第10章 出立は涙とともに
1.
クロイツは座学を受講しながら、3日前以来続いている一連の騒動について頭を悩ませていた。
母の経営する小間物店は、今月末までの立ち退きを宣告されていた。部屋に引きこもっていた母のところへ家主がやって来て、『ほかにいい借り手が見つかったから』と言われたというのだ。契約期間がまだ残っているではないかと契約書を提示しようとしたら、しまってあったはずのところに無い。真っ青になった母に捨て台詞まで吐いて、家主は帰って行った。
この件については、翌日アリシアが母を連れて市庁舎に赴き、契約書盗難事件と家主の不法について訴え出ていた。だがアリシア曰く、
『まともに取り上げる気は無いわね』
言を左右に粘られ、最終的に盗難の届け出と契約の再確認については受理してくれたものの、明らかにやる気を見せない。いや、アリシアに言わせれば、
『再々後ろを振り返って上司の眼に気を取られていたわ』
『どういうことだ?』と問えば、
『決まってるでしょ? そういう指示が出てるってことよ』と返された。
そう、"そういう指示"が出ていた。それが、同級生たちからの通報で明らかになっていた。
誰が発したか分からないが、『クロイツとその母、そしてアリシアに関わるな』というもの。それが、あの最終戦を終えて翌朝までにクロイツの住む界隈に流布し、その日の夕方までには範囲が拡大して同級生たちの耳にまで達したというわけだ。
『お前らはいいのかよ』とケビンに聞き返すと、
『へっ! どうせ大方市長んとこだろ? こんなくっだらねぇこと言い出すの。なんでそんなの守らなきゃならねぇんだよ』
キリルが腕組みをして言った。
『でも、ケビンとボードはそうしたほうがいいな』
『なんでだよ!』
ケビンとボードが二人して同じ叫びに、キリルがしかめつらしく応じた。
『お前ら、守備隊に行くんだろ? これからも、何かとあの連中とツラ付き合わせるじゃないか』
クロイツは2人に頭を下げた。
『ケビン、ボード、ありがとな。でも、キリルの言うとおりだ』
『ちくしょう、悔しいなぁ……』とボードが唸る。
シールがぼそっとつぶやいた。
『女だね』
皆の注目を浴びて、シールはちょっと顔を赤らめながら話し始めた。彼女の母、洗濯場を仕切るチャレットがそうぼやいていたのだと言う。
『確かに、シャムおばさんの店も出てけ、なんてあのキアボ市長のやり方じゃないよな』
ボードが唸るその横から、シールが改まった口調でクロイツに詫びを入れてきた。母親から、クロイツと母に不義理を詫びておいてほしいと頼まれたというのだ。
『みんな冷てぇよな。闘技場ではあんなに調子のいいこと言ってたのに』
ケビンの嘆きに、ニクロがしたり顔で応えた。
『そんなもんだろ。大勢でいるときなんて。家に帰りゃ、世知辛くもなるさ。なんたって市長夫人だからな』
『女は怖いなぁ』『次はなにを仕掛けてくるんだろう? 怖ぇ怖ぇ』
男子生徒がおどけて、皆が笑う。すると、
『てことは、次は――』
突然後ろから声が聞こえてきて、クロイツたちは仰天した。シャルリ教官だったのだ。
『次は、なんですか?』
にっこり笑ったシャルリ教官は、クロイツに顔を寄せると言った。
『あたしの特別講義の番、というわけさ』
サーシャの猛抗議をよそに、女盛りの教官は敢然と笑ったのだった……
2.
キアボがロアークの取り巻き・メルクを見かけたのは、その日の執務を終えて帰宅する途中だった。その明らかに浮かれて、かつ急ぐ姿に不審を覚えたのは、キアボの人生経験のなせる業だったろう。
「おい、メルク」
声をかけられて、『しまった』と『逃げなきゃ』と『大旦那様にご挨拶を』とが入り混じる複雑な表情を見せるメルク。キアボはそれに気づかない振りをして、問いかけた。
「どこに行っていたのだ?」
「郊外へです。最近宴会続きで身体がなまっておりましたので、剣の稽古をしてまいりました」
「ほう」と顎髭をひねって、キアボは踏み込む。
「最近の若者は、剣を鞘に縛り付けたままで稽古ができるのか?」
走る時、あるいは馬を走らせる時、剣が揺れて鞘から抜け落ちてしまうことがある。それを防ぐために剣の鍔のところに紐をかけて鞘に縛り付けるのだが、これすなわち『急使』の証である。途中でよほどのことが無い限り剣を抜く暇も無い任務を抱えているということなのだ。
そして、両方のすねにこびりついた泥の跳ね上げとくれば、
「馬を街に乗り入れず徒歩で我が家へとは、殊勝な心がけだな、メルクよ」
赤と青を交互に繰り返すその顔色を一顧だにせず、キアボは護衛たちにメルクを囲ませた。
「お、お許しを……」
「そう怯えるな」
と優しく声をかけてやる。こいつの首を取ったところで小銅貨1枚にもなりはしない。
だが、逃がしはしない。
「さぞや疲れたであろう。あそこの子馬亭で一杯やっていこう。どうだ?」
事実上の強制で、メルクを護衛ごと宿屋の中に引っ張っていった。慌てて出迎えた店主に酒と簡単な食事を運ぶよう言いつけて、2階の部屋を借りる。
飲食が出揃ったところで「呼ぶまで来るな」と店主に命じて、キアボは正面に座らせたメルクに酒を注いでやった。
「さて、世間話もなんだな。単刀直入にいこう。誰の指図で動いている?」
「おおお許しを……」
その言葉と声、怯えきった表情。全てが指す人物は一人しかいない。
ロアークの指図なら、そうと答えるだけで済む。キアボ自身ではない。とすれば、残るはただ1人。
キアボの妻だろう、と察した。あの仕合から今日で5日、彼の妻は実に分かりやすい行動を取っていた。部屋から一歩も出ず、食事すら部屋に運び込ませていたのだ。何か気に入らないことがあった時取る、彼女にとっての"逃避"である。
そしてそんな時、彼女は見境を無くす。
異変を報じたのは秘書だった。市中に流れる風説を聞き込んできたのだ。『市長が、あるいは市長夫人がクロイツの一家を忌避して、迫害しようとしている』と。
すぐに人を使って調べさせた。妻の部屋に見張りをつけて、出入りする者を監視までしたのだ。
それでも、メルクをどこかに放ったことは掴んでいなかった。いったい、どこへ行ってきたのか。
「お許しを。それだけは、お許しを」
キアボの護衛たちに四方から見下ろされて、それでも図太くも飲み食いしながらひたすら許しを乞うメルク。おかしい。何かがひっかかる。
結局、あまり遅くなるのも良くないと思い返し、メルクとの会食は30分ほどでお開きとなった。
「まったく……いらぬ手間を……」
再び自宅への帰り道を取りながら、市長兼商人頭はぼやく。放っておけば去る者を、なぜわざわざ追い立てようとするのか。
「母の意地とかいうやつか……くだらん……」
なおもつぶやき続ける市長の肩に、粉雪が舞い降り始めた。
3.
メルクが市長に詰問されていた同時刻。
そこは外光の差さない、暗い部屋だった。いや、そこへと至る廊下が既にして、暗い。
それに、なにやら饐えた臭いがする。まるで嫌々、あるいは最低限、掃除をしたという体裁だけは整えたように。
クロイツはデメティアの侍女であるコーリンに引っ張られて、花街の一画にあるこの家屋、いわゆる連れ込み宿に来ていた。
家の玄関扉の下から差し込まれていた一通の手紙が、この始まりだった。
『今日の学校が終わったら、市庁舎の裏まで来てください。独りで。お話したいことがあります』
文章の末尾にコーリンの署名を見つけたクロイツは、迷わなかった。手紙をアリシアに見せたのだ。
心当たりがまるで無い。それに、こんな上質の紙をコーリンが持っているわけが無い。そのことが、今日までの騒動に加味されて、クロイツにこの行動を取らせたのである。
いつもどおり郊外で特別講義を受けたあと、クロイツは独りで市庁舎の裏に来た。そしてそこに、宵闇の寒さに震えながら待っているコーリンを見つけて、クロイツの疑惑は確信へと変わった。
そして今、クロイツは部屋の灯りを廊下から取ってきたコーリンと向かい合っている。
「どうしたんだ? コーリン」
「お話が、あるの」
「俺は無いよ」
あえて冷たい言葉を叩きつける。それで帰れない彼女に申し訳なく思いながら。
「わたし、あなたのことが好きなの」
彼女はこちらの言葉を聞く耳は持たないようだ。いや、聞いてはいけないと言われているのだろう。
「でも、あなたは行ってしまうんでしょ? 王都へ」
クロイツは目を閉じた。
ああ、こんな状況、もう二度と俺の身には起こらないんだろうな。そんな場違いなことを考えた。店の玄関のほうで、押し問答する声が遠く聞こえる。
眼を開くと、コーリンは躊躇している様子だった。今が好機だと判断して、
「じゃあ、王都行きの準備があるから」
「待って!」
だめだったか。そして、遅かったか。
眼を血走らせたコーリンは、さらさらと軽い音をさせながら、服を脱ぎ始めた。簡素な私服があっという間に床に音も無く落ち、薄暗い灯りのもと、見慣れた褐色の肌の見せてもらったことのない部分まで曝け出された。
クロイツは止めない。そこで手を出してはいけないと言われてきているからだが、その黙視を良いほうに判断したのだろう、下着をもためらい無く外す――
「そこまでよ!」
扉を開けて踏み込んできたのは、サーシャを先頭にネーニャ、シールの3人だった。悲鳴を上げて裸体を隠ししゃがみこむコーリンを前に、サーシャは宣言する。
「ごめんね、コーリン。もうばれてるから」
「ていうか、もう制圧したから」と声がして、アリシアが部屋に入ってきた。
「何人いたんですか? アリシアさん」
「2人よ。いやらしい顔してそこの壁の穴からのぞいてたから、簡単だったわ」
さ、クロイツ。と回れ右をさせられる。
「コーリンが服着るから、表に出てなさい」
「ほらクロちゃん、行くよ!」
今度はサーシャに引っ張られながら、クロイツはシャルリ教官の特別講義の一コマを思い出していた。
『元から嫌われてるのは論外として、男を確実に落とす手段はあるわ』
なぜかこの講義だけ同級生が満員御礼で、苦笑気味のシャルリ教官はこう切り出した。
いくつか意見が出たあと、教官は結論を述べる。
『男と二人きりになって、素っ裸で抱きつけばいいのよ』
おおおおお、とうなる男子。きゃああああと叫ぶ女子。教官は実に楽しそうだ。
『んじゃ、逆にどうすれば逃げられるんですか?』
『最善の手は、二人きりにならないこと。……今、当たり前だと思ったでしょ?』
『まあでも、危険に近寄らないってのは基本ですよね』
クロイツの感想を、アリシアが鼻で笑う。
『それでもひょいひょいついてっちゃうんだから。男って基本、馬鹿だし』
過去に何があったんだろう。真龍にも真龍なりの色恋沙汰とかあったんだろうか……
ぎゅっと脇腹をつねられて現実に戻らされた。
「今、コーリンの裸、思い出してたでしょ」
「違うよ! シャルリ教官のことだよ!」
「やっぱりやらしいこと考えてるじゃん!」
道往く人々が、冷やかしの視線を送ってくる。ここは花街、つまり風俗街であり、彼と彼女が立っているのは、連れ込み宿の前なわけで。
「……俺たち、なんか勘違いされてる?」
「け、ケンカなんかしてませんよ~! ほーら仲良しですよ~!」
「何やってんの? あんたら」
腕と腕を組んで仲良しを誇示している姿を、ネーニャたちに見られてしまった。慌ててバッと離れると、さらに出てきたシールたちにも笑いが広がる。
「なんかまさに『今出てきました』って感じ!」
「え、まさか、ここの常連?」
「んなわけあるか!」
掛け合いにひとしきり笑い笑われたあと、アリシアは後ろを振り返って宿の経営者に言った。
「お騒がせしたわね。これ、迷惑料よ」
「へ?! ああ! こいつはどうも!」
望外のお駄賃だったのだろう、
「さて――」
アリシアは一同を停止させると、コーリンを見すえた。
「デメティアの指示なの?」
かなり逡巡したが、コーリンは小さくうなずくことで答えた。そこから、降り始めた粉雪の中、訥々と話し始める。
キアボの屋敷から使者――漏れ聞こえてきた会話では、市長夫人かららしい――が来たこと。コーリンの役目はクロイツを誘惑することで、隣の部屋からのぞいていた男たちが事後に踏み込んできたら、クロイツに強姦されたと主張することになっていたこと……
「あのババア、なりふり構わずだね」とネーニャが灰色の髪を揺らして呆れている。
「これからどうするの?」
とはシールがコーリンに向けた質問。かなり酷な問いだとクロイツは思った。
「分からない……もうお屋敷には戻れないし……」
語尾は横丁の闇に消え、コーリンはサーシャの胸にすがってすすり泣き始めた。
「あ! あいつら、どうしたの? アリシア」
サーシャが控えめながら叫んで、クロイツもはたと気付く。隣の部屋からのぞいていたという男たちを制圧して、そのまま放置してきたのだろうか。
「大丈夫よ。ちゃんと後腐れが無いように処置しておいたから」
アリシアは囁くように答え、一同はとりあえず安堵した。が、その直後にあらぬほうを向いたアリシアが隠した小さなゲップを、クロイツは聞き逃さなかった。
(まさか、喰ったんじゃ……)
コーリンの身柄はアリシアが何とかするという。当てもあるらしいのだが、
「アリシア――」
「なに?」
「……喰うなよ?」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。食べないわよ」
ここに至ってようやく先の"処置"の意味に気づいたのだろう、サーシャたち学生組は眉根を寄せ、コーリンは震え始めた。
「食べないわ。この薄い胸に誓って」
「あ、それ、決まり文句なんだ」とサーシャが笑った。
アリシアに連れられての別れ際に、コーリンが振り返った。
「クロイツ……あの……」
「ん?」
コーリンは消え入りそうな声で、
「ごめんなさい……でも、わたし……」
しかし、そこまでで首を振ると、コーリンはアリシアに促されて横丁の闇へ消えていった。
明日は、いよいよクロイツにとって武術学校最終日。路地に舞い降りては溶けていく粉雪が、ひどく儚げに見える。そんな宵の口だった。
4.
翌日の夕方にもたらされたその報せは、まさに急転直下というにふさわしいものだった。
降りしきる雪の中での最後の特別講義を終えて自宅まで戻ってくると、男が1人、その前で待っていた。見たところ四十絡みの、細身の男である。
「そなたがクロイツか?」
従者こそ連れていない。だが一見してどこぞの家士と分かる服装と口調で、クロイツは反射的にかしこまる。
「あー……そなたは?」
男の問いかけに振り返れば、アリシアが平然と突っ立っている。その口が、冷ややかな声色を発した。
「わたしは真龍のアリシアである。わたしの龍戦師たるクロイツに、何用か?」
どこぞの家臣などにでかい面はさせない。そういう意識が透けて見える発言に怒るかと思いきや、家士は逆に恐れ入ったふうで、頭や肩の雪を払うとかしこまった。
「や、これは失礼した。では改めて。私はエスクァルディン伯の臣、ベロノーラと申します」
伯爵家の家士が、自分に何の用なんだろう。
「我があるじより、依頼があって参りました」
依頼? その意表を突いた台詞に戸惑い、しかし立ち話で済む話題ではないとベロノーラを家に招じ入れた。
簡単な紹介を聞いただけで平身低頭する母に台所を任せて、アリシアとともにベロノーラと一つ机に座る。
飲み物一つ出せないことにお詫びをすると、気さくに返された。そして態度が改まる。
「さて、聞くところによると、アリシア殿とクロイツ殿は、王都へ行かんと欲されているとか。そこで――」
なぜそんなことを知っているのかと問う間もなく、本題が来た。
「里帰りしておられる姫君が、近日中に王都へまた戻られる。その護衛をお願いしたい」
無論、報酬は払うし、お二方の旅費は当家が持ちます。そこまで言って、ベロノーラは身を乗り出してきた。
「いかがですかな?」
クロイツは即答できず、アリシアと顔を見合わせた。
「その、姫君はいつご出立の予定ですか?」
クロイツがやっと搾り出した質問に、ベロノーラは即答した。
「3日後です」
「3日後?! それはちょっと早すぎます! まだ準備が済んでいないのに……」
ここから伯の居城のあるビギナダートまで、おおむね丸1日かかるのだ。明後日の朝にはここを発たないと間に合わないではないか。
子馬亭に宿泊しているので、明日の朝一に返答をいただきたい。そう言い残して、ベロノーラは帰って行った。
アリシアと2人、じっと考え込む。その目の前に、夕食が並べられた。
「さ、とりあえず食べな。腹が減っててはいい考えも浮かばないよ」
そう言って、母は笑った。
店の退去通告について話を聞いたあと、アリシアが騙していたことを謝罪し、クロイツは進路のことについて詫びていた。決意が変わらないことも、いや、もう変えようがないことも。それを聞いて、母はひとしきり泣いたあと、気持ちを持ち直していた。
そして、店がもう戻らないことも。どこかに新装開店しても、この状況では客は来るまい。そこまで達観して、母はアリシアとともに、旅立ちの準備をしてくれていた。
市長夫人からの"お達し"は厳格に守られていた。往来で口をきいてくれる者は無く、店に並ぶ品も、ああだこうだと理由をつけて売ってくれない。そのことが、逆に母に活力を与えていた。
『あの女らしいよ。縁が切れてむしろありがたいね』と。
だが、孤立無援だったわけではない。
当座の食べ物や旅に必要な品は、サーシャやミリアが夜にこっそり届けてくれていた(ということは、分かった上で裏口から売ってくれる店があるということである)。ある日の朝、家の裏口前に、どう見ても守備隊の備蓄品としか思えない乾し肉の包みが置かれていたこともあった……
黙々と、温かい夕食を食べる。こういう時には一番の話し手である母が、時々匙を止めてじっと考え込んでいるから。
ほどなく食べ終わってしばらく、母がポツリと漏らした。
「……あの女の仕込みかねぇ?」
「なるほど、伯爵に手を回して、わたしたちを一日でも早くここから追い立てようということですか」
アリシアの反応に、母は微笑んだ。
「そうさ。あたしが言えた義理じゃないけど、ご領主様も貧乏だって聞いてるからね。さっきの方が言ってた金はどこから出てきたのか、ってなると……」
そこまでして、とクロイツはうなだれた。あの最終戦が、こんなにまで尾を引いてくるなんて……
「よし! 決めた!」と母が手をパチンと打ち鳴らした。
「アリシア、明日朝一で、旅人を探しておくれ」
「旅人ですか?」
「そう――」と母の目は覚悟を決めた者のそれだった。
「フェックネル方面への旅人さ。あたしがそっちに移住するからよろしく、って手紙を託すための」
「おばさん……!」
アリシアは椅子を蹴立てんばかりの勢いで立ち上がると、深々と頭を下げた。クロイツも少し遅れてそれに倣う。
母は、確か隣町までしか出たことが無いはず。そんな母に、思いもかけない苦労をさせてしまう。クロイツがそのことをを口にすると、母は笑った。吹っ切れた者の、敢然たる笑顔だった。
「ここにいても、どうせジリ貧さ。むしろあの店が続いたままだったら、あたしはきつかったかもね。独りであのおバカさんと戦わなきゃならないんだから」
そう言ってくれて、もう一度アリシアと二人で頭を下げる。
続いて、アリシアから声がかかった。
「あなたは朝一でベロノーラ氏のところへ行って伝えて。依頼をお受けしますって。ただし――」
アリシアはそこで言葉を切り、少し考えた。
「2つあるわ。まず、おばさんの移住許可がご領主様から出るように取り計らってもらって。フェックネルって、別のご領主様の領地でしょ?」
クロイツがうなずくと、アリシアは続けた。
「それから、お姫様の出立を一日延ばしてもらって。ビギナダートでおばさんにフェックネルへの道連れになってくれる人を探さないといけないから」
「聞き入れてくれるかな?」
「くれるわ」とアリシアは悪い笑顔になった。
「じゃないと、伯爵様は市長夫人から報酬がもらえない。たぶんそういうからくりになってるはず」
じゃ、ちょっと出かけてくるわね。そう言って出て行こうとするアリシアに行き先を問うと、
「サーシャとミリアの所へ。それからちょっと野暮用を済ませたら、お金を取りに行くわ。山に埋めてある軍資金をね」
諸々の所用を済ませて、アリシアは龍体に戻ると飛び上がった。目指すは王国西北部に広がる山脈にある、かつてねぐらにしていた洞穴である。
だが彼女は、是非も無いこととはいえ、北ではなく南に向かって飛ぶべきであった。街から3日ほど荒野を歩くとたどり着く森がある。そこに潜伏する不逞の輩を、彼女は発見し損ねたのだ。
その不逞の輩の一人――いや、一鬼が低く唸る。
「やっと集まりましたな」
それに答えて、上位者と思しき一鬼がこれも低く笑った。
「うむ。もう少し牛が欲しかったが、やむを得まい。我らも食わねばならぬからな」
この森からは見えぬ街を見すえ、上位者――魔神の御側衆が一鬼、ニカラは眼も口も三日月形に笑った。
「明日になれば、別の隊が帰ってくる。それを待って、あの街を目指そう。ヒトの蓄えし全てを奪おうではないか」
配下の歓声を浴びて、ニカラは笑い続けた。
5.
決断から3日後の、王都への出発の朝。実によく晴れ、ゆえに寒さ厳しき朝の霜を踏んで、クロイツは東門の外で振り返った。
ここでいいからと、見送りの人々に告げるためである。
まず神官長が、緩やかな風に白髭をなぶらせながら一歩前に出て微笑んだ。
「我が街から龍戦師が生まれいでたる誉を寿ぎ、その旅立ちに立ち会える栄誉をまず感謝したい。アリシア殿とクロイツ殿の道行きに、イラストリアの神々の祝福あらんことを」
いつも遠くから見ていた偉い人に『殿』を付けて呼ばれるのはむず痒いものがある。それを我慢して、辞を低くして祝詞を受ける。
祝詞を上げ終えた神官長が寄ってきて、すまなそうな顔になった。
「あの増長者たちを抑えきれず、誠に申し訳ない。直截的な行動はせぬよう釘を刺したのだが、かような搦め手を使ってくるとは思いもせなんだ」
市長夫人とデメティアのことだろう。囁くような声は、やはり神官長といえどもどこに耳があるか分からない状況ということと察し、黙って首を振る。
「そのお詫び、というわけでもないが――」
神官長が差し出したのは、手のひら大の石板だった。磨耗して少し読みづらいが多数の文字が彫られ、主神とこの街の、それぞれの紋章で飾られている。
「道々の神殿でその神殿鑑札を見せれば、宿泊ができる。そなたらは神官ではないため多少の寄附を求められるかも知れぬが、宿に泊まることに比べればずっと安価に済む。なにしろ何泊でも、いたいだけいられるのだから」
王都に着いたら、そこの大神殿に返却するよう言い置いて、神官長は下がった。クロイツたちが一礼していると、続いて進み出てきた守備隊の副隊長が一通の手紙を差し出した。
「これを王都にいる俺の兄貴に見せろ。王宮の兵部省で役人をやっている。サガリアという名だ。さすがに傭兵の登録局に伝手はないかもしれないが、何かの役には立つかもしれん。手紙も既に送っておいたから」
そして、いかにも惜しげにクロイツの肩を叩いた。
「守備隊に来りゃ、4、5年で俺の職を譲ってやったのに。アリシア殿より先に内定出しときゃよかったぜ。久々の大型新人によ」
「そうなんですか?」
「当たり前だろ」と副隊長に小突かれる。
「じゃなきゃ、街を留守にして、正副の隊長が研修に同行なんかするかっての」
苦笑して、手紙の礼を述べる。
次は、キーマル教官が進み出た。彼は武術学校の教官を代表していると述べて、餞別をくれた。頭を下げると、
「ほんとは全員で見送りたかったが、校長がうるさくってな。だから俺は今日、腹痛になったんだ」
それから、別の教官からの伝言をもらった。アリシアが言っていた法令は、一応はまだ存在するらしい。ただし、他の法令と抵触する場合、どちらを優先するかは司法省の役人が判断するだろうとのことだった。
「それで、と――」
キーマル教官が差し出したのは、1冊の冊子。
「ギュスからお前に渡してくれって言われてな」
「師匠から……」
題名もない、つたない手作りの冊子をめくってみる。そこには、どこかで見たような字で剣の鍛錬の仕方が書かれていた。
「対抗仕合の前に伝えられなかったから、って言ってきてな。彼は字が書けないから、俺が代筆したんだ」
キーマル教官の言葉に、改めて頭を下げる。いただきものを荷物袋に大切にしまっているうちに教官は別れの挨拶を言いながら下がりかけたが、ああそうそうと思い出してまた戻ってきた。
「シャルリ教官がな――」
「はい」
「呪いが解けたら連絡くれ、だとよ」
「……考えておきますとお伝えください」
かの教官に習った『婉曲的なお断りの言葉その3』を伝言する。
最後に、サーシャがクロイツのすぐ前までやってきた。既に瞳がうるうるになっているのが、クロイツの心を掻き毟る。
「学校のみんながね、頑張れって。みんなが応募したくなるくらい、立派な傭兵団にしてくれって」
眼を閉じ、何度もうなずく。再び目を開けた時、目の前には一振りの剣が差し出されていた。
「これ、わたしから……クロちゃんの剣、もうボロボロでしょ。使って」
それを丁重に受け取って、ゆっくりと抜いてみる。冬の朝日を照り返して輝く刀身は、新品だった。聞けば、あの仕合のあとすぐに刀鍛冶の所に行って注文したという。
鞘に納めて、どうお礼を言おうか迷っていると、母に背中をはたかれた。
「ちゃんとお礼を言いなさい。サーシャちゃんがご実家に頭を下げて、やっとお金を工面したんだよ」
「もう! おばさんったら!」
真っ赤になってしまったサーシャに笑って、ありがとうと言った。それでも、いやそれだからこそ、サーシャの眼に涙が溜まるのを止められない。
「卒業したら、すぐに王都へ出発するから。クロちゃんのところへ行くから。だから」
「うん! 住む所が決まったら、すぐに手紙書くよ」
ついに溢れ始めた涙をぬぐおうともせず、さらに近づいたサーシャは急に伸び上がった。彼女の桃色の唇が、合わせて背を曲げたクロイツの唇に重なる。
彼女はすぐに振り返ると、一目散に門の中へ駆け入ってしまった。
「アリシア殿――」と副隊長がやけにかしこまる。
「クロイツが浮気したら、ご一報ください」
「そっすね」とキーマル教官も剣の柄頭を掴む。
「クロイツ誅滅隊を組織しますので」
頭を掻いてうめくクロイツを見て、アリシアと母は、目じりの涙を拭いながら呵々大笑した。少し離れたところで見送りを見て見ぬ振りをしてくれている門衛も、クスクス笑っているのが見える。
「魔神を封印したあとなら、八つ裂きにしていいわよ」
そして3人と別れて、クロイツたちは街道を歩き始めた。とりあえず、ビギナダートまでは他の集団に混ざらず行くつもりである。混ざれない理由があるのだ。
その理由が、街を離れて15分ほどの木陰から、そっと出てきた。
「コーリン、ごめんね、遅くなって。不安だったでしょう」
そう、あの事件のあと、アリシアはコーリンの身柄をとある人物に託し、今日この日にクロイツたちに先行して旅立たせ、あらかじめ目星を付けておいた大木の影に隠れているよう手配してくれたのだ。
とある人物とは、
「いえ、シャルリさんがこれをくれたので、ずっと読んでました」
彼女が見せてくれたのは、料理の指南書だった。
「わたしも、働かないといけませんから」
コーリンもフェックネルへ移住することにしている。だが、召使ではなくほかの仕事をしてみたいのだと言ったら、シャルリがその本をくれたのだと説明してくれた。
「さ、行きましょう。日が暮れるまでにはビギナダートに着きたいわ」
ふう、とため息をついて、母が杖を頼りに立ち上がった。長距離を歩き慣れていない母にとって、一日中歩き続けるというのは難行苦行なのだ。
しかし、『馬車を雇うなんてもったいない』と退けたのは、ほかならぬ母自身である。例の"お達し"のせいでそもそも雇える見込みがないこともあって、クロイツもアリシアもそれ以上は薦めなかったのだ。
それがクロイツの人生の道行きに少なからざる影響を与えることになるのを、彼にもアリシアにも知る由はない。
6.
守備隊の副隊長はいつもより遅めに出勤して、彼の部屋で一服していた。出勤途中で市内巡邏中の隊長に見つかったが、にやりとされただけでやり過ごしてもらい、ほっとしている。
市長の一家と懇意にしていることを隠しもしない隊長にしても、今回のクロイツに関する顛末は苦々しく思っているのかもしれない。そんなことを考えながら、水差しから杯に注ぐ。
机の上にきちんと並べられた出勤簿に目を通す。いよいよ次期隊長職を狙っていることを広言しているらしいバザンは今日も欠勤。理由欄に書かれた体調不良の文言に、改めて失笑する。
「へっ、何日呑み続けてるんだ、あのボンクラ息子ども。そろそろ街中の酒を呑み尽くすころじゃねぇか?」
副隊長も、ロアークの優勝と仕官を祝う宴会に呼ばれたことがある。最終戦の翌日で、勤務を終えて夕闇の中を渋々行ったら、もう既に市長の屋敷内は酒の匂いで充満していた。
もはやろれつが回らないロアークに極簡単に挨拶をして、葡萄酒を一杯すすると早々に退場した。とてもいたたまれなかったのだ。
ロアークとその母の、我が世ここに来たりと言わんばかりの高言。
それに臆面もなく和す取り巻きども。
同じくお追従を並べ立てながら、ちゃっかり無銭飲食に励む浅ましき輩。
そしてそれら全てを、まるで自分が成したかのように膨らんだロアークの婚約者。
「あー、思い出すとむかついてきた……」
杯の水を一気飲みすることで全てを流し去った副隊長の耳朶を、慌しい軍靴の音が打った。廊下を近づいてくるそれは副隊長室の前で止まり、荒々しく扉が開かれる。
「申し上げます!! も、魍魎の一団が、南の方向から急速に我が街に接近しているとの急報が!」
「門を閉めろ! 全ての門を!」
報告に来た隊員を弾き飛ばして主不在の隊長室へ飛んで行き、門を内側から閉じるための鍵を引っつかんで渡そうとする。が、隊員は戸惑ったままだ。
「何をしている! 早く行け!」
「そ、それが――」
「なんだ!」
胸倉を掴まれた隊員は短く悲鳴を上げた後、おどおどと答えた。
「魍魎に追われている人たちがいて、その人たちを――」
「関係無い! 閉めろ!」
「ロアーク様やデメティアさんたちで……」
あのボンクラ息子ども……!!
副隊長は自分で南門の鍵を閉めるべく、床を蹴って走り出した。
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