第7章 旅と野宿と渇望と
1.
クロイツたちが仰ぎ見た朝の快晴をまた、馬上のメイも眺めていた。そして、思い切り空気を吸い込む。
「よし!」
と気合を入れて、一行に進発の号令を出した。泥沼一歩手前の平原を、慎重に進む。
王都への何度目かの旅は、出征先から始まることになった。
ギュイバード辺境伯討伐は、ある程度の成功を収めたと自画自賛してもいい戦果を挙げていた。降雪のあいだはじっと我慢して陣営に閉じこもり、魍魎の散発的な襲撃を退けていたメイは、天から降ってくるものが雨に変わった途端に豹変したのだ。
『明日の朝、積雪が全て溶けていたら、騎兵のみで急行する』
事前に斥候を派遣して下調べはさせていた。ノスレーヌとの通商の道であるヨシフィーナ街道が融雪後も使用可能であるかを。答えは『可能』であった。
国境をまたぐ街道であれば、当然双方の関所が存在する。その手前で街道を外れ、国境付近を覆う森林の中に存在する間道を伝って、ギュイバード伯領に侵攻する。どの間道が最適か、天然もしくは人口の障害物はないか、そういった点も別の斥候にて調べさせてあった。
サレとクーリッシにはこの機動戦への参加をさせぬと断った。速度を優先したがゆえである。
『姫様は我々をないがしろになさるのか』
などと言い始めてゴートにたしなめられる一幕もあったが、
『わたしは行かぬ。ゴート卿、バーガイン卿、頼んだぞ』
手筈どおり承る2将。他の驚く将たちに、メイは説明した。
『わたしのペナントが動いては、奴につけ込まれよう』と。
この日までの魍魎の進退を分析した結果、推察したのだ。
御側衆がいる。その軍勢を使役する際聞こえる音色から"
そして、御側衆がいるということは、この森林地帯のどこかに、王妃の白い手がある。そうベリウスは言い、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。その捜索と滅失は、また必ず積もるであろう雪が溶けてから草が萌えいずるまで、という短い期間に行わねばならない。必ず。
託した騎兵隊が戻ってきたのは、翌々日の夕方だった。村を2つ襲い、財貨と家畜を奪っての帰還に陣営は大いに沸いた。損害は、帰途に魍魎に襲撃されて通常騎兵が3名戦死、龍衛士騎兵が2名戦死。負傷者は通常騎兵に10名ほどであった。
そして、残念ながら出立の時が来た。陣営をゴートとサレ、クーリッシに任せ、バーガインを護衛隊の指揮官として。
2.
居館への帰り道をたどりながら、ふと気がつくと、バーガインが馬上でなにやら考え込んでいた。珍しいこともあるものだと見つめていたら、メイの視線に気づいたらしく、訥々と語りだした。
「このあいだの合戦で死んだ奴のことなんですがね」
「うん?」
「モウラはともかく、エリキのほうは……俺も気をつけなきゃな、と」
「エリキ……そうだな」とメイも眉根を寄せる。
龍衛士騎兵エリキの死は、戦死というより事故死というべきものだった。魍魎の襲撃から撤退中に本復の眠りに入ってしまい落馬。首の骨を折って死んだのだ。
龍衛士はお互いに治癒できるから負傷者がいない。それは軍を指揮する者としてはありがたい利点なのだが、
「わたしも気をつけねばならんな」
龍戦師としての独り言に、真龍が反応した。
「そなたはわしが死なせぬ。龍衛士もだ。未来ある若者たちを、死なせてなるものか」
「それは、一般人ならかまわねぇ、ってことですかぃ?」
バーガインの揶揄に、真龍はむきになって否定しだした。それがおかしくて、一行は笑いながら進む。
幸いにして魍魎の襲撃を受けることもなく、夕刻に居館に到着した。明日朝一の集合を期して、一旦解散とする。
「さてと――あれ? ベリウス殿?」
ついさっきまで側にいたはずの真龍がいなくなってしまった。メイがきょろきょろしていると、従卒が囁きかけてきた。
(ベリウス様の天敵が参られましたよ)
天敵?
「おかえり、メイ。少し話があります」
ああ、なるほど。反射的に礼をしながら、母の登場に一気に気が重くなるメイであった。
軍装だけは解かせてもらって、呼びつけられた母の居室。そこには5人の男性が椅子に鎮座ましましていた。正確には、顔合わせをした5人の絵姿が。
「さあ、どなたが気に入りましたか?」
「誰も」
逡巡するまでもなく、そんな素振りをする気すらなく。メイは即答した。反応して赤く煮え始める母の顔と、反対に青くなる側仕えの女官の顔を眺めて泰然としていると、母の声は上ずっていた。
「なぜ? これほど良き殿方が一堂に会するなど、空前絶後のことですよ?」
なおもまくし立てようとする母を丁寧に遮って、娘は問うた。
「良き殿方とは、どのように良いのですか?」
なぜ、そう問われて言いよどむのだろう。実はそんなもの、ないのではないか? そう感じざるを得ない。そんなメイの視線に耐えかねたのだろう、母はいろいろと列挙し始めた。だが、どれもこれも、
(まったくピンとこない……)
なぜなら、彼女はこの公家が統括する地方でも有数の大領主であり、富豪なのだから。王の宮廷でも、公家嫡男たる兄に次ぐ位階を与えられている身である。個人としても、彼女に勝る武勇の持ち主などいない。少なくとも、あの5人の中には。
それらも率直に指摘してみたが、結果は泣き落としとして返ってきた。
「私はあなたのためを思って……もう19ではありませんか……そなたが行き遅れになってはかわいそうと……」
これ以上泣かれると、母はもはや理屈など通じなくなり、暴君と化す。
切り上げ時だ。メイは女官たちにさりげなく目配せをすると、神妙な顔を作った。
「今回の殿方には、残念ながらご縁がありませんでした。でも、母上がわたしのためを思ってくださるのは、いつもありがたく思っております。では、父上に帰着の挨拶をしてまいりますので、今宵はこれにて失礼いたします」
母が止めかけたが、父に挨拶をしてくると言い逃れて居室を出た。心得た女官たちに慰められる母の嗚咽を背中に受け止めながら、逃げるように。
病み上がりの父公はまだ少しやつれていたものの、笑顔で娘を迎えてくれた。戦果の報告とともに、王都行きの別れの挨拶をする。
「いつものことながら、すまぬ。わしが至らぬばかりに、お前とルオルーラには迷惑をかけて……」
王都詰めの輪番のことだろう。迷惑などではないことを改めて伝えると、首を横に振られた。
「お前とルオルーラの結婚のことだよ」
ああ、と苦笑いする。兄にも母の催促が行われていることは聞いていた。
「先ほども泣かれました。行き遅れになったらどうするとか言って」
父の顔がまじめなものになる。口調も改まった。
「それはわしとて心配しておるのだが」
「なぜです? 30代で祝言を挙げる家臣もそれなりにいるではありませんか」
父の口調は変わらなかった。
「それは自らの立身を優先したが故であろう? お前はこれ以上、どこへ上るというのだい?」
言葉に詰まった娘を見て、父は手を振った。
「どうもこの話題はいかんな。お前とどうしても話が噛み合わん」
「……申しわけありません」
「まあよい。だが、これだけは憶えておいてくれ」
そう父はまとめると、
「わしもあれも、お前とルオルーラの幸せを願っておる。だがそれとは別に、お前たちの結婚は、政治なのだ」
目を閉じて、父の言葉を噛み締める。だが、父の話にはまだ続きがあった。
「そういう意味では、お前が龍戦師に選ばれたことは痛し痒しだな。浮いた話もなくなる反面、男に溺れることもあるまい。なにせ……その……」
自分で切り出しておいて、父が気まずさにそっぽを向いた。"あの呪いのこと"と察しがついて、メイも赤面してうつむく。
「さあ、娘よ。この父と母と、晩餐を取ろうではないか。そなたの門出を祝って」
「門出、ですか?」
うむ、と父は元気良く立ち上がった。少しふらついたが、メイが驚いて支えるのを拒みはしない。
「王都でお前に良き出会いがあるように」
結局その話に戻るのかと苦笑しながら、メイは侍従に父の介助を肩代わりして、ほんの少しだけ溜息をついた。
3.
「クロイツ、何してるの?」
ティアの不審げな声にアリシアが振り向くと、クロイツが頭を掻きながら焚き火の縁に戻ってきた。
「時々挙動不審だよな、大将」
「落ち着きがないのはよろしくないな」
確かに、再々というほどではないが、急に振り向いたり、しばらく越し方を眺めたりしていた。魍魎を警戒しているのだろうと思っていたが、違うのだろうか。それとも、まさか……
みんなに見つめられて、クロイツはためらいながらも告白した。
「ほら、アリシアと俺、副商人頭に訴えられてただろ? それの関係で追いかけてきて、もっと金よこせって言ってくるんじゃないかと思って。あと、フィルフェーンで喧嘩になった傭兵とか」
前半部分を傭兵兄弟に解説してやると、盛大に笑い出した。
「そうかそうか、大将は裁判の仕組みを知らんのだな」
ヴァクエルが笑いを収めて言った。
「アリシア殿は真龍、すなわち貴族相当だ。このあいだ見た辻高札に書いてあっただろう?」
そう、勅令が発布されていたのだ。魔神の封印が解けかけているため、その対処に国を挙げて望むこと。そして、真龍と龍戦師の身分のことなど。
ヴァクエルの説明は続く。
「そして貴族を裁けるのは、王立裁判所のみだ」
「ん? ということは、父上が下した裁決って……」
老臣が、主君の姫君が抱いた疑問に答えた。
「副商人頭は、裁判所に持ち込んだら負けると思ったのでしょう。そこで伯爵様にすがったのでございます、おそらくは」
貴族を裁けるのは王立裁判所のみ。ただし、和解が成立するならば、第3者である貴族が仲介の労を取って両者の争いを収めることが推奨されているのだ。そして、裁決の結果は王立裁判所に手紙で知らされ、和解例の一つとなる。そう結んで、ウォレスは雑穀粥を啜った。
「ああそれから、酔っ払いどもは影も見せなかったわよ」
アリシアも干し肉を齧るのを止めて、その時を思い出しながら付け加えた。逆恨みに備えて窓の外を眺めていたのだ。
「そっか、アリシア殿、眠らないんだったな」
今度はティジェルンが頭を掻く。視線を向けると、ヴァクエルが代わって説明してくれた。酔っ払いどもは、あれからさらに深酒をして押しかけようとしていたのだという。
「……バカなの? 死にたいの?」
「ああ、そう言ってやったよ。『俺に潰される4つ目になりたいのか?』ってな」
ありがとうございましたと頭を下げるクロイツを、ティアが横目でにらんだ。
「もっと早く相談しなさいよ。魍魎がいるのかと思ってドキドキしたじゃない」
「いや私はてっきりサ――」
クロイツの視線は、焚き火の炎を見つめたまま動かない。
「――なんでもない」
またやってしまった。クロイツを正視できなくて、アリシアは粥を啜る行為に逃げた。視線、特に真向かいのティアのそれが突き刺さるのを感じる。
「そういえば、日雇いの仕事は見つかりましたか?」
ヴァクエルの話題転換に救われて、アリシアは説明した。ここから1日ほど行った川の橋が流されていて、舟橋を架ける作業をしている。その仕事にありつけそうなのだ。
「まさか、また川が渡れない……?」
ティアが青ざめたが、フィデリーナ街道ではなくその北を渡る支街道だと説明したら、安堵の溜息を漏らして、また青くなった。
「じゃあ、その途中で……お別れ?」
彼女の言葉は、クロイツに向けられたものだった。
「今の話だとそうなりますね……申しわけありません」
しばらく、皆で粥を啜り、干し肉を噛むことに専念した。ティアの気落ちが気になってチラ見したら、眼は潤ませているものの、頬には赤みが戻っている。前の街で事前に話しておいてよかった、と胸をなでおろした。
夕食を終えて、食器類を洗いに行こうとするクロイツを止め、先に寝かせた。仲間たちに断わって地に横になったクロイツが寝息を立てたのを確認して、
「私が洗いに行くわ――まずい!」
「どうしました?」
その時、遠くで悲鳴が聞こえた。怯えた表情で、ティアがつぶやく。
「まさか……」
「くっ! 今寝かしたばかりだってのに!」
「仕方がない、アリシア殿」とヴァクエルが剣を手早く背負った。
「ティア、ウォレス。クロイツを頼みます!」
アリシアは龍体に変化すると、傭兵兄弟を従え、悲鳴のしたほうへ走り出した。
「どうしよう……」
もちろん食器洗いではなく、クロイツのことである。
とりあえず帯剣したが、ウォレスが甲冑を着用し始めたのに気づき、自分も胸甲くらい着けるかと用意を命じた。
老臣の助けを借りて胸甲を着け、寝息を立てるクロイツを背に立哨を開始する。
「姫様、念のため剣をお抜きください」
ウォレスもまた、クロイツを背に、ティアと反対側を見張る位置に着いていた。その彼が顔も向けずに姫に物申しているのが、事態の深刻さを物語っているように思える。
剣を抜いて下に垂らし、じっと闇に目を凝らす。雑木林の中は見通せぬ。そのことが、ティアの恐怖心を知らず煽る。その時、ウォレスからまた言葉が飛んできた。
「見張る時は、一点を見つめてはだめです」
「なぜ?」
「見つめた先はよく見えるようになりますが、その両脇の視界が疎かになりますゆえ。茫洋と、あえてぼんやりしているかのような眼をこしらえてくだされ。ティジェルンが時々そういう目をしているのを、姫様もご存じのはず」
なるほど、あれはそういう意味があったのか。
早速やってみるが、なかなか難しい。どうしても目が、向こうの闇から聞こえるザワザワにいってしまうのだ――ザワザワ?
「曲者!!」「わあっ!」
思わず叫ぶと、素っ頓狂な叫びが帰ってきた。続いて怯えた顔の男女が闇の中から姿を現す。焚火の明かりで見た感じ、魍魎ではなさそうだ。
焚火の縁に迎え入れて、ウォレスが白湯を振る舞った。そのあと仔細を問うのを背中で聞いていると、魍魎が出たという叫びに怯えて荷物も持たずに逃げてきたらしい。
「あの、貴族の方とお見受けしますが――」
男の問いは、ウォレスが受けた。
「いかにも。わけあってここで焚火と荷物の番をしておる。それと、この者の警護もな」
はあ、と不審さを隠さない男女。そこかしこで惑う声や叫び声が上がっている中で、熟睡しているのだから、その態度も分からないではない。
だが、次に男の口にした言葉は、ティアの逆鱗に触れた。
「のんきな男ですねぇ。鈍いにもほどがあらぁな」
「なんだとっ!」
いきり立って男の所に駈け寄り、胸ぐらをつかんだ。固まる女を尻目に、また高音で悲鳴を上げる男の襟首を締め上げる。
「姫、お手をお放しください」
ウォレスは穏やかにティアの左手を男から放すと、男女に向かって諭すような口調で言った。
「手荒な真似をしてすまぬ。じゃがこの殿方は、姫様にとって大事なお方なのじゃ。急な病を得て安静にしておるゆえ、静かに。分かったかの?」
諭すついでにからかわれた気がする。ティアはそう言いたいのをぐっとこらえて、立哨に戻った。
それから15分ほど経って、アリシアたちが戻ってきた。三たび素っ頓狂な声が、今度は男女そろって上がる。
皆が焚き火の周りに着座するのを待たず経緯を説明していると、女がおずおずとヴァクエルに向かって話しかけ始めた。
「あなた様が、龍戦師様ですか?」
「ああ? 違う」
とヴァクエルが就寝中の当人を指さすと、しばらく意味が飲み込めない表情だった男女が、急に笑い出した。
「またまた御冗談を。魍魎が出たというのに病に伏せっているなんて、そんな奴が龍戦師のはずがないではありませんか」
そのあいだにウォレスが素早くアリシア――人間体に戻っていた――に駈け寄ると、耳打ちをした。おかげでアリシアが怒りだすのは避けられたが、ティアの腹の虫はやっぱり治まらない。
不穏な空気を察したのか、男女は立ち上がった。
「あ、じゃあ、わたしらはこれで――「ちょっと待ちなぁ」
立ったままでいたティジェルンが抜剣していた。まだ魍魎の血糊が付いたままの剣身をぎらりと焚火に煌めかせて、及び腰で立ち去ろうとしてた男女の前に立ちふさがったではないか。
「ちょ、ちょっと、何をする気なの?」
まさか、追い剥ぎでもする気じゃないだろうか。だが、ティジェルンの言葉はティアの予想を裏切った。
「いま懐に入れたもんを、出しな」
男女の動きは素早かった。といっても敵対行動ではなく、全面降伏だったが。
「それ、私の巾着じゃない!」
「なんとまぁ、火事場泥棒であったか」
アリシアとウォレスの声が被った。
「おおおお許しください! 家には寝たきりの7つの母親と、上は60の子を筆頭に5人の子が腹を空かせてるんです! ほんの出来心なんです~!」
「逆だ、逆」
呆れた声を発しながら、ヴァクエルも剣を抜いて逃亡を阻止する位置に動く。そのあいだにウォレスが男を、女はアリシアが身体検査をした結果、さらに神殿鑑札までくすねていたことが判明した。荷物の中身を総点検してほかに盗られていないことを確認し、
「姫、ご裁決を」
「去れ」
それが、ティアの即断だった。ぐずぐずされると斬りかかりそうな自分を必死で抑えて、低い声で述べる。
「二度とわたしたちの視界に入るな。次は問答無用で斬る」
男女は転びそうになりながら、逃げ去った。
「ティジェルン、ありがとう。よく分かったわね」
「ん? ああ、どういたしまして」
ティジェルンはそこで初めて雑布で剣身を拭うと、焚火の縁に腰を下ろした。
「荷物にちらちら視線がいってましたしね。旅の格好こそしてたけど、妙にキレイだった」
まったく気づかなかった。そのことに悄然として、クロイツの寝顔を見やる。その太平楽なさまに少しだけ苛立ちを覚えながら、剣をやっと鞘に収めた。
4.
そして翌朝。目覚めたティアは、クロイツの姿が無いことに気づいた。アリシアが黙って指す方向へ向かうと、
「あ、おはようございます、姫様」
小川の水で体を拭いていた。目のやり場に困って、またアリシアにしてやられたことに思い至る。が、ぐっと気合を入れて彼の傍まで行って膝を突くと、顔をザバザバと洗った。
「~~つめたーい!」
思わず叫んで震える。横で布を洗ったクロイツがそれを絞って、
「顔、拭きますか?」
礼を言って受け取り、白い息を盛大に吐いた。……どうしてわたしを見つめるの?
「なに?」
「……いえ」
彼も顔を洗って、同じく震えて。笑い合って、なるべく彼の身体を見ないように布を返した。
「とりあえず、服着なさいよ」
「はい……珍しいですか? こう……男が裸の状態って」
「逆に聞きたいわ……平民では普通なの?」
「はい」
即答された。と言われても、恥ずかしいものは恥ずかしいのだが。
「でも、女の子は俺たちの裸見てもキャーキャー言うだけだけど、逆だと守備隊案件ですからね。その前に親父さんにぶん殴られるし。不公平っすよね」
「殴られたこと、あるの?」
横目でにらむと、やさぐれた彼が見えた。
「そんな目にいっぺん遭ってみたいです――ごめんなさいごめんなさい」
不埒な発言に彼の肩を殴り続け、やっと謝罪を引き出した。
「まったくもぅ……モテなかったの?」
痛む拳の向こうで、彼が身じろぎした。視線は朝の空を映した川面にすえたまま。
「ええ、まあ……それなりに」
何かある。"サ"なんとかだ。昨晩、アリシアが口を滑らせて、クロイツの顔が青くなった。以前にも何か、かの真龍が言いかけて気まずくなったし。
だが、それを問いただすにはまだ、ティアの良識が邪魔をした。あるいは、叩き壊せない壁が。
代わりに、彼女は別の話題で済ますことにした。
「女だってそうよ。なんで女だけが持参金払わなきゃいけないのよ」
「じさんきん……ああ、結婚する時の」
そう。貴族の女は結婚する時、持参金を相手に払わなければならない。なぜって? サフィーナ朝の開祖、スクデットリア女王がマウト王に嫁ぐ際、貧乏貴族だったマウト王――当時は伯爵で、スクデットリアも伯女だった――に多額の持参金やら所領やらを持ってきた先例に――なんで倣わなきゃいけないのよ!
そうだ。それさえなければ、あの人と……
今度はクロイツに見つめられていた。ぼそっとつぶやく彼の顔は、ティアが今まで見たことのない真剣なものだった。
「顔がきれいってだけじゃ祝言も挙げれないなんて、もったいないっすね……」
「ほんとよ、まったく……え?!」
ティアは一瞬別の人――アマリエの姿を想像したのだ。が、実はそれが自分に向けられた台詞であることを悟り、赤面を隠すべく韜晦した。
「わ、悪かったわね。どうせ貧乏貴族の娘ですよ! 性格も難ありだって言うんでしょ?」
「……顔のことは否定しないんすね」
「あ、あなたも性格うんぬんを否定しなさいよ!」
「へぃへぃひめさまのせいかくはスンバラシイデスー」
「その言い方、アリシア殿そっくり」
おお、龍戦師に打撃を与えたわ。
しばらくして立ち直ったクロイツが立ち上がって、大きく伸びをした。付き合って、早朝の澄んだ冷気を体に取り入れる。
「昨日――」
「ん?」
「ありがとうございました」
本復の眠りに陥った彼を守護したことだろう。微笑んで返すと、逆に情けなさそうな顔を見せる。
「どうしたの?」
「昨日寝ちゃって、魍魎討伐に参加できなかったじゃないですか」
昨夜の魍魎討伐は、夜間であったこと、アリシアたち以外に魍魎討伐に参戦できる者がいなかったこと――本当にいなかったのかどうかは分からないが――などにより、ほとんど戦果らしきものを上げられず、騒ぎが静まるのを待つしかなかったのだ。
龍戦師としては、戦闘に参加できなかったことに対して忸怩たるものがあるのだろう。
「それに――」
「それに?」
彼と並んで、仲間のところへ戻る道をたどる。
「火事場泥棒が言った俺の悪口に、怒ってくださったんですよね?」
「まあね。でも、仕方がないじゃない? 寝ちゃったら起きないんだから」
「仕方がないじゃあ、すまないんですよ……」
そうつぶやく彼の顔は、厳しさと苦しさを漂わせていた。ティアはつぶやかずにはいられない。どうしてつぶやかねばならないのか、自分でも分からないのだが。
「……世界を救うことが、そんなに大事なの?」
驚く彼の声に、ウォレスの呼び声が被った。
「姫様、クロイツ殿、粥が煮えましたぞ」
今行きますと返して、ティアは足を速めた。頭がじりじりするときは、行動するに限る。
5.
朝の霜を馬に踏ませながら、どれだけ進んだろうか。ヨシフィーナ街道は陽が高くなるにつれて、徐々に混雑してきた。その中央を、メイを中心とする騎馬と馬車で成る一団は進む。軍団と貴族が使用できる優先路であるため、速やかな移動を果たしていた。
ちなみにティアたちがフィデリーナ街道のそれを使用しなかったのは、目立ちたくなかったこともあるが、位階が上の貴族とかち合えば譲らねばならないのが面倒だったからである。
馬に休息をさせながら進むこと12ペネタ(約26.4キロメートル)ほどで、本日宿を取る街に着いた。メイとしてはもう少し行きたかったのだが、ベリウスが許してくれないのだ。『公女が野宿などけしからん』と言って。
精々取り澄まして、かつ快活に市長の挨拶を受ける。そこはやはり躾のなせる業か、わずらわしいと思いながらも、つい仮面を被ってしまう自分が悲しい。
市長が用意した部屋は、東方渡りの金襴緞子が部屋の内周を取り巻く豪奢なものだった。なぜこんなことをするのか理解できないが、部屋の片隅に目をやったメイは、もうそんなことどうでもよくなった。
従者に剣を預けるや、そこに向かってつかつかと歩み寄る。そこに置かれていたのは、一領の古風な甲冑だった。前サフィーナ朝様式と見えるが、後代の補修がそれを台無しにしている。だが、革の部分に残る蔦紋は精緻で、色使いもなかなか良い。洒落者が着用していたことを伺わせる。革も触ってみた感じ、十分に時代が付いたものだし、甲冑自体の制作年代とそう変わらない時期の物――
「――様、姫様」
従者が控えめに呼ぶ声で、メイは我に返った。気がつけば、ベリウスとバーガインが部屋にいる。ともに目を丸くして。
「? どうしたのだ2人とも」
ベリウスが空咳をした。まるで気まずい場面に遭遇したように、目を逸らす。
「いや、久しぶりに出たなと……」
「……詳しいっすね、姫様」
そうつぶやくバーガインも、見てはいけないものを見てしまったような眼をしている。
1体と1人の挙動不審。そのわけは、メイの従者によって明かされた。
「鎧の解説が……その……お声がダダ漏れで……」
またやってしまった。甲冑に夢中になると、つい声が出てしまうのだ。そんなことより。
メイはバーガインに甲冑を指し示した。
「卿もどうだ? こういう粋な装飾をしてみては」
「それ、返り血が付いたら落ちるんですか?」
言われて、考え込む。確かに血糊は面倒だ。表面をこそげ落として……いやそれでは装飾まで落ちてしまう。洗うなど論外だ。それとも洗いに強い染料がどこかにあるだろうか……するとこの胴部のへこみ、これは槍を受けた跡だろうが、革部分は後代の補修なのか?
(……バーガイン、なぜ鎧の話題を振るのだ)
(いや、そんなつもりはなかったんですよ)
(ああなると、姫様、長いですよ)
(といいますかね、今の会話の流れでどーやって鎧以外の話題に変えるんですか?)
(わしに聞くな)
メイのダダ漏れの思索と同行者たちの囁き声は、召使の訪いによって終わった。市長主催の晩餐会が始まるのだ。
その晩餐会はなかなかのものだった。中庭で兵士たちが焼く豚の丸焼きを筆頭に、山鳥や雪兎など狩りの獲物が並ぶ。根菜の酢漬けや果物の葡萄酒漬けなども彩りを添えていた。
だが、市長を始め街側の来賓が列を為して挨拶に来るため、ろくに舌鼓も打てない。
(お腹が空いた……)
なぜこのような責め苦を味あわねばならないのか。それが公女の勤めだと言われても、空腹が満たされるわけではない。
やっぱり、普通の宿に泊まるか、野宿がしたい。挨拶なんていらない。わたしは、食事と休息が欲しいのだ。そう考えながら機械的に頭を下げ、受け答えをするメイ。彼女が聞き流した火種が、宴もたけなわとなったころに大広間の片隅で発火した。
随行の騎兵たちと来賓とのあいだに大声と悲鳴が上がり、次第にそれは暴力を含む騒乱へと瞬く間に発展したのだ。
市長のお追従を交わしながら、やっと食事に入ったところだったのに。メイは急いで豚肉を飲み込むと、場に介入した。バーガインがきりきり舞いしているのを見て、声を限りに叫ぶ。
「騎兵隊! 整列!」
一瞬虚を突かれたように動きが止まったあと、のろのろと騎兵たちは整列した。全て揃うまで辛抱強く待って、バーガインに引き継ぐ。
「総員、別室に移れ。事情はそこで聞く」
あからさまな不満の声を、バーガインの後ろからにらみつけて抑えた。渋々移動を開始する騎兵たちの後ろ姿を見張っていると、整列のあいだに事態を聞き取りしてくれた直臣が近寄ってきた。
酔客の一人が、『これだけの料理をただ食いできるんだから感謝しろ』と言って、聞き咎めた騎兵の一人と揉めた結果らしい。
聞いて苦々しさ全開の市長と、先に手を出したのは騎兵だとがなり続ける酔客の仲間らしき数人と。メイはそれぞれを見比べると、市長に向かって頭を下げた。
「本日はお招きいただき、結構な料理と酒をいただいた。感謝する」
「あ、いえいえ、頭をお上げください姫様……」
謙遜する市長の言葉を待たず、メイは告げた。
「いささか、兵たちの酒が過ぎたようです。今宵はこれにて散会としたく思いますが」
提案は受け入れられ、会はお開きとなった。
「姫様、姫様」
部屋に戻ってしばらく、従卒が戻ってきた。その手には、
「おお! でかしたぞボナーラ!」
宴会のお下がりが籠に山盛りである。葡萄酒の瓶まであるではないか!
顔をしかめる真龍など気にせず、応接用の机の上に収穫を並べての小宴会を始めた。地恵神への感謝の祈りもそこそこに、
「さあ、お前も食べろボナーラ」
「もったいないお言葉。ありがたく頂戴します」
さすが、14歳と育ち盛りの女の子。気持ちいい音を立てて肉を咀嚼していく。
育ち盛り……
「? 姫様?」
「い、いや、なんでもない……」
(わたしより胸の発育がいいような……)
「さ、姫様も」
「うむ。ああ、もうこの服もいらんな」
王都で公家の御用を勤める仕立て屋謹製の夜会服だが、どうにも窮屈でならない。
「こ、こらメイ! なんとはしたない!」
物凄い勢いで顔を背けたベリウスが真っ赤になって怒鳴るので、仕方なく従卒ボナーラにいつもの上着とズボンを出させて着た。
「ふぅ、楽になった……」
「まったく……それよりメイよ、気づいたか?」
「はひほへふは?」
「口にものを入れてしゃべるな!」
呆れながらも、真龍は真剣な顔を作った。
「市長のことよ。おぬしが『今宵はこれまで』と言った時の顔を見たか?」
「はあ、何かありましたか?」
真龍は声を低めて言った。
「ここでお開きになってせいせいした、という表情をしておった。一瞬じゃがな」
「歓迎されていない、とおっしゃりたいのですか?」
「そうだ。失礼極まる! 我らをいったいなんだと思っているのだ!」
確かにそのような無礼なことがあったのなら咎めなければならない。だが、
「はっきりと言われたわけではないのですから」
となだめた。そろそろバーガインが報告に来る頃だろう。メイは葡萄酒で豚肉を流し込みながら、騎兵たちの処置について頭を捻り始めた。
6.
翌日の出立は、昨夜の乱闘騒ぎについての事後処理で遅いものとなった。
馬に揺られて表面上は神妙な顔をしながらも、メイの心はすでに今夜に飛んでいる。
こんな遅い出立では、次の宿泊予定地には届くまい。これだけの人数を急に宿泊させられる規模の町や村もない。公家の威光で無理を言えば泊めてもくれようが、昨夜あんなことがあったばかりで、また悶着を起こすのは勘弁願いたい。
(野宿だ……!)
嬉しさのあまり、思わずぐっと拳を握りそうになって、傍らを進むベリウスの目を気にして思いとどまる。それを何回繰り返しただろうか。
「あのー、ちょっといいですか?」
バーガインが馬を並べてきた。ベリウスにも視線を送ると、騎兵隊指揮官は話し始めた。騎兵の従卒たちは昨夜、街の繁華街に繰り出して飲食をしていた。そこで聞きこんだところによると、西方に真龍が現れ、龍戦師を選んだのだという。
「それを話してくれた平民がですね、なんでも、ヨシフィーナ街道とフィデリーナ街道を繋ぐ支街道で魍魎に襲われたところを、龍戦師たちに助けてもらったそうで」
ベリウスが素早く反応した。
「その真龍、色は?」
言われてバーガインは小首を傾げたあと、自分の従卒を呼んだ。
「赤、と聞いたそうです」
「赤……ヒルダか……面倒だな……」
「面倒なのですか? そのヒルダというのは」
黒い真龍曰く、屁理屈が多くて扱いづらいらしい。
(あんたも大概だけどな)
バーガインのつぶやきは、幸か不幸かベリウスの耳には入らなかったようだ。おかげでとりなす苦労ではなく、笑いをこらえる苦労を得てしまった。それを知ってか知らずか、ベリウスの愚痴ともつかない話は続く。
「あの女は
(そうか、その龍戦師は平民なのか)
もっと詳しく聞きこみはしていないか確認しようとしたが、我に返ったベリウスがそれを遮ってきた。
「まあよい。足を速めよう」
「なにゆえですか?」
「このままでは次の街まで届かないではないか」
いや、それでいいんですが。その時。
「ぬっ! 魍魎か!」
真龍が叫ぶと同時に、北東の方角から瘴気を感じる。ほどなく、この快晴に不似合いな集団の姿が見えてきた。メイたちの後方5テトラルク(約110メートル)ほどを襲う目論見のようだ。
好機到来!
「参るぞ! ベリウス殿!」
旅人たちは巻き添えを恐れて逃げ始めた。そこの空隙を縫って、メイは愛馬に一鞭当てると野宿へ、いや、宿敵に向かって疾走を開始した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます