第7章 夢の帰るところ(前篇)
1.
クロイツたちが仕合を始めた同日の夜刻。
ここは王国の北方にあるヴァンディーノ公領の都、ヘキサダート。
人口が優に10万を超えるこの街でも、武術学校の卒業生による対抗仕合が行われている。仕合数が多いゆえか、あるいは仕事を終えた平民たちに娯楽を提供するためか、夜の帳が下りてしばらく経った今も、盛大にかがり火を焚いて仕合が行われている。
寒風に乗って流れてくるその歓声を聞き流しながら、真龍のベリオスは物思いにふけっていた。
彼がいる部屋は、ヴァンディーノ公女であるメイの寝室である。寝間着姿の彼女は今、豪奢な寝台で安らかな寝息を立てている。
そんな彼女を見やり、ベリウスは微笑んだ。
今日は遠征を行い、魍魎の集団を1つ捕捉して撃破できた。といっても御側衆の指揮していない、いわば烏合の衆ではあったが。
メイの働きは目覚しかった。"龍の力"を与えられし龍戦師ならば当然なのだが、軍勢の指揮にも用兵家としての片鱗を見せたのだ。真龍の内でも強面で通っているベリウスの顔が知らずほころぶのも無理はない、と自分で考えて、そのことにまた笑いを浮かべた。
その表情が引き締まる。
「あ奴らめ……」
そろそろほかの真龍たちも永い眠りから目覚め、それぞれの龍戦師を選び出すべく動いているはず。だが、一向にその報が届かない。このヘキサダートが辺境に位置するから情報の流れてくるのが遅い傾向があるとはいえ、前回よりも皆の動きが遅い気がするのは、この黒き真龍がやや短気の嫌いがあるからだろうか。
「まったく、余計な手間をかけおって……」
ベリウスは正統派である――少なくとも自分ではそう思っている。戦は数だ。それも、ある程度以上の質を兼ね備えた。羊をいくら揃えても、熊には勝てないのだから。
では質を兼ね備えた数を揃えるには、どうすればいいのか。ベリウスの答えは、『貴人を龍戦師とすること』であった。それも、王都で筆を振り回しているような文弱の徒ではなく、武家貴族の中でも有力な家の者から選ぶ。さすれば、数集めは容易いではないか。
だが、他の真龍はそうは思わないらしい。ウェスパは『貴人にこだわらず』を公言していたし、ヒルダとルドレイにいたっては、『それじゃつまらない』の一言で切って捨て、平民から選ぶことを専らにする有様……
苦い顔をしたベリウスの尖った耳に、廊下を駆けてくる足音が聞こえた。寝室の戸を守る衛兵との低い声のやり取りののち、戸が開かれた。
「申し上げます! ……あ! し、失礼いたしました……」
寝台に薄布の覆いが引かれているのを見たのであろう、ひざまずいた家士の勢いは萎んでしまった。ベリウスは努めて平静に話しかける。
「心配ない。"本復の眠り"ゆえ眼は覚めぬ。何事か?」
怪訝な表情ながら、家士は急を告げた。
「ノスレーヌの軍勢が国境を越えて進軍中です! 旗印はリギュバード辺境伯!」
「数は?」
「物見の報告では200から250! 国境沿いの村を襲撃していると思われます!」
ベリウスは首を回すと、部屋の置時計を見た。メイが就寝してから3時間……
「メイはあと2時間は目覚めぬ。私が行こう」
部屋の隅に控える侍女にメイの世話を頼み、ついで家士にゴート卿への指示を伝える。メイの軍団における副将格の彼に、軍勢の支度をさせるために。
「お独りで行かれるのですか?」
家士の言葉にうなずく。
「私は眠らぬこと、知らぬわけではあるまい? 今から皆を起こしても、出立まで時間がかかる。それゆえよ」
黒き真龍は窓を閉めると、家士と共にメイの寝室を出た。
2.
ベリウスがその黒き体毛をなびかせながら国境めがけて飛び立ったころ、クロイツは男子寮の大部屋、その床に敷かれた毛布に寝転んでいた。
対抗仕合が始まって、出場者は全て寮に設けられた仮設の寝所で寝泊りする。寝坊の阻止はもちろん、出場者の身体を護る目的もある。こんな田舎ではめったにないが、違法な賭けに絡んだ襲撃や、出場者に家運を賭けている家族が引き起こす刃傷沙汰も起きるためである。
ちなみに、もともと寮に籍を置く学生以外は2部屋に分けて雑魚寝である。彼らは競争相手であると同時に、卒業後は何かと連絡を取りあい、時には便宜を図りあう伝手でもあるのだ。
隣の毛布に同じく寝転んでいたケビンが話しかけてきた。
「クロイツは3連勝か。くっそー、遠いなぁ」
ケビンは2勝1敗。それも、時間経過により狭まった試合場から押し出されての敗戦であった。
惜しかったな、とは言わない。明日にもそのケビンとの対戦があるかもしれないのだ。それ以前に、
「ケビン、仕合の話は止めろよ」
クロイツはまだ何か言いたそうな友人を制した。今日はまだ3試合終わっただけだが、日程が進めば負けが込んでくる出場者が出てくるのだ。そこで仕合の話題など出したら……
やっと察したケビンに代わって、別の男子学生が口を開いた。
「ま、クロイツには感謝してるぜ」
「なんか俺、したっけ?」
特に覚えがない。首を傾げていると、
「お前を見に傭兵団の人らがいっぱい来てる、って言ったろ?」
キリルが剣を亜麻布で磨く手を休めて言った。
「熊の魍魎を倒したし、このあいだの巡察研修のことも結構広まってるんだと。例年の倍来てるのさ。てことはだ、俺たちも見てもらえるってわけじゃん?」
そうか、そういう効果もあるんだとようやく腑に落ちた。
「ケビンとボード以外はみんな傭兵志望だもんな、なるほど」
「そういうクロイツはどーすんだよ?」
とボード。こちらは槍の穂先を新しい柄に装着する作業中だ。彼の槍は3試合目で折れてしまった。
「……傭兵、かな。給金は傭兵のほうが守備隊よりいいし、剣闘士ってガラじゃないし」
先日、傭兵家業をしている兄が送ってきた仕送り。その額を見て、クロイツの心は大きく動いていたのだ。これだけ仕送りできるなら、母に楽をしてもらえる。なにより……その……
「お前、守備隊のほうがいいんじゃねぇの?」
「何でだよ」
ケビンが真顔で指摘してくるのを受けて立つ。
「サーシャはどーすんだよ? あいつ、お前についてくって……」
「……それは、サーシャに任せてある」
クロイツの怯みを見逃す同級生たちではない。てんでに囃し立て始めた。
「任せてある、だってよ!」
「もうすっかり旦那だな、おい」
「明日からさ、『俺とサーシャ、2人一緒じゃなきゃ入団できません』って張り紙しとけよ、背中に」
「なんでだよ!」
一方、女子寮。やはり仕合関連のことは禁句で、就職をどうするかという話もし終えたら、当然話題は近況や恋愛絡みに移った。それも7人という適度な人数ゆえあっさり一巡して、ついにサーシャに火の粉が飛んできた。
「ねーねー、なんで急に積極的になったの?」
「う……そう見える?」
眼を輝かせてうなずく者多数。サーシャはゆっくり考えて、
「そろそろ卒業だからってのはあったんだけど、アリシア……かな、やっぱり」
ああ、と納得の声がこれまた多数上がった。
「クロイツと同じ部屋に寝てるんでしょ? すごいよね!」
「根性あるよね」
「それ、根性って言うの?」
『同じ部屋に寝てる』という事実を改めて他人の耳から聞かされると、鼓動が跳ねる。
「だってさ――」とネーニャの話はまだ続くようだ。
「見ず知らずの男と寝られる? あたしなら衝立有りでもお断りだな」
「その場合、家を追い出されるんだけど?」と反論してみる。
「ん、まあそりゃそうだけど」とネーニャの勢いは止まったが、話は止まらない。
「シール、あんたのお母さんからなんか聞いてない?」
彼女の母は、洗濯場の主ことチャレットなのだ。
「んー、シャムおばさんはね、アリシアさんに店を継がせるかも、って言ってるみたいだったよ。クロイツと所帯持たせて」
大丈夫。大丈夫。そう、自分に言い聞かせる。サーシャは目を閉じてうつむいた。
「シール! あんたなんでそんなおいしい情報黙ってんのよ!」
「いきなりバラしたら面白くないじゃん」
「ほら、サーシャ泣いちゃったじゃないの」
「泣いてない泣いてない」
とサーシャは顔を上げ、アリシアとの会話を皆に披露したのだが。
「サーシャ――」とナーニャがこっちに転がってきて、肩に手を置いてくる。
「それを信じたいっていう気持ちは分かるけどさ、シャムおばさんがクロイツに『アリシアを嫁にもらいな。それが家のためだから』って言ったら、あいつもアリシアさんも断れると思う?」
そうだ。おばさんの命令を考慮に入れていなかった。胸の中が、じりじり焦げ始める。
「あの男が奥さん2人養えりゃいいんだけどね」
「ヒラの傭兵じゃ無理でしょ。団長とかになれば違うと思うけど」
「そこは大丈夫じゃない? アリシアさんはお店をやる。サーシャは傭兵をやる。お金的には問題ないよね?」
「なんか既定路線で話が進んでるんだけど」とシールが割り込んできた。
「アリシアさんが認めなかったら、重婚できないよ?」
そう、身勝手な婚姻を防止するため、公証人を介して他の妻の許可を文書化し、当局に届けねばならないのだ。
「というわけで、サーシャ。対抗仕合が終わったら――」
頬をくっつけてくるネーニャ。その肩に置いたままの手が熱い。
「なに?」
「ヤっちゃえ。クロイツと」
「……は?」
全く予期していなかった単語の登場に、顔が真っ赤になる。
「そうだ! 先制攻撃で第一夫人の座を獲得だ!」
「ああ、いいんじゃない? まんざらでもないんでしょ? クロイツも」
「そ、それはそうだけど……まだ、その……接吻どころか手もつないでないのに……」
もじもじしてみた。が、頭の中は既にその想定が組み立てられ始めている。
「だからじゃん! さっさと既成事実を作っちゃって、男を追い込むんだよ!――って、うちの一番上のねーちゃんがその手で結婚してた」
「そーいえば、うちの隣の子、まだ15歳に成り立てなのに、書記学校の先輩数人くわえ込んで婿選びしてるって」
「それはやり過ぎだろ」
ぎゃあぎゃあと姦しい女子連。教官たちは喧嘩沙汰に移行しない限り、『対抗仕合の重圧からの息抜き』名目でうるさく言ってこないことになっている。
そこからひとしきり、とても口には出せないような――つまり耳にはしっかり残る――下世話な話が続き、ふと場に静寂が訪れた。
女子の一人が、ぽつりとつぶやく。
「……アリシアさん、てさ」
小首を傾げると、その子は問わず語りに話し始めた。
「いいとこのお嬢さんなのかな? 言葉遣いもしっかりしてるし、どーいったらいいのかな、振る舞いもピシッとしてるっていうか」
「そーそー、あのお祭りの時の服、高そうだったよね?」
確かに、飾りの少ない簡素なものではあったが、首から手首、足元まで隙間なく覆うなど、布地を豊富に使った服だった。仕立てもしっかりしていたと思う。
「でもさ、いいとこのおじょーさんが、なんで召使の職探しするのさ?」
「そりゃあれでしょ? 婚約者の人が殺されて居づらくなったって……」
「実はよく分かんないんだよね、アリシアさんって」
シールがごろりと横になると、眠そうに話し始めた。
「洗濯場でも、おばさんの店でも、ほとんど昔話しないって言ってたし」
言い終えたシールのあくびが皆に伝染し、ひとしきり笑っていると、教官がやって来た。消灯の時間だ。
サーシャは自分の部屋に戻ると、対抗仕合後の『想定』を頭の中に繰り広げながら、眠りに落ちた。
2.
2日目。
発表された本日の対戦表を見て、クロイツは言葉を失った。
2試合目にケビンと。そして、サーシャの3試合目は、ロアーク。
「なに黙ってんだよ」
ケビンに背中を叩かれた。
「いつか当たるんだから、その時が来たってだけじゃねぇか」
そう言って、拳を前に突き出すケビン。
「見てろよ。一泡吹かせてやるぜ」
にやりと笑って、クロイツも倣うことにした。
拳を軽く打ち当てる。ケビンがひょいとクロイツの横越しに顔を出した。
「おう、サーシャおはよう。おめぇは今日正念場だぜ」
言われたほうを振り返ったが、当のサーシャが見当たらない。それよりも、
「……なにがおかしいんだ?」
女子連中が等しくクスクス笑っているのだ。クロイツの顔を見て。ケビンやボードに確認したが、食べかすも付いていないと言う。
そしてサーシャを見つけた。競技場への出入り口の角からそっと顔をのぞかせたのを目ざとく見つけたのだ。というか、みんながそちらを見ていたので分かったのだが。
「サーシャ、なにやってるんだ?」
「な! ななななななんでもない!! あっち行って!」
病気ではないかと疑うくらい真っ赤な顔のサーシャに、ひどい仕打ちを受けた。
「あたしにもあんなころがあったねぇ」
「お祭りで勝負かけてたサーシャちゃんはどこへ行ったんだろうねぇ」
シールとネーニャがとぼけた口調で言い、女子がどっと笑った。
「お、坊ちゃまもご出勤だぜ。さすがにお寝坊はしなかったか」
ロアークはこれも特別待遇で、さすがに帰宅はしなかったが、専用休憩室で寝泊りしていた。そう聞いた時は皆不快感を示したが、今にして思うとあの雑魚寝に来られてもうっとおしそうであるので、まあいいかと思っている。
取り巻きを相手に準備運動を始めたロアークのことは放っておいて、クロイツはサーシャに声を掛けた。
「がんばれよ」
「あ……うん!」
やっと笑ってくれた。それを収穫に、クロイツはもうまもなく始まる本日の第一仕合を観戦することに集中した。
3.
昼食をとった後すぐミリアが駆け付けた闘技場では、ケビンがクロイツと仕合場で対峙していた。
ケビンは一対一の時、短めの槍を使う。投げて良し、突いて良しというのがその理由だ。この仕合も開始と同時に、短槍を逆手に持って牽制し始めた。
対するクロイツは、長槍を低く構えて突進を警戒する定石通りの構え。眼は、いつもの穏やかさを湛えたまま。
ミリアが腰を落ち着けた席の前には、傭兵と思しき男女一組が座っていた。そのうちの女のほうが首を傾げる。
「あのデカイほう、クロイツってんだっけ? なんか覇気の無さそうな眼つきだねぇ? やる気ないのかね?」
「相手が順位の低い奴だから、手ぇ抜いてんだろ?」と男。
ミリアは教えてやりたい衝動に駆られた。あの眼が怖いんだ、と。
手合いで何度も対峙したから分かる。どこを狙ってくるのか、こちらの攻撃をどう防ぐつもりなのか、全く分からない。牽制に視線が動くことすらないのだ。
双方そのままの姿勢のまま、時間だけが過ぎてゆく。焦れたのは、観客のほうだった。
「何やってんだ小僧! 引き分けじゃつまんねぇぞ!」
ただ勝利数のみが順位を決める。そんなこと、生徒たちは十分に分かってるっての。ミリアは野次の主をにらんだが、その視界の端でケビンの右腕が動いた。
踏み込みとともに目一杯腕をしならせて、ケビンの槍が投擲された! 距離的には長槍では手が出ない間合いで、シュルシュルと音を立てて飛ぶ槍。その目標は、
(クロイツの胸……当たれ……)
そう祈るミリアだったが、その意表を突いてクロイツが突進する。兜を低く、低く傾けて。
「うぉぉぉぉぉりゃぁ!」
時宜を測ってかち上げた兜の後頭部に槍の穂先が当たり、カキンと乾いた音を立てて跳ねる!
どおっと観客席が揺らぎ、揺るがぬ長槍の穂先がケビンに急接近する!
「あいつ、危ねぇ真似を!」「いや、あっちも読んでる!」
男女の讃嘆どおり、ケビンは投槍を弾かれることを想定しているように間合いを詰めていた。クロイツの槍先を難なく掻い潜り……掻い潜り?
「危ないケビン!!」
身を沈めた分だけ勢いが落ちたケビンの動き。それにきっちり合わせたクロイツの、盾による強襲が敢行された!
轟音に短い悲鳴を上げ、ミリアは思わずぎゅっと目をつぶってしまった。
それから恐る恐る目を開けると、仕合場には吹き飛ばされて尻餅をついたケビンと、その首に長剣をピタリと当てたクロイツがいた。
「そこまで! 勝者、クロイツ!」
ため息と歓声とが渦を巻く闘技場で、ミリアはうなだれていた。これでケビンは2勝3敗。やはり上位陣には勝てない……
「クロイツ、わざと穂先を少し上にあげていたな」
「ですね。しゃがませて足を止めたんでしょ。その前にわざと野次のほうを見てたし。完全に奴の仕合でしたね」
男女のしたりげな解説がむかつく。精一杯のむくれ顔で、ミリアは勝者に手を貸してもらって起き上がる婚約者を見つめることにした。
4.
「さてと」
サーシャは大火鉢の前で立ち上がると、軽く柔軟をした。その姿に、クロイツは一瞬だけ迷ったのち、やはり声を掛けることにした。
「サーシャ――」
振り返る彼女の顔が、緊張で硬くなっている。無理もない。相手は開幕から5連勝中のロアークなのだ。
「なに? 何か助言がもらえるの?」
「うん。奴は槍を左にはらわれると、むきになって右に振り直す。だからそこで――」
「隙を狙え?」
クロイツは首を振った。
「脚を狙え。できれば膝を。槍は捨てて、剣で飛び込んで突き刺せ」
「簡単に言ってくれるね」と笑われた。主審が呼んでいる。
「ありがと、クロちゃん」
「あ、あと――」
また振り返らせてしまった。頭を掻きながら、ぼそりと言う。
「……怪我、するなよ」
「うん!」
笑顔の彼女は、今度こそ仕合場へと出て行った。
「怪我、するなよ。だってよ」
背後で壁にもたれたケビンが口真似をし、仲間たちの笑いを誘っている。
「俺にもそういう気遣いが欲しかったぜ。なあクロちゃん?」
「顔から突っ込んできた奴が、なにぬかしてやがる」
鼻血がようやく止まったらしいケビンを横目でにらんで、クロイツはさらに言った。
「ありがとよ。さっき茶化しを入れないでくれて」
「お、おう」
ケビンの戸惑った声とほぼ同時に、仕合の開始が告げられた。
横に並んできたキリルが腕組みをする。
「確かにな、ロアークの相手は負傷退場が多い」
「ああ」
情けが無い、あるいは余裕が無い。有体に言えばそうなるだろう。クロイツの心に黒雲が湧き始める。
「ま、ロアークは女の子相手だと舐めてかかるから、怪我させるまでやるかな?」
「……だといいがな」
眼前の仕合に意識を移す。今のところ小競り合い程度の展開だが、ロアークの動きは――
「危ない!」
ロアークの長槍が、しゅっと音高くサーシャの顔目がけて突き込まれてきた! 読んでいたのか身体ごと左横にずれてかわし、サーシャは自分の槍を気合いの声とともに右に大きく振った!
柄と柄が激突する乾いた音も鈍く、ロアークの槍は盾の方向へ振られ、気合の声とともにまた大きく右へ振られた。その柄が、懐に潜り込もうとしたサーシャの頭を打ち据えんと唸りを増す!
「伏せろ!」
クロイツの叫びが届いたのかどうか、サーシャは伏せた。間に合わず、兜の側頭部に一撃食らってよろめきながら。槍と、なんと盾まで捨てて、抜剣する暇も有らばこそロアークの右脚に剣先を突き立てた!
無論刃引きの剣ゆえ肉に至るわけではない。だがロアークは、『美しくない』とかいう理由で脚甲を着けていなかった。いかに軍衣を履いていたとしても、
「ぐぅ……おのれ!」
痛撃だったのだろう、ロアークはもう一撃と剣を振り上げたサーシャの剣を盾の端ではらうと、後ろに跳び退った。着地の際に顔を歪めているのを見るに、意外と傷んでいるようだ。
「サーシャ! 速攻だ!」
盾の無い身では、槍の刺突をかわしきれないだろう。サーシャもそこまで機敏ではないのだ。ここは軽装になったことを生かして勝負をかけるべきだ。
だが、うなだれて膝に手を突いたサーシャは左手を挙げ、
「すみませ……こうさ……」
突如、ロアークが動いた。
「おい!! 止めろ!!」
クロイツたちがそろって叫ぶが間に合わない。
槍による殴打がサーシャの側頭部を襲う! 腕で防ごうとするも間に合わず、槍の穂先を叩きつけられて、か細い悲鳴とともにサーシャは崩折れた。さらに槍で突こうとするロアークを、主審が羽交い絞めにする。
「何をしている! 終わりだ!」
主審を振りほどいてなおも暴れようとしたロアークを、審判役の教官たちが取り囲んで得物と盾を奪い取った。
「おい! 相手が降参って言ってたろ! 反則だ!」
観客席から野次が飛び、それをきっかけに轟轟たる怒号と非難が巻き起こった。普段はなにかと坊ちゃま贔屓が過ぎる貴賓席の一隅も、さすがに同性が打ち倒されたのに衝撃を受けたのか、青い顔で沈黙したままだ。
しかし、審判は集まって協議を始めた。そのあいだにクロイツたちはサーシャに駈け寄る。
「サーシャ! サーシャ!」
初撃に続いて2撃目も頭を強打されているので揺さぶるわけにはいかない。分かってはいても、うずくまったままの肩を抱いて呼びかけるしかないのがもどかしい。
「ん……」
やっとくぐもった声がしてサーシャが顔をゆっくりと上げた時、主審が観客に静粛にするよう呼びかけた。
「先ほどのサーシャの降参宣言は、協議の結果、不完全であると結論しました。よってこの仕合、ロアークの勝利とします」
また湧き起こる非難の声に負けず、主審は声を張り上げる。
「ただし、明らかに相手が降参の意志を示し、かつその得物が届かない状況でそれを無視して打ち掛かるのは、これが学生の仕合であることを考えると、極めて危険な行為と言わざるを得ません」
今度はロアークに対して非難が集中する中、主審は実に不満げにたたずむ彼を見すえた。
「ロアーク、今度やったら反則負けに処する」
しばらく、主審をにらみつけて。
ロアークは軽く、まさに息を飲み込んだのかと見間違えるくらいのわずかな一礼で踵を返して休憩室へと歩み去った。
「あの野郎、許さねぇ」
ケビンがその後ろ姿をにらんで吐き捨て、仲間たちが口々に同意の声を上げる中、クロイツはサーシャを気遣いながら肩を貸して助け起こしていた。
「大丈夫か? 歩けるか?」
「ん……大丈夫……ゆっくり……」
「分かった」
反対の肩をシールに支えてもらって、ゆっくりと医務室へ向かって歩く。
「負けちゃった……惜しかったな……」
「もうしゃべるなって」とシールが遮る。
「口ん中切ってるでしょ。しゃべると血、止まんないよ?」
サーシャの口の端から血が垂れている。それを見て、クロイツは決意を新たにした。
あいつには負けない。サーシャの怪我の分は、きっちり返してやる。
5.
アリシアは小間物屋の店番をしながら、ミリアに卒業生対抗仕合の経過を教えてもらっていた。
今日は5日目。2人ほど負傷による欠場者が出たほかは、順調に日程が進んでいるようだ。
サーシャもあの仕合で受けた負傷の影響はさほど無く、翌日には仕合に参加しているとのこと。
「ま、クロイツについていくってんだったら、ちゃんと卒業仕合を戦い抜いて順位を手に入れないとね」
ミリアはそう結んだ。
4日目までが終了した時点で、ロアークとクロイツが12勝ゼロ敗で並んでいる。次がキリルで10勝2敗。サーシャは8勝4敗で5位につけている。なるほどこの順位なら、途中欠場はもったいないと考えるのも無理はないだろう。ケビンは――
「4勝8敗で、下の上ってとこかな。実力相応というか、気合が足りないというか……」
そういって苦笑いするミリアを見て、アリシアは微笑んだ。
「確か、組打ちが得意なんでしょ? ケビンさん。それは――」
「ああダメダメ」とさらに苦笑い。
「もうとっくに読まれてて、近づく前にボコボコよ。もうちょっと工夫しろ……ってあたしが言えたことじゃないけど」
「ボコボコ……じゃあ、怪我したりしてないかしら」
ミリアは少し顔を赤らめて言った。
「昨日の夕方、差し入れ持って行った時は、大丈夫みたいでしたよ。あの人、頑丈だけがとりえだから」
「おばさん、聞きました? 『あの人』ですって」
店の奥に控えるクロイツの母に振ると、案の定からかいが跳ね返ってきた。
「いいねぇ、初々しくて。これが3年後には『あいつ』になって、もう3年経つと『あれ』になるんだよ」
「そ、そんなことないですよ!」
どれに対してそんなことなのか分からないが、顔を真っ赤にして反論するミリアは実にかわいいとアリシアは思う。
「ア、アリシアさんは?」
「私が何か?」
「えと……クロイツのことは、なんて呼んでるんですか?」
「クロイツ……『あなた』とか」
目を見開くミリアに、囁いてやる。
「う☆そ」
「! ひどいですアリシアさん……」
そう言いながらも怒り顔を維持しきれず吹き出す金物細工職人見習いに、問うてみることにした。
「あなたはそれでいいの?」と。
「? 何をですか?」
「ケビンさんのことよ。彼には彼なりの夢があったんじゃないの? それを実現させてあげたい。そうは思わないの?」
ミリアはしばらく考えて、ゆっくりと答えた。
「夢ったって、大金持ちになってどうとか、そんなのですよ。あの人の夢は。でも――」
身じろぎを少しして、また口が開く。
「それはきっと、えと、とても大変なことだから。あたしには、それについていくだけの力がない、支えてあげられないから……だめですか?」
アリシアはかぶりを振った。
「いいえ、素敵よ。彼のことをちゃんと分かってあげてるんだもの」
「分かってるかどうかは疑問ですけどね。あの人、時々突拍子もないことしでかすから」
「あなたに求婚したみたいに?」
「そうそう……って、ひどいです!」
「ごめんごめん」
店先でのやり取りに笑いながら立ち上がったクロイツの母は、水瓶に近づくと声を上げた。
「ありゃ、もうこんなに……アリシア、悪いけど」
「あ、はい! 行ってきます」
ついでにと言ってはなんだが、間者に声をかける。
「ミリアさん、水汲みに来たんじゃなかった?」
「あ! やばい! 家に帰らなきゃ!」
ミリアと2人で連れ立って、すぐ近くの井戸まで早足で歩く。
「ふふふ、大変ね」
「結構時間食っちゃった。父ちゃん、怒ってるだろうなぁ……」
「そうじゃなくて、探りを入れるのも一苦労ね、ってことよ?」
ぺろりと舌を出して、ミリアは白状した。それとなく探ってくるよう、ケビンに頼まれたらしい。
井戸には幸い先客がいなかった。さっそく縄を手繰って桶を井戸に落とす。
「そっか、もう明日が最終日か」
「アリシアさんは観に行かないんですか?」
がらがらと滑車の回る音を響かせながら、アリシアは答えた。
「おばさんに許しをもらってるわ。クロイツは多分、ロアーク様と最終戦でしょ? その時だけ行っていいって」
「そっか、やっぱり……」
「おばさんが、私とクロイツに所帯を持たせようって思ってることは知ってるわ」
息を詰めてこちらを見つめるミリアをこちらへ手招きする。
「でも、私にその気が全く無いのよ。はい、お水」
「ありがとうございます……アリシアさんって、力持ちですね」
「そう?」
「だって今、綱を片手で掴んでましたよ?」
笑いながら、今度は自分のために桶を落とす。
「子どものころから力仕事してきたせいよ。親が無茶苦茶な人でね」
「そうなんですか……」
つぶやいて、ミリアはぺこりと頭を下げると桶の取っ手を両手で持って、ややふらつきながら帰って行った。その後ろ姿をもはや見送らず、アリシアはつぶやく。
「ごめんねミリアさん、本当は誘いたかったけど……」
あなたとは一緒に行けないの。アリシアは水を汲み、両手に桶を下げると自らも帰路に着いた。
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