第10話 夏の一日

 最初は、足だけでもけてみたら、と彼女に勧められていたが、そのうち腰までかれるようになった。

「話には聞いていたが」

 兄は言った。

「ほんとに塩辛いな、海って!」

 喜平二も、海は初めてだった。

 こんなに広くて大きいものだとは知らなかった。

「日差しがきつくて肌が焼けてしまいますから、御注意なさいませ。」

 言うと紅は、海に入っている時宗に大きながさかぶせてくれた。

 時宗は照れたように笑っている。

 紅が甲斐かい甲斐がいしく兄の世話を焼いてくれるのが、喜平二には嬉しかった。

 父の許しが出て、府中にある彼女の屋敷に滞在している。

 彼女の祖父は、府中のお屋形さまの元に挨拶に寄った後、何か用があると言って出かけてしまって、ここ二、三日留守にしている。

 今日は与六を供に、府中の海辺に来ている。

 泳いでいた紅が、魚のたくさん居る大きな潮溜しおだまりを見つけた。兄を呼んで、群れている魚を見せてくれる。

 与六が魚をってみたいと言う。

「じゃあ、きょうのすけ{時宗}さまにお見せして。」

 彼女が言うと、

「お任せ下さいっ!」

 必死になって魚を追い始めた。

 与六は、喜平二が目の前で紅に求婚し、彼女が承諾したのに衝撃を受けていたが、彼女が、

「あら、結婚したら毎日、あなたとも会えるのよ。」

と言うと、あっさり機嫌を直した。

「あーっ、疲れたっ!」

 紅は水から上がると、大きな岩の上で髪をしぼった。

 岩の上はよく乾いていて心地よい。

 喜平二も同じ岩に上がった。彼女の横に腰を下ろすと、空を見上げて深呼吸した。

 紅も一緒に空を仰いだ。

 燦々さんさんが降り注いでいる。

「あーっ、まぶしいっ!」

 同時に言って顔を見合わせた。

 二人の間を心地よい風が通り過ぎていく。

 兄と与六がはしゃいでいるのをながめながら、喜平二は言った。

「兄上があんなに笑っているのを見たのは、初めてだ。」

「良かった。」

 紅は言った。

「お元気になられるといいですね。」

「うん。そなたのおかげだ。」

 兄の病はうつるから遠慮しているのだ、と言ったら、そんなことお気遣きづかい下さいますな、私も兄上と遊びたいのです、と言ってくれた。

 おかげで、上田どころか屋敷からもあまり出たことのない兄が今、太陽の下で、喜平二が今まで見たことのないような笑顔を見せている。

人参にんじんは結局、見つからなかったけれど)

 思った。

 紅は人参以上に兄を元気にしてくれた。

 この女と結婚するのだ、俺は。

 与六が奮闘しているのを見ながら、紅が言った。

「甘やかしちゃってるのかなあって思うんですけど、何か可愛くって。あたし、兄弟居ないから。」

「俺も弟は居ないから、居たらあんなふうかなあって思う。」

 喜平二も言った。

 二人は又、顔を見合わせてニコッと笑った。

 幸せな時間が流れていく。

「あーもうっ、手伝ってくださいよう!」

 与六が叫んだ。

「なんか仲間外なかまはずれみたいっ!」

「わかった、わかった。」

 紅が笑いながら、腰を上げた。

 ざんぶりと海に飛び込んで、

「どうするの?」

「こっちから追って行きますから。」

「俺も手伝おう。」

 喜平二も海に入った。

 その日は、四人で十匹も、大きな魚を獲った。

 夕方になって帰り支度じたくをしていると、向こうから兵士の一団がやってくるのが見えた。

 指揮官らしい男が、紅に向かって居丈高いたけだかに言った。

「宇佐美紅、だな。神妙しんみょうにせよ。」

 いきなり紅をうししばり上げ、何処かへ連れて行こうとする。

「待て、何をする。」

 喜平二が叫んだ。

 指揮官は、何を子供が、という顔をしたが、こちらの身なりを見て態度を改めた。

「この者の祖父が、長尾ながお越前守えちぜんのかみ{政景}さまを害し奉ったとのことです。では御免ごめん。」

 一礼すると、部下に合図した。

 紅は何がなんだかわからない顔をして、引っ立てられて行った。

 喜平二は呆然ぼうぜんと立ちすくんだ。

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