第08話『朝の時間と缶コーヒー』

「――おはよう」


欠伸を噛み殺しながら俺は教室に入った。

まだ朝のホームルームまで時間があり教室にいる人はまばら。

だがそんな教室の中でもいつもと何一つ変わらない光景というものがあった。


「……おはよ、浅川くん」


それは窓際の席で読書をする古宮の姿だ。

雨の日も、風の日も、朝学校に登校すると決まって古宮の姿があった。

何か特別なことをしているというわけではなく、ただ読書をしているだけ。読む本は純文学や詩集なども読んでいるようだが、ライトノベル系統が圧倒的に多い。

本人曰く、ライトノベルは様々な世界観があって物語に入り込みやすい。飽きない面白さがある。とのことらしい。

俺もライトノベルは好きで結構読むほうだが、量を比べると古宮の圧倒的に多いだろう。

俺が古宮の席に向かうと、パタンと読んでいた本を閉じた。


「あ、悪い。邪魔したか?」


「……ううん。違うよ」


本をカバンにしまい、代わりにピンク色の財布を取り出した。


「……飲み物、買いに行こ」


「なるほどな。付き合うぜ」


古宮と並んで教室から出る。

朝の日差しを受けた木々が廊下にそのシルエットを作り出していた。

昼と違って静かな廊下を歩いて俺たちは階段の踊り場に立つ。


「中庭の自販機でいいのか?」


「……うん。そこのほうが、ハルカの好きなコーヒー、安い」


「場所によって違うのか?校内にあるのって同じ値段がほとんどだろ?」


「……他の、飲み物はそう…。けど、中庭のコーヒーは、ほかの所より、10円も安い」


「へぇ、お買い得だな」


「……みんな、意外と、知らない」


古宮はちょっとだけドヤ顔になる。あまり見ない古宮の表情だ。

中庭に出ると一陣の風が吹き抜ける。昼休みはお弁当を食べたり、遊んでいる生徒で賑わっている中庭もこの時間は静かなものだった。

堂々と真ん中を突っ切っていって古宮は自販機の前に立つ。お金を入れると迷わずにいつもと同じ缶コーヒーのボタンを押した。


「……浅川くんも、何か買うの?」


「そうだな……」


折角一緒に来たのだから何か買おうとは思うのだが、自販機のラインナップを見て俺はうーむと唸る。何か特別飲みたいと思うものがない。


「……」


しばらく悩んだ末、古宮と同じ缶コーヒーを買うことにした。

プシュッとプルタブを開けて一口飲むと微かな苦味と仄かなミルクの甘みが口の中に広がった。どうやらカフェオレのようだ。

普段コーヒーはブラックしか飲まないのだが、たまにはカフェオレもいいかもしれない。


「……それ、美味しいでしょ?」


「確かに美味い。缶コーヒーの中でだいぶ上のレベルだな。これでほかの所より10円安いなら文句のつけようがない」


「……べた褒め」


古宮は微笑みながらカフェオレを飲む。


「そういえば今日の数学の宿題終わってるか?」


「……一応。けど、最後の応用問題が…分からなかった」


「古宮もか……」


二次関数の応用問題なのだがこれがかなり捻った問題で歯が立たなかった。教科担当の先生も難しいから解けなくても良いとは言っていたが悔しいものがある。


「……後で、教室で一緒に…考える?」


「そうだな。分からなかったら雪原にでも聞いてみるか」


「……つもりちゃんは、きっと…出来てるよ。数学の、学年順位、一位だもん」


「そういう古宮は国語の学年順位一位だろ?漢文とか古文よく分かるよな。俺にはさっぱり分からん」


「……文法と、訳を、覚えておけば、誰でも…できるよ。あとは…慣れ、かな?」


手に持った缶コーヒーをくるくると回すように振る。


「……というより」


缶を回す手を止めて古宮は俺を見る。

引き込まれるようなアメジスト色の瞳に俺は首を傾げる。


「……化学の成績、浅川くん…学年一位、だよね」


「まあな。『主要五科目を私達のグループで一位独占しよう』っていうあの雪原が決めたルールが無ければもっとのんびりやるのにな」


「……だね」


俺たちが一年の頃に雪原が決めたルール。

国語、数学、化学、社会、英語の五つの教科を俺たちで独占するというもの。国語は古宮、数学は雪原、化学は俺で社会は反町。そして英語は余るという理由で一位から四位までを俺たちの名前で埋めるということになっている。英語の一位は一年の後期中間テストを古宮が一位を取っただけで、あとは雪原が一位を独占している。

俺は文系の科目は苦手だから大体三位か四位。反町も英語は苦手らしく、俺と共に底辺争いをしている。底辺と言っても学年四位なわけなのだが。


「今回の中間もいけそうか?」


「……分からない。でも、入らないと…つもりちゃんに、怒られる。それは…怖い」


ぶるっと古宮は肩を震わせる。


「本気で雪原がキレたら、確かに怖いな」


雪原は怒ると超が付くほど怖い。一年の頃にたった一度だけだが雪原がブチギレたことがある。

それはクラスメイトの女の子がした些細な冗談のはずだった。でもそんな冗談に雪原は恐ろしい形相で怒鳴り散らした。周りで見ていた人達も何故雪原があそこまでキレたのかすら分からない。怒鳴られている子も恐怖のあまり泣いてしまう始末。あの時――あの場に反町がいなかったら正直どうなっていたのか分からない。全員が全員どうすればいいか分からなくなっている状態で一人行動を起こした反町の行動力は尊敬に値する。


「あの時の怪我、もう治ったのか?」


雪原がキレた理由は、その冗談のせいで古宮が怪我をしたからだった。右腕に可擦り傷が出来るだけの怪我で、古宮本人も気にしていなかったのだが、雪原は古宮に怪我をさせた女の子にキレた。

収拾はついたのだが、結局雪原があそこまでキレた理由は今も分からないままだ。


「……なにを今更。あの怪我は、一週間くらいで、治ってたよ」


ワイシャツの袖を捲り上げて傷ひとつない白い肌を俺に見せる。


「……ほら…跡も、残ってないし」


「だな」


「……!」


怪我のあった場所を擦ると古宮はピクっと身体を強ばらす。


「あ、悪い」


俺は慌てて手を離す。


「……大丈夫。ちょっと、くすぐったかっただけ」


袖を下ろして古宮はスカイブルーの髪の毛を弄る。


「……触られるのが、嫌だったわけじゃ、ないから。浅川くんは、変なことしないって、知ってるから…大丈夫、だよ」


「随分と信じてくれるんだな」


「……浅川くん、だからね」


「どういう理屈だよ」


空になった缶を自販機の隣に設置してあるゴミ箱に投げ入れる。


「ま、信じてくれるのは嬉しいけどな」


空いた手で古宮の頭にぽんぽんと触れる。

シャンプーの優しい香りがふわっと香った。


「……もう。女の子の頭を、気安く触っちゃ…ダメだよ」


そう言いつつも古宮は俺の手を受け入れ続けていた。さっきの言葉通り、俺に触れられるのは嫌ではないのだろう。


「これが反町だったらどうなるだ?」


「……こうなる」


パシッと俺の手を払った。


「なるほど。これが信用の差か」


「……そういうこと」


宙に放った缶が放物線を描いてゴミ箱に吸い込まれていく。


「……教室、戻ろ」


「そうだな」


話しているうちにだいぶ時間が経っていた。

この時間ならおそらく雪原も教室にいるだろう。

俺たちは中庭を後にした。



to be continued

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