第8章 夢の帰るところ(後篇)

1.


 こんなはずでは、こんなはずでは……

 ゲータたちロアークの"ご学友"たちは、大いに焦っていた。

 5日目を終えて、彼らが若様と仰ぐロアークは15勝。ただ一つの負けも無い。

 だが、あの目障りなクロイツが、同じ勝ち数で続いているのだ。それを阻止できなかった同級生たちに、憤りしか湧かない。そこで『ならば自分たちが出場して阻止していれば』と考えないのが、彼ら取り巻きの取り巻きたる所以である。

「ロアーク様、明日はいよいよ大願成就の日、ですね!」

「ロアーク様、もう既にお決めになられているのでしょう? 明日着用する甲冑を」

「今日の仕合で槍の柄が折れてしまったのは、もったいのうございましたな!」

「なにを言う! これで明日は我が父の整えた槍の柄を使っていただける。そうでしょう? ロアーク様」

 これを、ロアークの身体の各処に取り付いて入念に揉みながら語りかけ、一々鷹揚に「ああ」とか「うむ」とのたまうロアークに一喜一憂する。この主従の年中行事であった。

 こんなはずではなかった。無論この戯画的な情景ではなく、クロイツの戦績の話である。校長を通じての勧誘は失敗に終わり、では直接行動をと意気込んだところで、ロアークの父・キアボ市長から『余計なことをするな』と厳命を受けたのだ。

 だが、とゲータは考える。

 気に入らない。クロイツの全てが。俺より強く、俺より人気があり、俺が喧嘩を吹っかけても全く相手にせず、さればと殴りかかればまさに文字どおり一蹴してくる、あの貧乏人が。

 そう、貧乏人が、ろくに肉も食えないくせに、俺よりでかくなりやがって。

 気に入らない。なんとか奴に、恥をかかせたい。坊ちゃまの実力を疑うわけではないが、万が一ということもある。力で勝てないのなら、知恵を使おう。うむ!

「ロアーク様、ここは一つ、貴賓席の方々はもちろん、大向こうをうならせる大見得を切られてはいかがですか?」

 ロアークという伊達男には、派手な趣向がよく似合う。そう信じて疑わない、それが既に自家中毒と気付かない"知恵者"は、坊ちゃまがまた鷹揚に先を促すのを好機と舌を回転させ、賞賛とともに快諾を受けたのだった。

 そのころ、キアボは秘書からの最終報告を自宅の書斎で受けていた。

「ふむ、メルロイド卿にもようやくご納得いただけたか」

「はっ。校長も、メルロイド卿が明日の主審を勤める件について、教官たちを説得したようです。最終的には校長命令という形で押し切ったようですが」

「ご苦労だった。しかし、出費がかさんだな。まったく、侯爵様もよりによってあんな男を寄越すとは……」

 秘書官は苦笑した。彼の懐が痛むわけではないのだから、そうするしかないだろうと邪推する。

 キアボは温めた葡萄酒を一口すすると、秘書がおしいただく杯にも瓶子から注いでやった。

「これであとは明日、総仕上げか」

 キアボもこの街の実力者として、依頼を受けた出場者に便宜を図るよう校長に指図したことが何度かある。だが、これほど金と労力を注ぎ込んだことは無いと言ってよい。

「そういえば、小僧どもが怪しい動きをしていたので、改めて手を出すなと言っておきました」

 秘書の報告に葡萄酒以上の苦味を感じて、キアボは顔をしかめた。本当に浅慮な奴ばらだ。あんなのを手元に置いて悦に入っている次男に、もはや苦笑すら湧かない。

「あのクロイツという男――」

「は?」

「ロアークの配下にできぬか」

 物問いたげに首をかしげる秘書に、思いつきを説明する。まだまだ実働は少ないながら集団をよく指揮し、思慮もあるように思えるし、何よりロアークと渡り合えるほどの腕の持ち主である。

「ロアークはいざ戦になっても、先陣を切るとは思えぬ。ならば小僧どもだが、お話にならん。だからだ」

 秘書はクロイツをこちらに引き込むための算段を立てているようにあごに手を置いていたが、急に顔を上げると言った。

「一つ、申し遅れました。エスクァルディン伯のご息女が、明日の仕合観戦にお昼前からご来駕されるそうです。伯爵閣下の代理として」

「はて? ご息女は王都の女学校におられるはずだが」

 伯爵夫人、つまり母親の病気見舞いのため、里帰りしているらしい。

 衰微しているとはいえ貴賓席の飾りとしてはこれほどふさわしい者はいないだろう。ことに女性なら、妻やデメティアとも話が合うのではないか。

 キアボは葡萄酒を飲み干すと、明日の昼食の数を増やすよう秘書に命じて、退室させた。彼とて貴賓席の主宰として、明日は忙しいのだ。ゆっくり休まねばならない。

 だが、

「キアボ様、ゲータがロアーク様の使者として、至急お目にかかりたいと」

 秘書に申しわけなさそうに告げられ、大きく舌打ちしたあと、取次ぎを命じた。


2.


 そして、迎えた6日目、最終日。

 この日は試合数が18試合と少ないため、開始時間も遅く、かつ勝ち数上位の出場者による組み合わせは昼食後と決まっている。

 クロイツもロアーク様も共に勝って16連勝、これは最終戦確定だよ。そう小間物店の常連が教えてくれた。

「ありがとうございました」

 お礼とともに受け取った代金をしまっていると、後ろからクロイツの母が近づいてくる足音が聞こえた。

「あんたは本当に落ち着いてるねぇ」

「そうでしょうか?」

 アリシアの横に立った叔母は、その手を姪の肩に置いて言った。

「クロイツの仕合が近づいているってぇのに、そわそわしないからさ」

「それは、おばさんが約束してくださったからです。観に行ってもいいって」

「そういうもんかねぇ」と叔母は笑い、

「あたしは心臓がバクバクしてたからさ。亡くなったダンナの仕合が近づくと」

 戦績は大して良くなかったけど、勝ち名乗りを受ける姿を観に、ドキドキしながら闘技場まで走っていったもんさ。叔母はそう言うと、アリシアに闘技場行きを薦めた。

「もういいんですか? おばさんも一緒に行きませんか?」

「あたしはいいよ。心臓に悪い」

 そう言われることは想定済み。次に来た言葉も、予想どおりだった。

「アリシア――」

「はい?」

「今日勝つにせよ負けるにせよ、クロイツは傭兵になるつもりのようだ。それは聞いてるね?」

 うなずくと、叔母は少し店の外を見やってから話を再開した。

「出稼ぎに行く男には、帰ってくる場所が必要だ」

「はい」

「お前がそれを作ってやってくれないかい?」

 その言葉を待っていた。

 アリシアは立ち上がると、ぺこりとお辞儀をして言った。

「お誘い、ありがとうございます! ですが――」

 叔母の顔が曇るのを、手を振って否定する。

「クロイツの気持ち次第です」

「そうかい。じゃあ、行っといで」

 明るくうべなって、アリシアは店を出た。まっすぐ闘技場へは向かわず、横町の路地へ入り込みながらつぶやく。

 そう、クロイツの気持ち次第よ。全ては。


3.


 エスクァルディン伯の息女であるティアは、仏頂面で机に頬杖を突き、眼前で繰り広げられる学生同士の仕合を眺めていた。

 自分の将来を賭けて戦う姿は誠に素晴らしい。まして自分と同年代の男女が戦っているのだ。

 だが、単純に、

「つまんない……」

 周囲をはばかることなくつぶやいた一言に、お守り役のウォレスが過敏に反応した。

「姫、お止めください、そのようなことを口走られるのは。それは、剣闘士の試合よりも派手さには欠けますが……」

「そんなこと言ってるんじゃないわ」と深紅色のポニーテールを揺らして否定する。

「お父様の代理で見に来なきゃいけないっていうのが、つまんないって言ってるのよ」

 ありていに言えば、興味が無い。なにせ、

「こんな服まで着せられて……」

 彼女の今日のお召し物は、母親が昔着ていた夜会服の仕立て直しである。質素を好む母らしい簡素な服飾で、要するにこれも時代遅れかつ貧乏貴族ゆえの"つまんない"である。

 もう一つ。

「狩りに行きたかったのに、まったく……」

 今日は冬ながら、日なたはいささか汗ばむほどの陽気である。林や森には獲物もさほどいないだろうが、城館から西に1時間ほど馬で行けば湖があり、水鳥の憩う場となっている。そこまで馬を攻め、弓を引く。昨日まで雲の多いすっきりしない空模様だっただけに、実に惜しい。

 この仏頂面にも、利点がある。到着してこの方、なにかとしゃべりかけてきた市長夫人やその隣の女――副商人頭の娘とか紹介された――が、こちらの反応の薄さに負けて、すぐにティアを"賓客"つまり貴賓席の飾り物として扱うようになったこと。

 目の前の仕合が終わった。どうやら左側が勝ったらしい。

「さ、姫! 次は最終戦、いよいよ全勝同士の一騎打ちですぞ! さぞや好勝負になるでしょうな!」

「だといいわね……」

 半ばは周囲に聞かせるためのウォレスの煽り口上に水を差して、ティアは葡萄酒を一口すするとまた頬杖を突いた。


4.


 太鼓が打ち鳴らされるとともに、金管楽器の伸びやかな音が、闘技場全体に拡がる。その音を聞き流しながら、クロイツは軽く跳躍をして、鎧を鳴らした。

「頼んだぜ、クロイツ」

 振り向けば、ついさっき仕合を終えたばかりの同級生までそろった全員が集まって、クロイツを仕合場に送り出そうとしているではないか。

「あたしたちの仇、取ってきて」

「あのお坊ちゃまの鼻っ柱をへし折ってやれ」

「ゲータたちの輝かしき夢もついでに、ね」

「待てよ、お前ら」とクロイツは手のひらを皆に向かって突き出した。

「お前らだって俺に負けたんだぞ?」

 そう、彼ら全員を仕合で打ち負かしたがゆえに、今クロイツは最終戦の舞台へと到達したのだ。そのことを忘れたとでも言うのだろうか。

「そーなんだよな」とケビンが笑う。

「でもよ、あいつはキニイラネェ」

「そうよ! 2人も負傷欠場にして、サーシャだって危うくそうなるところだったじゃん!」

 自分の名が出たついでと、サーシャが進み出てきた。

「クロちゃん――」

「ん?」

「怪我、しないでね」

 とたんにニヤニヤしだす同期たちの顔を直視できず、クロイツは韜晦した。

「心配性っすねぇ、先輩はぐはっ!!」

 腕を目一杯伸ばしての左拳をクロイツのあごに打ちつけて、2歳年上の幼馴染はむくれた。

「先輩言うな!」

「あーあ、年上なの気にしてるのに」「なんでそこを痛撃するかな?」

 という女生徒たちの誹謗も耳に痛い。

 副審が呼んでいる。クロイツはあごをさすりながら、槍を抱えて前へと進み出た。そして自らの開始線に近づきながら、観客席の変貌に気づいた。

 今日は朝から観客席はほぼ満席で、立ち見が出るくらいの盛況である。だが、今クロイツに正対する箇所の観客席が30席ほど、朝からなぜか全て空席だった。

 それが全て埋まっているのだ。埋めているのが何者かは、その観客の中の1人を見分けたことで、おのずと理解できた。

(ギュス先生……てことは……)

 続いて、今度はなぜか神妙な顔つきをした主審の掛け声で、ロアークが登場した。とたんに観客席――いや、キアボ商会席とでも呼んだほうがふさわしい一画からどっと歓声が湧く。そしてそれ以外の席からは、下卑た悲鳴と爆笑が。

「なんだよその金ピカ!」

「坊ちゃま、どこの鎧師が仕立てたんですか?!」

「俺は着たくねぇなぁ」

 と傭兵と思しき男が大声で揶揄し、またどっと囃し立てられている。

 その観客席の立ち見に、クロイツはアリシアを見かけた気がした。が、主審であるメルロイド卿の声が上がり、そちらに気を向けた。

「静粛に! 静粛に!」

 とまず観客席を落ち着かせ、

「これより、ホローン・アルトゥーン武術学校第82期卒業生対抗仕合、最終戦を行う!」

 再び湧く観客席が静まるのを待つ。

 次に発言したのは主審ではなく、ロアークだった。

「主審に申し上げる。わたしに一言、この場を借りて申し述べさせていただきたい」

 こんなこと、未だかつてない。それに「うむ」とうなずく主審を驚きと不審で凝視して、クロイツは悟った。

 あの顔は神妙なのではない。呆れて表情を消しているのだと。

 メルロイド卿の許可を得て、ロアークの饒舌は増した。

「開会の宣誓でも行いましたが、改めて武神ケシサダータの恩寵を競う機会に恵まれたこと、感謝いたします。この仕合をかの気高き武神に捧げましょう。

 そしてわたしにはもう一つ、捧げたい者がいる!」

 ロアークは金塗りの甲冑の鎧擦れも音高く、観客席を見回し始めた。

「デメティア! わが愛しのデメティア! いずくにやある!」

 何言ってやがる、貴賓席だろうが。クロイツは鼻で笑った。

「ここです! ここに、あなたのデメティアがおります!」

 あちらも芝居がかった高い声と棒読み。練習はしてこなかったようだ。それとも知らされていなかったのか。また鼻から空気が漏れる。

「おお、デメティアよ!」

 ロアークは大仰な身振りで貴賓席に3歩ほど近づくと、地に片膝を突いた。

「お前にこの仕合を、いや、勝利を捧げたい! そして、誓ってくれ! わたしが勝利の暁には、わが伴侶としてボンティザードでわたしの帰るところとなると!」

 侯爵家の居城があるボンティダートでわが伴侶、となれば、

「ええ、もちろん! 誓います!」

 顔を紅潮させたデメティアが叫ぶと、キアボ商会席は大歓声に包まれた。同時にロアークを称揚激励する叫びまで聞こえ始める。

 自分が出した溜め息の音をメルロイド卿からも聞いて、クロイツは卿を再見し、その眼にあふれる感情を読み取った。

 なるほど、仕込みはばっちり、ってことですか。

 同時に、貴賓席で歓喜に華やぐデメティアの姿が遠くなっていく。

 ロアークに名前を呼ばれて、主審の哀れみに満ちた眼から対面の金ピカに視線を移すと、

「クロイツよ。お前の剣には愛が無い!」

 ……誰がこの三文芝居の筋書きを描いたのだろう。クロイツは逆に感心した。これをなんの羞恥心も無く演じられる、目の前の馬鹿殿に。

「だが、今日ここで思い知るがいい。必ず、必ず最後に愛は勝つと!」

 そして、こんな失笑待った無しの猿芝居に拍手喝采を送ることを強いられた人たちに。

 ふいに、クロイツの中で弾けたものがあった。

 武神に捧げた仕合を、こんな茶番で穢しやがって。

 魍魎から逃げたくせに。

 できもしないことを、安全な場所から高言していただけのくせに。

 学生隊の指揮も放棄しやがって。

 仲間を悼むこともできないくせに。

 サーシャを殴りやがって。


 てめぇは許さねぇ。


 そして、クロイツは覚悟を決めた。

 ごめんな、サーシャ。ここであの馬鹿の向こうを張って、お前に求婚でもするのが筋だろう。『お前を俺の帰るところとしたい』とか叫んで。あの猿芝居の主役もそう望んでいるだろう。

 でも、俺は奴と同じ舞台には上がらない。

 なぜなら、俺は負ける。だからお前を、お前と俺の仲を巻き込むわけにはいかない。

 ごめんな。

 そう念じて、ゆっくり振り返る。真っ先に見つけたサーシャは、にっこり笑ってうなずいてくれた。その顔に笑み返して、穏やかな表情を作ったクロイツはまた呼びかけられた。

「クロイツよ、何か言い残すことは無いか?」

 そう、そうこなきゃな。クロイツは息を吸い込んで、声を敢えて平静に保った。

「必ず最後に愛は勝つ」

 丁寧に繰り返して、穏やかな笑みを浮かべてやる。

「いい言葉だな。俺もそう思うぜ」

 困惑の声が観客席を包んだ。同様の表情を浮かべたロアークが肩をすくめる。

「ほぉ、自ら負けを認めると?」

 クロイツは、今度はまるで疑問符が顔に浮かんでいるような顔を作って、首をカクンとかしげた。

「なんで?」

 困惑の声は、不審のざわめきに変わる。

「なんでって、そ、それではお前が負けるからではないか!」

 本当に分かりやすい反応しかできないんだな。それが皆に担がれる理由か。

 元の姿勢に直ったクロイツは感想を置き捨てて、もう一度声を張った。

「必ず最後に愛は勝つ。てことはだ――」

 左の人差し指で、彼方のロアークをすっと袈裟懸けに斬る。夢芝居に舞い上がっている金色の馬鹿殿を、現実の、クロイツの舞台に引きずり出すために。

「その"最後"とかいうのが来る前に、お前をぶった斬ればいいんだろ? 坊ちゃん」

 顔を朱に染めたロアークはもはや返答せず、穏やかな表情のままのクロイツと同様に槍を構えた。



 小間物屋に旅人が尋ねて来たのは、もうそろそろ最終戦も始まろうかという時だった。彼から手紙を受け取ったクロイツの母は、それがフェックネル村のアチェットからであることを見とめた。

(アリシアの近況を尋ねる手紙かね……そういえば連絡していなかったよ)

 無事到着したことを知らせる手紙は早速書いて、アリシアにフェックネルへの旅人を探しに行かせていた。だが、アリシアが希望する召使の働き口探しも芳しくない。それゆえついつい手紙を出しそびれていたのだが、催促が来たからにはしようがない。

 母は手紙を開くとざっと文面を読み――呆然とした。慌てて一文字一文字を読み解くかのように顔を寄せる。

「た、大変だ……!」

 守備隊に通報しないと。店じまいもそこそこに、母は巡察中の守備隊員を探しに店を飛び出た。


5.


 大質量に打ち据えられる低音、もしくは鋭い一撃に鎧と骨が悲鳴を上げる高音。

 その音がロアークの全身からするようになって、何分経ったのだろう。

 ティアは席から立ち上がり、眼下に展開する勝負に魅入られていた。

 そもそも立ち上がったのは、あの金ピカがなにやら芝居がかったことを始めた時点で帰るつもりだったからで、その時はウォレスに必死に引き止められたのだが。

 仕合が始まってからこのかた、ロアークはクロイツの長槍による猛襲を受けていた。しかも、自身の槍先を相手に突き込むだけの間合いにすら入れないほど、一方的に。

 なぜ、同じ長槍でそのようなことが起こるのか。ため息とともに出たつぶやきに震えを自覚する。

「なにあれ……どんな馬鹿力なのよ……」

 クロイツは、長槍――長身のクロイツを超える長さである――の石突から手一つ分ほど余した箇所を握り、ぶん回していた。正当に槍を構えるロアークより遠い間合いで、ロアークより速く槍を振ってぶち当てて。

 確かに彼の恵まれた身体なら、長槍を振り回すことなど造作も無いことかもしれない。だが、それは普通両手でするものだ。片手で、しかも柄の端を握ってなど、剣闘士の仕合でも見たことがない。

 いや、控え溜まりで観戦している仲間たちも見たことがないのだろう。遠目で見る限り、一様に眼を見張り、かつその顔は輝いているのが、あの金ピカの立ち位置を雄弁に物語っていて可笑しい。

 そしてそんな大立ち回りを、あんな穏やかな顔で淡々と繰り広げていることにも驚かされる。まるで日々の雑用をこなしているようにしか見えないのだ。実は普段と違って眼に怒りを含んでおり、それが相手を萎縮させる一因にもなっている。この時の彼女にそれを知る術はないのだが。

 ティアが彼の所行に感嘆している間にも、激しい衝突音を上げるロアークの鎧はもはや塗金がところどころ剥げ、無残さを際立たせていた。

「ひっ……!」

 市長夫人が幾度目かの悲鳴を上げた。果敢にも長槍を繰り出そうとした愛息子の右小手に、唸りを上げたクロイツの槍が振り下ろされたのだ。今度は籠手が高音を叫んだ彼方の金ピカは、中の人からはもはや悲鳴すら出ず、手放した槍が試合場の地面で鈍い音を立てて転がる。

 その槍の持ち主の身体が一瞬、宙に浮いた。クロイツのさらなる横薙ぎが左からロアークを襲ったのだ。持ち上げた盾の悲鳴にも似た軋みと引き換えに直撃は免れたが、着地したロアークは足がよろめいた。

「待て!」

 主審の制止が入った。

「クロイツ、槍を手から離せ! 槍を持たない相手に卑怯なり!」

 観客席からたちまち怒号と野次が沸き起こる。先ほど聞いた貴賓席内での囁きから、主審を抱きこんだ出来仕合であることはティアにも察しがついた。副審たちは武術学校の教官と聞いたが、恐らくその手が及んでいるのだろう、だんまりだ。

 それを馬鹿力でひっくり返そうとするあのクロイツという生徒と、なんとか筋書きどおりに収めようと必死な運営――

「ウォレス、あのクロイツという男、手加減してるの?」

「いえ」とウォレスは試合場から眼を離さない。

「ぎりぎりで致命傷を食らうのを免れておりますな、あの金色の若者は」

「無駄な才能ね」

 ティアは切って捨てた。

「さっさとやられてれば、あんなに痛い思いしないで済んだのに」

 そうつぶやく伯爵令嬢は、もはや帰る気など無くしていた。

 面白い。

 クロイツが、そっと地面に槍を置いていた。主審の指示に従わなければ反則負けなのだから、致し方ないのか。

 その時、ロアークが動いた。

 取り落としていた自分の長槍をしゃがんで掴むと、走る痛みにこらえる風情を見せながら躍り上がってクロイツを串刺しにせんと襲う――ことは叶わなかった。

 試合開始からずっと穏やかな表情のままのクロイツが、やはり顔色一つ変えずに足元を強く踏みつけ、その足を素早く上げる。そこには槍の柄があり、地面の凹凸で跳ねた槍は宙に浮いたのだ。クロイツがその柄を握れる、ちょうど良き高さに。

 哀れロアークは間に合わず、槍の穂先に胸から突っ込む形となった。

「がっ! はっ……!」

 頼みの槍も空しく宙を突き、ロアークはうめき声と共にたたらを踏んだが支えきれず、尻餅を突いた。

「ま、待て!」

 また仕合が止まる。あの筆髭の御仁も大変だな、とティアは同情した。いくら"献呈"されたのかは知らないが。

 案の定、観客席からまた指摘が飛んだ。

「おいおい! 勝負あったろ! 心の臓にぶさりといってるじゃねぇか今の!」

「黙れ!」と主審は背後をちら見してから怒鳴る。

「槍を足で扱うような、かようなふざけた攻撃は認めない!」

「……ほんと、大変ね。あの方も」

「ええ、ご子息が先日賭博で、小さな領地を買えるくらいの借金をこさえたそうで。大変ですな、ええ」

「……あなた、なんでそんなこと知ってるの?」

「ほっほっほっ」

 ティアとウォレスがやり取りを終えたちょうどその時、無理筋は百も承知の主審は真っ赤になってクロイツをにらみつけた。

「いいか! 今度ふざけた真似をしたら、反則負けだぞ!」

 副審の一人がついに動いた。まなじりを決し、主審の下に詰め寄ろうとするではないか。もう一人も遅れて行動を共にしようとする。

 観客席も貴賓席も固唾を飲む展開の中、クロイツは両手を横に広げた。副審たちを制止したのだ。

 副審たちの勢いが鈍り、止まった。それを横目で確認したクロイツが槍を手放し、ようやく立ち上がったロアークに笑いかける。

「良かったな。主審様から許可が下りたぜ」

 きょとんとした顔のロアークに言葉を投げかけたクロイツの眼から、笑いが消えた。

 しゃりりりり、と不穏な鞘走りを鳴らして、長剣をゆっくりと引き抜きながら口の端をさらに上げる。

「おふざけは終わりだってよ、坊ちゃん」

 ロアークは、貴賓席からも視認できるほど震え始めた。

 その時競技場に響き渡った金切り声は、今日聞いたあらゆる音や声の中でもっとも切迫し、かつ不愉快なものだった。

「もう止めて! わたくしのかわいいロアークを、これ以上嬲らないで! 止めさせて!」

 市長夫人が身をよじり、涙で白粉の堤防を崩しながら自席から立ち上がって叫んでいた。

「そ、そこまで!」

 勢いに乗った主審が仕合を止める。呆然と見つめるロアークと、抜き身の剣をゆらりと構えたクロイツと。2人の出場者に構わず、主審はもはや枯れかけた喉を絞った。

「貴婦人を悲しませることは本意ではない! この勝負、わたしの預かりとする!」

 不肖の息子の尻拭いを任された主審の苦労に報いたもの。それは、観客席の大爆笑だった。

「貴婦人、だってよぉ! いつから商人のかかあがそんな偉くなったんだ?!」

「おいお前ぇ、てことはお前ぇも貴婦人か! たまげたなぁおい!」

「あらあら、じゃああんた、貴婦人にふさわしい服、買っとくれよ」

 野次が野次を呼び、また哄笑が巻き起こる。

「さ、帰るわよ」

 ティアがウォレスに声を掛けた時、市長の秘書が走り寄ってきて言った。

「姫、お忘れですか? 2位の出場者に祝福と褒賞を与えていただくお仕事を」

「……ままならないわね」

 ティアは葡萄酒の残りを飲み干すと、給仕にお代わりを持ってこさせた。


6.


 クロイツたち出場者は、表彰式のため、仕合場に整列した。皆、一様に満足げな顔をしているのを見ると、クロイツは彼らの期待に応えることができたのだろうかと逆に心配になる。

(大丈夫だよ、クロちゃん)

(だから、心を読むなってば)

 背後から聞こえた声に、前を向いたまま答える。サーシャは結局6位で戦い抜くことができた。そのことも嬉しいのだろう、声にも喜色が滲んでいる。

 校長の締めの挨拶に続いて、メルロイド卿が進み出てきた。その顔は幾重にも渋い面を張り合わせたかのように、黒い。

「私が預かっていた勝負の裁決をここで伝える」

 もはや結末を予測して、あるいは侯爵家の家士を舐めきって私語を止めない観客席に怒鳴ることも無く、メルロイド卿は筆髭を震わせた。

「正々堂々たる勝負を展開し、またその技量に優れたる者、明らかである。よってこの勝負、キアボの息子ロアークを勝者とし、わが侯爵様の家士に適う者とする」

 観客席から飛んで来たのは、卿への慰労の言葉だった。怒号や嘲笑よりたちが悪いそれを疲れきった顔で無視し、卿は目を輝かせて進み出たロアークに優勝メダルを手渡した。

 クロイツたち出場者が拍手を送る。それに驚いたようなどよめきが低く広がったあと、観客席からもパラパラと拍手が降ってきた。

 実は式直前まで『無視して突っ立ってようぜ』などと話し合っていた皆を、クロイツが思い直させたのだ。

『式くらい普通にやろうぜ。気持ちよくボンティダートへ送り出してやろうじゃねぇか』

『そだね』とネーニャがにやりと笑う。

『送り出す。1分でも速く、視界から消えてもらうために』

『悠長だな、おい』とケビンが混ぜ返す。

『一刻も早くこの街から蹴り出したいぜ、俺は』

 そんな掛け合いを思い出していると、校長から名前を呼ばれた。クロイツの番だ。

 進み出た先に待っていたのは、深紅色の髪が眼を引く小柄な女性だった。ポニーテールを結っているせいもあるのか、すっきりとした顔立ちの美人だ。

 その女性から準優勝のメダルを受け取る。瞳を輝かせた貴婦人に、にかっと笑われた。

「面白い仕合だったわ。もう進路は決まってるの?」

 その意外と若い声に内心驚きながら、クロイツは答えた。

「いえ、まだです。傭兵になろうかと思ってますが」

「じゃあ、どこも採用がなかったら、うちに来ない?」

「うち?」

 クロイツの背中の神経全てが警報を発した。

 感じる。会話を聞いたサーシャから発せられる殺意を……

 観客席でざわめきが起こり、すぐに悲鳴へと変わったのは、その時だった。背後の騒動に振り向いたクロイツが見たもの。それは、

「……アリシア?」

 そう、あの冬至のお祭りの時着ていた赤い晴れ着姿のアリシアが、観客席の階段をつかつかと下りてくるのだ。その腕にしがみつき、階段の角に体を打ちつけながら引きずられているのは、着用している甲冑から2人とも守備隊員のように見える。

(やっぱ力持ちだな……いやいや、あれどういう状況なんだ?)

 階段そばの観客たち誰もが呆然と見送る中、アリシアは観客席の最前列に作られた壁までやって来た。まだ腕にしがみつきながら体勢を立て直そうともがく守備隊員たちに、涼やかな声で告げるのが聞こえてくる。

「ここから飛び降りてクロイツの所に行くんだけど、ご一緒されます?」

 聞いて慌てて手を離した守備隊員たち。上から走り寄ってくる副隊長と母を見とめてから、アリシアは腰まである壁を軽々と乗り越えた。

「ちょっと! ほんとに飛び降りたよ?!」とサーシャが叫ぶ。

 観客席から地面までは、クロイツの身長の倍は優にある高さ。それをものともせず、軽く地響きをさせて着地したアリシアは、足の痛みなど無いかのように平然として歩みを再開した。

 闘技場にいる誰もが度肝を抜かれ、彼女の進路に立つ者は慌てて道を開ける。校長たち貴賓は守衛たちに、ロアークは既に走り出てきた忠僕たちに取り巻かれていたが、それを揶揄する余裕がもはやこの場には無い。

 さすがの副隊長が部下に指示を飛ばす声や、観衆のささやきがあちこちで交錯している、そのあいだに、ついにアリシアはクロイツの面前まで来て、柔らかく笑った。

「仕合は残念だったわね。でも、準優勝おめでとう」

「……あんた、アリシアなんだよな?」

 姿形は見慣れたものなのに、まとっている雰囲気が違う。どうという表現は出来ないが……そのクロイツの質問に、彼の母の声が答えた。

「そいつはアリシアじゃないよ!!」

 観客席前面の壁から身を乗り出して、叫ぶ母。その行為が全観衆の注目を集めてしまい、真っ赤になった彼女は二の句が告げなくなってしまった。

 代わりに、その横に立つ副隊長が何やら紙切れを提示しながら大声で説明し始めた。半ばは貴賓席や観衆に聞こえるように。

「フェックネル村のアチェット氏からの手紙がついさっき届いたんだ。これによると、娘のアリシアは今から10日前、罹っていた病が悪化して帰らぬ人となったとある。そこにいる女は偽者だ!」

 驚愕の声が一気に増すこの場で、振り向いた女は変わらず平然と副隊長を見つめていた。その口からこぼれ出たのは、

「そう……あの子、死んだの……」

 そして視線を戻した女に、クロイツはいつでも剣を抜けるよう半身で問うた。

「あんた、何者なんだ?」

「さっき、残念って言ったけど――」と女は質問に答えない。

「私としては、あなたに侯爵家の家士なんぞに収まってもらうわけにはいかないわ。あなたにはあなたなりの夢があったかもしれないけど」

 守備隊員たちが下に到着し、展開し始めた。それに力を得たのか分からないが、ゲータがアリシアに向かって走り寄り、袈裟懸けを浴びせた! だが――

 ゲータはつんのめってたたらを踏み、ようやく踏みとどまった。そして手元を見た彼の表情が凍る。長剣は半ばほどからぽっきりと折れていたのだ。アリシアが軽く振った左手の一撃で……!

 弾け飛んだ剣身が夕方の残光をきらめかせて地面に突き刺さるのと時を同じくして、

「誰かと思えば、いつぞやの見かけない小僧じゃない?」

 動揺など欠片もしていないといった風情で、アリシアは薄く笑った。

「剣の手入れがなってないわね」

 この仕儀に、学生も守備隊員たちも、その場に固まってしまった。ただ、クロイツを除いて。

「あんた……」

「ああ、まだ質問に答えてなかったわね」

 今度はまたさっき見せた柔らかな笑み。行動との落差に戸惑うほかない。

「私はアリシアよ」

 この期に及んで、まだしらを切るつもりなのか。

「前の世ではヒルダだったけどね。今生こんじょうでは、そういうことに決めたの」

 言い終えた女の表情が、また超然としたものに変わる。

「我が名はアリシア――」

 突如、女の身体全体が膨張と変形を始めた。みるみるうちにクロイツの倍ほどの背丈と横幅に膨らんだそれは、前に突き出た長い咢と、釣り上った眼、尖った耳を持ち、極太の腕や脚、そして一対の翼を備える赤い異形のものへと姿を変えた。これは――

「真龍のアリシア」

 もはや声を失った闘技場に、アリシアの声が響く。なぜか哀しげな、それでいて楽しげな、相反する印象を抱かせる声が。

「王都の祠に封じられている魔神の封印が、解け始めている。限定的ながら自由を得た魔神はその触手を、地の下を通じて王国の各地に伸ばし、その触手でもって御側衆を初めとする魍魎を造り出しているのだ」

 アリシアは、クロイツの瞳を見据えた。

「アーガスの子、クロイツよ」

 呼びかけられて、うなずく。かつて講義で聞いた歴史が、彼の中で駆け巡るがゆえに。

「私の龍戦師となって、魍魎を討ち、魔神を封印する手伝いをしてもらえないだろうか」

 皆にその言葉が染み込んで、静かな驚きがクロイツとアリシアを中心に広がっていく。

 アリシアの瞳を見つめ返して、クロイツの脳裏にはかつての情景が蘇っていた。

 山へ狩りのお供をさせられた晩の、暗闇に光る、あの眼。

「あんただったのか……」

 にこりとしたアリシア。強面には笑顔は似合わないな。

 強い視線を感じて顔を向けると、サーシャだった。なんだよその眼のキラキラは……

「なんか、ものすごく期待されてるんだけど……」

 サーシャの返事を待たず、クロイツは目の前の真龍に向かって告げた。

「分かった――あんたの龍戦師になろう」

 闘技場に沸き起こる歓声をわずらわしそうに首を振ると、アリシアは言った。

「では、右手を前へ」

 握手でもするのかと、何の気なしに差し出した右の手。その下腕を、アリシアがぐっと掴む。そしてがばあっと咢を開いて、クロイツの右手にかぶりついた!

 クロイツの絶叫が、陽の落ち始めた闘技場に木霊した。

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