第6章 仕合、開始!

1.


 アリシアにいってらっしゃいと送り出されて――かつ、クスクス笑われて、クロイツは家を出た。わざわざ学生寮から迎えに来たお荷物付きで。

「寒いね、クロちゃん。あと、お荷物は酷いな」

「心を読むなよ」

「読んでないよ。眼つきがそんな感じだった」

 ……心を隠すのは、実に難しい。

 冬至のお祭りの余韻はすっかり冷めて、冷えた路地のあちこちに霜が降りているのが見受けられる。

 白い息を吐きながら、サーシャがつぶやいた。

「あと1週間だね」

「ああ」と答えて、身を引き締める。

 あと1週間で卒業生対抗仕合の登録が締め切られ、闘いが始まる。

 卒業生がその実力を確認し、そして買い手――という表現が穏やかでないなら、就職希望先に見せるための総当たりの戦いは、これから1カ月かけて街の西側にある闘技場でほぼ毎日行われる。

 登録、ということは、当然しない学生もいる。戦闘者に向いていないと家族から説得されてあきらめる者や、より安全で日々の糧を稼げる仕事を選ぶ予定の(つまり、あとは護身ができれば良しという考えで講義を受ける)者、怪我を負って出場ができない者。理由はさまざまだ。

 クロイツは既に登録している。

「サーシャは、するのか?」

 もちろんだと胸を張る彼女を見ると、頼もしいような不安もよぎるような、微妙な気持ちになる。彼女は確かに良い剣の使い手だが、まだまだ地力が足りない。クロイツのように子供のころから鍛えてきた者とは、まだまだ差があるのだ。

 彼女が怪我をするのを見たくない。それが正直な気持ちになりつつある。

「だって――」

 とサーシャは言葉を継ぐ。自分を見るクロイツの瞳に、不安を読み取ったのだろう。

「クロちゃんが傭兵になるなら、わたしもホローン・アルトゥーン武術学校第82期卒業生第何位って面接で言えたほうが有利だって教官が言ってたし」

「ふーん――って、どんな相談したんだよ?!」

「そのままだよ?」とほくそ笑む幼馴染。

「クロちゃんについていきたいんです。どうしたらいいですか、って」

 クロイツは頭を抱えてしまった。それで最近教官たちの眼が面白がっているような感じだったのか。

 学校への曲がり角で、ケビンと行き会った。

「よ! おはよ! 朝っぱらからお熱いねご両人!」

「なんだよそのオッサン臭い言い方」「おはようケビン」

 サーシャがさりげなくケビンの足を蹴りながら、

「ミリアの手続きは今日するの?」

「ん? ああ、今日お袋さんが学校に来るはずだぜ」

 神殿からの帰り道、これからの身の処し方について、ケビンたちから聞いていたのだ。

 ミリアは武術学校を辞め、ケビンが所帯を持てるほど稼げるようになるまでのあいだ、金物細工職人の仕事を父親から学ぶそうだ。

 そう、何か仕事に就いた時点で学校は中途卒業となるのが掟である。片手間でできる学業ではないのだ。

「ミリアは器用だから、きっとそのほうがいいよ」

 サーシャがそう言って、ニヤリと笑った。

「ケビンが穀潰しになる未来が見えるし」

「ならねぇよ」とケビンはぐっと前を、歩く先を見すえた。

「守備隊に入る。ミリアの傍を離れたくないしな」

(……ここは、朝っぱらからお熱いねって言ってやるところか?)

(夢は長く見せておいてあげたら?)

 こちらのヒソヒソ話も耳に入らぬ様子のケビンを引き連れて教室に入る。また冷やかしの言葉が飛んでくるかと一瞬身構えたが、そんな雰囲気ではないことにすぐ気が付いた。

 室内では、同級生たちが二手に分かれてにらみあっていた。彼方はロアークとその一党、此方はそのほか全ての同級生という構図に、クロイツたちはすぐに察した。このあいだの葬儀の件だろう。

 ロアークは葬儀に来なかった。模範的行動をすべき学年首席が、である。

 次席としての責任感から、クロイツは場に介入した。

「どうしたんだ? ボード」と念のため聞いてみる。

 口を曲げて、ボードはロアークを指さした。怒りか、その指は少し震えている。

「昨日の葬儀の件さ。奴の言いわけを聞いてみろよ、クロイツ」

 商人頭のお坊ちゃまは泰然自若としていた。さすが同級生女子連に『黙って座っていれば大物』と嗤われているだけのことはある。

「わたしはそんな些末時にかかずっている暇はないのだよ、と言ったのだ。ゲータを私たちの名代として――」

「そうか」

 クロイツの心は沸騰した。普段穏やかな表情を崩さないクロイツの声音が低くなったことに、取り巻き連中のへらへらした笑い顔が凍る。

「些末時じゃなくしてやるぜ」

 とっさにサーシャとケビンが抑えた両腕を振りほどいて詰め寄ろうとしたが、ロアークはすっと身を引くと、教室の入り口を慇懃な手つきで指し示した。

「教官のご来場だ。者ども、席に着きたまえ」

 もう我慢できねぇ。すがりつく2人を引きずってでも。

 だが、クロイツに先んじた影があった。

 その影――主任教官の繰り出した拳が、ロアークの頬げたを痛打! 机や椅子をガタガタと巻き込みながら吹き飛んで、無様に尻餅をついた坊ちゃまは、まさに信じられないといった面持ち。それを見下ろして、主任教官は乱れた白髪を撫でつけながら低い声で告げた。

「仲間の死を悼めない奴に、仲間を率いる資格は無い」

 クロイツに号令を掛けるよう指示をして、主任教官は教卓に上った。

 一部の地域を除いて皆着席したのを見計らい、連絡事項の伝達が始まる。卒業生対抗仕合の登録締め切りのこと、ミリアのこと、そしてクロイツは名を呼ばれた。

「昼飯の前に教官控室へ来い。校長が、話があるそうだ」

 教室内のざわめきを手で制して、今日の座学が始まった。


2.


 クロイツは、空腹が苦手だ。得意な人間などいないだろうが、あまり難しいことを考えたくなくなるし、難しいことを持ちかけられればイライラする。亡き父にそっくりだと母は笑うが、そんなところまで似なくてもとは思う。

 サーシャが『お昼、ちゃんと確保しといてあげるから』と言ってくれたので、すこし心安らかになって、教官控室の戸を叩いた。すぐに主任教官に伴われて校長の部屋に入る。

 校長はジロリと邪魔者を見た。

「サトリフ君、ちょっと外してもらえないかね?」

「お断りします」と主任教官はにべもない。

「卒業生対抗仕合間近の微妙な時期にあらぬ疑いを掛けられては、クロイツのためにも、この学校のためにもなりません」

 校長はもう一度だけにらみを利かすと、クロイツをまっすぐ見て話し始めた。

「お母さんの商売はうまくいっているかね」と。

「は? ええ、まあ。僕と母、それからアリシアっていう親戚の子が今手伝いに来てますけど、食べてはいけてます」

「そうか……実は――」と校長は驚くべき話を切り出した。

「君のお母さんの店に、投資をしたいという人がいる――「お断りします」

 クロイツの判断は素早かった。クロイツの横で壁にもたれる主任教官があっけに取られたほど。

「い、いや待ちたまえ! そういうことは君のお母さんに相談してから……」

「その話を母にではなく僕に持ってくる時点で、あからさまに怪しすぎませんか?」

 では、失礼します。校長に何も言わせず、クロイツは部屋を辞した。

 後ろからついて出てきた主任教官が笑い出す。

「仕掛けてきたな、あいつら」

 その声に、女性の教官が目を輝かせて聞いてくる。

「金ですか? コネ採用ですか? それとも直截的な脅し?」

「一番目ですよ。まったく、普通に戦えば、一対一ならいい成績出せるのに……」

 そう答えてのち愚痴ったクロイツは、教官たち総出で溜息をつかれた。

「"いい成績"じゃ、ダメなんだよ。"優勝"じゃないと」

「そうそう」と一年生を担当する教官も真顔で言ってくる。

「なんたって、侯爵様のご家来衆になれるんだもんな。商人風情の次男坊としては破格の栄達だぜ」

「出たよ、キーマル様の家柄自慢が」

「はいはいご落胤ご落胤」

 廊下をドタドタと駆けてくる複数人の足音が近づいてきた。その騒々しさは教官控室の前で止まり、訪いも無く戸が引き開けられた。

「サトリフはどこだ!?」

 どこの誰かと思えば、市長の屋敷に常雇いされている用心棒たちだった。ご丁寧に、主任教官を呼び捨てにしての登場とくれば、朝の一件だろうと察しが付く。

 その主任教官は、予測していたのだろうか、実に落ち着いていた。

「キアボ様に確認してきたのか?」と切り出したのだ。

「確認とはなんだ? 畏れ多くもキアボ様に、なんの確認をするというのだ!」

「先日のご指示を撤回するのかどうか、という確認だ」

 意味が分からない様子の用心棒たちに向かって、主任教官は淡々と告げた。

「2年前にご子息が入学する際に、キアボ様が申されたのだ。『ロアークを鍛え上げてくれ。鉄拳制裁もためらうな』とな。それを撤回すると聞いてきたのかと言っておるんだ」

 戸惑いながらも抗弁しようとした用心棒の一人に、笑顔のキーマル教官がすっと近寄った。

「さすがキアボ様、我々とは器が違う! そう思わないか?」

「は?! ええ、まあ……」

「ほらほら――」と女性の教官も笑って言った。

「あんたたちも仕事があるだろうし、わたしらも午後の実技指導があるから、そろそろお帰り願えませんかね? そこら辺の事情は向こうに確認してもらうってことで」

 用心棒たちは、それでも渋々という体裁を作って帰って行った。

「主任、今の話、本当ですか?」

 キーマル教官の問いに、主任教官はこれまた淡々と答えた。事実であるが、おおっぴらになるとそれはそれでまずいこと、それと、事態が悪化した場合の被害を最小限に食い止めるため、他の教官には黙っていたことを。

 主任教官は話し終えると、クロイツに向き直った。

「お前は退出してよろしい。それから、お前たちは手を出しちゃだめだぞ」

 うなずいたクロイツは、女性教官にも声を掛けられた。

「さっきの買収臭い話、お母さんにしときなよ? 情報は共有して、行き違いが無いように」

 これは女性教官の口癖で、伯爵家の歩兵隊に所属していた時に痛い目を見たことがあるらしい。

 それにしてもなぁ、とキーマル教官が肩をすくめた。

「畏れ多くも、ときたもんだ。市長や商人頭は、いつの間に貴族相当になったんだ?」

「偉い様、なんだよ。この街限定でな」と主任教官も苦笑い。

 教官たちの雑談より空腹を満たしたい。クロイツは一礼すると、教官控室を辞した。


3.


 強振、強振、強振。ただひたすらに、目の前の見えない敵を打ち砕くが如く、縦に横に斜めに。

 学校が終わってからの剣の鍛錬。クロイツは週2回、この街から少し離れた荒野での2時間を楽しみにしていた。

『小手先の技などいらない ただひたすら剣を 相手より速く走らせろ 相手より強い力で叩きつけろ』

 ゆえに師匠のギュスは、教え子同士に立ち合いをさせない。それはそうだ。こんな勢いで剣を振るい合ったら、たちまち怪我人や死者が出るだろう。

 だが、先日の魍魎による骨折がまだ癒えていないギュスでは、立ち合いの相手はできない。ゆえに最近はひたすら素振りだった。

 止めの号令がかかって、クロイツたち教え子は一息ついた。いったいどれくらい剣を振り続けたのだろう。遮るものとてないこの冬の荒野で滝のように流れる汗を、腰に付けていた手ぬぐいで拭いても拭いてもおさまらない。

 ギュスに呼ばれた。その表情に、迷いと悲しみ、そして決意が見て取れる。

「クロイツ、お前にはもう教えることはない……というわけではないのだが……」

 直立不動で、次の言葉を待つ。寂しい予測に胸が支配されていく。

「すまない……これ以上、お前に剣を教えるわけには……」

「分かります。今まで、ありがとうございました」

 素直に最敬礼をすると、背後でほかの教え子たちが上げる落胆の声が聞こえた。

 仕方がないのだ。キアボ家の奴隷でありロアークにも剣を教えているギュスが、卒業生対抗仕合の対戦相手に剣を教え続けることはできない。

「クロイツ兄、そんなあっさり辞めちまうのかよ」

 と、6つ下の教え子が口を尖らせる。自分もこの齢から習い始めたのだと思うと、改めて感慨が湧いた。

「辞めたくはないさ。楽しかったからな」

 つい本心が口を突いて出る。ギュスが驚いたような声を発した。

「楽しい? この鍛錬が、か?」

 見回せば、教え子たちも一様に不審と驚愕の声を上げているではないか。クロイツは苦笑気味に説明した。学校の講義は座学も含めると多岐に渡り、逆に言えばどれもほどほどで終わってしまう。それが物足りないのだと。

「あの学校の授業が物足りない、て……」

「うちのにーちゃん、2日で泣きが入ってたぞ」

「父ちゃんさ、いまだにあのじいちゃん教官に道端で遭うと、小刻みに震えるんだぜ」

「ああ、確かに主任教官はこえーよな」とクロイツも和す。

 ふと気がつくと、ギュスに見つめられていた。何語か口ごもった後、

「クロイツ、お前に最後に……」と言いかけて、目を硬く閉じて首を振った。

「さあ! 再開しましょう!」

 それがクロイツの、精一杯の空元気だった。


4.


 夕食は雑穀粥とスープに、珍しくもパンが2切れ付いていた。母がどこかから調達してきた椅子に座って、アリシアも一緒に地恵神への感謝の祈り。

 ひとしきり食べた後、クロイツが母に昼間の話をすると爆笑されてしまった。

「まったくだねぇ、あたしに話を持ってくりゃ、もうちょっと大人の対応をしてやったのに」

「なんだよ大人の対応って?」

「どんな投資を誰がする気か、根掘り葉掘り訊いてやったのに、ってことさ」

 笑いながらスープを飲んでいると、匙を机上に置いて、アリシアが小首をかしげた。

「ねぇクロイツ?」

「ん?」

「トウシって何?」

「……えっと、商売にお金を貸してくれること、かな?」

 またアリシアの質問が始まった。クロイツや母には当然のことを訊いてくるので、答えに詰まることが多い。

 アリシアは今の答えでは納得しなかったようだ。

「でもそれって、銀行とか、ラリッチさんとこみたいにお金貸してくれるところとどう違うの?」

 うまい説明が思いつかないクロイツを見かねて、母が口を挟んでくれた。

「商売がうまくいきそうな人とか会社に、商売に必要なお金を貸してくれるってことさ。うまくいけば、利息付きで返してもらえる。うまくいかなきゃ損をする」

 聞いて考え込み始めるアリシアの姿もすっかり馴染みの光景となった。

「おばさんの店に、投資……?」

「だからだよ」とクロイツと母は笑う。

「あんな小間物屋に、しかも手広く店を拡げる気も無いうちに、なんで投資しようってんだい?って話さね」

 冷め始めた雑穀粥を掻き込みながら、クロイツも同意する。

 母は市長夫人の名を出した。

「まったく、ミチェリアらしいよ」

 母と初等学校が同じだったという彼女は、母曰く『おバカさん』だったらしい。

「どうして市長夫人の仕業って分かるんですか?」

「昼前に、店の前を血相変えて走ってく用心棒がいてね。そいつらがミチェリアの用心棒だったからさ」

 母の様子を眺めながら、以前とは大分変わったとクロイツは思った。やはり同性とおしゃべりができて、しかもいろいろと教えを垂れることができるというのがいいのだろうか。表情が明るくなったように思うのだ。

「ロアーク坊ちゃまを甘やかして育ててるから、あんたが目障りなんだろうね」

 気をつけなよ。クロイツは食べ終わると母の心配顔に感謝して、2人を見回した。

「母さんとアリシアも。今度はいきなりやってくるかもしれない」

「ああ、脅しに来るってことね」とアリシアがにっこり。

「じゃあ、キャーって叫ぶから、助けに来てね? クロイツ」

「冗談じゃないよ、まったく……」とさすがに母が呆れ始めた。



 部屋に戻って、就寝の支度をする。サヤサヤという衣擦れの音をなるべく意識から外すようにして。

「のぞかないでね?」

「のぞかないよ」

 もう何回このやり取りを繰り返しただろう。衝立の向こうで行われているのは、水を張ったたらいを持ち込んでの水拭き。拭いているのはアリシアで、拭かれているのは無論、その身体だ。

 寒さ避けで締め切ってある鎧戸が恨めしい。こういう時は外を眺めてりゃ、大抵の暇はつぶせるのに。

 仕方なく、寝台に寝転んで目をつぶる。

 浮かんできたのは、なぜかアルクの死に顔だった。目を見開いて、絶叫を上げたままの口。その口から吹き出る赤黒い血が、クロイツの軍衣にまで飛び散ってくる。

 そして、遺体を担いで戦場を離れた時の、肩にかかるえも言われぬ重み。『肉袋』と守備隊員の誰かが言っていたが、まさにその形容にふさわしい軟らかさと硬さで、遺体を担いでいるという実感がいや増したものだ。

(俺も、戦い続ければ、いつかはああなるのかな……)

 そうならないために、鍛えている。でも、アルクが鍛えていなかったというわけじゃない。

『ダメ人間のくせに』

 ゲルタの難詰が耳に木霊する。

 アルクはいい奴だった。後輩の面倒見が良くて、頼まれると嫌とは言えない性格で。頭も良くて、商人組合の書記として父の後を継ぐ話もあったはず。なぜ武術学校に通っているのか、とケビンたちと頭を捻ったものだ。

 そうだ。俺なんかより、ずっと――

「何を考えてるの?」

 アリシアの声が意外に近く、クロイツは目を開けて、仰天した。いつの間にか服を着た彼女の顔が、息がかかりそうなくらい近かったから。

「アリシア、近い!」

「もう、照れちゃって」

 ふふん、と鼻で笑われて、少しだけ離れてくれた。といっても寝台の縁に手を付いた状態なので、まだ十分近いのだが。

「クロイツ、もてなかったでしょ」

「またズバズバ訊いてくるな……もてなかったよ、全然な」

 跳ね起きて、ぷいと顔を背ける。アリシアの声が壁に反響する。

「挫けた昨日は、明日立ち上がるための力になるわ。あなたなら、それができる」

「今度は励ましがきたよ……なんでそんなこと分かるんだよ?」

 横目でにらむと、アリシアの穏やかな笑顔が拝めた。

「あなたがクロイツだからよ」

「意味が分からねぇよ」

 アリシアの整った顔が、また近づいてきた。鎧戸まで後ずさりしても、また微笑まれる。

「地面に埋まってる種を褒める人はいないわ。でも芽吹いて、きれいな花を咲かせれば、見上げるような大きな樹になれば、誰もが口を揃えて言うの。『素敵だね』って」

 その種が腐ってたら、と言いかけたクロイツの口は、アリシアの人差し指で塞がれた。

「自虐はやめなさい。サーシャまで貶めることになるのよ?」

 その名前に、クロイツは赤面した。

「なあ、アリシア?」

「なぁに?」

「その――」

 ともじもじする。男友達にならしたことはあるが、こういう関係の相談を女の子に臆面も無くできるほど、クロイツは世間ずれしていない。

「なんで、サーシャは、その……ああいうふうなのかな……?」

「そんなこと、自分で訊きなさいよ。本人に」

 呆れた声が、一転して面白がる雰囲気に変わった。

「で、どうなの? クロイツとしては」

 なんで俺は、同居の女の子の前で顔を真っ赤にして縮んでるんだろう? そう俯瞰できるくらいまで回復して、クロイツは大きく息を吸って、しかしボソッとつぶやいた。

「……かなり、気になってる。というか、その……」

 アリシアの反応は、いたって素っ気無かった。

「そう」これで終わり。

 アリシアは上体を起こすと、おやすみを言って自分の寝台へ向かおうとした。その背中に問いかける。

「このあいださ――」

「ん?」

「サーシャに、その、俺のことで『身悶えするだけだからやめとけ』って言ったって聞いたけど、どういう意味なんだ?」

 ついさっきのからかいっぷりは、クロイツたちのことに好意的であったように思えるだけに、ふと訊いてみたくなったのだ。

「別に。わたしの気まぐれよ」

 おやすみ、クロイツ。そうさらりと告げると、毎夜の定位置である衝立の縁に顔だけ出して、にっこり笑うアリシア。

(なんなんだろう、このチグハグさ……)

 実はかなりヤバい子なんじゃ……今さらながらの結論で占めて、でもどうしようもなくて、クロイツは床についた。


5.


「ではロアーク様、また後日」

 デメティアと軽く接吻すると、ロアークは名残惜しげな恋人を送り出した。彼女を乗せた馬車が往来の角を曲がるまで手を振って見送る。

「さて」

 今日は取り巻きも皆先に帰って、残っていない。ロアークは召使に命じた。

「手桶に水を汲んで、中庭に持ってこい」

 中庭に出る前に自室に立ち寄り、愛剣を手に取る。ずしりと重い感触が手にくるのは、酔っているからだけではない。鞘も鍔も全て黄金造り。おまけに幾多の輝石を星座に見立てて鞘の表面に配した逸品である。重くないはずがない。

 自室を出て、母の部屋に向かう。就寝の挨拶をして、母のおしゃべりにほど良く受け答えをして。そして出た中庭は、雲一つ無い夜空にふさわしく、冷え切っていた。

 既に来て控えていたギュスに剣を手渡すと、手桶の水で顔をザブザブと洗う。その冷たさは格別で、酒精は瞬く間に体内から追い出された。手渡された手拭いで顔と手を拭き、また引き換えに愛剣を受け取って、

「では、頼む」

「はい、ロアーク様」

 そこからしばらく、黙々と剣を振った。途中幾度か止められて剣筋の手直しをされたが、それ以外はかがり火に照り輝く愛剣の光を流星のごとく感じながら、ひたすらに振った。

 ギュスの合図で休息となった時、彼からクロイツへの指導を今日限りとしたことを報告された。

「なんだ、まだ続いていたのか?」

「は、申しわけありません。切り出すのが遅れまして……」

「いや、あの貧乏人がよくも毎月の謝金を払えたものだな」

 聞いたギュスが奇妙な表情を見せたが、すぐにそれは消えた。

 貧乏人め。ロアークは苦虫を吐き捨てるように、庭に唾を吐いた。

 この私に、どうあがいても勝てないくせに、馬鹿力とでかい声だけで通じると思っている。私の取り巻きのほうが何者にもまして力強い、才気煥発な俊才たちであるのに、それをあの貧乏人の学生どもは鼻で笑い、それで全てが分かったような顔をしている。

「そういえば――」とギュスがおずおずと尋ねてきた。

「ロアーク様ほかご学友がたの登録は、もうお済みになったのですか?」

「ああ、奴らは登録しないぞ」

「……何故でございますか?」

 驚きながらも手桶から水を汲んだ柄杓を捧げ持ってきたギュスに、受け取りながらの説明をしてやる。彼らから過日に申し出があったのだと。

「我らの才が、他の学生の駑馬どばのごとき鈍才と交わることによって鈍ることを恐れます。我らはただ、ロアーク様の手足となって縦横無尽に働かねばならないのですから――こう申したので、仕合には奴らを出さぬことにした」

 改めて彼らの申し出を繰り返して、ロアークは莞爾と微笑んだ。なんと頼もしき配下であろうか。彼らを手足として、この天下を駆け上る。むろんこのロアーク自身の手足と智嚢も存分に振るって。

 剣の鞘に、先程の剣と同じくかがり火を受けて煌めく黄金とさまざまな輝石をもう一度眺める。この意匠はなにも彼の独創ではない。遥か遠く東方にある大国の歴史を飾った英雄の一人が、このような装飾を施した剣を引っ提げて戦陣を駆け巡り、乱世を収めたという故事に倣った物である。

(私もなる。来たる乱世を収める英雄に)

 そのための足がかり。それを薄汚れた貧乏人なぞに汚させない。

 ギュスが押し黙った理由を察することなく――いや、押し黙ったことすら気づかず、立ち上がったロアークはまた剣を振るい始めた。


6.


 そして、1週間後。

 街の西部防壁に隣接した闘技場には、大勢の市民が詰め掛けていた。彼らが思い思いに座る観客席からは、円形の闘技場ゆえ、その場に集合して中央に4列縦隊で整列している武術学校の生徒たちをどこからでも眺めることができる。

 もちろん街の規模が規模であるため、闘技場の大きさもさほどではなく、それゆえ生徒たちの緊張した面持ちや、自分の家族である出場者の気合の入ったまなざし、逆に隣の者とふざけてじゃれあっているさまなどを比較的間近に見ることかできた。

 クロイツはその整列の最前列で、ロアークと肩を並べて立っていた。別に彼と並びたいわけではないが、学年次席という立場上ここにいないわけにはいかないのだ。

 隣の坊ちゃまを横目で見やれば、実に血色が良い。いやあれは、

(興奮して顔が赤くなっているだけか……)

 大物感を出そうとして少し胸を張って動かないつもりのようだが、つま先が小刻みに震えて闘技場の土を叩いている。

(大変だな、坊ちゃんも……)

 反対側に視線を移せば、学年4位のキリルはいつもの眠たげな目でじっと立っている。

(こいつは変わらないな……)

 この眠たげな目のまま、ズバッと斬り込んでくる。その気配の読みづらさと思い切りのよさが脅威だ。

 また転じて坊ちゃまの向こうは本来学年3位の女子生徒が占めるはずの位置だったが、彼女は怪我のため登録をしなかった。代わりに繰り上がりでサーシャが少しふくれた顔で立っている。

 そのふくれっ面の原因が、『クロちゃんの隣に立たせて』とキリルにお願いして却下されたことであるのを思い出して、クロイツは苦笑した。と同時に、力みが抜ける。

「余裕だな、クロイツ」

 三たび顔を転じれば、キリルが薄く笑っていた。真似をして、薄く笑う。

「キリルこそ、いつもと変わらないな。さすが内定が出ている奴は余裕だな」

 彼は既に父親の伝手で、とある傭兵団から話が来ているという。ただし、『卒業生第4位以上』が条件だというのだから、評価基準が分かりやすいというべきか世知辛いというべきか。

「お前こそ――」とキリルが口を曲げる。

「観客席を見てみろよ。明らかにカタギじゃない人が混じってるだろ?」

 言われてゆっくりと眺めてみる。そう言われてみれば、どことなく見たことの無い人が、しかも最前列に陣取っているように見える。

「傭兵団の関係者だとさ。親父が言ってた」

「それと俺がどう関係するんだよ?」

 表情を変えずに鼻で笑われる。

「お前を見に来てるんだよ」

「俺を?」

 だがここで、貴賓席前に設置された壇に立った校長の号令がかかり、会話は已んだ。

「今日から、第82期卒業生による、対抗仕合を開催します。

 これまで81期1899名の卒業生たちがこの仕合を戦い抜き、巣立っていきました。中には高名な傭兵になった者もいます。この街を守る守備隊員として立派に職務をこなしている者が多数いることは言うまでもありません。

 出場者の諸君も、諸先輩たちに続くことを望みます」

 型どおりの開会宣言をして校長が下がると、続いて主任教官が壇に登った。

 ロアークがピクリと震える。続いて、ぎりりという音は拳を握ったのか。

(殴られて自尊心は粉々だもんな、仕方ないよな)

 皆の前で殴るべきだったかどうか、クロイツにはまだ判断が付きかねている。殴られて当然という思いは変わらないが。

(! いかんいかん、仕合規則の説明中だった)

 主任教官の低い声が競技場に響く。

 槍と盾、剣を用いての一対一の戦いとする。無手による組打ちも可。

 仕合時間は10分間一本勝負。ただし、5分経過しても勝負がつかない場合は仕合場の広さを4分の1に狭め、その場外に出た者は負けとする。

 降参する場合は主審に明確に告げること。

 仕合中の怪我により続行が困難と主審が判断した場合は、相手の勝ちとする。

 眼突き、金的は反則負けとなる。

 などなど……

 以前から聞かされていた規則から変更は無いようで。安心する。

「最後に――」と主任教官の声が高まる。

「出場者総当りによる対抗仕合全体の順位は勝利数で決定される。勝利数が同数の場合は、順位決定戦を行う。以上だ」

 再び校長に変わって、

「出場者代表宣誓! 学年主席、キアボの子、ロアーク!」

 とたんに上がる黄色い歓声は、もちろんデメティアとそのお友達だ。端とはいえ貴賓席に座って、眼を輝かせているのがクロイツをやるせなくする。

 ロアークが悠然と、顔にはうっすらと笑みすら浮かべて前に進み出る。あの殴打事件以降学生の指揮はクロイツが取っていたが、3日後、キアボ市長直々に生徒たちに詫びを入れるという驚くべき事態に発展し、校長の差配でロアークは学生の指揮を再び取ることになった。

 あの謝罪の一部始終をクロイツは思い出す。市長の横で終始不貞腐れていたロアークの顔も。あれでも貴賓席で騒いでいる女子たちにかかれば『かわいそうなロアーク様』になるらしいのだから、住んでいる世界がもはや違うと断ぜざるを得ない。クロイツたちが出した、それが結論だった。

 その異世界人の希望の星が、貴賓席に向かって大声を張り上げる。

「この場に集いし18名、今日より互いを敵とし、しかし互いに力を認め切磋琢磨した者として、力と技、そして武神ケシサダータの恩寵を競うこと、ここに宣誓します!」

 盛大な拍手を経て、開会式は終わった。

 早速試合場に向かう者が2人。そのほかはとりあえず出番が無いので、控え溜まりの大火鉢のほうへ暖を取りに行く。

 第一仕合とくれば、やはり首席ロアーク。対する男子生徒は緊張でガチガチだ。無理もない。ロアークに浴びせられた歓声が、翻って男子生徒の紹介の時は低く囁く罵声となるのだから。

 主審の号令で両者槍と盾を構え、仕合が始まった。

 余裕の足取りで間合いを詰め、牽制を繰り出すロアーク。相手はそのたびにビクビクと小刻みに反応し、すぐに限界が来た。自棄混じりの一声発して渾身の槍を繰り出す相手学生。

「ふっ!」

 ロアークはあくまで余裕だった。盾を振って槍先を逸らすと、がら空きの胴に槍を突き立てたのだ。

「勝負あり! 勝者、ロアーク!」

 拍手と歓声に手を振って応え――貴賓席にはことさら大仰に応え、ロアークは下がっていった。市長が用意させた専用の休憩室に。

 キリルが表情を変えずにのたまう。

「マッシの奴、ガチガチだったな」

 黙してうなずくクロイツ。あれは彼本来の全力の一撃ではなかった。緊張その他諸々でうまくやれなかったのだろう。

「俺も気をつけなきゃ」

 そう声に出すと、クロイツは兜を被った。仕合だ。

「クロちゃん、ちゃんと身体ほぐした? 喉輪、ちゃんとしてる? 穂先の止めは緩んでない?」

「おぉい世話女房!」

 暖を取っていた男子生徒の一人が笑い出した。

「いちゃいちゃは外でやれよ!」

「まあそう言わずに」と女子生徒もさえずり始める。

「成績が芳しくなかったら、そっちの道を選ぶってことだから、ほら」

「ああ、永久就職か。いいなぁそれ」

「いっそ全員に勝ち星を献上してくれませんかね? サーシャさん」

 主審が大声で呼んでいる。というか怒鳴ってる。

「クロイツ! 夫婦漫才は後にしろ! 失格にするぞ! お前らもくっちゃべってんじゃない! 集中しろ!」

 観客にまでどっと受けて、クロイツは首の後ろをポリポリ掻きながら、そして力みが抜けたことをサーシャと皆に感謝して、仕合場へと一歩を踏み出した。

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