第3話 板額
実は人一倍、神経質で気が短い。だからこそ平静を装っているのだ。
てっきり相手は泣きだすかと思った。
本当は彼こそ泣きたい気分だったから。
でも相手は、
「あれだけ走ったのですから仕方ありません。」
冷静だった。
ドロドロになってしまっているが、いいものを身に着けている。
ついでに言うと、男かと思ったら女だった。
しかも大層汚れてはいるものの、なかなか整った顔立ちをしている。
途中で見つけた小川で手足と顔を洗ったら、ほんとに
「どうしましょう。」
聞く。
「
空を見上げた。
「何処かで雨を避けよう。」
山の斜面が
「少々お待ちを。」
彼を洞窟に待たせて、女の子は姿を消した。
「そち……どうした、それは?」
魔法のようだ。
「さっきの小川にいた魚です。人間を知らないから
竹筒を取り出して勧めてくれる。
「私は海沿いの町で育ったので」
彼がぽかんとしているので説明した。
「釣りは得意なんです。あせることはありません。水もあるし、明朝からじっくり帰り道を探しましょう。」
かといって漁師の娘にも見えない。
海の娘がどうしてこんな山奥に、と彼が尋ねると、
「今日はお
肩をすくめた。
「あの、
「そちもか!」
声が大きくなってしまった。
二人とも同じ目的でここに来たのだった。
「お祖父さまが病気がちで」
彼女は言った。
「もし万が一のことがあれば、我が家は断絶し、私はひとりぼっちになって住む所も無くなってしまいます。今、お祖父さまと二人暮らしなのです。二年前まで叔母さまがいらしたのですが、亡くなってしまわれたので。」
死んだ叔母のことが大好きで尊敬していた、と言って彼女の話ばかりする。
とても美しい女性だったこと。外見ばかりでなく
「裁縫がお得意で、素晴らしい
「そうか。ではそのうち俺も、その陣羽織を拝見出来ることだろう。」
彼は言った。
「俺は次男だ。大きくなったら、お屋形さまの身近にお仕えすることになろう。俺はお屋形さまを尊敬している。
わくわくしている。
聞いて欲しそうなので、彼女は言った。
「お話ください。」
「ほんとうにお強いそうだ。黒雲のように群れている敵の中にでも、皆の先頭を切って
「私もお屋形さまをお慕い申しております。」
彼女は目を輝かせて言った。
「
「えっ、板額?」
「板額は、ちょっと……。」
板額は平安時代末期の越後にいた女武者だ。弓の名手で
(
こんなに綺麗な子が、大きくなって板額になってしまうなんて。
もったいない。
彼女にはこのままでいて欲しかった。
「え……駄目ですか、板額は?」
小首をかしげて、黒眼がちな目で、彼を見る。
可愛い。
「いや、許す。」
「良かった。」
ぱっと笑った。
益々可愛い。
(いいや。これだけ可愛ければ、ちょっとくらい板額でも)
一緒に戦に行ける。
「若さまは、御家族は?」
「俺は父上と母上、一番上に兄上、あと姉上と妹だ。」
「わあ、御家族が一杯なんですね。楽しそう。」
「楽しい、もんか。」
姉や妹の話をした。
「でも
彼女は言った。
「女性ですからすぐお嫁においででしょう。おいでにならなくなったら有難みがわかります。」
「そうかな?」
「そうですとも。」
熱を込めて言った。
「そうだ。」
いいことを思いついた。
「そなたも遊びに来るがよい。歓迎するぞ。」
「ほんとですか?」
「ああ。」
女なんてこれ以上要らない、と思っていたが。
この子なら大歓迎だ。
「あれ?」
首をかしげた。
「どうした?」
「今日、お祖父さまがお見舞いに伺ったおうちも……。」
言いかけて、首を振った。
「あ、いえ、何でもないです。」
闇が濃くなった。
紅は
細い、でも
後から後から音が転がり出てくる。軽快で楽しげな、綺麗な色の玉が後から後から
ひとしきり吹くと、唇から外して
「上手いな。何という曲だ。」
「さあ」
首を傾げた。
「わかりません。叔母さまから教わったのですが、そもそも叔母さまも御存知無い、とか。よく吹いていらっしゃいました。そうそう、お坊さまをお呼びしたときなど、お坊さまも
たぶん、お坊さまが奏じていらしたと思うんですけど、と自信無げに付け加えた。
何故だか、
「その方がいらっしゃるときは、必ず遠ざけられてしまって」
部屋に案内されていく後姿を一度、拝見しただけなのです。
「不思議ですよね。」
自分に言い聞かせるように
それから小さなクシャミをした。
「こっちへ来い。」
身を寄せ合って座った。
さすがに疲れたのか、眠そうな顔をしている。
肩を貸した。
彼女の肌の温もりを感じた。
どきどきした。
今まで経験したことの無い感情だった。
彼の肩に頭を預けて目を閉じていた彼女が、はっとして身を起こした。
「どうした?」
風に乗って、何か音が聞こえてくる。
洞窟の入り口まで行って、下のほうを見た。
雑木に
顔を見合わせた。
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