第9章 廃村の逆撃

1.


 舟橋の架橋現場から50テトラルク(約1.1キロメートル)ほど離れた沼のほとり。

 そこには1つの廃村があった。いつ放棄されたのかは定かではないが、建物の朽ち具合や井戸に溜まった砂の量から見て、5年以上前だろうとナツァトンは見当をつけていた。

 魔神の"御側衆"たる彼が魍魎たちを率いてこの廃村に根城を構えたのは、単に寒さと雨露をしのぐ建物を求めた果てであった。

 北方でヴァンディーノ公の軍勢とひと合戦してのち、ナツァトンたちは南下を余儀なくされた。公軍がまだあの付近で陣営を築いて駐屯している以上、村を襲うのもままならないためだ。

 だがそれは、"王妃の白い手"から離れることも意味する。流れ者の魍魎を4鬼ほど吸収した以外は補充もできず、たどり着いたのがこの廃村というわけだ。

 さっそく魍魎人たちに井戸の浚渫をさせたが、時間がかかりそうだ。そこで、南東30テトラルクほどと大分離れるが、小川に水を汲みに行かせたところ、架橋の現場を発見したという次第である。

 ナツァトンは、腕組みをして思索にふける。

 架橋現場を襲撃しても、旨味がない。食糧が少なくなってきている以上、どこか村を襲わねばならない。

 そう考えて諜者を放ち、いくつかの村に目星を付けた。

 だが、

「真龍、と、龍戦師、か……」

 一語一語を切ってつぶやき、噛み締める。

 永遠の王妃の宿敵である奴らが、すぐ近くにいる。しかも、5人と1体で小川に架かる橋を守っているのだ。接敵初日に多数が討ち取られたものの、まだまだ当方が大勢である。

 奴らを殺せば大殊勲間違いなし。しかし、それを叶える前に食料が尽きてしまってはおしまいだ。人はともかく、獣の類は空腹を我慢できない。奴らはナツァトンの制止を振り切って、走るだろう。近くの村か架橋現場に。

 ナツァトンは食料の管理をしている魍魎人を捜そうとした。雪がちらつき始めている宵闇の中を歩き回るうち、やけに騒がしい廃屋の一つへ急ぐ。そして、絶句した。

 魍魎たちは宴会をしていたのだ。冷たい土の床にてんでに座りこみ、食い物と酒を広げて。獣たちもその近く、あるいは暖炉の前で、食い物にかぶりついている。

 気が付けば、ナツァトンは思わず怒鳴りつけていた。仰天する魍魎たちを尻目に、首謀者と思しき魍魎人の男に詰め寄り、胸倉を掴んで引きずり上げた。

「誰の許可を取ったのだ?」

 意味が理解できないらしい酔っ払いを締め上げる。悲鳴を上げ始めた仲間をかばおうとしてか、傍らの魍魎人が怯えた目をしながら立ち上がった。

「そいつが、クラクシから飲み食いしていいって言われたって……」

「クラクシはどこだ?」

 食糧管理役の名を出すと、男は明らかに動揺した目で、

「出てったよ。そのあとは知らねぇ」

 その泳ぐ目をにらみ付けて、ナツァトンはようやく男を放すと解散を命じた。不承不承も明らかな空気の部屋を出て、クラクシを探し回ったのだが、

(いない……)

 どの廃屋にもいないのだ。逃げたか?

(食糧の管理を、俺がやるしかないか……)

 明日朝一で残量の確認をして、今後の方針を決めよう。ナツァトンは降りしきる雪を見上げて舌打ち一つ、自分のねぐらへと戻った。


2.


 クロイツの腹は、実に正確に朝を告げてくれる。と同時に、その身体は包まった外套を貫く地面からの冷えを感知して、彼はむくりと身体を起こした。

「おはよう、クロイツ」

 寝ずの番をしてくれているアリシアからの、朝の挨拶。最初の頃は驚いていたそれも、もう慣れた。

 顔を洗ってくると告げて、小川に向かう。冷えて凝り固まった筋肉と腱をほぐしがてら。

 くるぶしの少し下まで積もった雪を踏み、そのサクサクとした感触を楽しむ。

(雪は全てを包む 野も山も か……)

 子供の頃歌ったわらべ歌を思い出し、クロイツは川べりにて川向こうを見やった。

 ここが小川のこちら側でよかった。なぜなら、あちらにはクロイツたちが斬り捨てた魍魎たちの死骸が散乱している。折からの寒さで凍結しているとはいえ、うかつに踏めば気分が悪くなること必定だからだ。

 地に膝を屈して、顔を洗う。水の冷たさはいつもと変わらず、しかし今朝はクロイツに突然往時の記憶を呼び覚ました。

 初等学校の帰り道、井戸水にどれだけ長く手を漬けていられるかという勝負になった。なんでそんなことになったのかはもう思い出せないが、クロイツも含めた6人で競った結果は、

『……サーシャ、もう止めろよ』

 クロイツに負けたことがくやしくて、彼より長く冷水に挑んだサーシャだった。勝ったと分かった時の『どうだ』と言わんばかりの輝く笑顔が脳裏に浮かぶ。それに続いて、

「霜焼けになって大騒ぎしてたっけ、次の日……」

 水の冷たさはあの時と変わらないのに、俺は、サーシャは――

「気分が悪いのか?」

 背後から投げかけられた声は張りのない、しかし温かみのあるものだった。立ち上がりしなに振り返ると、シュトクがそこにたたずんでいる。

 左手に提げているのは陶器の酒瓶。だが、まだ今朝は呑んでいないようだ。

 彼がやつれている理由。それは、ほどほどというには遠い飲酒だった。初対面の時はたまたま酒が切れていたようで、その後は見るたびに酒瓶を携帯していた。

 なぜそこまで呑むのか。先日、彼の周囲が固まるのも構わず問いかけた時、シュトクは酔眼をクロイツに向けて言ったのだ。

『呑んで、呑んで、呑み込まれる。そういう忘れ方もあるんだ』と。

 何を忘れたいのかは訊けず、小川の野営地へと戻りながら、同行していたヴァクエルの言葉も思い出した。

『あのご老人、貴族崩れではないか』

 言葉遣いが、どことなく貴族らしいというか平民っぽくない。それに、着用している鎧もかなり傷んではいるが、いい鉄を厚く使っているように見受けられる。そうヴァクエルは話した。

『配下の人たちもでしょうか? そうすると』

『かもな。元家臣か、あるいは元部下か』

 それも、訊けない。クロイツは首を振って記憶を払うと、目の前のシュトクに別の質問を投げた。前々から不思議に思っていたのだ。

「お酒、どこから調達してるんですか? 結構な量ですよね」

「ん? ああ、これか」

 老兵は左手の酒瓶に目をやると、

「この川向こうにある村の酒場だ。なかなかいい酒を扱って――」

 言いながら指差そうとしたシュトクの動きが止まった。目が大きく見開かれている。振り向くと、遠くに煙が立っているのを見つけた。それも複数。

「村の方角ですか?」

 一つうなずくだけで動かないシュトクを見て、クロイツは野営地に走りながら鋭い声を上げた。

「アリシア! アリシア!」



 30分ほどでアリシアは戻ってきた。その表情は暗い。

 村が一つ、明け方近くに攻撃を受けて食糧を略奪されたのだ。村の守備隊は善戦したものの、別働隊に村への突入を許したためそちらへ意識を取られ、壊乱。アリシアが村に到着した時には、襲撃者は逃げ去っていた。

 襲ったのは盗賊か魍魎かとの問いに、アリシアは短く答えた。

「遺体は全て守備隊員か、魍魎だったわ」

 魍魎は最初、30鬼くらいで襲ってきた。それが守備隊員の生き残りから聞き取りした結果だった。横笛を吹いている魍魎がいたことも。

「食糧を調達されたか……」

 クロイツは唇を噛んだ。それよりも、

「奴らが朝駆けをしてくるとは珍しいな」

 アルティーナが言うとおり、夕方遅くまで襲ってくることはあっても、夜明け前や夜半の奇襲は今までなかった。笛の魍魎がいたという以上、指揮官が変わったというわけではあるまい。

 みんなの会話を聞き流しながら、朝食を腹に詰め込んだ。鎧は既に着込んである。よし!

「待て」

 立ち上がりかけたクロイツを制したのは、シュトクだった。

「どこへ行くのかね?」

「決まってます。魍魎を討ちに――「なんで?」

 今度はラジル。問いかけとは裏腹に、その目つきは『やっぱりか』と語っているように見える。

「なんでって、魍魎を討つことが俺の仕事ですから」

「違うな」

 とヴァクエルまで立ちふさがった。剣を背負いながら、その口調には後輩を教え諭すような雰囲気を醸し出している。

「大将。あんたの仕事は、舟橋の現場を守ることだ」

 そう気づかされて、しかし収まらない。クロイツはヴァクエルに詰め寄った。

「どいてください」

 黙って首を振る隻腕の男に、老兵が加勢した。

「行きたければ、行くがよい。役人どもには報告しておく。龍戦師は持ち場を放棄しましたとな」

 唇を噛みしめて、すがるような目をアリシアに向けた。それに示唆されたわけでもなかろうが、ティジェルンが思いついたように口を開いた。

「アリシア殿、偵察に行っちゃくれませんか? ほら、敵の襲撃の動向を探るってことで」

 にかっと笑って龍体へと変化するやいなや飛んでいく真龍を見送って、クロイツはうつむ加減で歩き出した。

「もう一度、顔を洗ってきます」と言い残して。



「甘いな」

 それが、クロイツの背中を見送ったあと、シュトクから出た言葉だった。自分に向けられたものである以上、反論せねばならない。

「大将はああいう小知恵が回る奴じゃないんですよ。俺やあんたと違って」

「なればこそだ」とシュトクも譲らない。

「自分で考え、決断を下せるようにしなければ、いざという時に必ず弊害が出る。仲間の死という弊害がな」

 ティジェルンは正論に揶揄で返すことにした。

「今日は随分とご熱心じゃねぇですか? 朝も早よから呼ばれもしねぇのに」

「貴様、無礼であろう!」

 ラグアイヤがシュトクの傍らで怒鳴りつけてきた。明言はされていないが、シュトクの補佐役的立場にいるらしい四十女は何かと口うるさいようで、ラジルやベネズに煙たがられているのを耳にしていた。

「無礼、ときたもんだ」

 ティジェルンは笑い、ヴァクエルほかも苦笑いが顔に張り付いている。

「やめよ、二人とも」

 ついに見かねたのか、シュトク自身が割って入った。だがその理由も、

「酒がまずくなる」

 というもの。それだけでなく、そこにどっかと座りこんで酒瓶を傾け始めてしまった。

 こんな常習飲酒者にいい顔をすることはできないが、また一悶着起こすのも気が引ける。ヴァクエルはそんな雰囲気も露わに、ラグアイヤに対して別の話題を振った。

「そういえば、舟橋はまだ完成しないのか? 俺たちが雇われてからでも、もう4日目だろう?」

「朝一で完了検査やるって、昨日言ってたよ」

「そうかい、じゃあ午後にはお役御免だな……って、それをあいつに言ってやればいいじゃないか」

 アルティーナが言い、ラグアイヤが今頃気づいたように目を見張った。みんなでそれを笑い合う。シュトクも難しい顔をしそこねてクツクツと笑いをこらえているのが分かる。

 ちょうどそこへクロイツが帰ってきたため、話をしてやった。

「分かりました」

「――っておい! どこ行くんだよ!」

 クロイツは一つうなずくやいなや自分の荷物を担ぎ、回れ右をして小川のほうへ行こうとしていたのだ。ベネズの問いかけに、また律儀に振り向いて、

「小川の縁で待機してます。すぐ行けるように」

 またまたくるり。今度こそ行ってしまった。

「……大丈夫か? あいつ」

 とチリデリカが眉を寄せた。この細面の男は集団の財布番で、シュトクが一番苦手な相手らしい。あいつがうんと言わないと酒が買えないからね、とアルティーナは笑っていた。

「で、あんたらはどうするんだ?」

 コスタの隻眼が細まっている。恐らく答えは予期しているだろう。ティジェルンはその面にウィンクしてみせた。

「ついていくさ、大将に」

「小銅貨1枚すらもらえないのに?」

 ベネズが呆れるのは無理もないが、

「もらうさ。大将が傭兵団を作ったらな」

「潰し屋とその弟が、なぜ団を作る? あの男をなぜ助ける?」

 意外な方向からの言葉に驚いた。リナムだ。細身の少女は寡黙で、時々刺すような視線をティジェルンたちに向けてくる。同年代のクロイツが何度も会話を試みたが、最後には『話しかけたら自害する』とまで言われて、残念そうにしていた。

 答えあぐねていると、ヴァクエルが先んじた。

「危なっかしい小僧だから、だな」

 答えをもらっても、リナムは黙ったまま、相変わらずの厳しい視線を投げつけてくる。自然と、ヴァクエルは話を続ける形になった。

「大馬力で頑丈なのに、まったく安心ができない。戦法はあれ一本。時には真龍が間に合わなくても突っ込んでいく」

「正気かよ……」とラジル。肩をすくめてヴァクエルは続けた。

「さっきみたいな機転もない。頼るべき知人や同期は壊滅状態。王都にたどり着いたって、資金を融通してくれるあてなんかまるでない」

「だからな――」とティジェルンが声を上げた。

「俺たちが助けてやるのさ。助けてやらなきゃ、龍戦師が死んじまう。こんな俺たちくらいじゃなきゃ、ついていく酔狂な奴もいねぇだろうしよ」

「小銅貨1枚にもならないがな」

 ヴァクエルの締めの言葉に、今度はベネズが肩をすくめた。するとまた、意外な一言が。

「惚れたということだな?」

「こっ恥ずかしい一言でまとめんな、チビ!」

 ティジェルンの返しに、リナムは短剣を抜くことで応じた。

「お?! やんのか?」

 短剣は逆手に持ち換えられ……ちょっと待て!

「自害すんな!」「ちょっとリナム! 放しなさい!」「リナム! 大丈夫だから!」

 過去に何があったんだ、こいつ……

 どたばたのうちに時は流れ、役人たちが任務終了の報酬を支払いに来たのは、1時間ほどしてからだった。


3.


 夜襲をかけるには時間が早すぎ、しかし、時が過ぎるのを待つあいだに魍魎たちが架橋の現場に押し寄せても困る。ということで、まっすぐ魍魎の棲家に向かうことにする。

 シュトクたちとは途中で別れた。今朝襲撃を受けた村に行ってみると言う。

「守備隊の臨時雇いの口があるかもしれないからな」

「酒屋さんの安否も気になりますか?」

 クロイツの軽口に、シュトクはにやりと笑った。

「そなたらもどうだ? 一杯くらいならおごってやるぞ?」

 クロイツは笑って首を振った。

「せっかくのお誘いですが、魍魎を滅しに行かないといけませんので」

「……ちょいと野暮用で、みたいに言うんだよなぁ」

 チリデリカのぼやきを、生真面目に受けた。

「野暮用ですよ」と。怪訝そうな顔のシュトクたちを見回して、いつもどおり穏やかに。

「魔神の封印が本番ですから」

「お前、そんなにまでしてあの――「さあ! 行くぞ!」

 突然、シュトクが大声を上げた。まるで怒ったように顔が赤黒い。

「付き合いきれん」

 酔っているわりにはしっかりした足取りで歩み去ろうとする背中に、クロイツは頭を下げた。

「一緒に戦ってくれて、ありがとうございました」

 一度だけ止まって、また歩き出して。シュトクは気まずげな仲間たちとともに、村への小道を遠ざかっていった。

 姿が小さくなるまで見送って、こちらは道を外れる。アリシアの偵察の結果、少し離れた沼のほとりにある廃村に潜伏していることが判明していた。

 ヴァクエルが考え顔で唸る。

「どうしたもんだかな」

「今ごろたらふく食って昼寝でもしてるんじゃねぇの?」

「もう一度、見てこようか?」

 ティジェルンの言葉はどう聞いても軽口だと思うのだが、真に受けたのだろう、アリシアが龍体に変化しようとした。が、それをヴァクエルが押しとどめた。

「できれば奇襲をかけたい。あまり偵察をし過ぎるのも考えものだ」

 アリシアの言によると、今いるあたりから20分ほど歩くと目的地らしい。

 辺りは積もった雪が深くなり、樹が茂り始めた。ゆえに、そろそろ敵が警戒線を張っているだろう。ヴァクエルはそう言って、身をかがませた。クロイツたちもそれに倣う。

(ここからは、敵に発見された時以外しゃべるな)

 傭兵兄弟より真龍のほうが、戦闘経験は多いはずだ。が、こういった伏兵をしたことがないのかもしれない。ヴァクエルの言葉に素直にうなずいて、身をかがませたままそろそろと移動し始めた。

 クロイツのほうは、武術学校で受けた実習を思い出しながらの前進。自分は今菱形隊形を取った集団の右に位置しているから、右側の警戒をもっぱらに。

 こういう時に、長身はつらい。実習ではむしろわざと敵に見つかって、囮になる役までやらされた。そういうときに限って、ロアークの野郎が――

(伏せろ!)

 集団の後ろを進むティジェルンが低く小さいながらも鋭い警報を発し、みんな一斉に伏せた。クロイツ以外は歴戦の兵らしく、音もなく。

 クロイツの背中に、冷や汗が流れる。伏せる時に鎧のきしむ音を出してしまったのだ。ティジェルンのほうを盗み見れば、指で符丁が出されていた。

『左斜め後ろ』

 そちらに神経を尖らせる――のは素人、って主任教官に怒られたっけ。敵が単数だと思い込むのは希望的観測と怠慢の併せ技だ。教官扮する敵警備兵によって学生の伏兵が全滅させられた後の講評だった。

 クロイツの知覚が、右斜め後ろ遠くにも足音を察知した。頭をゆっくりと巡らせて、ちらりと視線を走らせたが、ちょうど雪の小山があって見通せない。とりあえず指でこのことを仲間に知らせるが、それで不安が消えるわけじゃない。

(どうする? 左右一斉に斬りかかって抑えるか? やり過ごせるほうに賭けるか?)

 頭の中が煮え始め、しかし足音は着実に近づいてくる。つばを飲み込もうとして、また音を立てるのかと気がつき、自重した。

 また仲間を見れば、ティジェルンもヴァクエルも、柄に手をかけている。アリシアは石になったかのようにまばたきすらしない。

 神経を全周に張り巡らせる。足音は2つ。雪を踏み越えてくる。そして――

「異常無いか?」

「無いな」

 意外と遠い地点で警備兵は交わり、軽く挨拶をしていくとまた足音が遠ざかっていった。辛抱強く待って、ようやくヴァクエルがそれでも低く息を吐いた。

「素人で助かったな」「だな」

 兄弟の会話に首をかしげると、二人が揃って後ろを指差した。クロイツたちの通った跡が、わずかながら雪に付いていたのだ。いや、わずかではない。クロイツのつけた跡だけがくっきりと残ってしまっているではないか。

 俺はまだまだひよっ子だな。改めて吹き出した冷や汗を感じながら、前進を再開した。

 そして10分ほど進んだところで、ついに覚悟を決める時が来た。廃村があるらしき雑木林の入り口に、魍魎人が1鬼佇立してたのだ。その眼には警戒の色は無いが、それもクロイツたちを見つければ一変するだろう。

 ティジェルンが目顔で仲間を抑えると、まず足元にあった石を横へ投げた。もちろん山なりに投げて、見つかるようなへまはしない。

 立哨していた魍魎人は、たちまち反応した。怪訝そうな顔は崩さないながらも、剣を抜いて音のしたほうへ近づいていく。

 十分に近づくのを待って、ヴァクエルは躍り上がると抜き討ちに魍魎人を斬り捨てた。相手が絶鳴を叫ぶ間も与えないほどの速さで。

 手練の早業を誇ることもなく、ヴァクエルが剣で前進を示したその時、林の中から犬の鳴き声が複数湧き起こった!

「しまった! 血の臭いか!」「走るぞ! 突撃だ!」

 兄弟の叫びで、取るべき行動は単純化された。そのことに感謝して、クロイツは龍の力を身にまといながら雪を踏み越えて走る。龍体に変化したアリシアが鳴き声の場所に光弾を撃ち込むのを横目に見ながら、騒ぎが巻き起こり始めた方向へ踏み込んだ。

 木々の切れ目を通して、朽ちかけた家々がちらちらと見え始める。そこから飛び出し、龍の力に引き寄せられてこちらへ駆けてくる魍魎どもも。

 冴えた冷気を切り裂いて、矢が飛んできた。だがクロイツにはすべて見えている。血が沸騰している反面、頭と眼は冴えているのだ。冷静にかつ流れるような動作で矢を5本、続けざまに剣の峰で払い落とした。

 左横から走ってきた魍魎犬が飛びかかってきた。その勢いと血走った眼、大きく開けられた口にむき出しの牙。恐れるに十分だろう。

 だが、クロイツには仲間がいる。

 いつの間に追いついたのか、ティジェルンが犬を斬った。それも犬の突き出た口と頭部を切り離すような位置で。『獣の魍魎には牙や爪に毒を持つものがいる』ことは伝えてあった。首の関節のほうが斬りやすいが、それでは斬り飛ばされた首がその先の人に当たってしまう。それを恐れたのだろう。

 もがく犬に止めを刺すティジェルンを置いて、クロイツは魍魎人を1鬼斬った。返す刀を水平に振って、鹿の首を跳ね飛ばす。だが胴体の勢いは止まらず、転がって避けざるを得なかった。

 そこへ、また矢が飛んできた。また5本。今度は1本避け損ねて左肩に食らってしまったが、痛みに構わず飛んできたほうへ疾走する。

「よし! 続くぞティジェルン!」「おう!」

 2人の仲間が左右の斜め後ろに付いてくれた。御側衆がいるため、いつもの戦術は使えない。3人で固まって鏃型を形成した突撃は、事前の打ち合わせで決めてあった。恐らく、射手の向こうに御側衆がいるだろうから。

 空を飛ぶアリシアの放つ光弾が、あばら屋を吹き飛ばしていく。伏兵を潰し、最悪でも外に追い出すためだ。

 それを横目にぐんぐん進んで、見つけた! 急接近に慌てふためき、矢をつがえようとしている魍魎5鬼! 雄たけびを上げてその群れに踊りこみ、3人で斬りまくって――

「?! いない?」

 斬り捨て終わって、クロイツは辺りの静寂に気づいた。御側衆らしき魍魎だけでなく、潰されたあばら屋から出てきた魍魎もいない。断末魔のうめき声は、今まで駆け抜けてきた雑木林の中から聞こえるのみ。アリシアは魍魎が逃げたと思われる方角へ、ゆっくりと旋回して遠ざかっていくのが見えた。

「逃げたか?」

「ここまでに斬った魍魎の中に――」

 剣を振り、血糊を落としながら一息ついた傭兵兄弟の会話は、鯨波に掻き消された!

 クロイツたちが来た方角から、いつの間に接近したのか、雪を蹴立てて魍魎が迫ってきていたのだ。彼もアリシアもまったく気がつかなかったのに、黒目が見えるほど近くまで。

 槍をまっすぐ、こちらに突き立てんと走ってくる魍魎人たち。同じく鹿も複数突進してくる。こちらは槍よりも低く、先の尖った角を構えて。

 その前を走るのは猪。重い体をぶつけ牙を突き刺し、あるいは切り裂くために猛進してくる。

 それらが衝力を増大させるため一団に固まり、林の中に積もり残った雪を煙のごとく巻き上げ迫ってくる。そのさまを、クロイツは冴えた目で見つめ、次いで動いた。

 アリシアは気づいただろうが、間に合うかどうか確認する暇はない。ヴァクエルとティジェルンは虚を突かれて動きが止まっている。

 ならば、俺が護る。仲間はやらせない。

 気を抜いていったん散らせた龍の力を再び手の甲から展開させながら、ヴァクエルとティジェルンのあいだを抜いて、さらに雄たけびを上げながら駆ける。力の展開完了と魍魎との激突と、どちらが早いか。

 そんなことはどうでもいい。武神ケシサダータよ、我らに力を。

 そして必要なら、も使って――

 左横から空気を引き裂くような音が聞こえたのは、その時だった。矢だ。矢が一斉に飛んできて、魍魎たちに命中した!

 猪の勢いは止まらない。だが人と鹿は激痛に身をよじり、衝力は削がれた。そして間髪入れずに飛んできた二の矢がさらに魍魎の一団を襲い、クロイツは猪のみと相対することができた。

 もちろん真正面からその猛進を受け止める気はない。ひらりと避けて、1頭が横を駆け抜けざまに長剣を振り下ろし、その身を両断した。

 残った猪の退治を傭兵兄弟に任せて、クロイツは魍魎の一団が負った傷を広げにかかった。吶喊し、苦し紛れに突き出された槍の穂先を斬り飛ばし、自身は別の方向へ素早く転進。急機動に眼を見張って防ぎが遅れた魍魎人を逆袈裟に斬って捨てた。

 村のほうが光るのを目尻に捉える。戻ってきたアリシアが猪を始末しているのだろう。それよりも、

「御側衆、どこだ!」

 叫びながら槍を、剣を、角をかわし、反撃は常に一刀両断。

「あいつだ! 樫の樹の向こう!」

 ティジェルンの大声に振り向いた時には、すでに御側衆と思しき男は遠すぎた。北へ一目散に逃げている。

「アリシア!」

 算を乱して逃げる魍魎を掃討しながら、真龍を呼ぶ。答えてアリシアは御側衆の追跡にかかった。


4.


 結局、魍魎の群れは全滅させることができたものの、御側衆には逃げられてしまった。どうやって逃げたのか、空からの広域の捜索も、足跡をたどっての地道な追跡もまかれてしまったのだ。

 だが、廃村の魍魎は全滅させることに成功した。これはいい宣伝になるぜ、とティジェルンは笑い、傷の痛みに顔をしかめた。

 アリシアの目は血走っていた。クロイツの取った行動について、怒っているのだ。

「まったく、あんな無茶な突撃して! あなたは龍戦師よ?! こんなところでその身を死線にさらしていいわけないじゃない!」

「こんなところ? 違うよ、アリシア」

 クロイツはヴァクエルの怪我に手当てをしてやりながら、反論した。

「仲間を壁にして、捨て駒として使えっていうのか? そんなの嫌だ。俺は、仲間を護りたいんだ。それだけだよ」

 なおも言いつのろうとしたのだろう。だが、兄弟の顔に浮かんだ表情を見て、あきらめたらしい。小声でぶつぶつ言いながら、ティジェルンの手当てを始めた。

「あ、そうだ」

 手当てを終えて、クロイツは急いで立ち上がった。林の向こう、南の方角に向かって、大声を張り上げる。

「シュトクさん! みんな! ありがとうございました!」

「守備隊じゃねぇのか?」

 ティジェルンの疑わしげな声に、笑顔で答える。

「でも、矢は8本でしたよ?」

「数えれたのかよ、あの場面で……」

 ティジェルンには呆れられ、ヴァクエルにはくつくつと笑われた。

「さあ、行きましょうか。王都へ、今度こそ」

 機嫌を直したらしいアリシアは、元気良く言って立ち上がった。


5.


 闇の中、魔神の御側衆たるナツァトンは走り続けていた。龍戦師たちの追撃から逃れるためではない。食べ物を人家から盗んだのを見咎められて、追いかけられていたのだ。

 魍魎の脚力で追っ手をまいて、ようやく一息つくことができたのは20分ほどのちのこと。食べ物にかぶりついた時、忘れていた右肩の傷が疼いて、思わず唸ってしまった。

 真龍と龍戦師を嵌めた罠は、我ながら会心の出来だったと思う。

 警戒線を張っておいて、わざと龍戦師たちを見逃させた上で合図をさせる。こちらは捨て駒を村に配置しておいて――彼らにはあくまでも『持ちこたえていれば救援する』と指示して――敵を背後から襲う。

 龍戦師も真龍も、魍魎を察知する特別な感覚の持ち主のようだ。が、彼らが斃した魍魎たちがまだ断末魔の唸り声を上げている向こうに、新たな魍魎がいるなどとは思うまい。

 実際、それでうまくいったのだ。あの横掛かりの矢の雨さえなければ。

 敵も伏兵を仕掛けていたということなのか。いや、矢の雨を見た龍戦師の顔は驚いていた。では、何者かが自発的に龍戦師たちを救援に来たということなのか。

 ナツァトンは食べるのを止めて、熱を持ち始めた右肩に手を当てた。あの時食らった鏃がまだ抜けていないのだ。化膿して腕が腐る前に、誰かにあるいは自分で鏃を除去せねばならない。

 そのうえで、とナツァトンは傍らに下ろした雑嚢を見てほくそ笑んだ。

 あの中に入っているのは、1冊の魔道書。がくれた、チェスカフランより渡来せし書物。魍魎の集団を率いていれば必要ないと思い、だが捨て去るには惜しく、持ち歩いていた代物。これを使って、この国の全土をヒトの血で塗りつぶしてくれる。

 それにはまず、北に戻らねば。あのお方の白い手のところに。

 笑いを収めて、ナツァトンは辺りを警戒しながらまどろみ始めた。

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