第4章 コエ
1.
魍魎に取り囲まれる。クロイツにとっては、それこそ待ち望んだ瞬間だ。喚声を上げ、斬って、斬って、斬りまくる。背中を護ってくれているアリシアも、存分にその爪をふるい、魍魎を引き裂いている。
そうこうしているうちに、ヴァクエルとティジェルンの兄弟が魍魎を背後から襲い、片付け始めた。魍魎の総数が半分近くになって、ようやく敵は敗走した。だが追い討ちは掛けない。まだ2日あるのだから。
フィルフェーンから4日歩いてたどり着いたゴッレム。ここでクロイツたちを待ち構えていたのは、ゴッレム市長以下街の顔役たちだった。
下にも置かぬ歓迎ぶりに嫌な予感しかしないのは、クロイツだけではなかった。ティアなどは機先を制したものだ。
『この者たちは、わたしを王都まで護衛する役目を請け負わせている。用があるなら手早く申せ』と。
市長はそれを聞いて、ティアの杯に注ごうと持っていた瓶子を下ろし、姿勢と表情を正した。
彼の切り出した話の概略はこうだ。
街の北方にある森は、その中をヨセフィーナ街道(王都と北方の大都ヘキサダートを結ぶ四大街道の一)へ抜ける街道が通る要衝なのだが、最近そこに魍魎が出没するようになって、旅人が難儀している。それを打ち払ってはもらえないだろうか。
魍魎の数は、その時々によってまちまちであり、まとまって行動しているわけではないようだ。そういった時に群れを主導する人型がいないこともあるのだろう。そのかわり、野性の感覚で神出鬼没、捕捉が難しい。ゆえに、人数に限りのある守備隊が街道に張り付いているわけにもいかない。そう説明された。
ティジェルンが唸る。
『てことは、何日かそこでブラブラしなきゃいけねぇってことだな』
ティアから意見を求められたアリシアは、少しだけ考えてから言った。
『真龍と竜戦師としては、魍魎の被害を見捨てることはできないわ。でも、現在はあなたを王都に送り届ける依頼の遂行中であるのも事実。あなたがここに何日留まれるか次第よ』
ティアが市長に釘を刺したにもかかわらず、依頼の内容をもう一度口にしたのは、断る口実を述べやすくするためだろう。クロイツがそう考えていると、ティアはウォレスと何語か交わしたのち、市長に告げた。
『この街から現場までの往復も含めて、3日。それならば、この者たちを使ってよい』
『おお! 寛大なるご采配、感謝いたします! では――『ちょっと待った』
市長の感激を、ティジェルンが遮った。
『姫様、それ、俺と兄者も含むんだよな?』
『え?! 一緒に戦ってくれるんですか?』
クロイツは驚いて、思わず大声を上げてしまった。
『ああ、小遣い稼ぎも兼ねてな。で、報酬はどのくらいもらえるんですか?』
後半は市長に問いかけたのだが、渋い顔に直面する。
(ただ働きさせる気だったのか……)
(ティアの好意に甘える気満々だったのね)
クロイツとアリシアのヒソヒソが聞こえたのか、市長はティアに懇願するような顔を向けた。
『姫様……なにとぞ』
『当たり前であろう』
(あ、やっぱりただ働きか……)
ティアは真顔で市長に対した。
『そなた、真龍と竜戦師が魍魎を食べて生きているとでも思っているのか? 働けば、対価を払う。我が伯領では当たり前だが、この街では違うのか?』
渋面は市長以下街の顔役たちにも広がったが、結局ティジェルンが折衝役となって――彼が一番その手の事情に詳しかったため――報酬の話がまとまり、クロイツたちはさっそく森へ出立することになったのだった。
戦闘を終えて野営地に戻ると、
「お疲れ様でしたな」
ウォレスが温かく出迎えてくれた。
「あれ? ティアは?」
アリシアの不審げな声に、笑う家臣。近くの小川に水を汲みに行ったらしい。聞いてクロイツが慌てて場所を聞きだし、飛んでいった。
「あんた、いいのか? 主君の姫君をそんなに便利使いして」
ヴァクエルが兜を脱いで焚き火の縁に腰掛けながら問うと、今度は困ったような顔をされた。
「わしとて便利使いしたくはない。じゃが、姫が止まらぬのよ」
意味を図りかねて、焚き火を囲みつつ眼で説明を促す。焚き火の火勢を盛んにするべく、ルーウェンが薪を追加し始めた。彼は目付として街の守備隊から同行している、30台半ばの男性隊員だ。
「伯家は、恥ずかしき話ながら、裕福とは到底言えぬ。それゆえ、姫様の帰省に侍女を同行させることすらできぬ」
そういえば、いないわね。今さらながらに気がついて、アリシアは老臣の苦衷を思いやることができた。
「つまり、できる限りのことは自分でやれ。そう躾けられてるってことなのね?」
深くうなずくウォレスに、今度はティジェルンが笑いかけた。その眼は同情の色が深くなったように見える。
「しかしまあ、なんでついてくるかね? あんたも姫様も日当は出ないぜ?」
意味ありげに口を歪めるウォレスにさらに問いかけようとして、
「察しろ、ティジェルン」と兄が肩に手を掛けた。
「宿代が浮く。2人と1頭分がな」
あー、と間抜け面で納得の態の弟。しかし、老臣の忍び笑いは止まらない。
「気持ち悪いわね、何よ?」と問えば、
「宿代の件もありますが、ほら、噂をすれば、でございますよ」
実に面白げな目線で誘導された先から、騒々しい水汲み男女が帰って来た。
「ちょっと! 私が持つって言ってるでしょ!」
「姫様にそんなことさせられませんから!」
「戦って疲れてるんでしょ放しなさい!」
「大丈夫ですから! ほら、ふらついてるじゃないですか!」
「あなたが引っ張るからでしょ! ……なによ?」
アリシアたちの視線に気がついて、ティアはようやく桶の取っ手から手を離した。
「なるほど……」「はっはっはっ! そりゃあしようがねぇなぁおい」
真龍は、せいぜい微笑むことしかできなかった。
前世の記憶が蘇ったがゆえに。
夕食を済ませて、クロイツには早々に就寝させた。今日は魍魎と軽く一当たりしただけ。本復の眠りは短いだろうが、早く済ませるに越したことはない。
焚き火を囲って談笑していた面々も、しばらくして皆外套に包まって眠りについた。
薪の量が思ったより減っている。雪が降って来そうな気配に、朝一で薪取りが必要であると考えていると、
「どうしたの? ティア」
アリシアの傍らで横になっていた姫が起き出してきた。しばらくためらったあと、小声で語りかけてくる。
「……訊きたいことが、あるんですけど」
「本人に訊いたら?」
「だって寝てるじゃ――」
図星を指されたことに気づいて赤くなる頬を見つめながら、アリシアは韜晦した。
「大丈夫よ。あいつ、あなたを襲わないから」
「そんなこと訊きたいわけじゃありません……どうしてそんなこと言い切れるんですか?」
よろしい、説明してあげよう。
3分後、今度は顔どころか露出している肌――冬の野外ゆえ極めて少ないが――全てが真っ赤な姫を拝むことに成功した。
「でも、隙を見せちゃダメよ。あいつと一緒に爆散したくなかったらね。男はみんなケダモノなんだから」
顔をのぞき込むと、ぷいとそむけられてしまった。
「ご心配なく。そんな気持ち、これっぽっちもありませんから」
もう寝ます。そう言って身を縮め、綿毛布の上に横になったティアを見て、はぐらかしに成功したとほくそ笑んだ。そうそう、本人にちゃんと訊くべきよ。
「サーシャの壁は厚いわよ……」
自分のつぶやきに涙を一筋こぼしながら、アリシアは揺れる焚き火を見つめ続けた。
2.
次の日は朝食を済ませて早々、薪拾いをしつつ街道を北上する。雪降る森の中は陰鬱で、すれ違う旅人たちはこの場から早く抜けたいとばかりに足を速めている。そんな彼らに声を掛けて、魍魎の情報を聞き出す。その際には、守備隊員ルーウェンの顔と、徽章が役に立った。
その彼が、クロイツと雑談を交わしながら薪を拾っている。
「へぇ、傭兵団か……」
「ええ。こんなひよっ子に誰が付いてくるんだ、って笑われるんですけどね」
クロイツの自嘲は、アリシアにとっては歯がゆいような、納得できるような。だが、ルーウェンは違う感想を抱いたようだ。
「いっそさ、王都の守備隊に志願して、魍魎対策専門職として採用してもらったらどうかな?」
眼を見張って、この風采の上がらない守備隊員を見つめる。そういう手もあるか。
だが、拾った薪をクロイツの背負子に挿しながら、ウォレスが首を振った。
「それはどうかのう? 王都守備隊は王様直下の部隊ゆえ、確かに兵糧の調達や出動に自由は利くが――」
宮廷でも一目置かれるその立場ゆえ、貴族の若様や令嬢の志願が絶えず、平民など歯牙にも掛けてもらえないのだと解説された。
「ああ、そうだな」とティジェルンが苦々しげに吐き捨てた。
「そりゃもう金ぴかに飾り立てて、毎週月曜日に城壁の外周を練り歩くだけの簡単なお仕事だもんな」
「……なかなか、難しいですね」
新雪を踏みしめながら、クロイツは天を仰いだ。
難しい顔は、ルーウェンも同じ。仔細を問うと、父親がそこに勤務していたのだと言う。
「父は平民ですから、まだそのころは採用があったんでしょうね」
そこからは取るに足りない雑談に流れて、森のちょうど中ほどにある旅人の休憩小屋にたどり着いた。降雪のせいで、超満員である。そこでも聞き取りをルーウェンが行い、1時間ほど北でそれらしき影を見たとの情報を得た。
「なあ、アリシア」
クロイツが背負子を下ろして、ヴァクエルから白湯を受け取りながら訊いてきた。
「魍魎がヒトに襲いかかってこない、ってこともあるのか?」
「こちらとあちらの数次第だわ」
休憩小屋の中を見渡すと、警護の傭兵が結構な人数である。それも見て、用心したのだろうと言い添えた。
ルーウェンが考え込む仕草を見せた。
「そうですか……これからは人数をある程度揃えて、警護もしっかり頼まないと旅ができなくなりますね」
「逆に言えば、そこにクロイツ君の傭兵団が成立する余地がある」
ヴァクエルが一足早く白湯を飲み干して、白い息を吐いた。
「旅の一団警護の傭兵団は、今後引く手あまたになるだろうな。そこに目を付けて、一旗挙げようと傭兵団が乱立するだろう。クロイツ君はその中をもがかなきゃならん」
「そうですね」
クロイツの声は、アリシアも驚くほど平静だった。まるで小屋の外に降り積もる新雪のように白く、冷たく。
その声が、一転して明るくなった。
「さ、暖炉の前が空きましたよ、姫様」
しかしティアは、動かなかった。まるで何かを見つけたかのように眼を見開いて、クロイツを見つめているのだ。ウォレスに呼びかけられて、まるでその時初めて気が付いたかのように身を震わせ、後に付いていく。
「どうしたんだ? 姫様」
ティジェルンが首を傾げたが、アリシアにも分からず、ティアに訊いても曖昧な返事しか返ってこなかった。
その頃、ティアの父であるエスクァルディン伯は、大広間で震えていた。寒いせいばかりではない。これからの苦労を思うと、自然と震えが来るのだ。
彼が座る机の上には、10枚以上の紙が載っている。いずれも、配下から提出された軍忠状である。
主君の前で全ての軍事行動が行われるなら、苦労はしない。実際は主君の目の届かぬところが多いし、たとえ目前であっても、見間違いや記憶違いというものがある。軍忠状は、武功を挙げた(と称する)本人がその武功についてできる限り詳しく――できれば証拠も添えて――主君に提出する書類である。主君はこれを重臣や軍目付とともに検討し、恩賞の多寡を決めるのだ。
だが、問題はそこではない。
今回俎上に上っている軍忠状は、全て先日行われた魍魎討伐に関する物なのだ。戦いは当方の勝利に終わり、魍魎どもを追い払うことができた。だが、魍魎は所領も財貨も持たない。ゆえに伯は震えているのだ。恩賞を、身銭を切ってせねばならないのだから。
重臣の1人が咳払いをした。
「それで、いかがなさいますか?」
伯の決断は素早かった。一番上の1枚以外、全て感状で讃えることにしたのだ。その一番上の家臣も、ベリオ山での狩猟を年中許可するという褒美とし、伯は一息ついた。
別の重臣が、また咳払いをする。
「これで納得しますかな?」
「してもらう。我が家に金が無いことを知らぬ者は、我が家臣にはいないのだから」
重臣たちは揃って頭を下げたが、不服そうな雰囲気がありありと分かる。
ならばお前たちが身銭を切れ。そう言いたくなるのをぐっとこらえて、伯は席を立った。居室へ戻ろうとして、ふと思いつき振り返る。
「ランブリッシュ様に嘆願書を出そう」
このような事態が続けば、我が家だけではなく存亡の瀬戸際に立つ家は増えてくるだろう。そうなる前に、上位者から資金援助をしてもらう、いや、恩賞を肩代わりしてもらうのだ。
ユポレスク候は頼りにならぬ。ならば形だけ連絡したら飛び越えて、直訴あるのみ。
伯は下がりかけた重臣を呼び返し、書記も衛士に呼びにやらせた。
3.
夕闇の中を、ティアたちは疲れきって休憩小屋に戻ってきた。魍魎を捕捉できなかったのだ。その徒労感も合わさって、足が重い。騎乗していた自分でさえそうなのだ。徒歩の者はなおさらだろうと思い、馬は自分で厩に引いていった。
厩の扉に、寒さで凍える指で鍵を掛ける。急いで雪を蹴立てて飛び込んだ小屋には、旅の仲間以外の人影が無かった。戸口で身体に積もった雪を払い落としながら、クロイツとウォレスが暖炉の火を点しているのをながめる。
「龍の力を開放しても現れなかったということは、野の獣の見間違いか、遠くへ移動したのか」
「そのいずれかだろうな」
などと兄弟が話し合いながら、鎧を脱いだ。ルーウェンは甕に水がどれだけ残っているかを確認して、悲鳴を上げている。
しばらくして火が点いた暖炉に集って、夕食が始まった。チーズを溶かして黒パンの上に塗る。今宵の食事はこれと、水不足のため外の雪を取ってきて溶かした白湯のみだ。それでも熱々を頬張って飲み込むのは、今日も一日無事だった安堵の味である。
一心に食べていると、傭兵兄弟がこちらを見つめていた。
「何か?」
「いや、見上げたもんだなと思ってよ」
黙ってかぶりを振って、ウォレスが白湯を注いでくれた器の中をのぞく。
「いつも、こうだから」
さらに何か言おうとしたティジェルンが、アリシアに肩を小突かれた。それで少し騒がしくなった場を取り繕おうと、ルーウェンが白湯を一口飲んで話し始めた。
「皆さんは、明日、街に戻られるんでしょう? もし余裕がお有りなら、ぜひ葡萄酒をお試しください。私でよければ、良い店をご案内しますよ」
ゴッレムの南西に広がる丘陵地帯は、大昔に『スンラ=フォ』という地名だったころからの葡萄酒の一大産地だそうで、最上品は王家にも献上されているそうだ。
思わずつばを飲み込んでしまい、ウォレスにたしなめられてしまった。それでもティジェルンと葡萄酒の話題で大いに盛り上がった――黙したままのヴァクエルには、ちらと不機嫌そうな眼を向けられた――が、真龍と龍戦師が乗ってこないことに気づいた。
「どうしたの?」
クロイツはティアの問いかけに、はにかんだような笑顔を見せた。
「俺、葡萄酒なんて、成人の儀の時一口飲んで以来、飲んだことないんですよ」
アリシアも会話に加わってきた。
「こいつの家、肉が週に1回しか出ない家だったのよ。お酒なんてとてもとても」
傭兵兄弟が驚いて、白湯をこぼしそうになった。
「麦酒もか? あれならいくらなんでも――」
その問いかける表情に含み笑いをちょっとして、クロイツは白湯をすすった。
「剣術の稽古の月謝もあったから、そんな余裕ないですよ」
「それでその体に育つんだ……お父さんはさぞかし大きかったんだろうね」
まだ続くクロイツの過去話を聞きながら、ティアは彼の顔をちらりと見た。実に屈託なく自分の貧乏話をして、みんなと笑い合っているその笑顔を、なぜか正視できない。
なぜ、そんなに笑って話せるの?
(……彼が、平民だから?)
ティアは頭を振ると、冷めきった白湯を飲み干した。
明日、魍魎と遭遇するかどうかは分からないけど、生き延びよう。そして、ルーウェンお奨めの葡萄酒の店までたどり着くんだ。
その夜。ティアは夢を見た。
最初、夢とは思えなかった。日中の光景だったのだ。
目の前にいるのは、クロイツ。森の奥のほうに体ごと向けて、つまりティアからは横顔しか見えない。
彼は、龍の力を開放しようとしていた。魍魎を呼び寄せるために。
彼の両手の甲から溢れ出始めた龍の力に、見とれる。徐々に彼の腕を伝い上ってゆく黄金色の光は、鈍く、しかし降りしきる雪の中でもはっきりと視認できるほど。いや、雪が照り返して、彼の周りに光の花が舞い降りているかのようだ。
そんな感想を抱きながら、なにげなく顔を上げる。そして――彼女は凍りついた。
ついさっきまで、あんなに穏やかだった彼の顔が、一変していたのだ。厳しく、何者をも斬り伏せんとする、怒り。それが眼から溢れ出てくるようで、しかしティアは目が離せない。
この雰囲気に、彼女は覚えがあった。あの卒業生対抗仕合の最終戦で、あの金ぴか男を槍で打ち据えていた時の、あれだ。
あの時の怒りは、対戦相手に対するものか。あるいは、出来仕合を仕組まれたことだったのか。
やがて、クロイツは歩み始めた。前へ、前へ……前へ?
違う。記憶と違う。
どこへ行くの? 声が出ない。
どこへ行くの? 足が踏み出せない。止めなきゃいけないのに。
どこへ連れて行くの? クロイツの手を取って。
誰? 誰の手?
ウォレスを呼ぼう。あの手を止めるのだ。
そう老臣に命じようとして一歩を踏み出し、鎧を踏み越えた。いや、地に伏して動かない、ウォレスを。
仰天する暇もなく、アリシアが彼女の横に現れた。その指が指し示すのは、クロイツを連れて行こうとする手。
逃がさない。行かせない。ティアは抜剣し、気合いとともに斬りつけ――自らの右手が千切れて飛んで行くのを、呆然と見送った。痛い、痛い、痛い――
「――さま、姫様!」
揺さぶられて、大声で呼びかけられて。ティアは跳ね起きた。思わず右手を凝視する。
「大丈夫ですか? 手が痛いんですか?」
心配顔のクロイツが、手を取って検分しだした。慌てて引っ込めて、大丈夫だと何度も力強く宣言する。
まだ夜明け前で、アリシアとクロイツ以外は寝ぼけた顔だ。皆もう一度、もう少しだけ惰眠をむさぼるべく床に横になってしまった。
クロイツが、音を立てないようにそっと立ち上がった。
「馬の様子を見てきます」
と小声で告げて、戸口にかかっている厩の鍵を取ると外へ出て行く。
ティアも少し遅れて立ち上がった。ちらりとアリシアの顔を見ると、予想と違って真顔でうなずいた。
厩は、馬泥棒や狼などから馬を護るために、頑丈に出来ている。ティアが近づくと、振り返ったクロイツは予想外の行動に出た。上着を脱いだのだ。
ティアが寒さに思わず身震いしたのを見たのだろう。どうぞと差し出されて断りきれず、ぶかぶかの上着を羽織る。風が無いせいか、上着からほのかに汗と血の匂いが鼻腔をくすぐったが、扉が開けられて厩の臭いがすぐにそれを上回った。
「あの……寒くない?」
「大丈夫ですよ」
馬は既に起きていた。主を見つけて、餌をくれと前足で床を引っかき始めたので、クロイツが飼葉の準備をするまで首を優しく撫ぜてやる。それは、上着を脱いだ彼の下着姿を正視できないからでもあった。
「馬の扱い、慣れてるのね」
「ええ、武術学校の同期に馬方の息子がいましてね」
お駄賃欲しさに、その息子を手伝うことがあったのだという。そう説明したクロイツの動きが止まった。
「どうしたの?」
「……そいつ、今どうしてるのかなって」
ホローン・アルトゥーンでの市街戦で、アリシアが彼とその婚約者を助けたのだから生きているとは思うのだが。クロイツはそう結んで、黙々と飼葉を桶に放り込み始めた。
何も声をかけられない。彼女も速報を聞いていて、生徒たちにも多数の死傷者が出たことを知っているのだ。あの対抗仕合の最終日、表彰式のため整列した生徒たちの全ての顔を思い出せるわけではないのだが。
(それに対する怒りなの?)
訊いてみたい。でも、クロイツの醸し出す雰囲気は、到底それを許すものではなかった。ゆえにティアは、飼葉桶に顔を突っ込んでむさぼり始めた愛馬を、じっと眺め続けることしかできなかった。
4.
雪の降る中を歩くのも、もういい加減に飽きた。アリシアがそう騒ぎ出したのは、もうじき夕方かと思われる時間だった。黒く厚い雪雲で太陽の位置は定かではないが、昼食を取ってからおおよそ3時間。そろそろだろう、とヴァクエルは見積もっていたところだった。
「飛んでったらいいじゃねぇか、真龍さんはよぉ」
ティジェルンのぼやきともつかない提言を真に受けたらしく、アリシアは眼を輝かせるとたちまち龍体に変化して飛び去ってしまった。
「……まさか本当に行ってしまうとは」
ルーウェンが呆れている。そういえばこいつ、今回の依頼遂行を監視する役目だったな。ヴァクエルは彼に近寄ると、
「あいつの報酬、差っ引いていいぞ」
ティアが呆れてクロイツに水を向けたが、クロイツも笑っている。
「明日、屋台で揚げパンでも買って食べさせますよ」
「なぜ揚げパン……?」
どうやらアリシアの好物らしい。
その後はひたすら黙々と歩を進める。街道に積もった雪は、既に往来した旅人たちが踏みしめて一夜を越え、固く凍っている。そのあとにまた降り積もり、街道の所在を分かりにくくしていた。
それがところどころ大きくへこんでいるのは、新雪の下の凍った路面に足を取られて転倒した人馬の跡だろう。俺も用心しなければ、と慎重にならざるを得ない。
今日何度目か、もう思い出す気にもなれない転倒をこらえて息を吐いた時、ヴァクエルはあることに気づいた。雪の街道をザクザクと小気味良い音を立てて先頭を進む龍戦師の背中を、いつの間にか追っていることに。
ふと見回せば、弟も、目付役も、姫君とその老臣もだ。いや、馬さえ脇目も振らず、時折足を滑らせる時以外はひたとその背中に目線を据えているではないか。
(なるほど……)
このあいだ、雑談の折にウォレスが言っていたことを思い出す。傭兵団結成を目指すこの青年をティアがくさした時、アリシアがなんと言ったかを。
(私が選んだ龍戦師、ということか……)
そして自分と弟もまた、彼に同行しようという気まぐれを起こした理由がようやく分かったように思えた。
その時、雪雲を背景に、赤い物体が急行してきた!
「ここから40テトラルク(約880メートル)ほど先で魍魎が暴れてるわ! 数、およそ50!」
真龍の声が降ってきた次の瞬間、龍戦師の背中がヴァクエルの視界から消えた。そう感じるほど、クロイツが猛然と走り出したのだ! そして、ヴァクエル自身も、気が付けば疾走していた。
「姫様は後から来ればいい!」
そう言い残した分遅れたティジェルンを従える形で、走る。まるで遠ざかる龍戦師の背中に追いつくことが義務であるかのように。
(クソッ! 速い!)
脳が悪態をついて、ヴァクエルは気づいた。笑っているのだ。この俺が。
"団長殺し"と嫌われ、"潰し屋"と蔑まれ、それでも『この俺に斬れぬ者無し』と自負して世間の泥沼を這いずり回ってきた。このまま弟とともにどこかの巷で塵と化すのだろうと思うと、心から笑うこともなくなった。
その俺が、背中を追いかけて笑ってやがる。若造の。そう、
(若造に負けてたまるか!)
だが、現実は非情にも、その若造の背中が遠くなっていく。そしてついに見えなくなった。だが、走るのは止めない。止められないのだ。あの背中に追いつかなければ。
いや違う、とヴァクエルは苦しくなり始めた息の中で思った。
(義務じゃない。あの背中に引き寄せられてるんだ)
我ながら気持ち悪い比喩だとは思うが、現に足が止まらない。止められない。なぜなら、
(あの男は、またあれをやる……!)
魍魎の只中に突っ込み、自分を包囲させる。そして、縦横無尽に斬りまくるのだ。自らの受ける負傷など顧みず。いくら背中を真龍が護り、随時治癒してくれるとはいえ、それはまるで――
後方から馬蹄の音が近づいてくるのが分かる。姫君だろう。
(難儀な姫君だな。いや、難儀なのは男のほうかな?)
走り続けて5分ほど経ったか、ティアが追い付いてきた時、前方にぽっちりと光が灯るのが見えた。その距離、およそ3テトラルク。方角から言っても天候から言っても、夕陽では断じて無い。竜戦師が戦闘を始めたのだ。
(いま行くぞ!)
だが背負った長剣を抜き放つ前に、ヴァクエルは歴戦の強者らしき判断をした。徐々に速度を落とし、息を整えたのだ。ティジェルンもそれに倣う。その脇を、馬と、以外にも守備隊員がすり抜けていった。
若いな、とこちらはゼイゼイ言いながら口の端を曲げる。
そしてクロイツとアリシアの姿を十分に視認できる距離まで来て、ヴァクエルとティジェルンは剣を抜いた。雄たけびを上げながら突進し、魍魎犬の逆襲にきりきり舞いしているルーウェンを救う。
そのままへたり込み、息を切らしている守備隊員を叱咤した。
「立て! 嵩にかかられるぞ!」
甲高い気合いの声が聞こえる。魍魎鹿の突進をすんでのところで交わして振り向けば、ティア姫は愛馬もろとも魍魎狼の群れに突入していた。狼が龍の力に気を取られがちなのをいいことに、右に左に腕を伸ばして狼の背に刺突を加えている。
その勇ましい声色が一変した。
「クロイツ!」
悲鳴交じりの声を投げられた男を真龍もろとも亡き者にせんと、
(!! 熊だと……?!)
巨大な熊が猛攻を仕掛けていた。その数、4体。真龍と竜戦師は互いを援護しあっていたが、わずかな隙を突かれてクロイツがその胴に横薙ぎを食らい、吹き飛んだのだ。
魍魎鹿を屠って、ティジェルンの声が上ずる。
「やばいぜ、あれ。俺たちでも……」
熊は、この国の野生動物最強の存在である。軍馬にも遜色ない速度で走り続け、丸太としか形容しようがない太い腕で繰り出す打撃と爪による斬撃は、あらゆるものに被害を与える大嵐に例えられる。
殊に冬を向かえてその脂肪はますます厚くなる。長剣の斬撃では到底肉まで届かず、刺突をするためには"大嵐"を掻い潜らなければならないのだ。
ヴァクエルは身震いを一つしたあと、ティジェルンたちに聞こえるように大声を出した。
「ほかの魍魎をあいつらに近づけるな! 斬りまくって、退却に追い込むぞ!」
一昨日の戦闘では、損害が半数を超えた時点で魍魎は逃げた。指揮官となる人型がいないためか、そのあたりが彼らの判断基準なのだろう。そう信じるしかない。
アリシアが突然、光弾を発射した。ぎりぎりで避けた魍魎熊の背後にいた魍魎が2体吹き飛ぶ。それは飛び起きたばかりのクロイツを援護する意味もあった。
そしてクロイツは、その援護を最大限に生かした。
光弾を避けた魍魎熊に、街道脇に積もった雪などものともしない速度で近接! 裂帛の気合いとともに振り下ろされた剣が、防ごうとかざされた右腕ごと熊の脳天を両断した!
魍魎たちは、退却を始めた。熊を1体斃されたのがきっかけとなったのだろう。アリシアが飛び立ち、追撃を仕掛けていく。
十分な距離まで引いていくのを待って、ヴァクエルは雪の上にあおむけに倒れこんだ。やはり、あの長い全力疾走は身体に堪えていたのだと自覚する。息を整えながらふと右を向くと、そこにも人がいた。正確には、人だった物が。魍魎に襲われた旅人の遺骸だろう。
今さら悲鳴を上げるほど
「残念、だったな」
ヴァクエルはそうつぶやくと、重い身体をなんとか横転させて、遺体の焦点を失った眼を閉じさせてやることしかできなかった。
5.
彼は、起きている。
その確信のもとに、ティアは自室をそっと抜け出した。外套を肩に掛けながら、外から聞こえる素振りの音を頼りに、接近する。
いた。宿代わりに泊まらせてもらっている神殿の神官宿舎。その中庭でクロイツが剣を振って、新雪を蹴散らしている。
その素振りが已んで、クロイツは近くの岩の上に置かれていた冊子を手に取って顔を近づけた。確かあれは、彼が師からもらったと言う指南書だ。
まだ日も昇らぬ時間ゆえ、わずかな月明かりの下で字を読むにはそうするしかないのだろう。だが、雪の中庭に突っ立って、大男がしかめつらしく冊子を見つめるさまが可笑しい。思わず吹き出すと、見つかってしまった。
いや、見つかりたかったのだ。彼に、どうしても尋ねたいことがあるのだから。
「どうかされましたか?」
彼の心配そうな顔に首を振って、ティアは切り出した。
「どうして、あんな真似をするの?」と。
怪訝そうな顔に変わった彼に、言いようのない苛立ちが湧き起こる。なぜ、魍魎の真っ只中に突っ込んで行くのか。その質問を我ながら早口でまくし立てると、彼の表情はまた変わった。破顔一笑、と言うにふさわしい、曇りのない笑顔。
「あれが一番効率がいいからです」
周りを取り囲まれてしまえば、あとはどこに剣を振っても敵に当たるのだから。龍の力さえあれば、放っておいても敵は自分目がけて殺到してくるのだから。
そう述べる顔に、
「効率がいいわけないじゃない……!」
自分の声が、ひび割れていく。どうしてなのか、分からない。
「フィルフェーンでも、3日前も、昨日も……どれだけ敵に傷つけられたと思ってるの? いくら、いくらアリシア殿が治してくれるからって、痛みを感じないわけないでしょ?!」
「大丈夫ですよ」と彼はまた笑う。
「治癒した瞬間に、痛みも消え――「そうじゃなくて!!」
どうして、分かってもらえないのだろう。つい大声になってたしなめられても、詰問調は変えられない。
「こんなことしてたら、い、いつか、取り返しのつかないことに……」
「大丈夫。俺は死にませんよ」
「何を根拠にそんな、そんなこと……」
彼女の眼に、涙が溜まった。それを見つめて、なお微笑むのか、あなたは。
「"
「こんりゅう……なにそれ……?」
それは、先のホローン・アルトゥーンでの戦闘において彼が至った極限。
すなわち、『生命を削ってでも龍の力を開放し、魍魎を殲滅する』という覚悟。そこに至った時、竜戦師の体表を覆う龍の力は細まり、ある種の紋様を為す。そして、通常時を凌駕する力を身にまとえるのだ。
そう説明する彼の穏やかな顔が変わらないことが、ティアの心を掻き乱す。
「いのちを……けずって……?」
大きくうなずき、微笑みは変わらない男。いつの間にか、どちらからかは分からないが2人は近づき、彼の穏やかな目が彼女の瞳をのぞきこんでいる。
「命を削るんで、回数が限られるそうです。人それぞれ上限があるみたいで、アリシアの記憶では、5回までは見たことがあるって言ってました」
「どうしてそんなにさらりと言えるの?」
聞いているこちらの気持ちを、まったく考えていない。そのことに、怒りしか湧かなくて、ティアはまた声を高めた。だが、
「事実だから、ですよ。俺は竜戦師ですから」
息が苦しい。彼女がこんなに切なくなっているというのに、こんなに涙がこぼれているのに。
「……どうして……どうしてあなたが、そこまでしなきゃいけないの?」
彼はまったく戸惑う素振りも見せず、言葉を放った。
「世界を救うためです」
涙が、止まった。
また聞こえたのだ。
あの時と同じ。『そうですね』って彼が言った、あの時と。
女のコエが聞こえたのだ。彼の声に混じって、かすかに。
ティアはクロイツの瞳を凝視し続けた。まるで、魅入られたように。
あるいは、その中に潜む何かを見出そうとするかのように。
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