第5章 足掛かりへの決闘
1.
クロイツたちが雪のゴッレムを発った朝。ユポレスク侯家の家士となったロアークは、候の居城に伺候していた。
早朝からの呼集には、もちろんわけがあった。
「おお、ロアークよ。待ちかねたぞ」
ユポレスク候は贅肉を震わせて立ち上がり、この新参の家臣を出迎えた。
開門前に登城することはご法度であるため、待ちかねたと言われても困るのだが、そこは宮仕え、
「はっ、候にはお待たせして申しわけありません」
型どおり畏まって見せ、主君が本題に入るのを待つ。
「そなたを呼び出したのはほかでもない。昨今あちこちに出没しているという噂の魍魎についてじゃ」
遅い、と内心舌打ちをする。『昨今』でも『噂』どころでもないというのに。
候はロアークの沈黙を良いほうに取ったらしい。続けて舌を転がした。
「聞くところによると、そなたの住んでおった街……」
頭を垂れて、じっと待つ。候に囁く老侍従長の声が聞こえ、
「ホローン・カルトゥーンも襲われたとか」
いま耳元で囁かれた単語一つ、満足に繰り返せない。この愚鈍な候爵――これでもロアークの倍もない年齢である――に忠臣宣誓を捧げて以来、こうした間違いは頻繁に起こった。だが、こうした間違いを一々訂正する気力がロアークにはないし、そもそもそのような側近くに使えているわけでもない。
そして、肝心の側近は訂正する気などさらさらない。
「恐ろしいことでございますなぁ」
「フォローン・カルトゥーンとやらもかわいそうに」
などと口々に言い合い、うなずきあっているのだ。さらに街の名が変わっているのにはさすがに失笑してしまい、それを隠すためにいっそううつむくこととなった。
「そこでじゃ、そなたに尋ねたい」
やっと本題か。ロアークは畏まったまま身構えた。
「魍魎とはどんなものじゃ?」
面を上げ、問われるままに説明する。ありのままを、しかし、不必要にこの臆病な貴人たちに恐怖心を受け付けない程度に。
ロアークの説明に、候は満足したように喉下の贅肉を振るわせた。
「さすがはロアークよ。ホロー……なんじゃったかの?」
また耳打ち。心中舌打ち。
「ホローンなんとやらでは追い討ちをかけ、散々に打ち破ったそうではないか?」
そう、追い討ちを掛けたのだ。真龍になじられて意気消沈していたところ、角笛の音を聞いた。『魍魎どもが引き上げていきます!』という役人の絶叫も聞いた。
そしてロアークの脳裏に、まさに天啓が閃いたのだ。
『今こそ追い討ちをかけ、我らの雄姿を世に明らかにするべし』と。
それからてんやわんやで甲冑を着込み、市庁舎の外に勇躍飛び出すと、
『皆の者、続け!』
防衛戦を生き残った者たちが起こす喚声を置き去りにして、ロアーク以下4騎は疾駆した。魍魎勢の末端に追いついたのはすでに壁外であったが、どれだけ斬ったのかも分からぬほどにめったやたらに剣と槍を振り回し、凱旋したのだ――
ロアークの朗々たる回顧は、侯爵以下重臣たちの感動を改めて呼び起こしたようだ。皆で目と目を交わしてうなずき合い、次にユポレスク候から出た言葉。それは、
「では、キアボの子、ロアークよ。そなたに歩兵隊を1つ預ける。魍魎討伐方に任ずるゆえ、よく働け」
候の御前から退出して角を曲がった先で、ロアークは壁に拳を打ち付けた。
なぜ、このロアークが魍魎などを相手にせねばならないのか。
この身は王侯貴族、はたまた英雄豪傑を相手に渡り合い、勝利するためにあるというのに。
その時、彼の名を呼ぶ者があった。候家で家宰の重職を務めるバミナム伯リースだ。
「打ちひしがれておるようだな」
図星を指されてうなだれついでに片膝を突きながら、疑念を抱く。謁見に同席していなかったはずなのだ、重臣の中でも飛び抜けたこの切れ者は。
「立て、若人よ」
促されて遠慮がちに起立すると、家宰の切れ長の目が自分を見すえていることに気づいた。身長が自分より高いわけではないのに、見下ろされている気分になる。
リースはさらに、驚くべきことを口にした。ついて参れと言い、ロアークの返事を待たず歩き出したのだ。
しおらしく後を追うと、着いた先は家宰の執務室だった。この男はその実力と、なにより家柄の良さでもって家宰となり、このボンティザード城の西郭に専用の執務室と家臣の溜まり部屋を確保している。
執務室の入り口を入ってすぐのところに待つ。家宰は手を打って召使を呼びよせた。
「茶の支度をせよ」
茶と聞いてロアークは仰天し、表情を取り繕うのに苦労した。
南方のサムロンカ国からはるばる海を越えてもたらされる茶は、それが入った壺に詰められる砂金と同額と言われるほどの高価な品である。ロアークの父キアボがその輸入と流通に参入しようとして、ついに叶わなかった代物でもあることを思い出す。
それを、このロアークに馳走してくれるのか。そのためなら、直立不動ももはや厭わない。彼はことさら胸を張り、姿勢を整えた。
召使を下がらせてしばらく、リースは書き机でなにやらしたためていた。もはや目の前の男など忘却してしまったかのように、時折考え込む仕草を見せながら、次々と書類にペンを走らせる。
そしてまた手を打つ。なにか符丁でもあるのか、今度は書記が飛んできた。命じられていったん退室した書記は、すぐに銅製の盆を捧げて戻ってきた。それを受け取り、
「ロアーク、近う」
リースが呼ぶ。短く答えて書き机に近寄ると、リースは封蝋で書類に候印を押した。
「汝の着任状だ」
これで俺は、魍魎風情の討伐をせねばならんのか。無言で着任状を受け取ったその落胆の顔を、家宰にじっと見つめられていることに気づいた。書記が下がるとほぼ同時に、召使が今度は銀盆を捧げて入ってくる。
「まあ座れ」
リースが指し示した、書き机の前に置かれた椅子。革張りである以外は簡素な造りのそれに、言われるがままに座る。
召使が恭しい手つきで、家宰の前に置いた杯に茶を注いだ。一歩下がって、銅製の瓶子を両手で抱えて控えるのを横目に、リースは茶を一口喫した。
(俺に馳走してくれるわけではないのか……)
もしかして、俺は侮辱されているのか? それが邪推とも思い上がりとも気づかない18歳の新参者の眼は、自然とリースが傾ける杯に注がれることとなった。そしてそれに気づかぬ家宰ではない。
「茶が飲みたいか?」
「はい」
素直に答え、微笑んだ。これまで(自称)幾多の男たちを引き付けてきた笑顔で。
リースは杯を置くと、一言告げた。
「ならば、よく働け」
ロアークに預けられた歩兵隊を、明日の正午までに城外の平地に集合させておく。そう締めくくられて、会見は終了した。
2.
城下の屋敷に戻りながら、ロアークは無言だった。考えることがたくさんあるのだ。だが、従者がそれを許してくれない。
「さっそくお祝いをしなければなりませんな!」
「ご実家にお知らせする役目、このゲータにお任せあれ」
「何を言う、お前は先日行ったばかりではないか。このティボルの番だ」
「明日はどのようなお召し物で閲兵に臨まれますか?」
はしゃぐ従者たちの声は思考の妨げとなったが、しかしロアークに高揚感を与えた。それは、家宰の執務室を辞しざまに投げかけられた言葉も一役買っているのだろう。
『まずは魍魎討伐。心を砕いて働け。頼みに思うぞ』
おう、応えて見せるとも。ロアークは鼻の穴を大きく膨らまして、自惚れた。
「ギュスはどこに遣わしたのですか?」とメルクが尋ねてきた。
「聞き込みをしたいと言って、城に残った。あやつ、存外に奴隷仲間に顔が広い」
恐らくキアボの供をして、城やボンティダートの街に再々来ていたからであろうと推察している。それが父の布石であることに、ぼんくら息子は思い至らないのだが。
屋敷に戻ると、婚約者のデメティアが出迎えてくれた。さっそく歩兵隊長就任を報告する。
婚約者の顔が、ぱっとほころんだ。
「おめでとうございます!」
「うむ……」
誰が実家に伝えに行くかでまだ揉めている従者たちを鎮め、ティボルに行かせることにして、ロアークは屋敷に入った。
召使の1人に長剣を渡して、居間の椅子にどっかりと座りこむ。葡萄酒の支度を命じたデメティアが、隣の椅子に座ってロアークの顔をのぞきこんできた。
「お気に召しませんか?」
「……魍魎討伐をやらされるのだ」
吐き捨てた現実を、婚約者は喜んで拾った。
「忠臣宣誓を捧げて3日にして、もうそんな大役をいただいたのですよ? 胸を張ってくださいな」
「……大役?」
「そうです」とデメティアは、眼まで輝きだした。
「この世界を壊さんとする魔神の手先を討伐する大役です。それに――」
一転して神妙な面持ちになり、胸に手を宛てて。デメティアは続けた。
「故郷の街を破壊した奴らに復讐もできるのです。故郷への面目も立つではありませんか」
そう言われて、ロアークは面目無げに顔をつるりと撫でた。この愛しい人以外の者がいる場では、決してしない仕草である。
「お前の言うとおりだ」
そして、婚約者を抱き寄せる。
「戦おう。そして、もっと高みへ駆け上がるための足場とするのだ」
ロアークは高らかにかつ重みを込めた宣言を放ち、愛しい人の唇を吸った。
3.
夜。ロアークの歩兵隊長就任の祝いもはねた後。
酔いつぶれた婚約者を寝台に運ばせたのち、デメティアは自室に戻った。酔い覚ましも兼ねて水で身体を拭かせ、身支度を整える。侍女を下がらせると、窓辺に立って窓を開けた。
「いますか?」
「ここに」
姿は見えずとも、寒さ厳しき窓の下に控えているのが声で分かる。デメティアはその男――ギュスに問うた。彼が聞き込みのため城に残ったことを耳に入れていたのだ。
「ロアーク様が歩兵隊長に就任された裏の事情は、何か分かりましたか?」
ギュスの掴んできた情報は、まだ当日ゆえ大したものはなかった。それでもそこはかとなく見えてくるのは、候の側近たちが『厄介事を新参の平民に押し付けた』ということである。
「家宰殿の思惑は?」
それはギュスの予想を超える質問だったようだ。明日以降に機会を見つけて探るとの答えだった。
「わたしのほうでも探索いたしましょう」
ベリチェ様の社交場へ行けば、何か掴めるかもしれない。
手土産を勘案する前に、デメティアは最後の指示を放った。あまり長時間、窓の外に向かって"独り言"を言い続けると怪しまれるからである。
「ロアーク様が明日、歩兵隊の閲兵をされます。そのあとの、歩兵隊でのロアーク様の具体的な評判を聞いてきてください」
承りましたとの言葉を聞いて、デメティアは窓を閉めた。
寝台に向かう前に灯りを消して回りながら、独りごちる。
「わたしがやるしかないのね……」
ロアークはもちろんその取り巻きですら、こういった裏方的役回りはまるで期待できない。取り巻きたちが日ごろ何かと言い立てる"ロアーク様への献身"は、しょせんロアークの名を十分に活用しての表働きに過ぎないのだ。
なんとなれば、彼らは――ロアークも含めて――逆境に弱い。まるで自分たちが初冬の北風にたちまち萎れる花壇の花であるかのごとく、己に吹き付ける逆風を努めて避け続けてきているのだ。
ゆえに、耳に痛い言葉、不利な情報などを遮断して、己誇りの毎日である。太平楽なものだ、と溜息が出る。
デメティアとて、大商人の娘として暮らしてきた身である。貧民のたくましさなど持ち合わせてはいない。だがその代わり、師匠が身近にいた。父だ。有利不利取り混ぜた情報を集めて分析し、
貧民といえば、とデメティアは暗くなった室内を見るともなく見透かして思いを馳せる。
「コーリンはどこへ行ったのかしら……」
思えば、彼女付きの侍女として、さまざまな相談事ができる女であった。こういった策略事も含めて。
なにくれとなく目をかけてやったのに、あの謀はかりごと――クロイツを誘惑して罠に嵌める――を実行させて以降、行方をくらましてしまったのだ。監視役として雇った2人の男とともに。
あるいはクロイツがかくまっているのかと探らせたが空振り。男たちの行方も掴めず、そのうちあの惨禍によって全てがうやむやになってしまった。
幸い、コーリンほか余人には『市長夫人の言い付けで』実行させたと吹き込んである。世評もそちらに流れた様子でなによりだが、
「こういうことを相談できる女が1人、欲しいわ……」
仕方なく、今度は逃げられないようにと奴隷を買った。よく働くのはいいのだが、こういった微妙な話題を相談できる知恵はなさそうなのだ。
コーリンをもう一度捜させてみようか。あの女なら、はした金を握らせれば戻ってくるだろう。そう考えながら、床に就いた。
彼女はこの時、久しぶりに思い出したクロイツに音信を通じておく程度のことすら意識が向かなかった。
謀略の相談相手について考えを巡らしていたからではある。また、龍戦師になったとはいえ、現状ほぼ無名で世間的にも非力な男のことなど、考慮の外であったかもしれない。オンナとしても、彼女はクロイツに興味がなかった。
だが、この瑣末事が、彼女とその約束された良人の運命を決めることになる。
4.
翌日は、どんより曇った、心晴れ晴れとしない天気であった。
それでも、いやそれだからこそと、デメティアは実に華やかな戦装束とチュニックを選んでくれた。
それを着用し、鎧も着込んで、ロアークは出立した。
「あ! お待ちを」
デメティアが何かを思い出したように、ロアークに手を所望した。言われるがままに差し出すと、手首に結ばれたのは五色の絹糸で編まれ、小粒ながら赤い輝石を留めた腕輪であった。
「ロアーク様が大役に就かれたら、お渡ししようと思って編んでいたものです。わたしは……同行はできませんから」
莞爾と笑って、愛しい人に告げた。
「そなたが俺とともにある限り、俺は負けぬ。行ってくる」
馬首を巡らせて、ロアークは馬を進ませ始めた。
傍らを歩き、主人の兜を恭しく捧げ持つメルク。
その後ろでペナントを、旗ざおも高々と掲げるゲータ。
大盾を持ち、それを曇り空の弱い光になんとか輝かせようと苦労しているティボル。
主従4人の華々しさを見よ。彼らはそう主張したかったのだろう。だが、どうにもならぬことがあった。
ここは商人町――ロアーク一党はキアボがこの地に建てた屋敷に居住していた――であり、この時間帯は市場や目抜き通りの自分の店での商いに皆出かけていて、人通りが極めて少なかったのだから。
華々しいというより仰々しいというべき人馬が城外の平地に到着すると、歩兵隊は騒然としていた。
「隊長閣下! 閣下のご登場に皆喝采でございますぞ!」
「さすがは隊長閣下!」
「静まれい、静まれぇい!」
とメルクが声を張り上げる。効果覿面、水を打ったかのように歩兵たちは静まり返った――のも一瞬のこと。また大声で、今度は万歳三唱が始まった。50名ほどが歓声を上げているのだ。周囲の木々も揺らぐかに思える。
従者たちは感極まった声を詰まらせた。
「隊長閣下!」
「うむ!」
そうだ。このホローン・アルトゥーンの
万歳三唱を終えた歩兵たちは整列を始めた。1人だけ、ロアーク主従を横目で見つめる女を残して。
その女は30歳ほどだろうか。ずいぶんとくたびれた鎧を着用している。目も鼻も口も大振りな、醜女とも言えず美女とも言えない派手な顔。それを縁取る赤い髪をひっつめている。
そのひっつめ髪全体を、ロアークたちはすぐに拝むことができた。こちらに背を向けたのだ――なぜ? 隊長たるこのロアークになぜ背を向ける?
整列し終わった歩兵たちの前列右端、髭面もむさ苦しき中年男性が声を張り上げたのは、その時だった。
「副隊長殿! 閲兵をお願いします!」
うむ、とうなずき、副隊長と呼ばれた女性は歩兵の列のあいだをゆっくりと歩き始めた。
事の成り行きが理解できず、おろおろし始める従者たち。ロアークも展開についていけない。
やがて閲兵を終えた副隊長は元の位置に戻ると、凛とした声を発した。
「良し! 閲兵終わり! 解散!」
終わり? 解散?!
「ま、待て!」
とティボルがようやく声を上げた。とたんに集まる100の視線にたじろぎながらも、前に出て声を張る。
「お前たち、隊長閣下に対し奉り、その無礼は何事だ!」
ティボルの忠節は、爆笑でもって迎えられた。
「奉り? 奉り?」
「面白いぜ兄ちゃん!」
「あれか? 侯爵様が雇われた、新しい道化か?」
「ああ、それであの格好か!」
怒りで声が出ないロアークたちの前に、先ほどの赤毛の女性が進み出た。
「お前が新しい隊長か。なるほど、爽やかさんだな」
再びどっと受けた爆笑の渦に耐え切れず、ティボルが抜きかけた剣の柄頭が抑えられた。女性のごつい手で。
「坊や、いいことを教えてやろう」
女性の目は笑っているが、そのでかい口から紡がれた言葉はとても笑える代物ではなかった。
「この歩兵隊はな、決闘上等だ。つまり、やりたきゃいつでもどこでも、誰とでもできる。そして、死に損だ」
「し、死に損……?」
「そう。死んだ奴の遺族や仲間が訴えても、通らねぇってことさ」
「そ、そんな話、聞いたことがないぞぐぎゃ!」
ティボルのあごが、柄頭を押さえるのとは別の手でがっちり掴まれた。そのままつるし上げられる格好になって、もがくティボルに構わず、
「年上と上官には敬語を使えって親に教えてもらえなかったのかい? 坊や」
いきり立つ従者たちを制して、ロアークは馬を下りると女性に歩み寄った。
「ならば、俺のほうが上官だな? その手を放せ」
女性はにやりと笑うと、ティボルを解放した。ロアークは畳み掛けることにする。
「決闘上等などという慣習は聞いたことがない。止めさせたまえ」
「なぜですか? 素敵でしょ?」
「素敵かどうかの話はしていない! そもそもいったいいつからの慣習なのだ?」
「さっきからです、タイチョードノ」
女性の背後から声が飛び、三たび哄笑が巻き起こる。
女性もまた、呵々大笑していた。眼尻に溜まった涙を拭いながらのたまうのは、以外にも隊長賛歌だった。
「いやぁ、お前が隊長に就任したおかげでね、この隊にいたお貴族様どもがみーんな辞めちまったのさ。まったく、爽やかさん様々だよ! というわけで、隊の新しい指揮官を決めようってなってね――」
「待て」
ロアークは待ったをかけた。女性の言葉遣いが敬語になっていないことなど吹き飛んで尋ねる。貴族が皆辞めた? なぜだ?
率直な物言いは、自分の魅力の一つである。そう信じて疑わない彼にとって、四たびの爆笑には耐えられなかった。
「畏れ多くもお貴族様が、平民風情の下風に立てるかってね――おーい! タイチョードノ! どこ行くんだーい?」
愛馬に飛び乗るのも忘れ、ロアークは駆けた。駆けて西郭に飛び込み――衛兵に取り押さえられた。
家宰殿に会わせてくだされと叫んでいると、運よくその家宰が書記を伴って通りかかった。衛兵を下げて仔細を問うた家宰に、ありのままを話す。
「なにゆえ私に一言の断りも無く辞めるのですか! あの方々は!」
家宰リースの言葉は、簡潔だった。
「分をわきまえろ。平民風情が」
お前に貴族を指揮する権限など無い。そう声高らかに宣告されて、ロアークの中で何かが弾けた。
権限が無い。この俺に。このロアークに。そんなこと、天上の神々も許さぬ暴挙だ。
いや、それがこの候家の因循姑息さの表れだとすれば、越えて見せる。
「では、どこまで登れば、その権限が与えられましょうや」
顔を上げて、衛兵たちと書記が息を飲んだその場で、リースはにやりと笑った。
「教えてやらんでもない。だがその前に――」
ロアークを引き起こさせて、家宰は眼に奇妙な光をたたえたまま告げた。
「お前の歩兵隊をまとめて参れ。話はそれからだ」
城門の外で狼狽しきりの従者たちを見つけても、ロアークは無視して平地へ急いだ。こいつらと話をしている暇はない。
急行した平地は、やはり間一髪だった。歩兵たちは帰ろうとしていたのだ。
「お帰り、タイチョードノ。今日はもう上がるよ――「この中で一番強い奴は誰だ」
五たびの爆笑も、もう気にならない。副隊長を僭称する女性が、自分を親指で指した。
「あたしだよ」
「よし。参る」
きょとんとする奴が大勢を占める中で、女性はやはり強者らしく表情を引き締めて、隙のない構えで剣を抜いた。
「キアボの子、ロアーク」
「エワンドの子、ドリムーラ」
こちらも剣を抜き、構えを取りながら宣言する。
「俺が勝ったら、副隊長として俺の命令に従ってもらう」
「あたしが勝ったら?」
怖い。だが、貴族と平民という壁を乗り越えるためには、力が必要なのだ。
とりあえずは、この歩兵たちの力が。
「決闘は死に損」
ドリムーラはにやりと笑って、いきなり喉への突きを繰り出してきた! だが、
「遅い」
難なく弾いて、お返しに袈裟懸けを見舞う。それを弾いたドリムーラが顔をしかめた。恐らく、予想外の重い斬撃だったのだろう。
弱い。あの忌々しい貧民のほうが、速く、重く、鋭いではないか。
「その程度か」
「っせぇ!」
逆袈裟で斬り込んできたが、誘いであることが見え見えだ。後ろに少し跳んでかわし、地に足が着きざまに取って返しの突きを繰り出すと、ドリムーラは慌てて左に転がってかわした。
追撃などする気にもならず、相手が起き上がるのを待つ。
「余裕だね、爽やかさん」
「ああ」当たり前だ。
「俺は強いからな」
「そーかい」
ドリムーラは身体についた泥を払うことなどしなかった。笑いを収めて、構えを低くし始める。その屈み込んだような姿勢から、突如彼女の身体が膨れ上がった!
観戦していた者たちが声すら出ない、疾風のごとき斬撃。しかも、左右同時に繰り出してくるようにしか見えないのが恐ろしい。
考えていては、首と胴が離れる。ロアークはしかし見えていた。
(左!)
渾身の力を込めていなすと、ドリムーラの剣が、ロアークの剣と絡み合った時の甲高い音とともに飛んでいく。それを、2人して眺めた。
やがて、ゆっくりと視線を正面に戻すと、右手を押さえて地に膝を突いたドリムーラがいた。その大きな口が開き、ひび割れた言葉が紡ぎ出される。
「殺せ」
「言ったはずだ」
従者たちの歓声を、剣を一振りして止めさせる。しゃべっていいのは、この俺だけだ。
「お前は今から俺の隊の副隊長だ。よく働け」
続いて、どよめく歩兵たちに。
「決闘上等。ただし、この俺に対してだけだ。いつでも来い。俺に勝ったら、副隊長の座をくれてやる」
待たせたな。お前の番だ。
ロアークは左手を恭しく持ち上げ、腕輪に留められた赤い輝石にそっと接吻した。
「勝ったぞ、デメティア」
5.
それから4日後の夜。ロアークはリースの執務室で彼と面会していた。
やっぱり茶は出ない。だが、水を出してもらえただけでもましと思い、ゆったりと啜った。
「まずは初陣、ご苦労であった」
「お言葉、痛み入ります。家宰様のご高配があればこそ」
この程度の受け答えなら、百でも捻り出せる。ましてその内容が事実なら、言及するにやぶさかではない。
ユポレスク候の直轄領に出現した魍魎勢を追い払うべく出陣したロアーク歩兵隊は、今朝早くにこれと交戦し、10あまりの魍魎を討ち取った。こちらの損害は戦死者無し、負傷者4名であり、まずまずの勝利と言えた。
この魍魎出現の報をロアークに知らせ、直轄地までの道中の通過に滞りが無いよう手配してくれたのが、ほかならぬリースであったのだ。お世辞半分でも、感謝の意を述べておいて損は無いだろう。
「先陣切って突撃したそうだな。まったく、そなたがそのような思いきった真似をするとはな」
当然といった顔をしたあと、気づいて驚愕する。リースはもちろん、その書記も家臣も現場に出張ってきていないのだ。
いったい、誰から聞いたのか。
「家宰というものはな、手は長く、耳は聡くあらねばならんのだ。そうでなくてもこの家には、ことあるごとに引っかかりと壁が多すぎてのぅ」
そういうものか、と今は憶えておくことにする。もう一度水を口に含むと、ロアークは切り出した。
「これであの地の安寧は保たれました。候もさぞやお喜びと存じますが」
早く出世を望むなら、主君に引き上げてもらうしかない。そのためには、主君のお覚えめでたくならねば。そこを念押ししてくるようデメティアに言われてきたのだが。
「候は知らぬぞ。このこと」
家宰のあっさりした返事に、またも驚愕する。歩兵隊を総覧するのは家宰であり、ゆえに彼から着任状が出たのだと。
「そなたが隊長に任ぜられたのも、それゆえよ」
今度は意味が分からない。冷めかけた茶を啜ったリースの顔が苦々しげなものに変わる。物分りが悪い男と思われたのだろうか。
「平民が隊長に就任して割を食った貴人たちからの突き上げは、私に来るのだからな」
「……候はそこまでお考えなのですか」
あるいは悪知恵が回るのか。そう言いかけて飲み込んだ言葉を察したのだろう、リースは薄く笑った。
「かのお方ではない。周りに群がる奴ばらよ」
苦々しい顔の、渋りきった吐露は続く。
「世の理が理解できぬ奴が多すぎる。能力も無いくせに、権限と地位は欲しがる。それを帯びるのが当然だと信じて疑わない。それで世の中が回るかどうかなど、考えも及ばぬ」
召使に茶のおかわりを命じて、リースは書き机に頬杖を突いた。
「そなたはどうだ? 歩兵隊長の職は、身に余る光栄か?」
「滅相も無い」
そう言って、笑う。家宰も、笑う。
退出の合図はごく短く、手で払われただけだった。
「頼みに思うぞ」という言葉を投げかけられて。
6.
デメティアは、
やはり候家ほどの大きな家になると、さまざまな思惑が渦巻くものだ。その思いを新たにする。
彼の腕の中で身じろぎをして、目を見上げた。
「では、家宰様はロアーク様に目を掛けてくださっているということなのですね」
「そう……なのか?」
「だって、貴人の皆様の抗議も省みず、あなたを隊長に任じられたんですもの」
ふむ、そうか。説明をあっさり飲み込む彼に、少し苛立ちを覚える。だがそれも、大物ゆえの許容力の広さと思い直して、デメティアは彼の胸に顔を埋めた。
ギュスが集めてきた歩兵隊での評判は、『面白い兄ちゃん』というものだった。これを『頼もしきお方』に変えねばならない。それには武勇を示すだけでは駄目だ。
彼と自分の実家に、お金を出させねばならない。だが、街の復興と、なにより自分たちの商売の再建にかかりきりの状況で、婚礼資金以上のものが出るのか。
そして、家宰リースの思惑も調べねばならない。それにはベリチェの社交場だけでなく、媒酌人になってもらうメルロイド卿――彼はリースの家臣である――にも探りを入れてみねば。
やるべきことが山盛りで、しかし自身と彼の立身を疑うことなく、デメティアはいつの間にか眠りに落ちた。
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