データ3 雨ふる家

 

 自分の家は和室がどちらかといえば多いと思う。それほど広い家ではなくただちょっと奥行きだけあるような変な家だったが、ここは先生と俺が暮らした思い出の家であり、ここに客や人を呼んだような記憶はあまりない。


 だが。


「お邪魔します」


「どうぞタオルです。使い終わったら適当なところに置いといていただいても構いません」


 そう言ってたまたま手元にあったタオルを女に手渡すが、遠慮しているせいか行動の一つ一つに慎重さを感じる。


「あなたはここで待っててください。工具を取りに行きますから」


「ありがとうございます」


 この家に人を入れるのは何年ぶりだろうか、先生が亡くなったのはちょうど12年前でそこから今に至るまで自分の友人や家族を入れた覚えが全くない。


「確か先生の部屋にあったような気が・・・」


 先生の部屋はこの奥行きのある家のちょうど真ん中にある。先生の部屋は和室でその壁には所狭しと本棚が敷き詰められており、そしてその本棚には大量の科学専門書が詰められている。


「はぁ・・・湿気で本がダメになる」


 中に入ると若干部屋が湿気っぽい。梅雨のせいでもあるのだが、最大の原因は小さな庭につながる縁側とそれを仕切るための襖がすべて取り払われているせいだろう。これは先生が好きでやったことで雨の日にはここの庭に咲く紫陽花を眺めて論文の執筆をするのが好きだった、だからここの部屋だけ襖がないのである。


「・・・あった、これか」


 本棚の下の方、少しだけ本が入らないで金属製で青く塗装された小さな箱があった。工具なんて滅多に使わないがおそらくこれのことだろう。


 そしてずっしりと重い工具箱を持って庭の見える廊下を渡る、ふと廊下と縁側を仕切るガラス戸の向こう側の庭を眺めるがここ数年紫陽花が花を咲かしたことはない。何度か花を咲かそうと努力をしたものだが結局咲くことはなかった。


「工具を持ってきましたが、これで合ってます?」


「はい、ちょっと中身を確認させてください」


 この家で唯一の洋室であるキッチンとリビングがセットになっているところだ。そこに今日の自転車事故の加害者が座っているわけだが作業着は雨で濡れ、飾りっ気のない短い髪も少し湿っている、そしてやっぱり年齢は自分と同じくらいだろうと思う。


「中身は大丈夫です、これならウォークマンを修理できます」


「でしたらお願いします、もし何か必要なものがあったら言ってもらっても構いませんので」


「はい」


 おそらくこの女は電子基盤や組み立てなどを行う下請工場で働いているのだろう、その証拠に爪は短いし髪も短い、そして髪がわずかに折れているのは帽子をかぶっていたからなのだろう。


 さて、自分がなぜこの女を自宅に入れたのか。それは単なる興味だった、今まで物での交渉をしてきたのに対して壊したものを直してみせるという姿勢に変わったことに興味を持ったからだ。しかしそれは至極当然なことであり、壊してしまったものを直すというのは加害者の行う義務である。だがそれをどうも特別視してしまう自分がいるのはなぜか。それは案外自分自身よくわかりきっているものだ。


「っ!」


「どうかしましたか?」


 小さな声が聞こえ、自室に戻ろうとしていたところを引き返す。見れば右手を抑えており、半田ごてを使おうとしてやけどをしてしまったらしい。


「大丈夫ですか?台所で冷やしたほうがいい」


「あっ・・・」


 やけどは水や氷で冷やす。そしてその対処が早ければ早いほど、やけどによるけがの深度が浅くて済む。女を台所まで引っ張って行き、女の右手に水をかけ冷やす。


「す、すみません」


「今氷を持ってきますので待っててください」


 氷を用意する時にテーブルの上に置いてある半田ごてを見る、すると手持ちの部分が一部壊れていて金属部分がむき出しになっていた、おそらくだがそこに触れてしまったんだろう。これは確認しなかった自分のミスだ。


「すみません、氷です」


「いえ・・・ありがとうございます」


「そして、半田ごてが壊れていたようで。確認しなかった自分のミスです。すみませんでした」


「いえいえ、ちゃんと確認しなかった私も悪いんですし」


 右手を冷やしながら左手を顔の前でひらひらさせている。多分大丈夫そうだな。


「それでは、ここに置いておきますから」


「ありがとうございます」


 さて、そういえば自分はこの女の名前すら知らない。一応加害者なんだから名前くらい聞いておかないと。


「すみません、お名前を伺っていませんでしたが」


「あっ、すみません。私この近くの工場に勤務していたニッタ ユイと言います」


 なるほどな、後で電話番号と住所を・・・ん?


「すみません、さっき工場に『勤務していた』とおっしゃいましたか?」


「えぇ、今日で私の勤めてた工場が閉鎖になっちゃって・・・この作業着も記念にって持って帰ってきちゃいました」


 いや、そんなことを聞いてるわけではない。となると慰謝料の交渉は難しいか・・・


「あの、すみません。ぶつけてしまった張本人なんですがお名前を伺ってもいいですか?」


「僕は月島 陽平です。すみませんが漢字がわからないのでこちらに書いていただいてもいいですか、できれば住所と電話番号も」


「あっ・・・はい」


 そう言って冷やしている右手の氷をはじに寄せニッタ ユイが差し出された紙に自分の名前を記入する


『新田 結』


 なるほどこういう漢字で書くのか、そしてスラスラと住所を記入してゆくが。


「すみません・・・私携帯を持ってなくて」


「家の電話でも構いませんが?」


「わかりました・・・これでいいですか?」


 返された紙には丁寧な字で名前と住所、電話番号が書かれている。まぁ聞いてどうするんだという話だが。


「ここにお庭、綺麗ですね」


「えっ。まぁ今では荒れ放題なんですが」


 突如振られた話に少し動揺する。確かにリビングからも庭は見えるがそれと言って何かいいものが観れるというわけでもないし、今は花が一つも咲いていない。


「すみません、変なこと言って」


「いえ、別に構わないんですが・・・やけどはもう大丈夫ですか?」


「えっ、あぁもう大丈夫ですよこれくらい。工場でも日常茶飯事なんで」


 そして再び作業に取り掛かろうとする新田だが、その手を止めさせる。


「怪我してる上にこの半田ごては壊れてますから、新しいのは僕が揃えますので今日はお気持ちだけで十分です」


「・・・わかりました、お役に立てずすみません」


 そう言って椅子の上から頭を下げるが、悪いのはこっちだ。とにかく明日することが増えたな。


「では、今日はお帰りください。もう外も暗いですし、雨も強くなってますから。傘は・・・お貸しします」


 そういえばこの人は傘を持ってなかった。


「お気遣いありがとうございます・・・あの・・・」


「はい」


 立ち上がった新田は何かを言いたげにこっちを見ているが、どうも頼み事がありそうな感じなのだが、工具で足りないものでもあったのか?


「こんなことを頼んで厚かましいとは思うのですが・・・」


「なんでしょうか?」


 まぁ、用意した工具の代金は請求すればいいk


「ここの家政婦として雇ってもらえませんでしょうかっ」


「・・・は?」


 無言の部屋にはこの先どれほど続くかわからない梅雨の雨音がただ響いた。


 

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