データ5 非日常

「おい、陽平」


「なんだ、今食事中だ」


 目の前にはいつもの奴、一応紹介しておくがこの男は同じ学科で学んでいる佐藤隆介、薬学部4年生、25歳だ。


「さっきの講義さ、なんだったけか?そのえ~っと・・・確かデリバリーなんちゃらってやつ」


「ドラッグデリバリーシステム」


「そうそれっ!あれさぁ、意味わかんなくてよ」


「単純だろ、体が吸収しやすいところに薬剤を作用させるための技術だ」


「お前の説明はマジでわかりやすいんだけど、講義のジジィが難しく言うもんだからわけわっかんねぇんだよ」


 確かに講義の内容が分かりやすいとは思わない、しかし分かりにくいのだったならば自分の言葉に置き換えてしまえばわかりやすいものである。この男はそれができずに悩んでいるのだろう。


 純粋というか、馬鹿正直というか・・・


「なぁ、今度勉強教えてくれよ」


「気が向いたらな、それよりも飯を食わせてくれ」


「べつにいいけどよ、今度お前ん家行っていいか?」


「・・・だめだ」


「なんでだよ、別に独り暮らしだろ」


「とにかくだめだ、勉強なら外でもできるだろ。わざわざ俺の家でやる必要はない」


「ということは、俺に勉強を教える気はあるってことだな?」


 あっ、しまった。


「よっしっ、言質はとったかんな。陽平っ!」


 満足げな顔であいつはランチの注文を取りに行ったがさて・・・一人で勉強したほうが捗るのに言質まで取られてしまうとは情けない。


「学食のカレー・・・なんか美味しくないな」


[[[ZIN C U M 30 7.14g/cm・cm・cm 419.53℃ 1.65]]]


 家に帰る足取りがこんなにも重く感じたことがあっただろうか、いやない。理由は二つある、まず一つに家に帰る時に音楽がないことやっぱりこんな曇天にはクラリネットもいいが、ルイ・アームストロングのトランペットみたいな明るさも少しは欲しい。


 とにかくここ数年間、音楽を聴かない日はなかった。家に帰って何か聴こうにも、あるのは先生が使ってたラジオとレコードプレイヤーしかなくて、使い方がわからない。インターネットで調べてみたもの正しく作動しなかった、おそらくどこか壊れているのだろう。


 唯一の砦が先生のウォークマンだったのだが、それも壊れてしまいどうしようもなくなってしまった。


「ハァ・・・アームストロングの『all of me』が聴きたい・・・」


 もう、独り言で愚痴るようになってしまったら終わりだというものだろう。


 家に着くと、生い茂った草の向こう側で普段は使わない玄関のライトが光っていた、一人暮らしなんだから電気代は節約してほしい。あとで言っておこう。


「た、ただいま戻りました」


 なんでだろうか、確かに人がいることには間違いない。だが果たして『ただいま』というべきなのかが少しわからない。新田 結は家族ではない、あくまで家政婦だ。


「あっ、おかえりなさい。もう少しで晩御飯ができますので」


「は、はぁ・・・」


 そして家政婦ならば仕方ない、とは思えなかった。たかが一大学生の家に家政婦を雇っているだなんぞ普通はありえない、それに人が勝手に備蓄していた食材を使うのはどうも気に入らない。


「とにかく荷物を・・・っ?」


 なんだろうか、俺が常日頃聞き慣れた音楽がキッチンの方から聞こえてくる。


 このまっすぐだが今にも消えそうで


 この切なげに歌ってくるトランペットは


 ルイ・アームストロングの『all of me』


「・・・そんな・・・まさか」


 ウォークマンからはこんな音は出ない、だが俺はこの音を知ってる。


 10年前、先生と何度も一緒に聴いた音だ。







 これは・・・レコードの音








「あっ、これですか?ちょっと部屋の整理をしてたら出てきたもので・・・すみません勝手に使ってしまって」


「・・・どうやって」


 音に引きつられるように足早にキッチンに向かうと、テーブルの上にはもう使い古されたレコードプレイヤーが切なげにそのスピーカーから切ない曲を流している。乗っているのはルイ・アームストロングのシングル『all of me』その音は今でも薄れてはいない。


「これっ、どうしたんですかっ!」


「えっ、そのぉ・・・すみませんっ!お部屋の片付けと掃除をしていたらこのレコードプレイヤーを見つけてしまって・・・そのぉ・・・」


 エプロン姿で頭をさげられるが、事情はわかった。つまりたまたま見つけたレコードプレイヤーを修理してしまい試しに曲をかけていたと。


「あの・・・すぐ戻しますので」


「・・・いえ」


「えっ・・・」


 

 どうしてか理由はわからなかった


 だが今この曲を聴き終わるまでは・・・



「止めないでください。構いませんので」


「わかりました・・・晩御飯の時もこのままで」


 俺は黙って首を縦にふる、少し恥ずかしい気持ちもあった。なんだかこう幼い子供が玩具にすがりつくような、そんな感じがした。


 俺は自分の部屋に荷物を置いて、ふと窓の外にある庭を覗くとパタパタと葉が雫を弾く音がする。暗くてよく見えないが雨が降ってきたようだ。


「お皿とお箸はこれでいいですよね?」


「あ、はい。それです」


 キッチンに戻るとテーブルの上には見慣れた器と箸が並べられていた、そしてレコードプレイヤーは相変わらず切なげなトランペットを鳴らしていたが、一つだけ見慣れないものがそこにあった。


「あの・・・これは」


「これですか?肉じゃがですけど・・・お嫌いですか?」


 別に嫌いというわけではない、むしろ好物の部類に含まれる。だがここ数年、自分はカレー味以外のものを口にしていなかった。朝も昼も夜もカレー、別に味覚がどうにかなったわけではなかったが、まるで薬物を欲しがる依存病のようにただ生きるために口にしていた作業に過ぎなかった。


「いえ、好きですよ。肉じゃが」


「よかったですっ、冷蔵庫にあるのはこれだけだったので肉じゃがくらいしか作れませんでしたが」


 確かに冷蔵庫にあったのはカレーの具材、すなわちジャガイモと肉などの類で作ったのだろう。


「では食べましょうか。陽平さんも座ってください、肉じゃがは得意料理の一つですから」


「・・・わかりました」


 目の前には茶碗に入った米、味噌汁、そして大きな器になみなみと盛られた肉じゃがが置かれている。


 俺が席に着くと、目の前にはこれを作った張本人もちゃっかり座っていて。そして彼女の眼の前にも俺と同じ献立が並んでいる。


「それでは、いただきます」


「い、いただきます」


 早速茶碗を持って、器に盛られた肉じゃがに手を伸ばす。よく考えてれば箸を使うのも久しぶりだ、少し感覚が鈍くなってる。ジャガイモを掴んだ時のこの柔らかさはどこか懐かしかった。


 ジャガイモを半分にして口に運ぶ、すると少し出汁を仕込ませたジャガイモがこの口の中でホロホロ崩れる感触と、優しい醤油の味が口の中を包み込む。続けて豚肉も口に運ぶが決して硬すぎず、でも決してこの感触を殺さない絶妙なバランスが食欲をそそった。


「とても、美味しいです」


「ハァ〜、よかった〜、男の人に手料理を振舞うのって初めてですから緊張しちゃって」


 そう言って恥ずかしげに笑っている彼女を見て、どこか不思議に思った。


 この人は何て幸せそうな表情をしてるんだろう。


 確か両親は死んだと話していたはずだ、それでもってこんな表情を豊かにできる彼女を同時に羨ましいとも思った。


「あっ、止まっちゃいましたね」


「そう、ですね」


 しばらくすると、レコードプレイヤーからは音が消えている。だがこの無音の空間で女性と二人っきりで食事ができるとは到底思えなかった。


「すみません・・・もう一度かけてもらえますか?」


「えっ、いいですよ」


 そう言って彼女はレコードプレイヤーに手を伸ばし、もう一度針をレコードの上に戻す、するとまたあの切ないトランペットの鳴く音が少し広すぎるリビングの中に響き始めた。



『Am I to be just remnant of a one side love affair』



 今の自分は・・・自分を生きてるのか?

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