たったひとつの忘れもの

白取よしひと

第1話

 二人で買った小さな手帳。

 憶えていますか。

 約束の日。

 あなたはもういないけれど、

 わたしは、ひとりで行くって決めました。

 

 あなたはやさしくて、あたたかくて、

 でも、わたしは、その幸せを壊してしまったの。

 憶えていますか。

 約束の日。

 あなたはもういないけれど、

 わたしは、ひとりで行くって決めました。

 

 二月の仙台は、雪こそないけれど寒さが辛い。わたしは、厚手のコートにしっかりとマフラーを巻いて約束の場所に出掛けた。 

 地下鉄南北線の長町ながまち駅から仙台駅までは二駅と近い。地下鉄ホームを渡る強い風の音も、車内のアナウンスもうつろに聞こえる。まさか、こんな形でこの日を迎えるなんて、3年前には思ってもみなかった。重い足どりで階段を上り地上駅に出て、西口へと歩く。飲食店の並びを横目に、細い連絡路に入ると出口はもうすぐだ。

 

 仙台駅の連絡通路を抜けて表に出ると、三方に足をのばした地上2階のデッキがある。デッキを渡る風は刺す様に冷たいけれど、ベンチや手すりの周辺には人待ちらしい姿がちらほらと見える。突然、悪戯いたずらな突風が通り抜けた。わたしは髪を整え、デッキの手すりに近づいた。小柄なわたしは、いつもそうやって風をしのいでいた。

 ここ西口は、いつも二人が待ち合わせをしていた想い出の場所。東口は表玄関で、デッキも大きく賑やかだけれど、お互いの姿を見失わない様にいつもこちちを選んでいた。

 

―― お互いを見失わない様にか……

 

 デッキの手すりに背をあてて、懐かしい眺めを見回した。連絡通路の出口。地上からのぼるエスカレーター。隣接したドラッグストア。家電店の場合もあった。そこから現れた彼の残像は、わたしを見つけて、今も微笑みかけてくれる。

 

―― いつも、あの笑顔が好きだったのよ。

 

 今日は特別な日。その約束を守ってくれる人はもういない。だけれど、わたしはひとりきりでそれを果たそうと思った。そうしないと、わたしはいつまでも変われない気がする。


 わたしが、彼の部屋を飛び出してからもう3年が過ぎた。ここで待ち合わせをしていたのは一緒に暮らす前だから、5年は訪れていなかった事になる。

 周りには、パートナーを待つ男女がたくさん集まり始めた。落ち着かなく視線を巡らす男性。髪の毛を直す女の子。スマホをいじっている人もいる。わたしも、あんな風に彼を待っていたんだわ。

 新しい電車がホームに入ったのだろうか。通路の出口が賑やかになり、人波が押し寄せてきた。その、ひとりひとりに彼の面影を探すわたしは馬鹿なのかも知れない。現れては消える彼の残像で、再びわたしの胸が騒いだ。

 

―― 耕介。三年越しの約束は果たしたわよ。

 

 マフラーを直し、階下に降りるエスカレーターに向かおうとしたわたしは、足が固まり動けなくなった。

 人波の向こうで立ち止まり、目を丸くしている彼がいる。まるで急いで駆けて来た様に、口からは白い息が漏れている。その幻を振り払う様に顔を背け、再びエスカレーターに目を向けた。

 

「和美?」

 背中越しにわたしを呼ぶ声がする。振り返ると、耕介の幻がまだ立っている。非現実的な妄想に返す言葉もなく戸惑った。

 

「和美、来てたんだ」

 

―― 嘘……

 

 それは幻なんかじゃなかった。別れてからも、いつも心のどこかに居て、謝りたかった彼が目の前に立っている。

「耕介? どうして……」

「どうしてって……」

 困り顔の彼は、ポケットから小さなブルーの手帳を取り出した。

「覚えてるかな? この手帳」

 忘れるはずはない。3年前、二人でお揃いを買ったのだ。

「これにさ、和美が書いてくれたよね」

「書いたってなにを?」

 正直、何を書いたのか全く憶えていない。今日が特別の日である事は知っている。だけれど、彼の手帳に何か書いたのか記憶がない。

 耕介は手帳をめくると、わたしに見せた。真っ白のページにカラーペンで、その言葉が書かれていた。添えられた向日葵ひまわりのイラストは、いつも自分が描いているものだ。

 

―― 3年前のわたしの字。 

 

 『2020年2月22日の午後2時。思い出の場所で待ち合わせだよ』

 

 そこには、わたしが今日ここに来た理由が楽しげに書かれていた。初めて二人で映画を見に行った時、別れ際このデッキで告白されたんだ。二人にとって、いえ、今はわたしにとって大切な想い出の場所。

 その文字を見ているうちに、記憶の片隅に置き忘れた情景が蘇った。

 

『約束だよ。絶対忘れないでね!』

『でも3年後だろ? 自信ないや』

『それじゃ、わたしが手帳に書いてあげる』

『でも手帳って、毎年買い替えるからさ……』

『いいの。毎年、新しい手帳に書いてあげるから』

 

 二人のやり取りを思いだした。そうやって、わたしは彼の手帳に書いたんだ。それから別れる事になって、新しい手帳に書き直す機会はなかった。

 わたしも、バックから赤い手帳を取り出す。3年ぶりにペアの手帳が顔を合わせた。わたしたちと一緒だ。

「和美もそれ持ってたんだ……」

 耕介が呟いた。あんなにも仲が良かったのに、どうして離れ離れになってしまったのだろう。理由は分かっている。わたしが悪かったのよ。どうしようもなく子供だったわたしは、ひとりになるのがいつも怖かった。いつも、彼と一緒にいないと心配で落ち着かなかった。その寂しさがストレスになり、そして彼にも大きな負担を掛けてしまった。

 今のわたしだったら、もう少し彼を信じて助けてあげられたかも知れない。

  

「和美は、どうしてここに来たんだよ」

「どうしてって…… 一応、約束した訳だし。それより、耕介はどうしてなのよ。何しに来たの?」

「俺だって同じだよ。約束したからさ……」

 ほんの少しだけ言葉が途切れた。耕介は3年も前の手帳を持っていてくれた。そればかりか、ここに来てくれた。もしかしたら、わたしと同じ気持ちなのだろうか。期待をすると、それ以上の不安を感じてしまうのが、わたしの悪い癖だ。2度と傷つきたくない気持ちから、本音に逆らった言葉を出してしまう。

「それじゃ、お互いに約束を果たし終わったって事ね」

 一瞬、耕介の顔に陰りが走った。どうして、わたしはこうなのだろう。出て来る言葉、そのひとつひとつが別れを急がせる。会いたかったのに。謝りたかったのに素直な自分になれない。

 すると、耕介が何かを思い出したのか、『あ!』と声を漏らした。

「そうだ。和美、忘れものしていたよ」

「え、わたしが?」

 耕介は頷いた。

 

 3年前、興奮していたわたしは、彼の部屋に置いていた私物をまとめた。彼のと並んだ歯ブラシ。わたし専用のクッション。小さな食器から、洋服まで。彼の元に、自分の抜け殻を残したくなかったのだ。そんなわたしに耕介は声を掛けた。

『どうしても、出ていくのかい?』

 それが、耕介から聞いた最後の言葉だった。掠れたその声を、何度思い出して胸が苦しくなったか知れない。

 

「わたし、全部持って出たわよ」

 彼は首を振る。

「マグカップ。ほら、白のマグカップを憶えているかい?」

 白のマグカップ…… そう言えば、あれからそのカップを見ていない。

「あのカップ…… 忘れていたのね」

「うん。取っ手の下に、赤いマニキュアのついた……」

 憶えている。まだ乾いていないマニキュアの手で、カップを持ったらマニキュアが付いてしまったのだ。わたしが塗り直しだと嘆いていたら、彼が笑ったので喧嘩になった想い出がある。そんな喧嘩も二人にとっては楽しくて、あの頃は幸せだったなと本当に思う。

「でも、よく憶えていてくれたわね」

「いや。その……それ今、俺が使ってるからさ」

「いや。それやめてよ!」

 ほんの少しだけ耕介の顔に笑みが漏れた。懐かしい笑顔だ。照れた彼は首の後ろに手をまわした。カップを捨てないで、使っていてくれたのも本当は嬉しい。白いマグカップに赤のアクセント。それは耕介との想い出であり、そう思っていたから自分も捨てずに使い続けていた。

 

「実はさ、俺も忘れものがあるんだ……」

 連絡通路から、たくさんの人たちが溢れ出てきた。それは、二人に構わず周りを流れて行くけれど、わたしたちはお互いの目しか見えていない。

「耕介の忘れもの?」

「うん。言えなかった言葉さ。ずっと、あの時に置き忘れた言葉」

 耕介はそこで言葉を切った。そして、決意した様にわたしを強く見る。

「行かないでくれ! これからも一緒に暮らそう」

 我が儘で、部屋を飛び出したわたしに言えなかった言葉。わたしは嗚咽が込み上げて、なかなか返事を返せない。

 

「あのね…… わたしも、もうひとつだけ忘れものがあるの。言えなかった言葉よ」

「なに?」

「引きとめてよ。わたしは耕介が好きなの!」

 

 2020年2月22日。二人が決めた特別な日は、3年の時を経て奇跡を起こした。


「耕介」

「なんだい?」

「来てくれて、約束を憶えていてくれて本当にありがとう。そしてごめんなさい」

 わたしの手をとってくれた彼の手はあたたかい。耕介の肩に頬を寄せると、懐かしい家に戻った気持ちになった。

 仙台駅西口に、地上2階のデッキがある。デッキの足は三方にのびていて、人々はそれを辿り慌ただしく目的の街へ降りて行く。デッキの中央では、二人の男女が抱きしめ合っていた。行き交う人は、ちらりとそれを見るが強い関心を示す事なく通り過ぎて行く。これは、二人だけの素敵なラブストーリーだ。

 

 憶えているかい。

 今日は約束の日だよ。

 この青い手帳。

 書いてくれた大切な日。

 君はもう、ここにはいないけれど

 僕は一人でも行くって決めたよ。

 

 君が使っていた白のマグカップ。

 赤いマニキュアを見るたびに、

 君を近くに感じるけれど

 この想いはもう届かないんだ。

 

 

 

「うん。この手帳なかなかいいね」

「でしょ! わたしが選んだんだから」

「3年ぶりのお揃いの手帳か……」

「ねえ。それ貸してよ!」

「え? どうするの」

 

「ほら!」

「2033年3月3日。想い出の場所で待ち合わせ! これって10年近くあとじゃないか……」

「大丈夫。わたしは絶対忘れないんだから」

 手帳に書かれた文字の隣には、楽しげな向日葵のイラストが笑っている。


 10年後の大切な約束は、どんな奇跡を起こしてくれるのかしら。和美はそう思った。

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たったひとつの忘れもの 白取よしひと @shiratori

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