第6章 雨降りしきりて

1.


 雨の中、クロイツが走る。

 それを追って、ヴァクエルとティジェルンが走る。

 滞在しているホルウェイトの街から30分ほど離れた、街道脇のだだっ広い平地。積雪が雨で溶けてドロドロにぬかるんだ土の上を、ひたすら走る。こんなので、本当に体力づくりになるのだろうか。

「飽きずに良くやるわね」

 アリシアの声は、台詞とは裏腹に弾んでいる。それを聞き流しながら、ティアは突然吹いてきた寒風に身を震わせた。

 こんなはずではなかった。

 ゴッレムの街を出立してもう1週間。今頃は、王都まであと1泊か2泊というところまで進んでいるはずだったのだ。それを阻んだのは、降雪から一転しての大雨だった。上流からの大水で、ティクヴァ川に架かる橋が流されてしまったのだ。

 現在、いまだ濁流渦巻く川に臨時の舟橋を架けるため、両岸の市当局が奮闘中である。どうしても先を急ぐ旅人のために、渡し舟も用意された――というか商売の好機と志願者が現れた。現在の渡河成功率は4割と聞く。

 ティアには、うら若き身で暗褐色の濁流に乗り出して飲み込まれる気がない。アリシアは動物を運べない。よって、長逗留を余儀なくされていた。

 強弱はあるものの一向に降り止まぬ雨で、市内見物も近在の景勝地に行く気にもなれない。腐っていたティアの耳に、中年男2人の掛け声が聞こえてきた。何事かと窓から見やれば、傭兵兄弟が走り回っていたのだ。

 わけを尋ねると、先日の街道上の戦闘の時、クロイツに走りで置き去りにされたのがとてもくやしかったので、ちょっとなまり気味の身体に活を入れるべく体力づくりをしているのだと説明された。

 だが彼らは、もっと小声で話すべきだった。当のクロイツに聞こえてしまったのだ。そこで彼も加えて3人で、冬の冷雨が降りしきる野原を連日走り回っているという次第である。

「おーい、そろそろ上がるわよー」

 アリシアの掛け声に、3人は走りながらまだまだと応えた。だが、再び発せられた声が不穏なものに変わる。

「お姫様の体が冷えてきてるのよ。ちょうどいい機会だから帰りましょう。それとも――」

 ぐわぁっと龍体に変化して、

「命を賭けた全力疾走がしたい?」

 男たちは素直になった。


2.


 宿の酒場は、なんともいえない雰囲気で満たされていた。思うに、客のほとんどが、ティアたちと同じく長逗留を強いられている人たちだからであろう。

「おかえりー、竜戦師の兄ちゃん」

 食堂の給仕が愛想よく出迎えてくれて、クロイツはちょっと嬉しげに微笑んでいる。目を背けたが間に合わず、アリシアに頬を突かれた。

「ほら、そんな仏頂面してたら、ますます差が開いちゃうわよ?」

「なんの差ですか?!」

「ツンケンされて喜ぶ好事家なんて、ほんの一握りよ?」

 ふいに胸が痛んで、ティアはうつむいた。

 アリシアだけでなくウォレスも気遣わしげな視線を向けたが、料理と酒が来た。ティアは努めてすまし顔を作ると、地恵神への感謝の祈りを先導した。

 今日の夕食は、宿泊初日に頼んだのと同じ物。少し量が減っていることに気づいてティジェルンが騒ぎ始めたが、

「ごめんねーこの雨で猟師さんもあがったりなんだってさー」

 ですよねー、と口調がうつってしまい、盛大に笑われてしまった。照れ隠しに笑うしかない。そして、

「そのチビチビ呑むの、やめなさいよ」

「いや、もったいなくって」

 クロイツに水を向けてみた。冷雨の中を歩いて帰ってきたので、温めた葡萄酒を彼に薦めたのだ。

「体温めるためなんだから、ゆっくり呑んだら冷めちゃうじゃない」

「まあまあ」とアリシアがとりなしてきた。

「人それぞれだから、ね?」

「だけど――「感心しないな」

 それは、以外にもヴァクエルから発せられた言葉だった。

「姫様、おっさんの繰り言だと思って聞いてくれ」

 猪肉の炙り焼きの一片を飲み込んで、ヴァクエルはティアを見るわけでもなく、語り始めた。

「俺のこの右腕はな、斬られたわけじゃないんだ」

 弟のほうをちらりと見やれば、瞑目して雑穀粥を啜っている。

「生まれつき、無いのさ」

 慮外の告白に、手が止まってしまった。クロイツたちも驚いて、隻腕の男を見つめている。

「理由は分からない。お袋が大酒飲みだから、とは医者の見立てだったらしいがな」

 自分の目の前の葡萄酒が、遠く、重く感じる。ウォレスがぼそりとつぶやいた。

「酒毒、ということかの?」

 隻腕の男はうなずくと、語りを再開した。

 生まれつき右腕のない男は、母親から疎んぜられた。自分のせいだと思えば、母親にはなおさらだったかもしれない。だが、子供のほうはたまらない。

「俺にできることは、ひたすら剣の腕を磨くことだけだった。ほかに就ける仕事なんてなかったからな」

 時が経って、ヴァクエルは仲の良かった弟とともに傭兵となった。右腕のことでからかい、あるいは忌避する輩もいたが、気にせずに流すことで対応してきた。無論、それ以上に突っかかってくる手合いは我慢せず、力で"ご理解"をいただいてきた。

「だからな、姫様。あなたがどう呑もうとあなたの自由だ。俺だってたまには酒を呑む。大将には大将の呑み方がある。人それぞれさ。そしてできれば、酒に溺れずに健康に過ごせればなおいい。以上、繰り言終わり」

 しばらくして、クロイツが杯を傾けると言った。

「うちの親父も、酒に酔って喧嘩の果てに死んでますから。それもあって、お袋が酒に厳しかったんですよ」

「……ごめんなさい」

 頭を下げると、クロイツが慌てて手を振って、それからヴァクエルのほうを向いた。

「ところでヴァクエルさん?」

「ん?」

「大将には大将の呑み方があるって、なんかそういう言い回しがあるんですか?」

 ヴァクエルはきょとんとしたあと、真顔で言った。

「あんたのことだよ、大将」

「……俺ですか?」

 驚くクロイツの横で、同じく眼を見張る。その視界の端で、ティジェルンが肉を齧るついでにうなずいてるのが見えた。アリシアとウォレスは顔を見合わせて笑っている。

「傭兵団を作るんだろ? 団長になるんだろ? だから、あんたが大将だ」

 クロイツは勢い良く立ち上がると、深々と一礼した。

「よろしくお願いします!」

「ま、それも王様の許可が取れたらの話だけどよぉ」

 周りからのどよめきと歓声に負けない声で、ティジェルンが杯を上げて応えるついでに混ぜ返した。それにウォレスが応じる。

「それ以前に、資金がありませんな」

「資金どころか生活費が無いわよ」

 これはアリシア。猪肉を骨ごと咀嚼しながら愚痴り始めたが、目は笑っている。

 笑いどころでは無い人が現れた。

「あのー。もしかして無銭飲食?」

 さっきの給仕の女だ。アリシアはそちらを見やって、手を振った。

「違うわよ。王都にたどり着くまでのお金はあっても、生活費が心もとないって言ってるの」

 じゃらじゃらと路銀入りの袋――もちろん全財産ではない――を鳴らして、給仕をにこやかにさせた。その音は軽口も滑らかにさせたようで、

「じゃあさー、兄ちゃんが一肌脱げばいいんじゃない?」

「俺っすか?」

 そうそう、と給仕は屈託なく笑う。

「兄ちゃん、まあまあ男前なんだからさ。どこぞのお姫様をたぶらかして、資金をありがたく頂戴するってぇのは、どぉ?」

 それを聞くやいなや、アリシアがやさぐれ始めた。

「その肝心のお姫様が、ねぇ……」

「そこでわたし?!」

 ティアは沸騰した。いろいろな意味で。

「お生憎様。お金もその気も、これっぽっちも有りませんから!」

 どうしてみんな、胡乱げな目つきをするの? 赤の他人の酔客まで。

 そこへ食堂の戸が景気良く開けられて、男が3人入ってきた。クロイツがばっと素早く身構えたが、

「あれ? 昨日の……」

「よぉ、兄ちゃん。今日は友を連れてきたぜ」

「あ、ロゴさん、こんばんは」

 食堂の亭主にロゴと呼ばれた男は、地元の猟師らしい。長雨で狩りがはかどらず家で腐っていたところ、絶好の憂さ晴らしがあると誘われたそうだ。

 あの伝説の竜戦師と、腕相撲ができると。

「よぅし! そうこなくっちゃな!」

 ティジェルンが俄然張り切りだした。食卓の上の物を他へどかすと、胴間声を張り上げる。

「さあさあ! 昨日まで4連勝! 真龍が選びし竜戦師クロイツに今日対するは、猟師ロゴだ! どちらが勝つか、3本勝負!」

「……今日もやるの?」

 ロゴとやらの腕は、クロイツより明らかに太い。さすがにちょっと心配してみたが、

「いいじゃないですか。楽しいですよ」

 クロイツは相変わらず穏やか。ウォレスとヴァクエルが手際よく食堂内を回って、賭け金を集めている。

 やがて、時は来た。

 外まで聞こえる歓声に冷やかしまで呼び寄せて、竜戦師と猟師は食卓を闘技場代わりに相対した。片肘を突くと手を握り合い、亭主の掛け声で、

「1本目、始め!」



 宴がはねて、アリシアは自室で窓の外を眺めていた。雨は少し弱まった。このままやんでくれと、昨日と同じ願を掛ける。

 髪を洗い、身体を拭き終わったティアが、窓辺に近づいてきた。椅子を譲ってあげると、感謝もそこそこに物問いたげな目を向けられた。

「ここに上がってくる前に、あの……給仕の女の子に話しかけてましたけど」

「ああ、あれ? 説明しといたのよ」

「説明……もしかして、あの……」

 濡れ髪を震わせて赤面不可避のお姫様を見ながら、うなずく。

「がっかりしてたわ。あの子の勘では、そろそろ雨が上がって、舟橋も出来る頃合だろうからって」

「どういう意味ですか?」

「旅の男との、一夜限りの思い出作り。そういうことよ。後日また宿を利用してくれるかもしれないじゃない。そっち目当てで」

 お姫様の顔面は、赤を通り越して赤黒くなってきた。

「そういうの、嫌い?」

「……好きじゃありません。好きな人なんて、いるんですか?」

 あえて大げさに吹き出してみる。にらまれても気にしない。

「そんな気がこれっぽっちも無いのに、ねぇ……」

「そういう問題じゃなくて、自分の知り合いで、そういうのが嫌なんです!」

 ま、いいわ。そういうことにしておいて、窓の外を眺め直す。思わず溜息をついたのを聞き咎められてしまった。

「資金のこと、ですか?」

「察しがいいわね」と微笑み、

「王都に着く前に、ちょっと日雇いでもしてお金を稼がなきゃいけないかもね」

 この街には神殿が無いので、神殿鑑札を使った無料宿泊ができないのが痛い。おまけにこの長逗留である。ウォレスや傭兵兄弟から伝え聞く王都の生活水準を鑑みると、そういう結論を出さざるを得ないのだ。

 眉をひそめる姫に、笑みかける。

「あなたと分かれて行動しなきゃいけないわね。もうさすがにこれ以上のんびりしていられないでしょ? 女学校」

「……王都まで送るって約束じゃないですか」

 そうつぶやくティアは、突然はかなげな雰囲気になってしまった。その耳に顔を近づけて、囁いてやる。

「王都についたら、真っ先に会いに行かせるから」

「まあそれなら……って、そうじゃないって言ってるじゃないですか!」

 そう吠えながらも面会方法をさりげなくつぶやき始めたティアに微笑んで、女学校にまつわる話に付き合うことにしたのであった。


3.


 その頃、ティアが通っている王立女学校の寄宿舎では、生徒たちが広間で思い思いに集まって世間話に興じていた。

 冬の、それも雨がしとしとと降り続ける夜に出歩く物好きは、それこそ恋人との逢瀬にいそしむ者くらいだ。そして生徒たちは、ティアのように里帰りしている者以外は一人も欠けていない。つまり、そういうことである。

 アマリエがいる集団の一人が、大きく伸びをした。

「退屈だわ。なんかこう、バーンと派手なこと、起きないかしら?」

「さっさと仕官先を決めなさいよ。もしくは――」

「ああもう! その先は言わないで!」

 彼女たちは、そろって貴族の家柄である。ここで彼女たちは普段の挙措や貴族社会のしきたりだけでなく、学問と簡単な護身術、希望者は武術や弁論術などを学ぶことができる。

 期限は無期限。つまり、死ぬまで学問や鍛錬ができるのだ。規則上は。

 その目的は、一人前の貴族を育てること。ここで学び、生家の当主としてサフィーナ王朝の一翼を担うことが求められている。

 あるいは、少なくとも生計を立てる術を与えること。つまり"穀潰し"を一人でも減らそうという魂胆である。生家で主君を支えるも良し、別家や宮廷に仕官するも良し。もしくは、良き相手を見つけて嫁ぎ、夫を支えるも良し、である。

 ちなみに、男子のための学校も存在するが、これは王都の反対側に立地している。お年頃の生徒たちに"間違い"が起こらないようにするとの配慮によるのだが、それは当然のことながら、

「いい殿方に巡り合えないんですもの、仕方ないじゃない?」

 という最初の女生徒の嘆きを生むわけである。

 別の女生徒が腕組みをして、物思いにふけっていた。問われると、

「ティア様、どうされたのかしら?」

 確かに、とアマリエも憂いの色を濃くする。先日届いた手紙に書かれていた到着予定日が、とうに過ぎているのだ。

「西のほうの川で橋が流されたって、ソイライが言ってましたわよ」

 女生徒の一人が、守り役の家臣に聞いたという情報を教えてくれた。そうすると、それが原因で川が渡れず、遅れているのだろうか。

 次に場に示された何気ない台詞。それが、アマリエの心臓を鷲掴みにした。

「魍魎もそこかしこで現れて狼藉を働いているって噂だし、いろいろ難儀してらっしゃるのよ、きっと」

 魍魎……!

 ぎゅっと唇を噛み、耐える。気づいたのだろう、女生徒たちは慌てて別の話題に逃げた。だがそれも、誰それに恋の噂があるだの、王都守備隊の何某が見目麗しいだの、その手の話題ばかり。

 アマリエはついに耐えかねて、しかしただ眠気に襲われたふうを装って、杖を頼りに立ち上がった。

「眠くなったわ。おやすみなさい」

 遅れて立ち上がり、口々におやすみを返す女生徒たち。だがその後の無言が、暗にアマリエを気遣う雰囲気に満たされているようで、逆に杖と足を速めさせた。

 自室に戻る途中、ふと侍女に命じて窓を開けさせ、外を見つめる。正門前で焚かれる篝火以外に光源の無い、ほぼ暗闇にしょぼ降る、雨を。

 感傷に浸るまでもなく、彼女の現状と未来を現しているようで、しかし目を背けられない。

(このままここで、朽ちていくのね……あの雨に芯まで侵されて……)

 魍魎のせいで、恋や結婚など夢のまた夢のまま。

 アマリエ・ミーム・ランブリッシュ。王国の西方を統括するランブリッシュ女公の妹である彼女がその身に降りしきる暗雨から抜け出すきっかけは、ティアの帰還まで待たねばならない。


4.


 すっきりとした快晴、しかしそれゆえに冷え込んだ朝。街の路面は一様に凍っており、往来の人々を恐々とした足取りにさせていた。

「またのお越しをー」

 給仕の女に見送られて、クロイツたちは6日ぶりに出立した。街の人々に声を掛けられて、少し照れながら、しかしある思いを新たにして、東門を出たところでこっそり溜息をついた。だが、

「なによクロイツ、久しぶりの晴れた朝なのに」

 やっぱりティアに見つかった。クロイツは用心して、ほかの旅人が自分たちから十分に離れるまで待って、説明した。

 まだまだ道は遠く、険しい。そう思ったのだと。

「そうか? 王都まで、舟橋をいつ渡れるかにもよるが、あと5日ほどだぞ?」

 ヴァクエルの指摘に首を振る。アリシア以外の人々はヴァクエルと同じことを思ったらしい。物問いたげな視線が自分に集まるのを感じた。

 説明を続けるしかないようだ。

「みんなの声が聞こえるんですよ」

「みんな?」とティア。馬上でオウム返しに首を傾げているのを見上げて、

「ええ。『がんばれ真龍』、『がんばれ龍戦師』って」

 聞いて、ティジェルンも首をかしげた。

「いいことじゃねぇか? 応援してもらえるってぇのはよ」

 もう一度首を振って、クロイツは吐露することにした。

「自分で立ち向かう気は無い、ってことですよ。みんな」

 みんな、当惑している。アリシア以外は。やがて、ヴァクエルが独りごちた。

「……なるほどな。確かに」

 説明を求めるティアの声に、ヴァクエルは答えた。

「俺たちに同行する、あるいは同行を求める旅の一団が一つもない。この道中、ずっとだ」

「なるほど、なるほど」と今度はウォレスが空を見上げた。

「皆、関わり合いになりたくないんじゃな。どこかで誰かが戦ってくれればよい。だから――」

「がんばれ真龍、がんばれ竜戦師、ですよ」

 そう言って微笑んだが、ティアの視線に気づいた。あの瞳は、このあいだの早朝に見たものだ。

『なんであなたがそこまでしなきゃいけないの?』

 答えは一つしかない。それを籠めて、ティアの揺れる瞳を見返した。

 ティジェルンが鼻息を鳴らす。どうにも納得がいかないようで、アリシアに話が向いた。

「第二次魔神大戦の時も、こんなだったんすか?」

 アリシアは目を上げて、往時を回顧するような仕草をした。そののち、ゆっくりと話し始める。

「前の世では、もうちょっと関心があったと思うけど……どう言ったらいいんだろう、うまい言葉が見つからないんだけど……」

 アリシアのつぶやきは、ティアの素っ頓狂な叫びで掻き消された。

「何あれ!? すごい行列じゃない!」

 舟橋を渡るため、正確にはもうすぐ架橋完了予定の船橋を渡るための行列ができていたのだ。まだ川までかなりの距離があるというのに。クロイツたちの進む街道だけじゃなく、近在の村などからも人が出てきているようだ。

 クロイツたちは慌てて走った。

 2時間後。非常にゆっくりと進む行列に、アリシアは苛々し始めた。列に並んでしばらくしてから、渡し舟を利用しようかと考えたのだが、列の前から声がかかるため、なかなか回ってこない。ようやく来たと思ったら、馬は載せられないことが判明。このまま大人しくのろのろと進むしかないと分かって、みるみる機嫌が悪くなったという次第である。

 近在の村人や、街からの出稼ぎが声を上げながら動き回っている。軽食や水の売り子に渡し舟の船頭との交渉役、行列並びの代行までいる。その姦しさはクロイツとしては微笑ましい。というか、たくましさがうらやましい限りだが、アリシアにとっては騒音らしい。

 ふと思いついたことを、アリシアに提案してみた。

「なあ、龍体で川を飛び越えていきゃいいんじゃないか?」

「飛び越えてどうするのよ?」

「にらむなよ。このままだと今日中に次の街まではたどり着けないだろ? 野宿に適当な場所、探してくれよ。あとついでに、この先で日雇いの働き口が無いかも調べてきてくれるとうれしいな」

 ティジェルンが手を打った。

「大将、冴えてるじゃねぇか!――って、ここでするなよ!」

 喜び勇んで龍体化した真龍は、クロイツたちだけでなく周囲の行列にまで疾風を吹き付けて、飛び去ってしまった。

 突然の出来事に大騒ぎの中で、ティアがうなだれてつぶやいた。

「……どうしてわざわざ悪目立ちするようなことを」

 列から離れた場所で言えばよかった。クロイツは頭を下げた。おかげでしばらく会話には事欠かなかったが。

 そして、魍魎にも。

 南のほうで悲鳴が聞こえたかと思うと、クロイツの勘が魍魎の襲来を告げた。鎧櫃を下ろして走り出そうとしたが、ティアが腕を掴んでくるではないか。

「だめよ! アリシアがいないじゃない!」

「ああ、そうですね」と笑う。

「じゃあ、死なない程度にがんばります」

 唸る姫君を放置して、続いて傭兵兄弟のほうを振り向いた。

「えーと……い、いくぜ野郎ども」

 兄弟ばかりだけでなく、姫主従や周囲にまで吹き出されてしまった。我ながら照れくさくて、声が張らなかったのが原因だろう。

「普通にやれよ、大将」「まあそのうち慣れるって」

 慰められて、赤面の竜戦師は一声吼えると駆け出した。


5.


 5分ほど走ると、いたいた。20鬼ほどが人々を襲っているところだった。すでに幾人かは流血し、地に倒れ伏している者もいる。甲兵が数人、貴人と思しき格好の人々を囲んで、防戦に努めていた。

 苦戦しているようだと見て取って、ただちに龍の力を帯び始めたとたん、魍魎たちがこちらに向かってきた。そうそう、そうこなくちゃな。

 先頭切って走ってきた魍魎犬が、飛びかかってきた。それに剣を突き出して串刺しにする。死骸を振り捨てているあいだに迫ってきた魍魎人の攻撃を間一髪でかわした。鋤や鍬を振るってはいるが、体つきが農夫とは違って細っこい。

 それへの対応を傭兵兄弟に任せて、クロイツは突進した。猛り狂った牛が、目の前にいる。これを看過すると、逃げ惑う人々の被害が拡大してしまう。それを防がねばならないのだ。

 あの時の光景が一瞬脳裏に浮かんで、しかし追憶に浸る暇もなく、牛の顔が目前に迫った。凄まじい瞬発力だが、クロイツの斬撃のほうが速かった。

 自らの突進力まで加味されて、地面とほぼ水平に両断される魍魎牛。上半分は赤黒い血を地面とクロイツに撒き散らしながら飛び越えていき、その血が目に入って面を伏せた竜戦師に、下半分が激突してきた!

「大将!」

 跳ね飛ばされて宙を舞うあいだに、ティジェルンの叫びを聞く。魍魎たちの咆哮や喚声まで聞こえる気がする。宿敵に対して嵩にかかって攻め立てようと殺到してくる足音まで。

「させるかよ!」

 今度はヴァクエルの声。背中から落ちて一瞬息が詰まったクロイツを守護するため、弟とともに前に出たのだ。

 隻腕の男の左手に光る長剣と、大剣の男の愛剣。それらが冬晴れの陽の光を煌かせる。光らぬ部分は、斬った敵の血糊。その部分が徐々に拡大していく。2人は多数の魍魎を相手に奮闘していた。だが、

「危ない!!」

 魍魎人が1鬼、ヴァクエルに斬りつけられたのを避けようと仰向けに転んだ。それを放置して他の魍魎に対処しようとした彼の足を、素早く上半身を起こした魍魎人が棒で薙いだのだ!

 何とか起き上がっていたクロイツは短く叫ぶと、跳んだ。2歩ほどの助走で、倒れて呻くヴァクエルを跳び越え、着地点にわざと選んだ魍魎人に全体重を掛けて踏み付けにし、長剣で魍魎2鬼をまとめて串刺しにしたのだ!

 絶叫する、踏み付けた魍魎人。その不安定さを逆に利用して前転し、立った先の魍魎犬の噛み付きを左腕で受けて、

「っしゃおらぁ!」

 長剣の間合いの懐に入ってしまった犬の頭に、頭突きをかました! 情けない悲鳴を上げて口を離し、へなへなと地に崩折れる魍魎犬。その向こうに、吶喊の響きが上がった。

 貴人を守護していた甲兵たちが、魍魎の背後目がけて殺到してきたのだ! たった3人ゆえ、その殺到に勢いは無かった。だがそれが、魍魎の群れに遁走を促すきっかけとなった。

 逃げ行く魍魎を一応警戒しながら、兄弟のもとに戻る。

「大丈夫でしたか? 2人とも」

「ああ、腰を少し打ったくらいだな」「俺はとりあえずなんともないぜ」

 よかった。龍の力を収め、大きく息を吐いていると、嘆きの大声が聞こえてきた。貴人が地に伏した女性の身体に取り付き、泣きながら揺さぶっているのだ。その姿に、クロイツは胸を締め付けられた。

 ホローン・アルトゥーンでの市街戦でも、フィルフェーンの外での迎撃でも、戦闘終了直後に本復の眠りに陥ってしまったため、この手の愁嘆場には遭遇せずに済んでいた。

 森の中の街道における戦闘は、終了後に遺体を雪の中に埋め、その位置を地図に記録した守備隊員ルーウェンが帰隊後に市当局に報告する手はずだった。幸か不幸か、その時もこうやって涙にくれる旅の仲間は現れなかった。遺髪や遺品を一握り程度引き取って去っていく者たちばかりで、冷たいもんだとヴァクエルたちが話し合っているのを黙って聞いていただけだった。

 ティジェルンが、物思いに浸るクロイツの肩を叩いた。引き上げの合図だろう。だが、クロイツにはその前に、やっておきたいことがあった。3人の甲兵に近づくと、最後の背撃に対するお礼を述べたのだ。

 彼らは守護していた人々のほうに戻り、倒れた人々の介抱を――あるいは生死の見極めを――していた。その内の1人が立ち上がり、礼を返してきた。30歳くらいだろうか。精悍な顔立ちを無精髭が台無しにしている、頑健そうな体つきの男だ。

「俺はリバレージという。ゲッティキル伯の歩兵隊員だ。君が噂の龍戦師か?」

 噂には違いないと苦笑しようとして止めた。少し向こうで泣き伏していた貴人が、がばと跳ね起きたのだ。気づいて驚くリバレージらに向かって突進してくる。

「この役立たずめ!」

 それが、貴人の発した言葉だった。言葉だけではなく、リバレージの胸を突いて怒りを露わにした。

「なぜ貴様らが生きている? なぜ我らを身をもってかばい、死なん? 恩知らずの役立たずめ!」

 何を言っているんだ、この人は。リバレージたちはよく見るまでもなく、満身創痍ではないか。魍魎の包囲から文字通り身をもって主君たちをかばっていたのが分からないのか。

 目を怒らせて介入しようとしたクロイツの肩が掴まれた。振り向けば、ヴァクエルが溜息混じりに首を振っている。言っても無駄だというのか。でも……

「お前もだ! 小僧!」

 貴人の怒りは、クロイツにも向いた。

「お前がもっと早く助けに来れば、こんなことに、こんなことに……どいつもこいつも役に立たない木偶の坊ばかり!」

「じゃあ――」もう我慢できない。

「あなたが剣を抜いて戦えばいいじゃないですか。たった3人で、こんな大勢を守りきれるわけがないじゃないですか」

 貴人も、リバレージたちも、呆然としていた。やがて、貴人のこめかみに青筋が立ち始めた。見る間に額にまで広がったその勢いのままに、

「貴様! 高貴なるこの私に向かって――」

 その時突然、貴人を中心に影ができた。最初1キュビト(約0.22メートル)ほどだったそれはみるみるうちに広がる。そして、

「とぅ」

 軽やかな台詞は、いたって重量級の真龍によって吐かれた。どうやって接近してきたのか、羽ばたき音も翼下の疾風も出すことなく、上空から貴人に急降下蹴りを敢行したのだ!

 哀れ貴人はくぐもった声すら上げず、10キュビトほど吹き飛んで、痙攣しだした。

「さ、みんな。戻るわよ」

 治癒の光を出しながら腕を引っ張るアリシア。舟橋を渡る順番が近づいているのだと言う。ティジェルンが呆れ果てたと言わんばかりの声を発した。

「あれ、手加減したんすよね?」

 もちろんよと笑う真龍に先導されて、クロイツは半笑いでたたずむリバレージたちに手を振ると、川岸へ足を速めたのだった。

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