第05話『懐かしい香り』
「やっぱこの時間は人が少なくていいわ」
俺は一人早朝の学校の廊下を歩いていた。
特にこれといった理由があってこんな朝っぱらから学校に来たわけでない。単に早起きできたら気まぐれでやって来ただけだ。
え? 小夏起こす作業はどうしたって?
なーに、近所迷惑など一切考慮していない大量の目覚まし時計が嫌でも起こしてくれるはずだから問題ない。
シーンと静まり返った廊下を一人歩く。
騒がしい時間は好きだが、こういった静かな時間も好きだし、時には大切だったりする。いつでもハイテンションじゃ疲れるだけだからなぁ。
「あ、そういや後で巡にお礼を言っておかないとか。スリッパ片付けておいてくれたみたいだし」
小夏と共に窓の外へダイブした昨日の放課後。あの後すぐに俺たちを心配する言葉とスリッパは片付けておいたからというメッセージが届いていた。お礼はもちろん返したが、こういうのは口でも伝えた方がいい。
「ま、登校時間までまだ二時間はあるんだ。教室で気長に待っていようかね」
独り言を呟きながら教室のドアを開く。
窓が開いているのか入った瞬間に心地よい春の風が肌を撫でた。
「――おはよう」
風に乗って澄んだ声が耳に届く。
吸い寄せられるように声のした方へ顔を向けると、風でなびく髪を押さえながらこちらを見つめる一人の少女と目が合った。
「……綺麗だな」
「?」
「あ、突然変なこと言って悪かった。瞳の色、すごく綺麗だなと思っていたら声に出していたみたいだ」
宝石のアメジストみたいな瞳。こんな綺麗な瞳をしている人を見たのは初めてで思わず見惚れてしまった。
「巡の言ってた通り変な人ね。自己紹介の時には分かっていた事だけど」
「頼むから俺の黒歴史を掘り返すのはやめてくれ。病みそうだ……というか、お前が水ノ瀬 葵雪?」
「そうよ。
「んじゃ葵雪で。葵雪はこんな時間にどうして学校にいるんだ?」
「それはお互い様でしょ? あたしは静かな空間が好きなだけよ。朝の教室って誰もいなくて静かだから」
「あー……俺もしかして邪魔だったか? 何ならその辺ぶらぶらと散歩に行ってくるけど」
「いいわよ別に。巡の友達なら構わない」
……他の人だったらダメだったってことか?
まぁ確かに人を寄せ付けないオーラがそこはかとなく漂っているような気はするが。
「ねぇ深凪兄。飴食べる?」
「食べる。てかその呼び方はなんだ?」
投げ渡されたお得用パックに詰められていそうな棒のついた飴の封を空けながら疑問を投げ掛ける。
「妹いるんでしょ? 名字同じなんだから区別するためよ。深凪兄に、深凪妹。ほら分かりやすい」
「名前で呼べば済む話なんじゃ……? 巡のことも名前で呼んでたんだから名前で呼ぶのに抵抗があるわけじゃないんだろ?」
「気分よ。普段は名前で呼ばさせてもらうわ」
「おう」
巡がこの場にいたらこの発展性のない会話に何かしらツッコミが入っているところだろう。
「それで? 修平はどうしてこんな時間に来てるの?」
「早くに目が覚めたから気まぐれで来ただけだよ。だから教室に葵雪がいて心底驚いた」
「あたしはいつもこの時間からいるわよ。だからあたしに会いたくなったらいつでも来て」
「初対面でめっちゃ好感度高くないか俺」
ギャルゲーで例えるなら物語の初っ端からイチャついてる主人公と幼馴染みたいな関係性を築かれているような気がする。
風でなびく髪から漂ってくる柑橘系の香り。
これが葵雪の香りなんだなぁと考えていると、葵雪はおもむろに立ち上がり、ついてきてと指でジェスチャーする。
反対の手には財布が握られており、自販機にでも行くんだなと何となく察した。
「あの子、あの性格で結構人は選ぶのよ」
廊下に出てしばらく歩いてから葵雪は口を開いた。
「巡のことか?」
「そう。八方美人に見えるけど実はそうでもないの。自分の周りに置く人は選んでるし、それ以外の人とは必要以上に関わりを持とうとしないのよね。けどその事に誰も気づいていない」
「……なんか意外だな。あいつには裏表なんて無いと思ってた」
「そうね。クラスメイトの誰でもいいから捕まえてこう聞いてみなさい。巡ってどんな人なんだ? って。多分揃ってみんな、巡は良い人って答えるわよ」
「うーむ……。出会った時から思ってたが……巡ってよく分からない奴だな」
「そうね。巡とは一年の時からの付き合いだけど、未だに分からない事の方が多いような気がする」
少し悲しそうな表情で葵雪は笑う。
クールで大抵の事は受け流しそうなイメージを勝手に抱いていたが、こんな表情も出来るんだなと素直に関心する。
そんな風に考えながら顔を見つめていたからか、俺の視線に気づいた葵雪はハッとして表情を引き締め、元のクールビューティーに戻る。
「この話はおしまい。暗い話はあまり好きじゃないのよ」
「その顔でか?」
「なんか馬鹿にされた気がするんだけど気のせい?」
「すまん冗談だ。俺が悪かった。だから俺の足の小指を踏み潰そうとしないでく――痛い痛い痛いッ!!」
踵で踏むのは反則だろ……!? マジで潰れたらどうするんだコンチキショー!! あ、やばい。目から汁が出てきた。
「……不思議で仕方ないのよ」
「……?」
不意に足にかけられていた力が弱まる。
あまりの痛みにしゃがみ込んでいた俺が顔を上げると、こちらを覗き込んでいた葵雪と目が合う。
「暗い話は好きじゃないって言ったけど、最後に一つだけ確認させてほしいことがあるの」
ふざけた様子は一切ない。どんなことを聞かれるのか内心不安に思いつつ葵雪の言葉を待つ。
しかし、聞き辛い事なのか葵雪はなかなか話そうとしない。耳が痛いほどの静寂がしばらく続いたあとにようやく口を開いた。
「巡とはいつからの知り合いなの?」
「……?」
質問の意図が理解出来ず俺は首を傾げる。
そんな答えが分かりきっている質問をしてまで何を知りたいというのだろうか。
「一昨日だ。この街に引っ越してきた初日に風巡丘で巡と出会った」
「以前から知り合いって訳じゃなくて本当に一昨日初めて出会ったのね?」
「ああ。そうだが……それがどうかしたのか?」
「あの子は……極度な男嫌いのはずなのよ」
「……いや、それは嘘だろ」
流石にすぐには信じられない。
あの巡が男嫌い……? 寝言は寝て言えって話だが葵雪の瞳は真剣そのもの。嘘を吐いているようには見えない。
「本当の事よ。あたしはここに入学してから二年間ずっと巡を見てきたし、巡本人だって自分は男嫌いなんだって言ってた」
「いやだってな……。俺に対するあの態度を見たろ?」
「どれの事言ってるのか分からないけど、少なくとも自己紹介の時に巡があんたの名前を呼んだ時、あたしを含めたクラスメイト全員が唖然としたのはまず間違いない」
「つまり俺は別に自己紹介で滑ったわけではないと」
「いや、それとこれとは別問題よ。そもそも巡があんたを呼んだのはクラス中が白けた後じゃない」
「……」
しかし……巡が本当に男嫌いだとするなら、どうして俺に対して初対面からあんなにも好意的だったのか理解できない。
昨日の登校した時にやたら注目されていたのは見慣れない人がいて珍しいとかではなく、巡が男を連れて歩いていたから……?
「――修平もコーヒー飲む?」
考えにふけっているうちにいつの間にか自販機のある場所に着いていたらしく、買ったばかりの微糖のコーヒーを差し出してくる。
「……人ってよく分からないな」
微糖のくせにやけに甘ったるいコーヒーを一口飲んで出てきた言葉はやたら哲学じみたもので我ながら笑えてくる。
「分からないからこそ人なのよ」
俺に合わせてくれたのか葵雪もそれっぽい言葉を返してくれる。
「あ、そうだ修平。昼休みでも放課後でもいいから妹紹介してよ。あんたの妹ってくらいだからさぞかし面白いんでしょうね」
「自己紹介で俺と同じことをやったレベルで面白いぞ」
「それってつまり……あんたと同じで相当馬鹿ってことね」
「否定しない。これでも前の学校では良い意味でも悪い意味でも有名だったからな」
「そうなの? ならこれからの日常、あんた達のおかげで退屈はしなさそうね」
「その言い方だと普段は退屈だったみたいに聞こえるんだが」
「退屈よ」
葵雪は即答してコーヒーを一気に飲み干す。
茶色の液体と一緒に日頃の不満や思いを飲み込んでいるようにも見えた。
「あたしね、普段は巡と椛以外の人とは喋らないし、関わろうともしないのよ。何でだと思う?」
「実は幽霊だった」
「ここ、ふざけるところじゃないから」
空になったスチール缶が顔面目掛けて飛んできたが、裏拳で弾いてすぐ側に設置されていたゴミ箱に放り込む。
「誰と話しても、関わっても、退屈でしかない。巡と椛だけは別だったみたいだがそれ以外の人は関わる意味すら感じなかった。ってところか?」
「分かっているならふざけないで初めっからそう答えなさいよ。嫌われるわよ?」
葵雪は呆れたようにため息を吐くが、言うほど嫌そうにはしていなかった。
「人付き合いでさ、面白くない事にも笑ったり、その人に合わせて思ってもいない事言ったりするでしょ? あたしああいうの大っ嫌いなのよ。相手の為にも、自分の為にもならない無意味な行為。上辺だけの付き合いなんて反吐が出る」
「その理屈だと葵雪の嫌いな人の対象に俺も含まれているような気がするんだが」
「最初に言ったはずよ。巡の友達なら構わないって」
「あの言葉には俺が想像していた以上の意味が込められていたってことを今理解したよ」
「巡の友達なら無条件で信じられるの。正直自分でもどうしてここまで信用できるのか分からないけどね」
「いいんじゃないか? 無条件に信じられる友達なんてそうそうできるもんじゃないしな」
俺が無条件に信じられるのなんて今のところ小夏くらいなもんだしな。小夏は友達じゃなくて妹だからノーカウントだろうが。
「巡は影の差していたあたしの人生を照らしてくれた光のような存在。椛はおまけみたいなものだけど、あの子はあの子で裏表が無いから好きよ」
「椛の扱い雑だなおい。本人がこの場にいたら冗談抜きで落ち込んでるぞ」
「もしそうなったら椛のことはあんたに任せる。ちゃんと慰めてあげて」
「悪いな。俺はそういう行為は恋人同士でやるものだと思っているんだ」
「絶対にそう言ってくると思ったわよ」
何度目か分からないため息を吐く葵雪。
「とりあえず、あんたなら無駄に気遣いも上手いだろうし、椛に――いえ、巡もね。この二人がもし困っていたり落ち込んでいたりしたら助けてあげて」
「葵雪のことも助けるぞ」
「えっ?」
当たり前のことを答えたつもりなのだが、葵雪は目を丸くして俺を見つめる。
俺は逆に葵雪がどうしてそんな反応をするのか分からず首を傾げてしまう。
「? 友達なんだから当然だろ? それにお前は人を信用してないみたいだし、信用されている俺が助けないで他に誰が助けるんだよ」
言ってて何となく理解してきた。
葵雪はきっと今まで……何でもかんでも一人で解決してきたのだろう。だから誰かに頼るということに慣れていないだけなんだなと。
「――大丈夫だ。安心していいぞ葵雪」
だから俺は自分のできる最高の笑顔を浮かべて葵雪に手を差し出す。
「俺がいれば葵雪の日常は退屈にはならないし、困った時、辛い時に一人で抱え込む必要も無い。断言したっていい。だからさ、葵雪。これから毎日面白おかしく過ごそうぜ?」
「修平……」
俺が差し出した手を見つめて葵雪の口元が緩む。
目を閉じ、大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出して再び目を開く。
「ねぇ、修平」
ポケットから取り出した飴を一つ、手のひらに乗せて差し出してくる。
「――飴、食べる?」
「……」
一片の穢れすら感じさせない純粋な笑顔を向けられ、俺は言葉を失ってしまう。
初めて見た葵雪の心からの笑顔はどんな宝石にも負けないくらい輝いていて、でもその中には年相応の少女らしい可愛らしさも含まれていた。
「――何だよ。ちゃんと笑えるじゃないか」
笑顔一つで人の印象は変わってくる。
葵雪は無愛想な顔をしているより、こうして笑っている方が絶対に似合っている。
優しい風が俺たちの間を吹き抜ける。
新しい何かを運んできて、古いものを吹きさらってくれる、そんな風。
今この瞬間、葵雪の中で何かが変わった。
今までの退屈な日々は終わりを告げ、新しい日常の1ページが開かれたのだろう。
この笑顔を見ていればそれが分かる。
「俺は深凪修平。改めてよろしくな、葵雪」
差し出された飴を手に取って俺も葵雪に負けないくらいの笑顔でお返しする。
「水ノ瀬葵雪よ。よろしくね、修平」
互いに飴を口の中に放り込む。
甘い飴の味が心を満たしていくのを感じ、一緒になって笑い合う。
きっとこの先の毎日、飽きることなく笑い続けるだろう。そんな予感がした。
「――仲良きことは美しきかな。いやー、いいもの見せてもらったよ」
パチパチと手を鳴らしながら満足そうな笑顔を浮かべた巡が姿を現す。
「あはは〜……。おはよ〜、二人共」
その後ろにはちゃっかり椛の姿もあり、何やら顔を赤くして頬を掻いていた。
突然の来訪者に葵雪は笑顔を崩して無表情に戻り、訝しげな瞳でニコニコと笑う巡を見据える。
「……巡。あなたいつから見てたの?」
「修平くんが、『大丈夫だ。安心していいぞ葵雪』ってキメ顔したあたりかな。修平くんカッコよかったよ!」
一応巡の話は聞かれていなかったか。
それが分かって俺も葵雪も安堵の息を吐く。
「覗き見とは趣味が悪いな。おい、椛。ちゃんと止めろよ」
「と、止めたよ? でも巡ちゃんが今後のネタになりそうだからって言って話聞いてくれなかったんだよ〜」
「つまり悪いのは巡だと?」
「そういうことになるね〜。わたしはどちらかと言うと被害者だもん」
「巡。ちょっと保健室行こうか? この時間ならベッドも空いてるだろ」
巡の襟首を掴んで無理やり引っ張る。
驚くほど軽く、そこまで力を入れなくても巡の体はずるずると引きずられていく。
「そんなところに私を誘い込んで何をするって言うのかな!? はっ。もしかして保健体育の実技を……」
「ベッドは俺なりの優しさだ。ここで今すぐ絞め落として放置しても構わない。春先とはいえまだ冷たい地面と、保健室のベッドの上で絞め落とされるの。どっちがいい?」
とびっきりの笑顔で俺は巡に問いかける。
尚、笑顔を向けられた巡の表情は完全に凍りついていた。
「お、女の子に暴力はいけないと思うなー?」
「え? 早く絞め落としてくれ? 分かった任せろ」
「待って!? 私そんなこと一言も――あだだだだっ!?」
背の高さが丁度よく、思った以上に綺麗にヘッドロックが決まった。
巡の頭は俺の目と鼻の先にあり、髪の毛から漂ってくる香りが鼻腔をくすぐる。
「……」
懐かしい香りだと思った。
自分でもどうしてそう思ったのか分からない。けれど――俺はこの香りを知っている。それだけは確かだ。間違いない。
「ぎ、ギブ……修平、くん……ギブ!!」
でも思い出せない。
絶対に知っているはずなのにどうして思い出せないんだ……!?
まるで記憶に鍵を掛けられているようだった。それに|思い出してはいけない(・・・・・・・・・・)と思っている自分がいることが更に理解できない。
「…………い」
クソ……何がどうなっているんだ!? 思い出そうとすればするほど分からなくなってくる……!!
「――修平!!」
「……っ!?」
頭に走った衝撃で我に返る。
途端に真っ暗だった視界に光が差し、目の前には苦笑いしながらひょいひょいと下を指さす葵雪の姿があった。
「巡、完全に落ちてるから。それ以上はオーバーキルよ」
「あ、やべっ」
腕の中でぐったりとする巡が倒れないようにしっかりと支える。本気で絞め落とす気はなかったんだがな……。
軽く頬を叩いてみるが反応は一切なく、完全に意識を失っているのは明らかだった。
「修平くん、女の子にも容赦ないんだね〜」
「まぁ今回は巡が悪いから仕方ないとして……何考えてたの?」
「……」
俺は葵雪に話すか話さないか悩んだ末――
「今日の昼飯、どうしようかなと」
――話さなかった
to be continued
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