繚華の龍戦師 Ⅱ
第1章 王都へ
1.
ホローン・アルトゥーンでの戦闘から2日後。アリシアはクロイツを伴って、この土地の領主であるエスクァルディン伯の居城にて、伯との面会を果たしていた。謁見の間を兼ねた大広間の雰囲気が暗いのは、陰鬱な曇り空のせいだけではない。それは、伯の開口一番の台詞からも察することができた。
「ホローン・アルトゥーンでのこと、既に私の耳に届いている。そなたらも大勢の知己を亡くしたことであろう。救援が間に合わなんだこと、真に慙愧に堪えぬ。シャビカノ神が死者の魂を、正しく黄泉路を導いてくださることを願おう」
このビギナダートへの途次で引き返した時、眼下に早馬を見とめた。それが伯に救援を依頼する早馬だったのだろう。市当局は――アリシアにとっては不愉快な感情しかないが――彼らなりの処置を取ったといえるかもしれない。
その後、魍魎を撃退して、かの街から歩いてしばらく、また早馬に追い抜かれた。それがもたらした速報も、伯はこの場で教えてくれた。
市街地の4分の1近くが燃えたこと。そして、守備隊員や武術学校の生徒を含む住民の死傷者は数え切れるものではなく、確認には当分かかるだろうとのこと。
ここまで真龍の脇に控えて石の床に片膝を突き、面を伏せていたクロイツが動いた。といっても、ぴくりと肩を震わせただけなのだが、見下ろすアリシアには彼の心の動きがよく分かる。
愛する女性を救出することがかなわず、目の前で事切れるさまを見届けることしかできなかったのだ。その傷の痛みを必死に耐えているのを見ると、やりきれなくなる。
話を切り替えよう。アリシアは伯の悼みの言葉に謝意を述べ、クロイツにも促すと、あえて声を張った。
「それで、姫君の王都行きの件ですが、いかがされますか?」
あの日、彼らがこのビギナダート目指して早朝に町を発ったのは、王都の女学校に通う伯女がそこに戻る旅の護衛を依頼されたからであった。それが市長夫人の策略であることは、出発までの聞き込みでおおむね事実であると見当がついている。
あれさえなければ、あるいは……そんな悔恨を胸の奥にしまいこむ。しばらく沈思していた伯が、腕組みを解くと口を開いたのだ。
「そなたらは、この依頼のからくりを存じておられるか?」
うなずくと、伯は苦々しげに眉根を寄せた。
「まったく、あの愚か者どもめ……と吐き捨てたいところだが、それができぬもどかしさよ」
「愚か者? 結果的に私たちを街から追い出したことですか?」
それもある、と苦々しげな表情は変わらない。
「竜戦師の生まれ故郷なのだぞ? それを大々的に売り出せば、いずれその伝説に惹かれて人が集ってくる核となる。彼が鍛えられた武術学校がここでござると喧伝すれば、あの街だけでなく近在からも生徒が集まろうに。もったいない」
アリシアは瞠目した。彼女の興味は竜戦師の発見と育成、魍魎との戦闘に向けられていて、その遺していくものについての着想がまるでなかったからだ。
素直にその感想を述べると、伯は一転して照れた。五十絡みの年配ながら、なかなかに可愛げのある御仁らしい。
「いやなに、我が所領にはそういう喧伝できる資産が何もないのでな。人は王都と港を行き交うばかりで滞留してくれぬ。ゆえに貧しいのよ」
側に伺候する配下の臣たちがきまり悪げにもぞもぞしているが、伯は頓着せぬ様子。そういえば件の依頼に訪れた家臣も屈託のない男であったのを思い出した。
「愚痴を聞かせてしまい申した。相すまぬ。改めて、娘の王都行きの護衛を依頼したい。いかがかな?」
「つまり、路銀はもうもらってあると」
無論であるとウィンクされた。それならば断る理由もない。いや、
「喜んでお受けいたします」
アリシアは微笑とともに、頭を下げた。その時、背後からせかせかした足音が聞こえてきた。振り返れば、見覚えのある顔だ。
「レドメと申します。ホローン・アルトゥーンの副商人頭の代理として参上いたしました」
「無礼者! 礼をとらぬか! 閣下の御前なるぞ!」
伯の側近に一喝されて、レドメと称す小太りはいかにも渋々といった態で片膝を突いた。
副商人頭代理の来訪理由。それは、アリシアとクロイツの非を鳴らすものであった。
曰く、東門の通用口を破壊した。曰く、市長兼商人頭の屋敷の正門を破壊した。曰く、副商人頭が街の防衛を依頼したのに、言下に切り捨てた。などなど。
「このような非儀、断じて許せません。そこなアリシア殿とクロイツ殿に、34
それは、今のアリシアたちには大金であった。払う気など、もちろん無いが。
「はてさて――」と伯は口ひげをひねる。
「なぜ副商人頭から訴えが出るのだ? 市長はどうした?」
レドメは面を上げた。その表情には奇妙な歪みが見て取れる。
「市長はお倒れになられました」
衝撃の情報に、指弾されてもじっと黙していたクロイツまでが、思わずレドメを見つめてしまった。レドメが街を発つ時点では意識が回復しておらず、副商人頭は仕方なく、市長の代理としてこの訴えを起こしたのだと言う。
「アリシア殿――」と伯が水を向けてきた。
「そなたの言い分を述べられよ」
アリシアは怒りを押し隠して、伯に正対した。
「私たちを迫害し、追い出した街を守ることなどありえませぬ。ですが、市内に侵攻した魍魎については、このクロイツともども多数を討ち取りました。また、市庁舎に取り付いていた魍魎勢に打撃を与えて撤退に追い込みました。真龍として、龍戦師として、最低限以上の戦果は上げています。それを、損害金を払えなどとは、恩知らずもはなはだしい。以上よ」
次に、クロイツにも発言が求められた。彼は簡易ながら裁判での陳述という初めて経験する事態に戸惑っていたが、やがて考えをまとめると、つっかえながらではあるが話し始めた。
「通用口を壊したのは、中に入れてくれって叫んでも開かなかったからです。市長の屋敷は……そこに魍魎がいたからです。閉じていて、これも中には入れませんでした」
そのほか細々と――本当に細々としたことまで――陳述を求められて、クロイツは暗い表情と声色のままそれを果たした。
「裁きの神々、ゲシク、ルバンユ、ナサキもご照覧あれ――では、裁決いたす」
15分ほどの休憩の後、重々しく伯が述べて、姿勢を正した。
「アリシア殿は本来、かの街の住民ではなく、この防衛の義務は無い」
レドメの顔色が変わるのも構わず、
「ただし、真龍という神々から与えられし身分であることを鑑みると、いかに自身と竜戦師が石もて追われたとはいえ、防衛要請を即拒絶するというのはいささか無体であると考える」
アリシアは悠然と判決を聞いた。かつて何度も言われたことで、今さら動揺する云われもない。
「次にクロイツであるが、原告より申し立てられた破壊の全ては、魍魎を討伐するための必要な行動であると考える。これを咎めることは、竜戦師である、ないに関わらず、今後の魍魎討伐を遂行する者の障害になることを我は危惧する」
クロイツは面を上げて、伯の言葉に聞き入っている。その表情には何も浮かんでいない。
「ただし、現地を検分していないためその仔細は不明ながら、いささか破壊の度が過ぎる感も否めないことは付け加えておく。
以上のことから――」
書記の記述が追いつくのを少し待って、伯はもう一度姿勢を正した。
「被告たるアリシア殿とクロイツにおいては、損害金を原告に支払うに及ばず」
レドメが異議を唱えようとして、伯の家臣ににらまれて引き下がった。
「ただし、クロイツにとっては生まれ育った街であり、アリシア殿も短期間とはいえ生活した場所であろう。その街が被害を受け、今まさに復興の緒についたばかりである。これに一助を加うるにやぶさかではないと忖度そんたくし、2人より17シルカを徴収し、これを見舞金としてホローン・アルトゥーンに下賜いたす」
アリシアは頭を下げ、クロイツも遅れてこれに倣った。
「いたし方ありませんな。では、私めも街の片付けに戻らねばなりませんので、下賜金を頂戴して――「痴れ者が! 分をわきまえよ」
レドメの差し出そうとした両手が、中空で止まった。叱った伯の眼が、レドメから側に控える年配の家臣に移る。
「すまぬがホローン・アルトゥーンまで行き、副商人頭に見舞金を下賜して参れ」
家臣が承るのを見て、峻厳さの消えない目線は再び、平伏するレドメに戻った。
「そなたは急ぎ戻り、広場にて見舞金を受領する式の次第を整えるよう、副商人頭に伝えよ。簡素な式でよいぞ」
レドメと家臣がそれぞれ退出するのを見届けて、アリシアは口を開いた。
「そんなお金、持ち合わせて無いんですけれど。宿にいったん戻らないと――」
「問題ない」と一転にこやかな伯の表情に、嫌な予感がよぎる。
「そなたらの路銀のちょうど半分を徴収するのだから」
2.
クロイツはアリシアとともに、控え室としてあてがわれた小部屋に向かっていた。
「なあ、アリシア。徴収された金額が路銀のちょうど半分ってことは――」
「そうよ」とアリシアはため息をついた。
「あいつら、閣下に渡した路銀を全部回収する気だったんだわ」
やっぱりそうかと、こちらもため息をつく。34シルカは大金だが、街に対する損害金としては微妙に過ぎる。判決が下りた後、今さらながらに思い至ったのだ。
おまけに、レドメは自分で持って帰ろうとした。つまり副商人頭のさじ加減一つで闇に葬ることも可能であり、あの代理が中抜きしても分からない。そんな疑いすら持ってしまうのは、もはや偏見ではなく、
「せこいな」「まったくね」
あんなことがあったばかりなのに。あんなに魍魎を斬りまくったのに。サーシャを救えなかったのに……
あの時の情景が、また頭の中で繰り返される。クロイツは怒りすら湧かず、また悲しみの淵に沈んだ。
アリシアもまたため息をついた。裁判の話の続きかと思えば、違うようだ。
「存外食えないお方だわ」
その声色は、呆れ半分愉快半分といったところか。
「――ああ、そうか。自分の懐はまったく痛まないもんな」
しかもそれを伯家からの下賜として街に与えるのだから、笑いが止まらないのではないか。アリシアはそう結んだ。
「なるほどねぇ……なあ、アリシア?」
「なぁに?」
クロイツは、きょろきょろと周りを見回した。自分の使命成就のために、頭を切り替えなければ。そう一念発起したのだ。
「このままお姫様の部屋にあいさつに行っちゃ……やっぱダメだよな?」
「当たり前でしょ」
と呆れられる。王都行きの話がまとまったら姫が呼ばれて顔合わせの予定だったのだが、レドメが割り込んできたため、彼女は部屋に戻らされたのだ。だが、裁決が下って改めてという段になって、姫が部屋にいないことが判明。ゆえに小休止も兼ねて控え室に向かっているのである。
ちなみに、こういう場合に案内を務めるであろう召使はなく、家臣の一人に部屋への行き方を口頭で教えてもらっただけ。噂には聞いていたが、伯家は裕福とは程遠いようだ。
「なに? そんなに親しいの? お姫様と」
「いや、1回会話を交わしただけだけど」
アリシアは目を見張った。
「へぇ! いつよ?」
卒業生対抗仕合の準優勝メダル授与の時、少し言葉を交わしたのだと説明した。
「ああ、そういえば、授与者はお姫様だったわね」
話しながら角を曲がって、渡り廊下の向こうが目的の部屋。というところで、驚くべきことが起こった。
「セヤッ!!」
柱の影から躍り出た覆面の者が、斬撃を繰り出してきたのだ! すっと避けても、あきらめずに次々と斬撃を繰り出してくる。しかし、
(遅い……というか殺気が無い……なんだこいつ?)
首を狙った横薙ぎをのけぞってかわす。アリシアはと見れば、柱にもたれてニヤニヤしている。彼女もこの襲撃者に殺気が無いことが分かったのだろうか。
いや、すぐに別なことが分かった。分かってしまったのだ。
横薙ぎを避けられたはずみで、流れた体勢を立て直そうと急制動をかけた襲撃者。その覆面からこぼれ出たのが、赤いポニーテールだったのだから。
「あの……姫、そろそろ止めてもらえませんか?」
襲撃者は激しく動揺した。かつて正対した覚えのある眼が実に分かりやすく泳ぎ、
「なっ!? 何を言うの……だ! 私は姫などではない!」
いや、声も本人そのものなんですが。そのことを指摘しようか迷っていると、動きが止まったのを好機と見たか、大上段に振りかぶって突進してきた。
仕方が無い、無理やり止めるか。
「ですから、止めてください」
クロイツはさっくりと一歩踏み出すと、無造作に右手を突き出した。腕もこちらのほうが長い。お遊びでも怪我をする前に突き飛ばそう――
ふにゅっ、と柔らかい感触に続いて硬質な衝撃が右手から伝わり、クロイツは踏ん張った。もちろん襲撃者は大きく後ろに飛ばされ、尻餅をついている。
手から飛んだ長剣にもはや構わず、跳ね起きた襲撃者。両腕を体の前できつく組んだまま、わなわなと震えている。
クロイツはひざまずき、礼をとった。
「改めて、初めまして。アーガスの子、クロイツと――「――もの……」
「は?」
「この不埒者!!」
つかつかと近寄りざまに放たれた言葉と平手打ちで、襲撃者はまさに語るに落ちたのであった。
3.
翌朝。
「おはよう! 色男」
「あんたなあ……」
クロイツはまだ平手打ちの跡がかすかに残る頬をさすりながら、満面の笑みをたたえるアリシアをにらんだ。
あの襲撃ごっこ――姫君曰く『わたしを護衛する男がどの程度の腕か試したかっただけ』――の騒ぎで、謁見の間での顔合わせは見事に省略された。つまり、昼食会が省かれてしまったというわけで、
『クロイツよ、娘をよろしく頼むぞ』
そう言いながらクロイツの肩に親しく手を置いた伯の気持ちが手に取るように分かる。なぜならば『もうけもうけ』と言わんばかりのホクホク顔だったのだから。
ちなみに、ティア姫の胸をはからずも押してしまったことについては、本人の激高にもかかわらず誰にも咎められなかった。
むしろ咎められたのは宿に帰ってからで、
『クロイツ……あんた……またやらかしたんだね……』
とコーリンににらまれ、母には叱られた。お年頃の娘さんに、しかもお姫様になんてことするんだと。
その2人は、既に旅装で朝食を摂っていた。もうすぐフェックネル村のある方面へ、旅の一団が出発する刻限である。今度はさすがに乗合馬車の呼びかけに応じたので、母のせいで旅程が滞る心配はないだろう。
自分たちの朝食は置いて、母とコーリンを集合場所まで送って行く。当方が真龍とその竜戦師であることは、母たちをこの街まで送ってくれた一団が吹聴したらしい。目礼してくれる者、気味悪げに顔をそむける者、興味津々であとをつけてくる子供たちなど、街はさまざまな反応を見せた。
一団を警護する傭兵団も、すでにその場に集合しているようだ。クロイツたちが集合場所に到着して一団の先達に話をしていると、鎧摺れの音も騒々しく大勢でやって来た。
「へえ、でかいな!」「おいレパント、ちょっと仕合ってみろよ」
仲間からレパントと呼ばれた女は進み出ると、剣の柄に手を乗せて名乗った。一見して闘士と分かる風貌で、眼光も鋭い。
「あたしの名はレパント。ウージュの子、このビギナダートの生まれだ」
こちらも名乗り、素直に頭を下げた。そのさまに、どよめきが起こる。
「おいおい、仕合う前から降参か?」
いいえと首を振り、いたって穏やかな、つまり普段の顔でレパントに話しかけた。
「俺はまだ傭兵登録も済ませていないひよっ子です。先輩に頭を下げるのは当然でしょう」
ですが、と笑う。
「仕合を望まれるなら――「そこまでだ」
傭兵の一群を割って、いかにも親分の風格を持った男が進み出てきた。傭兵団長だろう。
「レパント、この仕事を下りるなら、仕合でも果し合いでもなんでも好きにしろ」
言葉に詰まった部下をひとにらみして、今度はこちらに顔を向ける。
「お若いの、そういうわけだ。俺たちは伊達や酔狂で生きてるわけじゃねぇ。仕合なんぞしたって、
「申しわけありません。つい乗ってしまいました」
素直に頭を下げると、男はにっと笑い、続いて胴間声を張り上げた。
「さあ、出発だ!」
「ああ、そうだ」と思いついたことを言ってみることにする。
「俺、王都で傭兵登録と一緒に傭兵団結成の許可を王様からもらって、魍魎討伐のための傭兵団を作るつもりです」
立ち止まって振り返った傭兵たちの反応は爆笑、もしくは失笑だった。
「ま、がんばれよ」
傭兵団長の言葉もまた、激励よりもからかいを多量に含んだもの。それを小さく礼をして受ける。失望とあきらめ、それに反する奮起の念を心中にしまいこんで。
「じゃあね、クロイツ。がんばって」
コーリンが歩み寄ってきて、両手を握られた。
「うん。住む所が決まったら、手紙書くよ。神々のご加護を」
名残惜しげに手を離したあと、柔らかな笑みを残して、コーリンは去っていった。今度は乗合馬車だ。
「母さん、またいずれ」
「がんばりなよ、クロイツ。ケシサダータ神がお前にご加護を下さるよう祈ってるよ」
母もコーリンも、さっきの哄笑を聞いていただろう。それだけに、二人からの励ましの言葉には心がこもっていたように思う。
「……泣いてる?」
「泣いてねぇよ」
さ、メシだメシだ。
4.
そのころ、エスクァルディン伯の居城では、伯が夫人と朝食を摂っていた。先刻娘を見送ったばかりの妻の頬に涙の跡が残っているのを見ると、弱くなったなと感慨を新たにせざるを得ない。
その妻が、匙を置いて胸を押さえる。
「胸が痛むのか?」
「ええ」と妻は夫の眼を見返してきた。その瞳には、彼を非難するような色が見える。
「あのような不埒者に、娘の護衛を任せてよかったのか。それを考えると、胸が痛むのです」
なんだそんなことか、とは言わない。伯は鋭敏な男であり、妻がかんしゃくを起こす要点を心得ている。しかし認めれば、追及が来ることも分かり切っている。よって代わりに、冗談で流すことにした。
「私とお前の出会いを髣髴とさせるではないか。え?」
妻の白い顔に、ぱっと赤みが差した。
「ええ、ええ、殿のほうがはるかに不埒でございましたね」
非難がましい口調に、からかいが混ざってきた。よかった、機嫌は直ったようだ。
「ま、ウォレスも付いていることだし、あの男が何か邪念を抱いたとしても、どうにも出来ぬであろうよ」
「ウォレスも、もういい歳ではありませんか」
そう言いながら、妻はまた匙を取って粥をゆっくりと食べ始めた。
そんなことは分かっている。娘に老臣を付けたのは、ちゃんとわけがあってのことなのだ。
若い家臣を王都に置くことは、彼・彼女のためにならない。王都は魅惑の都であり、身を持ち崩す男女は数知れずという魔の街でもあるのだ。
そして、もう一つの理由が向こうからやって来た。
「申し上げます! ウノ村が魍魎に襲われているとのこと! 数、およそ30!」
「出陣だ!」
伯は匙を投げ捨てると立ち上がった。
最近、魍魎の襲撃が増えてきているのだ。これに即応するには、やはり機敏な若い家臣を手元に置いておきたい。
妻の見送りの言葉に軽く手を挙げると、甲冑を着用するため小姓を呼んだ。
5.
朝の出発からずっと、クロイツは馬上のむくれ顔と眼を合わせないように心がけていた。
むくれ顔の主は、無論因縁のティアである。その顔はフィデリーナ街道の先を見すえ、馬の歩む上下動以外に動かない。その代わりに、ポニーテールが彼女の愛馬に生えた尻尾と同じく左右に揺れ、思わず吹き出したら物凄い目でにらまれたため、これから気をつけようと心に決めたクロイツであった。
ウォレスがそんな主の顔を見上げ、白髭を震わせて言った。
「姫、そろそろ休憩と致しましょう」
「よい」とティアは取り合わないようだ。
「明日の夕方までには宿に入りたい。そう言ったのはウォレスだぞ?」
「確かに申しましたが――」と老臣も姫の言葉に取り合わない。
「もう1時間近く歩いております。馬も我々も休みませんと」
あそこの川岸で休みましょうという懇請に、姫は渋々従った。
大樹の根元に、ちょうど手ごろな平たい岩を見つけた。そこに、姫様ご愛用の円座を敷く。そのあいだにウォレスは馬を川岸に繋いだ。たちまち水面を割って水を飲み始める馬を見ると、結構辛抱していたのだなと思わせられる。
「クロイツ殿、すみませぬな」
「? なにがですか?」
ウォレスが、アリシアが座った岩の近くにクロイツが下ろした鎧櫃を指さした。そういえば、彼の分も担いでいたのだ。そのやりとりにアリシアが絡んできた。
「気にしないで。これも鍛錬だから」
「あんたはいいよな。鎧いらないから」
アリシアは、あの赤い服の姿である。龍体に変化する時はそのまま、つまりこれは服に似せた皮膚なわけで、
「きゃーくろいつがやらしいめでわたしをみてるー」
「止めろバカ」
あっという間に悪化するティアの気配を敏感に感じて、クロイツは慌てた。
「まったく……」
まさに汚物を見るような目で吐き捨てる姫に、傍らに腰を下ろしたウォレスが笑いかけた。
「若者なら、このくらいの色目を使うのは当然でございますぞ」
「まぁね」とアリシアも笑う。
「虚無神様みたいに、いつもむっつりのっぺりされてても、つまんないし」
「今度こそ、止めろバカ。虚無に飲み込まれたら……」
本気で止めたが、アリシアは聞かない。
「大丈夫よ。こんなところ、見ちゃいないから」
虚無神。名も無く、自らに名付けもしないため、他の神々からも便宜上こう呼ばれている神。この世の終わりに、この神が世界のすべてを虚無に飲み込むのだという。あるいは戯れに人や家畜を飲むともいい、それらが突然失踪する主犯と噂されている。
神々のことをこんなに軽くけなせるのは、真龍ならではなのだろう。その放言に姫も老臣も気おされたのか、会話が途絶えてしまった。
今日は風も無く、降り注ぐ陽の光が実に心地よい暖かさを恵んでくれている。その冬らしからぬ僥倖に浸ることしばし、ティアがぼそっとつぶやいた。
「あの時――」
声は、クロイツに向けられたものだった。
「何を言おうとしていたの?」
"あの時"とはいつのことかと問うと、朝、傭兵たちに笑われた時のことだと言われた。
「見てたんですか?」
「う、まあね」
姫はなぜかしどろもどろになって、腕をパタパタ振りながら言いわけを始めた。こちらの集合場所に行く前に、ちょっと道草をしただけだと。
「あ、あなたがどんな人間か、知っておかないと危険じゃない? だから……」
「姫おん自らお忍びで、建物の影からのぞいていたわけですよ、はい」
そう言って、ウォレスが忍び笑いをした。存外に気さくな性格のようだ。
「あれ? ちょっと道草しただけって今――「うるさい!」
またにらまれた。ウォレスもろとも。
質問に答えてないことに気がついて、クロイツは屈託無く笑っていった。
「傭兵団を結成するから、もし縁があったらよろしくお願いします。そう言いたかったんですよ」
聞いたティアの眼が、アリシアに移る。
「本当にこんな男に、そんな無理難題をやらせるつもりなのですか?」
「ええ」と真龍の姿勢も声も揺るがない。
「それに、こんな男じゃないわ。私が選んだ龍戦師よ」
瞠目し、たじろいだ姫君は、それを恥じるようにすっくと立ち上がった。出立と告げて、慌てる同行者たちを尻目に川岸へ向かう。彼女の後頭部と同じ尻尾を揺らす、愛馬のもとへ。
王都への旅は、こうして始まった。
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