空想紫ライン
森小路なお
双子玉川から
ぷしゅー、と音を立てて乗り込んだ電車の扉が閉まる。同時に、亜美が僕を見上げた。
「ねぇ、ケイタ。どれくらいかかるの?」
「さぁ、どれくらいかなぁ」
言いながら、僕は上を見上げて路線図を探す。ごっちゃごちゃの線の集まりからやっとのことで地下鉄の紫色のラインを探し出し、順を追って駅の数を数えていると、電車ががたん、と揺れて亜美が僕の手を掴んだ。
僕は手を掴まれたまま、亜美を見下ろす。
「大丈夫?」
「うん、へいき」
亜美が僕を見上げて、そこで僕は、亜美は吊革に手が届かないのだ、と気がついた。吊革に手が届かないとなるとちょっと危ないな、と僕は思ったが、ずっとこのまま手を握っているのもなんだか気まずい。
どうしたら良いかと思案しているうちに、乗り込んだホームが過ぎ去って窓の外が真っ暗になり、亜美の小さな手が、僕の手をしっかり握り直した。手の平の熱が柔らかい感触と共に伝わってくる。そのしっとりした手を、僕が振り払うわけにもいかないでいると、亜美がぴったりと体を寄せてきた。
土曜日の午前中ということもあって、電車は観光客やカップル、それから学生のグループなんかで込み合っている。亜美を見下ろすと、つやつやした黒髪の毛先が、電車の揺れといっしょにさらさらと動いている。
僕が一歩も動けず亜美のつむじを見下ろしていると、急に彼女は顔を上げて僕に言った。
「ケイタ、はぐれないでね」
「はいはい。気を付けます」
満足そうに頷いた後、亜美は、スカートの裾が折れ曲がっているのに気がついて、空いた方の手でぱたぱたとスカートを払った。向日葵柄の白いワンピースがよく似合っている。
僕はもう一度路線図を見上げた。
そうしながらも、僕には、乗客達の視線がちらちらと亜美に注がれているのがわかった。肩で揃えたさらさらの黒髪。くりくりとした目。健康的な手足がワンピースの袖と裾からすらりと伸びている。
そうだろう。可愛いだろう。
嬉しく思いながらも、なんだか虚しい。
「えぇと、十五駅、かな」
「そんなにあるの」
亜美が大きな目を瞬かせた。それから、がっかりした顔になる。
「地下鉄って退屈なんだよね。窓の外、真っ暗だし」
そう言って、亜美は眉尻を下げて拗ねたように頬を膨らませた。まだ、次の駅にも着かないうちからそんなことを言い出すとは。僕こそ今日の外出は気乗りしていないんだけどなぁ、と思いながらも、僕は亜美の機嫌をとる方法を考えた。女の子の喜ぶ話題ってなんだろう。
「そうだなぁ。ゲーム機でも持ってくれば良かったかなぁ。亜美、ゲームとかする?」
「ううん、したことない」
「そうなの?友達とかとやらない?女子ってなにするの」
「ファッションの話とか、恋バナとか、そんなの」
僕はちょっと面食らったあと、亜美が「恋バナ」をする姿を想像した。いや、想像しようとして出来なかった。詳しく聞きたくなったが、聞きたくない気もする。
すると、僕の考えを読み取ったかのように、亜美はにやりと笑った。僕を見上げる二つの瞳が悪戯っぽく輝く。
「なに?知りたい?」
僕はぎょっとした。
「いえ、遠慮します」
僕は首を振ったが、亜美はにやにやしながら僕を見上げている。
「ケイタになら特別に教えてあげてもいいよ。その代わり、誰にも言わないって言うならだけど」
「結構です」
再度首を振ると、亜美はちょっとつまらなそうな顔になった。口を尖らせて、ぷいと向こうを向いてしまう。
がたんがたん、と電車が揺れた。
亜美の視線は、電車の窓に注がれている。
「ねぇ、ケイタ。なんで電車には窓があるの?」
「そうだなぁ。外の景色を楽しむためじゃないかな」
僕は答えながら亜美の視線を追った。地下鉄だから、窓の向こうはただただ黒い。僕が、あぁ失敗した、と思ったことを、亜美が尋ねた。
「壁を見て楽しめってこと?」
「あ、いや、その」
考えてみれば、地下鉄の電車に、窓は必要なのだろうか。
苦し紛れに僕は言った。
「窓の外を見ながら、想像してみたら?地下だから、地底人とか、もぐらとか、いるかもしれないって」
「なにそれ」
亜美がちょっと笑ったことにほっとして、一緒に窓の外を眺めていると、電車が三軒茶屋駅のホームに滑り込んだ。黒い景色が一変し、人で一杯のホームに変わる。
近くで座っていた男が席を立ち、亜美に声を掛けた。
「あの、俺、ここで降りるので、良かったら」
「わぁ!ありがとうございます」
亜美はぴょこりと礼をして、男の座っていたシートに腰を下ろした。僕も、亜美の前に移動して吊革を持つ。
ありがたい人もいるもんだな。いや、亜美が可愛いから得なだけだろうか、と僕が思っていると、電車の扉が開き、男が降りて行くのが見えた。むっつりとした顔をしていた。ふと、僕は今、どんな顔をしているだろうかと考える。いや、どんな顔をしたら良いだろう。亜美の前で僕はどんな表情をしているのが正解なのだろうか。
わからないままで亜美に目を向けると、座れて機嫌が良いのか、嬉しそうに足をぱたぱたさせたので、僕は小さな声で、「こら」とそれを窘めた。
「ねぇ、後、どれくらい?」
「後、十四駅」
「結構あるね」
「座れたんだから、良かったじゃん」
「でも、退屈」
亜美がむくれる。僕はため息が出そうになったのをすんでのところで堪える。目の前でため息やあくびを見せたら、亜美になんと言われるかわからない。
かといって、どうやったら亜美の退屈を吹き飛ばすことが出来るだろうか。先ほど、話をふって失敗したばかりだ。とりあえずゲームの話題は駄目らしい。
思案の末に僕はちょっと首をかしげてみせた。
「しりとりでもする?」
控えめに訊いてみたが、思いのほか、亜美の反応は良かった。
「いいね。じゃあ、しりとりの、り、から」
僕はほっとして、亜美としりとりを始めた。
「そうだなぁ。りす」
「すいか」
「かかし」
こうやって、なるべく平穏なまま、目的地まで着きたい。かつ、美味しい昼ごはんを彼女に食べさせて、彼女のお目当てに連れて行って、それから彼女の機嫌を損ねることなく平穏に帰ってきたい。
「ししまい」
「いー、いー、いす」
「す?えーと、すいか、はもう言ったし……」
亜美が膝から下をぱたぱたと揺らしながら俯く。
「す、す、す」と呟く亜美の隣で、着物のおばあさんがくすりと笑った。それから、にこにこしながら僕を見上げる。
「かわいいお嬢さんねぇ」
「え、あっ、はい」
突然だったので、情けないことにちょっと慌ててしまった。肯定してしまったことに気がついて、急に恥ずかしくなった。こういうときは、謙遜した方が良かっただろうか。
おばあさんはにこにこ笑っているだけで、なんだか僕はばつが悪くなった。
僕の懊悩をよそに、亜美は必死で「す」で始まる言葉を探そうとしている。
その姿を見ながら、十年後、せめてあと七年後だったらなぁ、と僕は思った。そして即座に、いや、それもどうだろうか、と僕は思い直す。
変なことを考えてしまったと反省すると同時に、全ては、休日に仕事が入ってしまった姉夫婦のせいだという思いが脳裏を掠める。
「あ!ねぇ、ケイタ!」
ぱっと、亜美が顔を上げる。
僕の八歳の姪っ子は、満面の笑みを浮かべながら、僕らの行き先を告げた。
「スカイツリー!」
空想紫ライン 森小路なお @naoshichi
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