第2章 旅の仲間

1.


 1回の野宿を挟んで夕刻に到着したフィルフェーンの街は、雑然としていた。防壁の嵩増しが行われているためだ。さすがに陽も落ちかけて、今日の作業は終了している。

 その建設資材のあいだを縫うようにして、宿屋へと至る。4軒目にしてようやく2部屋と1頭分の厩が確保できる宿が見つかり、一行はそこで難問に遭遇した。アリシアが、クロイツと同室を希望したのだ。しかし、残るはティアとウォレスの主従である。いくら老臣とは言え異性であり、ウォレスも気まずい以前に主君の姫君と同室など、問題外である。そして、これ以上部屋を増やす金銭的余裕は無い。

 しかたなくティアの後ろに従ったアリシアが、くるりと振り返った。

「クロイツ」

「ん? なに?」

 アリシアは両手を胸に当てて、切なげな表情を作った。

「浮気しないでね」

「あんたは何がしたいんだ、いったい!」

 そしてなぜ姫様は、あんなすごい目で俺をにらむんだ?

 それを問いただす暇もなく、女性たちは同室に入っていった。

「まったく……」

 ぶつぶつこぼしながら部屋に入り、鎧櫃を置いた。剣も腰から外し、寝台に腰かけて一休みしようとしたが、

「あ、いけね。荷物」

 ウォレスの鎧櫃も背負う代わりに、アリシアが荷物を受け持ってくれたのだ。

 こちらも寝台に腰かけて一息ついているウォレスに断わって、女性陣の部屋に向かう。戸に訪いを入れると、

「どうぞー――「ちょ、ちょっと!」

(真龍め……)

 ドアを開けたら、姫様のあられもない姿を拝める代わりに手討ちになるんだろ?

「アリシア、荷物取りに来たんだ」

「ああつかれたもうさじよりおもいものなんてもちあがらなーい」

(クソ真龍め……)

「姫、入ってよろしいですか?」

「ど、どうぞ」

 なぜか丁寧語での答えが、少し不気味だ。それでも、ここに突っ立っていても埒が明かない。クロイツは何が来てもいいように、歯を食いしばり気味にして入室した。

 二人はクロイツたちもしていたように、寝台に腰かけていた。違うのは、アリシアが着たきり(?)の赤い服姿なのに対して、ティアが着替えていたことであった。上着を脱いで、厚手のチュニックを被っているだけなのだが、そこはお年頃の女の子らしく、ニゲラの花柄が染め抜かれた可愛らしいものである。

 それはそれとして、

「あの、姫?」

「なに?」

「柄から手を放してもらえませんかね?」

 さすがに長剣は佩いていないが、護り刀の柄をしっかと握り締めた中腰で、隙あらば斬りかかろうとしているようにしか見えない。

「ティア、大丈夫よ」とアリシアがさすがに口添えしてくれた。

「昨日のはほんとに緊急避難的なものだし。こいつがそんなに手が早かったら今頃――」

 アリシアが突然黙った。『しまった』と書いてあるその顔を一瞬だけ見つめて、目を閉じる。

「そうだな……」

 つぶやいて、アリシアの足元に置いてあった自分の荷物を取り上げ、重い気分のまま部屋を辞した。



「アリシア殿?」

「なぁに?」

 ティアは少し躊躇したが、思い切って尋ねてみた。今の会話の持つ意味を。だが、首を振られる。

「私はね、これでもおしゃべりなの」

「はぁ」なにが言いたいのだろう。

「でもね、他人が口にしないことをペラペラ吹聴する趣味は無いの」

 つまり、彼に直接訊けということか。しかも明らかに気まずそうな話題を。

 気がつくと、アリシアが興味深げな目をしている。それを逸らしたくて、

「今日はいいお天気でしたね。こういう日が、王都に着くまで続くといいんですけど」

「そうね」

 一言答えたきり、じっと見つめられた。

「……なんですか?」

「別に。もっと肩の力を抜いたほうが良いわよ。私に対しても、クロイツに対しても」

 そんなこと言われてもと言いよどむ。今日一日共に過ごしただけの女性――しかも伝説の真龍――と、こちらが仕掛けた末とはいえ微妙な行きがかりになってしまった男性を相手に、気を抜けというほうが難しいのではないか。彼については、それとは別に彼女なりの配慮もあるのだ。

 そういえば、

「ずいぶん元気でしたね、クロイツは」

 怪訝な表情を見せた真龍に、故郷での戦闘から1週間と経っていないにもかかわらず、それを引きずるような素振りがないように見受けられるからだと説明した。

「そうでもないけど……まあ、寝てるからね。本復の眠りで」

 小首を傾げると、微笑んで説明してくれた。竜戦師はその内に秘めし龍の力を使うと、その回復のため人事不省と表現してもいいくらい熟睡するのだと。だが、それが今の話とどう関わってくるのかが分からない。

「ヒトは眠ることで、今日一日の出来事に、自分の中で整理をつけるの。あなたにも経験があるでしょ?」

 はあまあ、とあいまいな受け答えしかできない。彼女の少ない人生経験では、まださほど実感できないというのが正直なところだ。

「クロイツは竜戦師として、あるいは一平民として、さまざまな喜怒哀楽を経験することになる。そのたびごとに眠れぬ夜を過ごしてもらっては困るのよ。本復の眠りにはね、そういう意図もあるの」

 そう語るアリシアの瞳には、微笑とは裏腹に複雑な感情が浮かんでは消えているように思えた。あるいはそれは、過ぎ去りし日々の感傷なのだろうか。

「さ、夕食に行きましょう」

 そういえば、店が混む前に早めに摂りたいってウォレスが言ってたっけ。ティアはうなずくと腰を上げた。


2.


 廊下に出ると、男性2人はもう待ってくれていた。クロイツはいかにも『腹減った』と言わんばかりの顔である。

 そのクロイツの先導で1階にある酒場へ降りていくと、既に8割方埋まっている。外への入り口付近に騒々しい一団あり。仕事を終えた傭兵か守備兵か分からないが、まだ陽も落ちないうちから酩酊しているようだ。それ以外の客は、絡まれない用心なのか黙々と、あるいは密やかに食事をしている。

 一つだけ残っていた4人掛けの卓に収まると、店員が飛んできた。それを見とめたクロイツに、

「ティア様、嫌いなものとかありますか?」

 と声掛けされて思わず凝視してしまう。

「豚のハムと鶏のもも肉、あとはチーズを4人前持ってきて」

「おいアリシア、ティア様がまだ答えてないだろ!」

「あ、ああ、わたしはそれでいいから……あと、葡萄酒の赤を1杯持ってきて」

 ウォレスはニコニコしながら黙ってうなずき、店員は威勢よく厨房へ駆け込んでいった。

「あ、あの、クロイツ?」

「はい?」

 自分の顔が赤くなっている自覚がうっとおしい。目つきが明らかに面白がっている真龍と老臣はもっとうっとしい。だが、訊いておかなければ。

「どうして、その、名前で呼ぶの?」

 貴人を個人名で呼んでいいのは、両親や祖父母、主君、そして親しい人である。せめて敬称を付けて、『ティア姫』と呼ぶべきだろう。

 宿に着くまでと違う対応に戸惑ったのだが、

「こんな場所で『姫』なんて呼んだら、酔っ払いに絡まれますよ……ってウォレスさんに教えてもらったんですけど」

 抑えた声でそう答えられて家臣を見れば、さっと視線を逸らされた。アリシアは必死に笑いをこらえている。

「ウォレス?」

 家臣に呼びかけて、その顔をこちらに向けさせた。

「王都から我が家まで、酒場でそなたに名前で呼ばれた事なんてないんだけど?」

 アリシアはついに吹き出し、つられてウォレスの抵抗も崩れた。逆に愕然としたクロイツが叫ぶ。

「ウォレスさん……騙しましたね?」

「騙したわけではありませんぞ? その呼び方のほうが、姫様に潤いを与えると思えばこそ。家臣の配慮でござる」

「何よ潤いって……」

 ウォレスに茶目っ気があることは重々承知していたが、こんなことをしてくるなんて、今までなかった。怒りより戸惑いのほうが大きくて黙っていると、クロイツが立ち上がって頭を下げてきた。

「申しわけありません。無礼をお許しください」

 床に膝を突いて畏まる。それは礼としては正しいんだけど、この場所では……

「おうおう、なんだにーちゃん、お姫様に叱られたのか?」

 止める間もなく、災いが向こうからやって来た。騒いでいた一団の一人がクロイツの謝罪を目ざとく見つけて、だみ声を飛ばしてきたのだ。クロイツが動かず反論をしないのを見て、癪に障ったのか立ち上がる。仲間たちの中からも二人、周囲の制止も気にせずこちらの卓へどたどたとやって来た。

「お姫様、こんな若造と爺じゃ頼りないんじゃねぇですか?」

「そっちの年増も役に立たなそうだしな」

 爆笑に歯噛みして、でもどう切り返せばいいのか分からなくて。ティアが酔漢たちをにらみつけると同時に、声が已んだ。残念ながら伯女の威厳ではなく、龍戦師の起立によって。

 ゆらりと立ち上がったクロイツは、酔漢たちより頭一つ分高い。それもひょろ長いわけではなく、筋骨たくましい――そこに思い及んで思わず赤面する自分が嫌だ――男が自分たちを見下ろしているのだ。その表情にはいささかの苛立ちが見て取れて、常ならぬ気色の悪化にティアの心中を波打たせた。

「申しわけありませんが、この方を護衛する役は俺たちが請け負っていますんで、お引き取りください」

 それでも声色だけはいつもの穏やかなまま、頭を下げるクロイツ。それが、酔漢には逆に作用した。クロイツの顔と声が若いことも影響したのだろう、最初に絡んできた四十絡みの髭面がつばを飛ばしてまくしたててきたのだ。

「んだとこら! この世界は実力が全てだぜ! お前ぇみたいなひよっ子に何ができるってんだ!」

「おぅ木偶の坊、なんか言ってみろよ!」「その腰の長物は飾りか?」

「いいわ、受けて立とうじゃない」

 答えは、真龍から出た。机に頬杖を突いて、実に面白げに騒動を見つめていたのだが。

 驚いたクロイツが異議を唱えようとした機先を制して、眼を細めたアリシアは続けた。

「ただし、晩御飯を食べてからにしてちょうだい」

 酔漢たちの爆笑と揶揄も気に止めず、小首をかしげる仕草まで追加して、逆に煽り始めたではないか。

「腹を空かせて力の出ないひよっ子に勝って楽しい? ねぇ楽しい?」

「いいさ、食いたいだけ食えよ」と髭面が嗤う。

「お姫様からいただける最後の食事だ。味わえよ、ひよっ子」

 哄笑に湧きながら、酔漢たちは席に帰っていった。それを待ちかねたように、ティアたちの卓に食事と葡萄酒が並べられ始める。

 ティアは心臓がバクバクし始めた。

「どうして煽ったんですか?!」

 とアリシアを責めるも、冷静な顔で返されてしまう。なんだろう、妙に怖い。

「実力がものを言う世界だからよ。たとえ酔っ払いが相手でもね。むしろ酔っ払いくらい、軽くあしらえなきゃ困るわ」

「あんたなぁ……」

 そう困り顔で、しかしハムとチーズをむさぼり始めたクロイツ。にこやかな顔を崩さず、チーズを齧るウォレス。クロイツに倣ってハムに手を伸ばしたアリシアは、思い出したようにティアにも分けてくれた。が、それも葡萄酒も、のどを通らない。クロイツの力は卒業生対抗仕合で見ている。が、逆に言えば、その一戦しか見たことがないのだ。

(うう……わたしが戦うわけじゃないのに……)

 地恵神への感謝の祈りを捧げる事すら忘れていたことに気づいて、無理やりあおった杯越しにチラ見したクロイツの顔は、いつもの穏やかなものに戻っていた。周囲から時々投げかけられる視線も気にならない様子で、ウォレスやアリシアと食事について雑談をする余裕まで出てきているではないか。

(もしかして、さっきの不機嫌……お腹が空いてただけ?)

 思い至って、自分がバカみたいに感じられて。ティアは目を怒らせると、クロイツが取ろうとしていた鳥もも肉を横から奪ってかぶりついた。



 焦れて飛び出していった酔漢たちに遅れて出た酒場の前には、人だかりができていた。クロイツのゆっくりとした登場に大小さまざまなささやきが交わされているが、彼の耳にはおおむね『若造』とか『無謀』という言葉の欠片しか飛び込んでこない。

 それは、同行者たちの耳にも当然入っているはず。にもかかわらず、アリシアはにっこり笑って言ったものだ。

「本気出しちゃだめよ」と。

 それも聞こえよがしに言うもんだから、観衆はどっと湧き、酔漢たちは沸騰してるじゃねぇか。

 そこまで考えて、クロイツははたと思い直した。

 そうだ。これは、が相手じゃない。

 だから、

「んじゃ、これ、持っててくれ」

 と長剣を腰から外してアリシアに手渡した。

 にやけ顔から一転、神妙な面持ちで受け取ったアリシア。慌てふためくティア。黙って目を細めるウォレス。その顔を一渡り眺めて振り返った先のツラ3つは、赤黒かった。どよめき囃し立てる観衆に煽られるのが、今度は自分たちなのだから。

「舐めやがって! その剣を取れ!」

 ろれつの回らない髭面に合わせて、悪口雑言をわめき散らす決闘相手。彼らの仲間も野次を飛ばし始めた。それを圧するために、声を張る。

「あの剣は、ヒト相手に使うものじゃない」

 サーシャから託された、魍魎を滅するための剣だから。

 静まった場に合わせるわけではないが、代わりの短剣を音もなく抜いて、ゆったりと構える。言葉の意味を為さない絶叫を上げて突進してきた相手を眺めながら。

(左の物腰が一番確かだ。奴の剣がいち早く降ってくるな。真ん中が遅い……ならば)

 クロイツは静から動に転じた。

 あえて右に体を振り、左手の奴の剣筋をそちらに曲げさせた上で左にすっと避け、おまけで地面すれすれまで振り下ろされた剣の刃を踏んだ! 一瞬遅れて横に薙いでくる右手の奴の剣に合わせて足を離しがてら飛び退く。

 踏まれた剣を握り締めていた左の奴は、足を離された弾みで剣を振り上げてしまう。そこへ右の横薙ぎが激突! 左の剣は吹き飛んでしまった。そこへ真ん中の髭面が突っ込みかけて急停止! クロイツは足の止まった2人にすばやく近づくと、右の剣を短剣で叩き落とし、返す刀で真ん中を襲い、慌てて立てて受け止めた剣を折ってしまった。

 場の沈黙は、あっけない幕切れゆえか。あるいは勝ち名乗りを上げることもなく、すっと2歩退いた若造に面白みを感じないのか。

 その静寂は、無言の圧力と捉えられたようだ。酔漢の一団から罵詈雑言が上がり始め、

「くそっ! このまま――「もうよせ」

 一団の頭らしき男のわめきを抑えたのは、2人の男だった。

 1人は40代半ばといったところか。やや細身の長身で、豊かな髭を蓄えている。鋭い眼光で一団の頭を見すえる男について何よりも目を引いたのは、右腕が無いことだった。

 その隣に立つのは、仲間だろうか。先ほどの制止の声は彼から発せられたものである。隻腕の男より少し低い身長と、彼より豊かな横幅の体格の持ち主で、その丸っこい目は一見茫洋としているように見える。だが、その実は視野を最も広く取るためにわざとそうしているのだろう。

 突如として場の仕切りを買って出た男たちのうち、隻腕の男が言葉を継いだ。ややかすれ気味ながら重みを感じさせる声で。

「若造と侮った相手に手も無くひねられて、腹の虫が収まらないのは分かる。だが、これが結果だ。受け入れて呑み直せばいいじゃないか」

 酔漢の頭は、それを鼻で笑い飛ばした。

「はっ! 潰し屋風情が言ってくれるじゃねぇか。ええ?」

 潰し屋と呼ばれた隻腕の男の代わりに、隣の男がなにか言おうと口を開きかけたが、さらに頭が被せてきた。どうにも腹の虫が収まらないらしい。

「おう小僧! 今度は俺たちが相手だ! 切り刻んでやるからそこを動くな!」

 アリシアの囁きに、囁きで答える。

(面倒だから、喰っちゃおうかしら?)

(酔っ払いなんか喰ったら悪酔いするんじゃないか?)

 その時。

「魍魎だぁ! 魍魎が来たぞぉ!」

 東門のほうから聞こえてきた大声が、たちまちのうちに往来を騒がしくした。戦闘者たちは得物を確認し、市井の人々は西へと逃げる。旅の一団が魍魎に捕捉されたまま東門に向かってきているらしいことが、流れてきた人々の口から分かった。

 その流れの中で、クロイツは振り向かなかった。血が滾るのに、余計な言動はいらない。

「行くぞ、アリシア」

「ええ」

 頼もしげな背後からの声に安堵して、クロイツは人の流れを漕ぐ。戻れ逃げるなと喚き立てる酔っ払いどもを置き去りにして。

 だが、どこにこれほどいたのかというほどの多さに、なかなか前へ進めない。

 背後からの声は、苛立っていた。

「ああもう、面倒くさい!」

 立ち止まって振り向けば、ああそうか。合点して口の端を曲げる。アリシアが龍体へ変化を始めたのだ。必死で逃げていた人々が仰天して足が止まる。それが狙いだった。

「よし、行くか」

 真龍だ、と叫ぶ声がどこかから聞こえる。それに構わず、クロイツはいまや棒立ちとなった人々のあいだを縫って駆けた。その身に巨体から月影を投げかけられてすぐ、預けた長剣が降ってくる。

「先行して、出口を確保してもらうわ」

 次いで降ってきたアリシアの言葉にうなずき、剣の鞘を握り締めたまま疾駆すること10分ほど。門前の守備兵は、真龍の容姿と大声に呆然としていた。

「開門! 真龍と竜戦師が魍魎討伐に出る! 開門!」

「し、しかし、開門したら魍魎が……」

 追いついて息を整えると、クロイツは異議を唱えているその場の長らしき甲兵に言った。

「俺を通用口から出してください。アリシアは飛び越えますから」

 今度は別の呆然の態をなす甲兵たち。『こいつが竜戦師?』と顔にありありと書いてある。

 仕方がない。

「時間がありません。開けていただけないなら、叩き壊します」

 抜剣すると丹田に力を込め、右手と剣に龍の力をまとわせた。

 人は、分かりやすいものしか理解しない。奇異を目にした甲兵たちは、それでもしばらく呆然としていた。だが、ようやく理解に達すると、動いて通用口を開けてくれた。

 そのぽっかり開いた細長い暗闇をくぐりしなに、声をかける。

「俺が出たら、閉鎖してください」

 うなずく甲兵を後にして、クロイツは門外の橋を渡った。向こうに月明かりにも明らかな土塵が巻き上がり、人馬の悲鳴が近づいてくる。

 巻き上げられる橋と入れ違いに、アリシアが降りてきた。

「クロイツ――」

 歩き出したとたんに呼ばれて見上げれば、不安げな面持ちという珍しいものを拝めた。

「心配するな。やらないよ、は」

 俺はまだ、死ぬわけにはいかない。

 こちらの歩く速度より、逃げ来るほうが速い。旅の一団の目が、魍魎たちの目が、真龍とその横を歩く龍戦師に集中してくるのが痛いほど分かる。

「さあ、行くぜ!」

 クロイツは今度こそ総身に龍の力をみなぎらせると、魍魎のただ中目がけて斬り込んでいった。


3.


 ティアは出遅れた。改めて目の当たりにした真龍の威容に見とれて、足が止まってしまったのだ。真龍が飛び上がって気がつけば、クロイツの背中はもう見えなくなっていた。

 街中の人の流れは、今や逆流していた。大なり小なり噂に聞いていた真龍と竜戦師が、自分たちの目の前に出現したのだ。しかもその使命である魍魎を討伐するため門外へと出陣して行ったとなれば、誰ぞが魍魎に襲撃されているという悲壮感を脇へ押しやる見世物と化すのは否めない。

 ゆえに人々は防壁上の歩廊に駆け上がり、あるいは重要防衛拠点である塔にまで押しかけ、鈴なりとなった。ティアもウォレスと歩廊の人混みに何とか潜り込み、眼下の戦いを望見し――絶句した。

 全身から光を発しているのは、見紛うことなきクロイツだ。そのことに驚いているのではない。彼は魍魎に十重二十重に包囲されていたのだ! 背中をアリシアが護っているとはいえ、魍魎たちの意気は盛んで、次々に龍戦師と真龍に飛び掛っている。

 それを斬り、突き、あるいは体ごとぶつかってかち上げ……あ! 犬に脚を!

 彼方のクロイツは慌てる様子もなく長剣を左手に持ち替え、ついで抜いた短剣で犬の顔を薙いでから振り剥がした。そのままの勢いで、嵩にかかる魍魎人を袈裟懸けに斬ろうとしたが、刃渡りが短く、飛び退かれて果たせなかった。

 アリシアがクロイツのほうを向いて、何事かを叫ぶ。すると、彼女の手から発した光が彼に乗り移った。

(なに……? なにをしたの?)

 遠すぎて分からないが、その光がクロイツに力を与えたのか、彼は再び躍り上がるように剣を振り、殺到していた魍魎たちの足を止めさせた。

 ほっと一息つく。それとともに、ティアには壁上の喚声の中、敵の全容を見渡す余裕ができた。人型の魍魎が5鬼、あとは雑多な動物で、全部で40鬼ほどか。中には鹿など、普段なら人にはなつかないような種類のものまで混じっている……あ、またクロイツが、今度はアリシアまで……

 鬱屈するティアの感情をさらに揺さぶる大音声が、門内から響き渡ったのはその時だった。

「開門!! 開門!!」

 急ぎ振り向いて見下ろせば、先ほどの隻腕の男とその連れではないか。甲兵が誰何すいかの声を発しても、まったく動じない。

「俺たちが誰だっていいじゃねぇか! 門を開けろ! 打って出る!」

「し、しかし、魍魎が――」

「見て分からんのか?」と隻腕の男が声を発した。

「どういう仕掛けかは知らん。だが、魍魎たちはあいつらにいたくご執心だ。さっきまで目の色変えて追っかけていた旅の一団など、もはや眼中に無いくらいな」

 確かに、チラと振り向けば、旅の一団は堀の外にようやくたどり着き、息も絶え絶えに入場を乞うている。その周りに魍魎は1鬼とていない。

 隻腕の男の声が続いた。

「今押し出せば、奴らの背後を襲える。やるのは俺とこいつ――」

 傍らを親指で指し示し、連れは莞爾と笑う。

「あんたらに損害は出ない。どうだ?」

 ここまで言われてなおも渋る甲兵に、連れが大声を放った。

「心配すんな。報酬なんかねだりゃあしねぇよ」

 それが決め手となるというのも情けなきことながら、甲兵はようやく開門の指示を出した。そして出撃したのは、言い出した2人の男のみであった。

 それを望見してまなじりを決し、思わず階段を駆け下りようとしたティアの肩を掴む者がいる。

「姫、お控えください」

「でも、でも、クロイツたちが……」

 ウォレスは厳しい顔で首を降った。

「御身があそこに行けば、どうなるとお思いか?」

「わ、わたしだって剣が使えるのよ?」

 姫君の抗弁にも、老臣は揺るがない。

「クロイツ殿はあの包囲を破ることに加えて、御身を護らねばならなくなります。それが彼にどれだけの負担を強いることになるか。聡明な御身なら、お分かりいただけますな?」

 ぐっと唇をかみ締める。と同時に、歩廊や塔から悲鳴交じりの喚声が上がった。急いで壁の縁に戻ろうとしたが、大勢の見物人に阻まれてしまう。

「何があったの?」

 仕方なく、手近にいた行商人らしき女に尋ねたのだが、

「竜戦師のにいちゃんが一斉に襲いかかられて、斬られたってさ」

「!! クロイツ……!」

 前を塞ぐ人の壁を空しくにらんで、ティアにはもはやなすすべもなく立ち尽くした。



 激痛に目の前が真っ暗になって、ふと気がつくと地に膝を突いていた。

「つ……あれ?」

「クロイツ! 起きなさい!」

 頭の上を、叱咤の大声に続いて光弾が通過する。顔を上げると、さっき自分を斬った魍魎人は隻腕の男と剣を交えて――なぜあの人がここに?

 地につけていた長剣を握り直すと跳ね起きて、龍の力を身にまとわせる。飛び掛ってきていた犬を両断して、クロイツは大きく息を継いだ。

「あの人たち……」

「援軍よ。2人だけの、ね」

 アリシアの声は、弾んでいるような、悲嘆しているような。と、魍魎人が血煙を吹き上げて倒れ伏した。隻腕の男が相手の猛攻などものともせず、一閃して首を刎ねたのだ。

「! 強いな、あの人」

 こちらも魍魎の攻撃をさばきながら見渡すと、もう一人の男が魍魎を串刺しにしていた。通常のものより幅広で刃渡りも長い大剣を器用に扱っている。こちらもなかなかの強者だと即座に分かった。

 よしこちらも負けていられない、と剣を構えなおしたところで、アリシアから闘気が失せるのを背中越しに感じた。

「逃げるわ……」

 魍魎たちはついにその半数以上を失い、継戦意思が萎えたのだろう。我先に遁走を開始した。追撃する余力は、残念ながら無い。

 剣を収めて近づいてきた2人に、深く一礼する。

「ありがとうございました。おかげで助かりました」

 なぜか、ひどく驚いた顔をされた。

「あの、なにか?」

「ん? ああいや、馬鹿に丁寧だな、と」

 隻腕の男がそう言って笑い、大剣の男もまた笑った。街への戻り道、

「それにしても、あんなにきれいに斬られたのに、生き返るたぁすげぇな、竜戦師ってぇのは」

「生き返ったんじゃないわ。死に損なったのよ」

 とアリシアが解説する。即死しない限り、龍の力による治癒を施せば、死なないのだと。

「ある程度は龍の力で防いでくれるけど、あれは完全に相手の腕のほうが勝ってたわね。それでも、あなたは死なせない。ここで死んでもらっちゃこまるもの」

「なかなかの茨の道だな」と隻腕の男が唸るのに調子を合わせて、

「そうそう、俺、生かされてるんですよ。こいつに」

 おどけて、笑いを取る。そうでもしないと、このひどく重い足が止まってしまうから。疲労と言うより気力の限界、いや、龍の力を多量に消費したことによる本復の眠りが近づいているのかもしれない。

 気づいたのだろう、アリシアが人間体に戻ると肩に手を置いてきた。援軍2人の驚く声も気にせず、

「しゃきっとしなさい。竜戦師の凱旋なんだから。あなたと私の今後のためにも」

 強い男を演じ続けなきゃならない、ってことだろうか。それ以上は思考が回らない。

 そうしてたどり着いた東門は、開け放たれていた。門衛がしゃちほこばって屹立しているあいだを通り抜けて入場する。そこで迎えてくれたのは、

「おかえり、クロイツ」

「ただいま戻りました。ティ……姫様」

 どうにか声を絞り出したクロイツの返事にティアが何か言いかけたが、門の周囲から、いや、頭上の歩廊や塔からも沸き起こった怒涛のような歓声に掻き消されてしまった。石造りの防壁や煉瓦作りの建物の壁にそれが反響して、ぐわんぐわんと耳に届く。

 ああ、頭がくらくらする。

 クロイツの意識は一瞬で黒く塗りつぶされ、地に両膝を屈した感触を最後に、そこで途切れた。


4.


 翌朝。

「……なあ、アリシア」

「なぁに?」

「なんで怒ってるんだ?」

「怒ってないわよ」とアリシアは横目でにらんできた。

「呆れてるのよ」

 そう言いしなに頬を突かれ、クロイツは小さな悲鳴を上げた。

 そう、朝起きたら左右とも頬が赤く腫れていたのだ。鏡で検分するに、ひどく叩かれた痕のように見受けられるのだが、誰に訊いても教えてくれない。

 と同時に、彼には他人の心が読める能力が備わったのだろうか。『こいつは……』という声が聞こえてくるのだ。頬に関する質問をするたびに。

 今回もアリシアは答えをくれず、馬の口を取って歩いているウォレスに声をかけた。

「そういえば、不寝番はどうだった? やっぱり大変でしょ?」

「ですな」とさすがのウォレスも苦笑い。同時に大あくびをして、

「本復の眠りの時は、アリシア殿がされたほうが助かりますな。しかしその場合、姫がお独りになってしまうのは悩ましいですな」

「わたしが独りで寝られないっていうの? 帰省の時はそうだったじゃない」

 ティアが前をまっすぐ見据えたまま、馬上から不審の声を上げる。取り過ぎようとしている市場が混み始めているため、少し速度が落ちた。

「そうじゃなくて、お年頃の女の子が部屋で独り寝てるっていうのを危惧してるんだと思いますよ?」

 とクロイツが言い終わらないうちに、ティアがびくりと身を震わせた。何かあったのだろうか、ポニーテールで見え隠れするうなじが妙に赤いのだが。

「そうよね、危険よね」

 今度はアリシア。さっきまでの仏頂面から一転して、にやけ始めた。

「あなたみたいな不埒者がいたら、ウォレスの首が飛んじゃうものね」

「なんでそこで俺が出てくるんだよ」

 クロイツの何気ない指摘は、4つの視線を集めることになった。

 にやけたままのアリシアの。

 心底驚いた顔のウォレスの。

 そして、

「クロイツ君よ、君の胸に聞いてみたほうがいいんじゃないか?」

「いやあ、自分の胸じゃなくてこの場合、姫様の胸じゃねぇかな?」

 驚いて振り返るとそこには、隻腕の男と大剣の男がいた。朝の挨拶もそこそこに、大剣の男があのよく通る声で気勢を上げる。

「さあ行こうぜ、王都」

「いやあの、その前の『姫様の胸』ってどういう――」

「君、本当に意識が落ちたんだな、あの時」

 と隻腕の男が唸った。その連れが後を継いだのだが、内容はクロイツを呆然とさせるに十分なものだった。

「つまりな、倒れこんだってぇわけよ。姫様の胸の中に」

 両頬の腫れは、本復の眠りに落ちたことを気づかなかった姫が平手打ちを何往復もさせた結果であると追加されて、ようやく思考が一つの動作に結びつく。それにいったい何秒かかったろうか。

「申しわけありません!」

「まったく……」

 頬を染めた姫君が馬を止めて、こちらを振り向いた。

「こ、これからは場所をちゃんと選びなさいよ」

「え? それはなに?」とアリシアの目が点になる。

「二人っきりならいいってこと?」

「その場所じゃありません!」

 頭から湯気が出そうなくらい真っ赤になって、ついに愛馬に鞭が入れられた。

「姫様! お待ちを!」

 老臣の叫びを受けても、姫君の背中は駆け足で遠のいていったのであった。

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