも俺のために生まれたような女だ。
そう言う意味ではお似合い……あいや、鬼愛とでも読んでやろうかのうと心の奥で愚痴り笑おうかとも思ったが、『よろしおすなぁ』というにこやかに笑みを浮かべた嫁の顔が浮かび、即座に十兵衛は眉をしかめ、
「……応」
短くそう言い、十兵衛はとぼとぼと娘の如き齢の女子の後ろを歩く。
何と惨めかと草葉の影から父宗矩が怒鳴りつけそうなものではあるが、十兵衛こればかりは頭が上がらないのである。
八つの壁を抜け、二人は村の中に歩みを進めた。
木製の家が外堀、その周りには田畑が見え、中央部に行くにつれ、石造りの建物が見え始めた。つまりは外堀が農民、中央に行くにつれ身分が上がる様子らしい。
十兵衛は農民の様子を眺めた。
人は疲弊している様子である。やせ衰え、といえば言い過ぎかもしれないが、酷く疲れ怯えているのは見て取れた。
そんな大人の様子とは裏腹に子供はきゃっきゃと道端で玉を蹴って遊んでいる。
どこの国でも、幼子は同じか……。
しみじみと十兵衛は目を細めた。
その時、子供の蹴った布を丸めた鞠のような玉が娘の前に転がって来たのだ。
「あ、お姫さんだ。遊ぼう」
「ああん? 今日はちょっと忙しいのよ。こんどね」
口調はきついがまあ、面倒見は良い様子。それに、姫と呼ばれているところを見るに、やはり身分は良いようだ。
ふと、自分の袴を引っ張る物があることに気づく十兵衛。
足元を見れば幼子がいた。鼻水を垂らした泥だらけの子供だ。5、6歳といったところか。
「お兄さん何してんのさ」
お兄さんとは呼ばれる齢では無かろうと十兵衛は思うが、まあ、幼子なりの気づかいやもしれぬと聞き流す。
「それが俺にもようわからんのだ」
「ようわからん……」
「そうだ。ようわからん」
幼子は一度鼻を拭うと何も言わずすたすたと去ってしまった。
「ようわからんのう……」
幼子も女子も……と、言葉を続けようかとも思ったが、寸でのところで止めた。
「何やってんのよ! 行くわよ。時間ないんだから!」
名も知らぬ娘が叫ぶ。姫とは言ったが、俺も殿だったんだがなぁ……。
そんな事を思いながらも文句を垂れない辺り、この十兵衛少しばかり人が良すぎるのだろう。
「あいあい。参りますとも」
それとなくついて行くと、村の中央と思われるところに出た。
城とは言えないが、それでも石造りの頑丈そうな屋敷がそこにはあった。これは他とは違うようで、屋敷の周りに壁がある。どうにも、ここが主の屋敷と見て間違いない様子である。
「ここよ」
「だろうな」
そう言い、更に辺りを見ると、その屋敷の隣にどこかで見覚えのある塔と平屋の組み合わせのような建物が目に入った。
どこで見たかと考えたが、「ああ」と十兵衛は手を打つ。
諸国を放浪していた時、島原で見たものに似ていたのであった。アレは異国の神を祀るとあの若造は言っておったかと十兵衛は思う。
余談ではあるが、この時十兵衛が出会ったという若造こそは、かの島原の大乱で知られる天草四朗その人なのであるが、彼はそれを終ぞ知らぬままであった。それは幸か不幸かは彼らのみぞ知ると言ったところである。
急く娘の後ろに従い、十兵衛は屋敷に案内された。
鉄の門をくぐり、砦の如き屋敷に通される十兵衛。屋敷の中には鎧武者が二人。槍を手にこちらを睨んでいる。
「貴様……その腰の剣!」
「魔王の手下だな!」
並ぶ鎧武者二人――しかもこれも娘の声だ――の怒号に眼前の娘が悲鳴に近い静止の声を上げたが遅かった。
二つの槍先が十兵衛めがけて猛進。
「待ちなさい! その人は――――」
これを十兵衛避けるでもなく、何と驚くべきことに剣も抜かずして受けてみせたのである。
唯一動いたのはその鋭い一つの瞳だ。それは、僅か妖しく月明り程度の輝きの如き煌めき。
瞬間、槍先は十兵衛の隣をかすめもせず、斜めに空を突き、十兵衛の後ろで二つの槍先が十字に交差してみせていた。
「これこれ、姫の言葉を聞かぬのは感心せんなぁ」
十兵衛にこりとそう言って鎧武者二人の間に立ち、両手を広げて左右の二人の首筋を軽く叩いて見せた。
「なッ!? 何を……今しがた確かに……」
「刺した……いや、防がれた? だが……」
空を刺した槍先をぶるぶるとふるわせて、二人の娘は呟いた。
「ちょっと……今、何したのよ」
姫と呼ばれた娘が前で額に汗をかいて十兵衛を見上げていた。
「何も……この娘らが槍を外しただけだろう?」
「そんなはずない! ヘレナとナオミはここでも有数の槍の使い手なのよ!」
「故によ……ふふん」
十兵衛、顎をさすりながら気色悪く笑うと、姫の肩をポンとたたき、歩き出した。
「さて、行こうか」
何事もなかったかのように、十兵衛と姫は館の中に入った。
壁の内側には少しの庭があり、その奥に外からも見える石の屋敷がある。十兵衛は飄々とした表情で進む。
鬼が出るか蛇が出るか……いずれにせよ、虎穴に入らずんばなんとやらだ、と入った屋敷の中を漂う血の臭いに十兵衛はすかさずなぞっているだけであった三池典太の柄を強く握りしめた。
「娘……俺をたばかろうというならば容赦せんぞ」
十兵衛は歩みを止め、口調を強めてそう言った。嘘偽りなく、本気の言葉であった。
「どうしたのよ、急に……」
娘は少し怯えた調子で十兵衛を見る。経験則から考えるならば、これはたばかろうという目ではないと自信を持って言えるが、それは飽くまで彼女の話。
彼女を利用してこちらを陥れようとしている輩がいてもおかしくないとは、これもまた彼の経験則から来るものであった。
「この血の臭い……説明願おうか」
「…………そう、気付くわよね」
娘は少し悲しげに俯き、呟いた。それは、十兵衛にかけた言葉というよりはさながら己に言い聞かせたと見るべき言葉のように、十兵衛には感じ取れた。
「アナタに危害を加える気はないわ。それは本当。どうしても信用ならないってんなら、その剣を抜いて、アタシの首にでも突きつけておけばいいんじゃない? ここはアタシの城。アタシはこの城の何よりも価値があるわけだから。人質としては最適でしょう?」
そう言う娘に、十兵衛は静かに頷いて返し、腕を組んで笑みを浮かべて見せた。
「そうまで言うならばもう何も言うまい。何、俺に用事とはとどのつまりこの血に起因するわけなのだろう?」
「分かるんだ」
「俺はどうにもそういう廻りのもとに生まれたらしい故なぁ。仏に逢うては仏を殺し、親に逢うては親を殺す……と、するかの」
そう言って十兵衛はどこかに愛らしげな笑みを浮かべて見せる。
もちろん本当に愛らしいわけではない。男として、どこか親しみがある……そう、例えるならば父か、兄のようなそんな笑みのことである。まかり間違って愛らしい笑みと形容できるほど美男子ではないのだ、十兵衛は。
「何よそれ、殺しちゃうの?」
「あいや、これはそう言う意味ではないぞ。仏や親を殺すわけではなく、俺自身を殺すことだ。仏や親というのはすなわち俺自身の価値観に過ぎぬ。何事も物事を知る場合は、世界を壊さねばならん。そうすることで、俺は俺の人生の役割と言うやつを俯瞰に見出せるという訳だ……ふうむ、その顔、微塵も理解しておらぬな」
娘は十兵衛の発言に怒ったか、片眉を吊り上げてにらみを利かす。
「だいたい分かった」
「嘘を言え……」
「そ、そんなことはどうでも良いのよ」
娘はそう言って先を行く。
建物の中は床も石、壁も石、装飾はされているがどうにも息苦しい。加えてこの血の臭い……正直キツイと十兵衛は歩きながら思う。
「ここ」
案内されたのは、いっそう血生臭い部屋であった。
中の装飾は少し違うが、十兵衛にはそれがどう違うのか説明できそうにない。
部屋の奥には寝床が一つ。男が一人。台の上に布団を置き、その上に寝かせている様だ。
その男の周りには、もう一人女性が佇んでいる。
良く見れば男は老人であり、左腕と右足が無く、辺りを血に染めているではないか。
十兵衛は血生臭い正体を察した。
「アナタが……最高の剣士さまか」
老人が虚ろな目を開き、十兵衛を見ながらそう言った。
「最高とはいかぬが、一剣士とは言えような」
十兵衛は一目でその老人の死が迫っていることを見て取った。血を出し過ぎている。
「何があっているのか、そろそろ説明願えると、俺も助かるんだがな」
十兵衛がそう言うと、娘が「そうね」と頷いた。
「私は領主の娘だったの――――」
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